歴史の世界

法家(3)韓非子の先人たち 後編

前回の続き。

申不害

申不害は戦国初期の人で、韓の釐侯(=昭侯)に15年間 仕えた。

紀元前375年に鄭を滅ぼしたものの、戦国時代の韓は七雄の中では最弱であり、常に西の秦からの侵攻に怯えていた。しかし申不害(? - 紀元前337年)を宰相に抜擢した釐侯の治世は国内も安定し、最盛期を築けた。次代宣恵王が紀元前323年に初めて王を名乗ったものの、申不害の死後は再び秦の侵攻に悩まされた。

出典:韓 (戦国) - Wikipedia

そんなわけで、申不害が宰相をつとめた時期が韓が輝いた唯一の時期だったようだ。

さて法家としての申不害の話。

戦国初期は人口増加や戦争の大規模化などが起こり、君主や貴族の能力だけで処理できる規模を大きく超えてしまった。ここで臣下の官僚化が始まることになる。

そのような状況の中で申不害が採った方法は実定法(成文法)と「形名参同術」だった。

実定法、つまり法律が成文化されることは現代では当然だが、これは客観的基準を設けることによって、下部に任務を移譲できる一方で、貴族や臣下の恣意的な行動を抑制することにもなった *1

次に「形名参同術」。

申不害は君主が臣下に仕事を命ずるとき、臣下の申告(名)と、その後の実績(形)を照合する方法を発案した。必要な人員・費用・期間や役割分担、見込まれる成果など、事前に詳細な計画書を提出させる。そして、必ず計画書通りに事業を成功させますと誓約させる。もとよりその契約は、証拠として、すべて文字(名)で記録しておく。申不害のいう名とは、こうした文字記録(文書)を指している。約束の期限がきたら、君主は臣下の実績を査定し、賞罰を与える。この方法で君主が官僚を数の使役すれば、いちいち乏しい賢智を労せずとも、多数の官僚を制御し自動的統治を達成できる。これが、申不害が発明した形名参同術である。

出典:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p246

  • 査定時に契約と実績を照合することが「参同」。

上の2つの方法で、君主は複数の下部組織に、事業を移譲・分担させることができたが、このメリットの他に申不害は、君主が才能が乏しくてもこの方法によって安定した統治が可能になる、と一歩踏み込んでいる。

漢書』芸文志には『申子(しんし)』6篇があったと記録されているが、現存するものは逸文(他の文章の中などに一部分だけ残った文章)しかなく、しかもその逸文も疑う研究者がいる。 *2

慎到

戦国中期、威王・宣王の頃、諸子百家の中心地である斉の都・臨淄で稷下の学士として大夫の待遇を受けていた。 *3

慎到の著作とされる『慎子』は現在伝わっているのは5篇のみであるが、偽作説など諸説あるらしい。

下の引用は、『慎子』5篇の要点の説明。慎到も申不害と同じように、君主の力量に依存しない統治体制を提案している。

第一は、民衆や官僚への業務委託である。そもそも民衆は、政府がいちいち監督・指導しなくても、それぞれに自活する能力を備えている。だからあ政府が民間への規制や介入を減らし、民間の自活・自営に委ねれば、効率も上がって君主の苦労も減る。また君主が自分の賢智を働かせて率先して指揮を執れば、失敗したときに臣下からその責任を追求される。そこで普段から臣下に官職を割りふり、分業体制で実務を担当させれば、君主は何もせずにすむ。第二の方法は、自動的統治を可能にする勢位の保持である。勢位とは、民衆や官僚が各自の分担に励んで、君主の能力不足を補う、「助けを衆に得る」(『慎子』威徳篇)必治の態勢である。君主の地位や権力、官僚制度や法律といった人工的に機能して君主を助け、必ず国家は治まると言うのである。

浅野氏/p248(下線は引用者)

2番目の「勢位」=「勢」は『韓非子』に採用されている。

「勢」という漢字は「いきおい」が原義。「人間や物事を一定の方向に向かわせる推進力」 *4

ここから派生して次のような意味になる。《政治力、経済力、武力などによる社会的な支配力。他を圧倒する力。権勢。富裕。》 *5 という意味もある。この意味の起源は慎到あるいは『韓非子』だろう。

