歴史の世界

エジプト文明:中王国時代⑤ 第12王朝 その3 5代目センウセレト3世

前回からの続き。

マネトーによれば、センウセレト3世は身長約2メートルの大男であった。

大きな体格は現在においても、政治に限らず交渉事においてアドバンテージになり得る。しかしアドバンテージにできない人は「ウドの大木」だとか「大男の見掛け倒し」などと陰口を叩かれることになる。

センウセレト3世はこのアドバンテージを見事に使うことができた。王は中王国時代の最大の英主として現在まで語り継がれている。

行政改革(中央集権化)

センウスレトは自らの領土を、それぞれ宰相直属の長老会議に支配される三つの大きな行政区画(デルタ、南はヒエラコンポリスまでの上エジプト、エレファンティネと下ヌビア)へと再編成した。これは第12王朝初期を特徴づけていた地方自治を、事実上終わらせたのである。

出典:トビー・ウィルキンソン/図説 古代エジプト人物列伝/悠書館/2014(原著は2007年出版)/p149

  • エレファンティネはエジプト河谷の最南端(付近)。ヌビアに対する要塞(ヌビア遠征の基地?)がある。

先王センウセレト2世は州侯たちと友好関係を築いていた、と前回に書いたが、クレイトン氏によれば*1、州侯たちが増長して王国に挑戦するまでになってしまっていたという。

ヌビア遠征

ヌビア遠征は第12王朝の初代から続く事業だ。その中でも王の名声は特筆される。

王はまずアスワンの第1急湍にある迂回路の運河を浚渫(しゅんせつ)・拡大し、遠征の規模拡大の準備をした。発掘された碑文の一つには、治世8年目に同様の改修工事を行った。*2

この改修工事の後、10年の間に4度の軍事遠征が行われ、第2急湍付近に多数の要塞を建てた。これらの要塞は軍事遠征・国境警備の他に税関の役目も持っていた。すなわち、人とものの移動を管理していた。(ウィルキンソン氏/p150-151)

以下は おおよその地図

f:id:rekisi2100:20180828120119p:plain
Location of Semna along the Nile River in Nubia

出典:Semna (Nubia) - Wikipedia英語版 *3

  • 「Segona cascada」が第2急湍。

他の建造物も見てみよう。

下は第2急湍付近の地図と要塞の位置。

f:id:rekisi2100:20180828122448p:plain
Mappa delle fortezze egizie lungo il Nilo all'altezza della seconda cateratta

出典:Askut - Wikipediaイタリア語版*4

  • Uronartiのすぐ北が第2急湍。

王と指揮官たちのための一時的な遠征用宮殿がコル(Kor)とウロナルティ(Uronarti)に建造された。要塞化された穀倉の一つは中洲になっているアスクト(Askut)にあった。*5

f:id:rekisi2100:20180828125134j:plain
Uronarti

出典:Uronarti - Wikipedia*6

ブヘンの要塞都市も有名で、東西約150m、南北約170m、全体を分厚い日干し煉瓦の城壁が2重に取り巻く大要塞であった。*7, *8

f:id:rekisi2100:20180828124924j:plain
A view of the fortress from the north

出典:Buhen - Wikipedia英語版*9

そして征服地の南端であり国境であるセムナ。

f:id:rekisi2100:20180828120541j:plain
Perspective view of a reconstruction of the Semna West Fort

出典:Semna (Nubia) - Wikipedia英語版*10

  • セムナの砦(要塞)。この対岸のクンマ(Kumma、Semna Eastとも)にも同様の砦を築いた。

セムナにあった大きな石碑には下のように書かれている。*11

余は、彼らの女をさらい、物を奪い、彼らの井戸に行き、牛を殺した。余は彼らの穀物を刈り取り、それに火を放った。

同地で、未来の王たちには以下のような訓戒を遺した。*12

余が勝ち取ったこの国境を守りぬく余のすべての子孫よ。汝は余の息子、王者の生まれ、父王のごとく覇王になる者。父王の領国を守る者である。さて、国境の守りをゆるめる者、国境のために戦わぬ者よ。汝は余の息子に非ず、余の生みし者に非ず

