『Propaganda』(1928) を著したエドワード・バーネイズは「プロパガンダの父」と呼ばれることもある。
ただ、『Propaganda』が世に出る前にはプロパガンダは使われていなかったかといえばそうではない。古代からプロパガンダはあったし、近代に限定しても第一次世界大戦時には各国が多用していた。
第一次世界大戦の時、バーネイズはアメリカ政府に雇われて戦争支持へ世論誘導するプロパガンダ工作に携(たずさ)わった。彼はこの経験と当時の大衆心理の研究を取り入れて、プロパガンダ(=PR)を体系化・理論化した(彼はプロパガンダとPRを同一視している)。このことが「プロパガンダ(=PR)の父」と呼ばれる理由となる。 *1
この記事では、『Propaganda』ができるまでの流れを書いていく。
大衆社会の形成
プロパガンダは古代からあるのだが、ここでは近現代におけるプロパガンダの話をする。
欧米で始まった近代の歴史が進むにつれて、為政者層(エスタブリッシュメント)も大衆の力を無視できなくなった。つまり、民主主義と資本主義が根付いて、彼らの合意が無ければ政治は進まず、彼らの購買が無ければ市場は成り立たなくなった。
19世紀末にもなると、大衆は新聞や大衆文学を読み、ラジオを聴き、情報を収集・消化した。その一方で、マスメディアが盛んになり、広告代理店やPR会社という新しい業界が誕生した。
さらに、プロパガンダにおいて重要な大衆に関する研究の分野も活発になった。History of propaganda - Wikipedia によれば、ギュスターヴ・ル・ボンの『群衆心理』(1895、フランス)とガブリエル・タルド『模倣の法則』(1890、フランス)の二人がプロパガンダを語る上で重要な先駆的な学者だそうだ。
第一次世界大戦
第一次世界大戦はプロパガンダの歴史の画期となった。各国は戦争を有利にするために、敵国・友好国・自国の大衆をコントロールしようと考えた。そして社会心理学などの大衆の行動に関する研究やジャーナリストやPR会社などの知識を結集してプロパガンダ機関を設立した。
イギリス
イギリスはこの戦争が長期化すると判断して1914年9月に戦時プロパガンダ局(War Propaganda Bureau、通称 ウェリントン・ハウス)を設立。この局には「新聞王」と呼ばれたアルフレッド・ハームズワース (初代ノースクリフ子爵)が参加し、この準備部会にはコナン・ドイルやH.G.ウェルズら有名な作家が参加していた。
数年後、戦局の変更 *2 とプロパガンダ組織内部の揉め事があり、1918年に新たに情報省(The Ministry of Information 、MOI)を設立。複数あったプロパガンダ機関を統合した(映画を検閲する部署も組み込まれた)。ただし、ノースクリフ卿率いるクルー・ハウス委員会(Crewe House Committee、あるいはクルー・ハウス。敵国プロパガンダ担当)は情報省に属さず、別の組織として活動した。
ウェリントン・ハウスやクルー・ハウスの活躍については、以下の動画参照。
アメリカ
1917年にアメリカは参戦することになり、すぐに戦時プロパガンダの部門である広報委員会(Committee on Public Information、CPI、通称:クリール委員会)を設立した。
CPIの任務は米国民を戦争支持へ世論誘導するプロパガンダ工作だった。ここにバーネイズは所属し、多くの経験を得た。
CPIの具体的な活動については広報委員会 - Wikipediaで紹介されている。
上記のwikipediaのページにある「四分人」は「Four Minute Men」の訳だが、中田安彦氏によれば *3、 彼らは地域の名士であり、プロパガンダ演説する内容はCPIの支部によって細かく指示されていた。このような手法は戦後にバーネイズによってプロパガンダのプロセスの中に組み込まれる。
また、CPIは新聞、ポスター、ラジオ、電報、映画をプロパガンダに活用したが、有名なポスターを以下に貼り付ける。
この人物はアンクル・サムというアメリカ合衆国政府を擬人化したキャラクター。このポスターは一度くらいは見たことがあるだろう。第二次世界大戦の時も使用された。
有名なポスターをもう一つ。
上部の"Halt the HUN!"(フン族を阻止せよ!)の意味は、フン族はドイツの蔑称。「野蛮人のドイツ人を文明人であるアメリカ人がやっつけなくてはならない」くらいの意味。
絵はフン族(ドイツ人)が女性と子供を襲っているところを米兵が制止しているところ。
下部の"BUY U.S. GOVERNMENT BONDS" "THIRD LIBERTY LOAN" は戦時調達のための第三次自由公債を買うように訴えかけている。
ちなみに、チャーリー・チャップリンは自由公債の購入促進のために『The Bond』(1918)という映画を自費で製作した。
ただし、こういったプロパガンダをやっても自由公債で十分な資金が集まらず、足りないカネは教会で司祭や牧師などに購買を勧めさせたり、ドイツ系アメリカ人に購買を強要したり、エゲツないやり方で資金調達をしていた。
どこの国でも切羽詰まったらこのようなことをする。
バーネイズ、『Propaganda』を出版
以下は中田氏の解説。
大戦後の1919年の夏、バーネイズはニューヨーク市内に自分の広報・宣伝会社を設立する。彼には、広報・宣伝の第一人者としてやるべき任務があった。それは、戦時下の「戦争プロパガンダ」の実態が戦後徐々に暴露されていくことによって失墜してしまった「広報・宣伝業」(彼はこれも含めてプロパガンダと呼ぶ)のイメージを回復することだった。彼は「広報・宣伝」を専門にしているのであり、その状況は彼にとって死活問題でも合ったのだ。
そこで彼は大胆な行動に出る。一般向けの小著として『プロパガンダ』というタイトルの本を1928年に出版するのである。
この本は、中田氏によれば、《「プロパガンダという技術をプロパガンダする」という目的で書かれた本なのである(p237)》とのこと。「広報・宣伝」業についてしまったをネガティブなイメージを払拭して、PR(プロパガンダ)が商売・政治・公民権運動などに役に立つことを力説している。そして、PRをするならその筋のプロであるPR会社を利用するべきだ、としっかり宣伝している。
この本にまとめられたプロパガンダの技術は、冒頭で書いたように、先行研究とCPIでの経験を基に理論化・体系化したものである。
ロシア・ソビエトのプロパガンダ
バーネイズとは関係無いが、ロシア・ソビエトのプロパガンダについて少し。
20世紀初頭のプロパガンダで有名なのが、偽書『シオンの賢者の議定書』だ。これは帝政ロシアの秘密警察がポグロム(ユダヤ人虐殺)を正当化するために作ったプロパガンダだ。
これが帝政ロシアが崩壊すると、第一次大戦後のロシア革命への干渉戦争を経て、欧米に拡散していった(欧米でも反ユダヤ主義が広まっていた背景がある)。
そして『議定書』は各国にユダヤ虐殺の正当化の「根拠」となった。ユダヤ虐殺といえば、ナチス・ドイツを想起するが、虐殺したのはドイツだけではない。多かれ少なかれ欧米諸国はやっていた。
話をロシアに戻す。
ソビエト・ロシアになってからは、プロパガンダは共産主義の宣伝や政策各種の伝播の役割を持った。ただし、ソビエト政府に逆らう者たちは恐怖政治によって弾圧された。
つまり、戦時の英米などで行なわれていた「プロパガンダ+統制・弾圧」は、ソビエトにおいては平時で行なわれていた。全体主義国家である中国や北朝鮮も同様だ。