韓非子』では「勢」を《君主(王、侯など)の地位と、その地位が有する権勢》と定義している(『韓非子』難勢篇)。

さて、上の浅野氏の『慎子』の解説に戻る。

以下は引用文の「勢位」についての説明を図解にしたもの。

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出典:浅野氏/p249

引用文では、上のような統治の体制(引用では態勢)を「勢位」と言い、権勢はその一部ということになる。

ただし、『韓非子』は慎到の主張に賛同する篇(難勢篇)を設けているので、実質的な差異は無いと思われる。



*1:ただし、宮脇淳子氏や石平氏などによれば、下部の官吏は現代中国に至るまで恣意的な法の行使を行っている

*2:申不害(しんふがい)とは - コトバンク

*3:浅野氏/p248

*4:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p145

*5:勢(セイ)とは - コトバンク

法家(2)韓非子の先人たち 前編

この記事では、韓非子より前の人物を紹介していく。

前回の引用の一つに「春秋時代管仲が法家思想の祖」とあり、 「平凡社百科事典マイペディア/法家(ほうか)とは - コトバンク」 によれば、春秋時代の人物としては、鄭の子産《刑書》,晋の范宣子(はんせんし)《刑鼎(けいてい)》,鄭の鄧析《竹刑》の名が挙がっている。

前回の「時代背景」の節で示したように、法家の思想は戦国時代に入ってから より重要性を増したことを考慮して、このページでは戦国初期の人物、魏の李克から話を始める。

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出典:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p259

李悝(かい)(=李克)

戦国の最初の覇者は魏の文侯で、彼は同時に最初の専制君主だ。政事・軍事を行うに当たって文侯は数人の英才をブレーンとしたが、その一人が李克だ。

りかい【李悝 Lǐ Kuī】
中国,戦国時代,魏の文侯(前4世紀初め)に仕えた政治家。生没年不詳。李克ともいう(別人説もある)。農業生産向上のための〈地力を尽くす〉の政策を文侯に説き,また穀物価格を統制し飢饉に備えるために常平倉の先駆のような制度を考案した。さらに諸国の法を整理して《法経》6編を編纂したといわれる。これは秦の商鞅(しようおう)から漢の蕭何(しようか)へと継承される中国法典の原点といえるものであるが,その実在をめぐっては論議が分かれている。

出典:株式会社平凡社世界大百科事典/李悝(りかい)とは - コトバンク

ちなみに、《法経》については 《最近の日本の学界では実在否定論がほとんど定説に近い。しかし,中国近時の学者には,実在を肯定する向きが多く,この存否の結論は出されていない》 *1 ということだ。

商鞅

商鞅は戦国中期の人物だが、李克と同じく法制改革によって当時 後進国であった秦を強国へと変貌させた。

その内容はどのようなものか?

まず、官僚・役人については斬首した敵兵の数に応じて爵位を与え、爵位の等級に応じて社会的地位を上昇させる。そして、軍功の程度・官爵の等級・社会的序列を厳しく対応させた。これによって従来の貴族による特権階級の既得権益を壊して有能な人材の登用を図った。これは有能な人材による生産性向上だけではなく、君主を脅かす特権階級(貴族)の権力を削ぐ目的も持っていた。こうして専制国家を作り上げていった。

いっぽう、庶民においては連帯責任を追わせる什伍の制や悪事の密告を奨励する告姦の制などの法を敷いた。さらには穀物生産の増大を図った。(浅野氏/p252)

商鞅は、富国強兵に直結する穀物生産と戦闘のみを残す合理性を徹底的に追求し、古い社会体制が宿す多様で曖昧な伝統的価値を一切排除して、全く新しい軍国体制を作り上げようとしたのである(浅野氏/p252)

商鞅の国政改革は「変法」と呼ばれる。商鞅・変法については記事 《春秋戦国:戦国時代⑥ 中期 斉・秦の二強時代 秦編 - 歴史の世界を綴る》 で書いた。

商鞅の最期については後述。

呉起

呉起は『呉子』の著者とされる人物だが、法家としての一面も持っている。商鞅と同様に楚の国政改革を行った人物。

楚では時の君主悼王に寵愛され、令尹(宰相)に抜擢され法家的な思想を元とした国政改革に乗り出す。元々楚は宗族の数が他の国と比べてもかなり多かったため、王権はあまり強くなかった。これに呉起は、法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養い、富国強兵・王権強化に成功した。