これほどまでに、ヌビア遠征に力を入れたのは、祖先の王と同じく、南方からの鉱物資源の道の確保のためだが、ウィルキンソン氏はそれだけでなく、原因の一つとしてクシュ王国の興隆を挙げている。

要塞は同時に、心理的な目的も持っていた。それらは意図的な力の誇示、エジプトの軍事力と政治力の誇示であって、第2急湍のかなたに位置する国、クシュ王国に向けられていた。このナイル上流域の新興勢力はエジプトとそのヌビアにおける権益にとって、増大しつつある脅威だった。エジプトの公式文書ではクシュにたいして見くびるような調子が向けられるとはいえ、脅威が切実なものとして感じられていたことは明らかである。大規模な要塞線はセンウスレト3世の断固たる回答であり、集団的防衛手段として計画されていた。

出典:ウィルキンソン氏/p151-152

これら第2急湍の要塞はアスワンハイダムの建設時に人口湖(ナセル湖)により水没した。他の時代を含む遺跡は考古学者たちの手によって他の場所に移された。

建築王

ヌビア遠征で得た富の多くは、エジプトの神殿の建設や改修にあてられた。役人イケルネフェレトの碑文(アビドス出土)には、オシリスの船、神殿、祠堂を、黄金、エレクトラム(琥珀金)、ラピスラズリ、孔雀石その他の貴石を用いて修復するようセンウセレト3世から命じられたと記されている。

出典:クレイトン氏/p110

王は自分のためのピラミッドも建てたが、地方の多くの神殿の建設・改修を行った。

この行為は多かれ少なかれエジプトの王はやっていることで、神殿の神々の建設・改修は、神々にご機嫌取りをして、世界(エジプト)の秩序(マアト)を維持してもらうための行為だ。

古王国時代は寄進を行うなどしていたらしいが、中王国時代は自ら建設・改修に当たった。

王としての威厳

前述のセムナに王は別の言葉を残している。(ウィルキンソン氏/p152)

余は余の彫像を、余が定めたこの国境に建立させた。そなたたちがそれによって鼓舞され、そのために戦えるように。

王の彫像はセムナだけでなく、王国全土に建立された。

f:id:rekisi2100:20180828142032j:plain
A statue of Senusret III at the British Museum, showing the traits that are peculiar for this king

出典:Senusret III - Wikipedia英語版 *13

不機嫌そうな表情と大きな耳は、ウィルキンソン氏によれば、「誇張されたもの」(p150)だという。「センウスレトが自らの権威を主張するため、文字と図像を利用する術に熟達していたことは疑いない」(p153)。

これが本当だとすれば、彼の目的は成功したのだろう。

センウセレト3世は新王国時代も(トトメス3世)、プトレマイオス朝時代も(マネトー)、そして現代も彼を英主として讃えている。

ただ、王国全土どこに行ってもあの無愛想な表情の彫像が出会うのはあまり気分のいいものではなかったかもしれない。

f:id:rekisi2100:20180828144246j:plain

出典:Big Brother (Nineteen Eighty-Four) - Wikipedia



*1:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p108

*2:クレイトン氏/p109

*3:著作者:Jolle~commonswiki

*4:著作者:Madaki

*5:ウィルキンソン氏/p151

*6:著作者:9bryan

*7:関廣尚世/スーダン共和国におけるヌビア遺跡群の現状と 文化財保護における課題/西アジア考古学 第11号(2010年)pdf

*8:エジプト中王国 - Wikipedia

*9:著作者:Franck Monnier

*10:著作者:Jolle~commonswiki

*11:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p109

*12:クレイトン氏/p110

*13:著作者:Captmondo (Own work (photo) )