出典:呉起 - Wikipedia

商鞅呉起の最期

商鞅は孝公に、呉起は悼王に重用されて国政改革を行ったが、君主が死ぬと特権階級にあった貴族たちは反旗を翻して両者は非業の最期を遂げた。

韓非子』和(か)氏篇に商鞅呉起の二人について言及されている。

ふたりの言ったことは、正しかったのである。それなのに、楚では、呉起を殺して手足を切り、秦では、商鞅を車裂きにして殺してしまった。なぜか。大臣が自分を苦しめる「法」をじゃまにし、人民がきちんとした政治をきらったからである。

現在の世の中では、当時の秦や楚の比較にならないほど、大臣は力をのばし、人民は乱に馴れている。それなのに、君主は悼王や孝公とちがって人の意見をきこうとしない。これでは呉起商鞅の二の舞となる危険をおかしてまで、「法術」を説く者が出るはずがない。この乱世に、世を平定する覇王があらわれないのは、このためである。

出典:西野広祥・市川宏 訳/中国の思想 [I] 韓非子徳間書店/p146-147

韓非の書いた書を読んだ秦の嬴政(後の始皇帝)は韓非の法術をもちいて覇王として世を平定した。そして韓非は嬴政に、韓非のライバルであった宰相の李斯のは二世皇帝の胡亥によって殺された。



法家(1)法家とは何か/時代背景/法家と儒家の対立点

この記事より何回かに亘って法家について書いていく。

この法家の思想は、他の諸子百家の思想と同様、現代中国まで影響を及ぼしている。

法家とは何か

中国古代に興り,刑名法術を政治の手段として主張した学派。春秋時代管仲が法家思想の祖とされ,戦国時代の李 悝 (りかい) ,商鞅,申不害,慎到らが法家の系列に属する。韓非子にいたってこの思想が集大成され,その著『韓非子』 20巻は先秦法思想の精華といわれる。法家は法と術とを重んじ,法は賞罰を明らかにして公開し,特に厳刑主義をとって人民に遵守を促すものであり,術は人主の胸中に秘して臨機応変,その意志に人民を従わせる統御術とされた。政治を道徳から切り離した実定法至上主義であり,儒家が徳治,礼治を強調したことと顕著に対立する。法家思想は秦代の政策のうえに大いに具現されたが,漢代以降,学派としては消滅した。漢代には儒法2家の融合をみて,儒家は法的制裁をかりて礼の実現に努め,礼と法とは表裏をなしつつ,その後の中国法の性格を形づくるものとなった。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/法家(ほうか)とは - コトバンク

上の通り、法家の集大成は戦国末の『韓非子』であり、「漢代以降,学派としては消滅した」。

韓非子』以前の思想は『韓非子』に吸収され、『韓非子』の後に諸子百家に分類されるの文献は無いのだから、実質的に「法家の思想=『韓非子』の思想」と言っていいと思う。

また「法家は法と術とを重んじ」とあるが、「法」と「術」と同様に重要なキーワードとして「勢」がある。法家の中核として「法・術(法術)」「法・勢・術」と2通りの説明があるのだが、「法・術」の方では「勢」を「術」のカテゴリの中にあると考えているのだろう。

このブログでは、わかりやすくするために法家の中核を「法・勢・術」とする。3つのキーワードについては複数の記事を書いて順々に説明していこう。

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出典:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p259

いちおう書いておくが、「法」は近代法とは別物だ。近代法は国民だけではなく為政者も束縛する力があるが、法家の「法」は前近代のそれであり、為政者が一方的に庶民を束縛し、法解釈も役人が持っている(三権分立など無い)。とはいえ、役人も上から恣意的な法(または法解釈)の運用によって害を被る。

余談だが、現代中国では、近代法ではなく前近代の法・法家の法がまかり通っている。2019年現在、香港の法律が北京政府によって恣意的に作られていることが、全世界の人々に知れ渡った。さらに言えば、一国二制度は世界に向けた公約なのだが、これをも守ろうとしないのが現代中国政府だ。この状況は中国の文化・伝統なので、たとえ中共独裁政権が倒れても、新政府が近代法で動く可能性は高くないと思う。

時代背景

春秋時代と戦国時代では、各諸侯の国内の政治でも大きな変化があった。春秋時代は貴族制であり、特に大貴族である卿の力が大きく、行政・軍事・外交などの権力を握っていた。しかし、戦国時代になると、大貴族が消滅し、代わって君主が大きな権力をもつ「専制君主制」へ移行した。

戦国時代の専制君主制は、君主権が強化されると同時に、成文法(文章化された法律)・官僚制・徴兵制などが制定されたことが特徴である。また、この時期には、思想の発達や都市部での貨幣経済の浸透、鉄製の農具の普及などもあり、文明としても大きく変化した時代であった。

出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p84

上の引用の中で、法家の役割は成文法と官僚制だった。貴族ではなく、よそ者を官僚に起用する場合、何らかの取り決めが必要となる。これを成文化することにより、起用される側も「就職活動」しやすくなる(ただし法が常に守られるかどうかという問題が常につきまとう)。

そういうわけで、「春秋時代管仲が法家思想の祖とされ」ているらしいが、実際は戦国時代が下るにしたがって、法の重要度が高り、その中で法家と呼べるようなな人たちが徐々に増えたと考えるのが妥当だろう。

法家と儒家の対立点

法家と儒家は全く違う思想を持っているが、如何にこの世を治めるかという政治的目的を持っていることにおいて共通している。

冒頭の引用にあるように、法家は「政治を道徳から切り離した実定法至上主義であり,儒家が徳治,礼治を強調したことと顕著に対立する。」

法家を「法治主義」、儒家を「徳治主義」と一般的に言われている。

ただし、戦国後期になると荀子が「礼治主義」を唱えて有名になる。彼は徳治主義に限界があると考えたらしく、「人々に礼のルールを学習させ、礼を基準に国家・社会を統治すべきだ」 *1 と主張した。『史記』「老子韓非子列伝第三」によれば、韓非が荀子の弟子であるとのこと。通説になっているが情報が限られているのでなんとも言えないところだ。



*1:浅野氏/p96

道家(29)荘子(『荘子』の有名な言葉)

これから『荘子』が出典の有名な言葉を書いていく。

ネット検索してみると、「荘子の故事成語一覧 - 成句 - Weblio 辞書」というものを見つけた。たくさんある。

この中で気になったものを数点書いていこう。

以下では、意味は「荘子の故事成語一覧 - 成句 - Weblio 辞書」から、原文は「荘子 - Wikisource」から引用する。

現代語訳は、引用文以外は、以下の参考文献を元にして書いてみた。

井の中の蛙、大海を知らず

意味:《狭い世界に閉じこもって、広い世界のあることを知らない。狭い知識にとらわれて大局的な判断のできないたとえ。》
出典:秋水篇
原文:《井蛙不可以語於海者,拘於虛也……曲士不可以語於道者,束於教也。》

現代語訳↓

井の中の蛙に海のことを話しても仕方がないというのは、蛙が狭い自分の住処になずんでいるからだ。……見識の狭い人物に大道のことを話しても仕方がないというのは、彼が世間的な教えに縛りつけられているからだ。(池田氏/p372)

蟷螂の斧

意味:〔カマキリが前脚をあげて大きな車に向かってきたという「荘子」などの故事から〕自分の弱さをかえりみず強敵に挑むこと。はかない抵抗のたとえ。
出典:人間世篇
原文:《汝不知夫螳螂乎?怒其臂以當車轍,不知其不勝任也,是其才之美者也。戒之,慎之,積伐而美者以犯之,幾矣! 》

現代語訳↓

貴方はカマキリの話を知らないか?その身よりはるかに大きい、轍をつくるような車に、臂を怒らせて立ち向かうカマキリの話だ。勝てないことも知らないさまは、小才に自惚れて その才が万能だと思って行動している者と同じだ。己を戒めなさい、慎みなさい。貴方も小才を以て上の者に反論しようものなら痛い目に遭いますぞ!

「犯」は「上の者に逆らう」、「幾」は「危(あやう)し」

魯の賢人・顔闔が衛公の太子である悪ガキの守役を任されて、不安になって衛の賢大夫・蘧伯玉に相談した。上はその会話の一部。

蘧伯玉は処世術を語った。人間世篇は処世術を集めた篇だ。

人間世篇の他に天地篇でも同様の比喩で使用している。

至れり尽くせり

意味:すべてに細かく配慮が行き届いていること。
出典:斉物論篇
原文:古之人,其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者,至矣,盡矣,不可以加矣。

現代語訳↓

上古の人は、知がある究境に到達していた。その到達したいた境地とは、者は存在しないと考える境地である。それは究境に達しており、あらん限りを尽くしていて、最早何も追加することのできない、最高ランクの知である。(池田氏/p79)

「至矣,盡矣」。「盡」は「尽」。「至る」も「尽す」も境地に達していることを示している。

牛角上の争い

意味:〔「荘子則陽」より。カタツムリの左の角の上にいる触氏と、右の角の上にいる蛮氏とが争ったという寓話から〕小国どうしの争い。つまらない事で争うことのたとえ。蝸牛の角の争い。蝸角の争い。蛮触の争い。
出典:則陽篇
原文↓

惠子聞之而見戴晉人。戴晉人曰:「有所謂者,君知之乎?」
曰:「然。」
有國於蝸之左角者曰觸氏,有國於蝸之右角者曰蠻氏。時相與爭地而戰,伏尸數萬,逐北旬有五日而後反。」
君曰:「噫!其虛言與?」
曰:「臣請為君實之。君以意在四方上下有窮乎?」
君曰:「無窮。」
曰:「知遊心於無窮,而反在通達之國,若存若亡乎?」
君曰:「然。」
曰:「通達之中有魏,於魏中有梁,於梁中有王。王與蠻氏,有辯乎?」
君曰:「无辯。」

現代語訳↓

(戦国初期の魏の恵王が斉王が盟約に背いたことに激怒して暗殺しようと考えた。恵王がこれを何人かの臣下に問うても決断できない様子のところを)宰相の恵施が戴晉人という人物を連れてきてお目通りを願った。
戴晉人が話し始める。「我が君は、カタツムリをご存知でしょうか?」
恵王「知っている」
戴晉人「あるカタツムリの左の角の上に触氏という国があり、右の角には蛮氏という国がありました。両国は土地を争って数万の死者を出しながら半月も戦争を繰り返しました。」
恵王「そんな戯言に何の意味があるのだ?」
戴晉人「では、我が君のために これが戯言でないことを実証しましょう。我が君は宇宙に限りがあるとお思いでしょうか?」
恵王「無限だ」 戴晉人「その無限の宇宙に心を遊ばせた後、この有限の世界の国々のことを考えたら、それらの存在など有るか無いかの存在でしかないことがお分かりになるでしょう」
恵王「その通りだ」
戴晉人「有限の世界の国々の中に魏があり、またその中に王都・梁があり、そしてここに我が君がいらっしゃる。我が君と蛮氏と、どれだけの違いがありますか?」
恵王「... 無いな」

戴晉人が退出した後、恵王は呆然となり、その後 恵施に戴晉人の偉大さを語った、というフィクション。

戴晉人を通して万物斉同を説明している。『荘子』は『老子』と違って、政治に無関心、政治そのものが些末な事だと思っている。

顰みに倣う

意味: 善し悪しを考えずに人まねをする。
出典:天運篇
原文:西施病心而其里,其里之醜人見之而美之,歸亦捧心而矉其里。其里之富人見之,堅閉門而不出,貧人見之,挈妻子而去走。彼知矉美而不知矉之所以美。惜乎,而夫子其窮哉!

現代語訳↓

絶世の美女と知られる西施は眉をしかめるほど胸を患って郷里に帰った。
その美貌に見惚れた郷里の醜女は、村人の前で西施の真似をして胸に手を当てながら眉をしかめて見せた。
すると、村の金持ちは門を閉じて外に出ようとはせず、貧しい者は妻子を連れて村から出ていってしまった。
醜女は西施が眉をひそめるさまが美しいことは理解したが、眉をひそめるさまがどうして美しいのかを理解していなかった。

「矉」が「眉を顰める」「しかめっ面をする」という意味。

この話は、孔子が門人を連れて衛の国に旅立ったことに対して、残った門人の一人の顔回が楽の師匠と交わした問答の中の一節として出てくる。

師匠は顔回に対して、孔子は醜女と同じようなことをしようとしている、と言っている。

つまり、孔子は衛の君主に対して三皇五帝の礼法制度を説こうするだろうが、この時代にあの礼法制度を真似ても成功するはずがない、ということ。

道家の立場からの儒教批判。

胡蝶の夢

意味:〔荘子が、蝶となり百年を花上に遊んだと夢に見て目覚めたが、自分が夢で蝶となったのか、蝶が夢見て今自分になっているのかと疑ったという「荘子斉物論」の故事による〕 夢と現実との境が判然としないたとえ。
出典:斉物論篇 原文:昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也。自喻適志與!不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與?周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。

現代語訳↓

かつて荘周(本書の作者。姓は荘、名は周)は、夢の中で胡蝶となった。ひらひらと舞う胡蝶であった。己の心にぴたりと適うのに満足しきって、荘周であることを忘れていた。ふっと目が覚めると、きょろきょろと見回す荘周である。荘周が夢見て胡蝶となったのか、それとも胡蝶が夢見て荘周となったのか、真実のほどは分からない。だからと言って、荘周と胡蝶は同じものではない、両者の間にはきっと違いがある。物化(ある物が他の物へと転生すること)とは、これをいうのである。(池田氏/p96)

以上の不思議な話は荘周の死後の隨分経った戦国最末期~前漢初期の作、だと池田氏は書いている。最後の「物化」について、池田氏は「万物斉同に代わって登場した万物転化の思想」と書いている。(池田氏/p98)

「物化」については池田知久『荘子 全現代語訳 上』 *1 には説明が書かれていないが、別の本に詳しく書かれているようだ。「荘子の「胡蝶の夢」に想う」というウェブページに別の専門家と共に引用されている。ここでは割愛。



*1:講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)

道家(28)荘子(徳/徳充符篇/明鏡止水)

今回は「徳」について。

私たち一般的な日本人が思い浮かべる「徳」とは異なる。

徳充符篇とは?

「徳」については、徳充符篇で語られている。「徳」の意味については後述、「充」は充実、「符」はしるしという意味を表す。

この篇では、他の篇と同様、『荘子』の思想とその思想に関する寓話によって構成されている。

この篇の題名が「徳が内面に充ちあふれた符」というように、重要なのは人間の中身であり、外見などは問題ではないと説く。そのために身体の不自由な人たちを登場させ、内的に充実している彼らがいかに魅力的で尊敬に値するかを示す。孔子道家的に優れている彼らに脱帽し、教えを請いたいとしている点が、荘子らしいフィクションである。

出典:西野広祥/無為自然の哲学 新釈「荘子」/PHP研究所/1992/p136

登場人物を「身体の不自由な人たち」とだけ書いているが、過去に罪を犯して足を斬られた者などが複数登場する。前科者でも徳の充ちたる者は孔子をも脱帽させるというのが、この篇の主張の一部。

荘子』の「徳」について

荘子』と道家の「徳」は基本的に同じのようだが、差異については分からない。

とりあえず、差異は無い(または考えない)ということにして「徳」の話を進める。

池田知久氏が、以下の引用の中で説明しているので、順を追っていく。

「徳」という言葉は、一般的に言って、道家や『荘子』が用いる場合、儒家が倫理的な意味で用いてきた「徳」と同じではない。そうした人間中心主義的な用語法やそれに基づく儒家の思想が、視野狭窄(きょうさく)に陥っていると批判して登場したのが、道家の用語法やそれに基づく道家の思想だからである。まして、今日我々が普通に用いる「道徳」(モラルズ、エシクス)とは全然異なると考えて差し支えない。

出典:池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)/p136

道家の「徳」と比べる時、儒家のいう「徳」は現代の我々が使う倫理的な「道徳」とほぼ同じだと考えていい。

上の説明で「儒家の思想が、視野狭窄に陥っている」とあることに注意すると、道家の「徳」は儒家のそれを含む より広い概念であることが分かる。

以下は上の引用の続き。

道家や『荘子』の「徳」とは、大体のところ、客観的には、世界の根源者である「道」の作用・働きを指している。例えば、『老子』第51章に「道 之(これ)を生じ、徳 之を畜(育、やしな)う。」とあるように、「道」が「物」の存在に関わるのに対して、「徳」はその成長に関わっているのを参照されたい。(p136)

老子』第51章の該当箇所は《「道」は万物を生成し、「徳」がこれらを育てる》と訳せる。つまり「徳」は(食料を含む)恵みを与えたり、教えを施したりして育てる作用・働きのことである。個人的には「エネルギー」と訳したい。

引用の続き。

また主観的には、人間が自己の身に「得」ているもの、「道」や「天」によって与えられた何かを指す。その「もの」「何か」とは、自己の身体と精神、「形」と「心」のことなのであるが、この学派が精神よりも身体を重んずるので、主に身体(及びその働き)を意味する場合が少なくない。(p136-137)

ここで(物ではなく)人間における「徳」とは《身体と精神、「形」と「心」のこと》と言っている。つまり作用・働きそのものではなく、作用・働きによって生成されたもの(人間の側から見ると獲物)も「徳」であるということになる。生成されたものとは人間の容姿や性格などのことだ。

これを拡大解釈すれば、人間に限らず「物」(万物)にも当てはまるだろう。物の特徴・特性・性質は「徳」の意味の中に含まれる。

続き。

なお、道家が人間を存在者つまり「物」というレベルでのみ把えている間は、古くからの(主に儒家の)思想上のテーマである「性」という言葉は不用であるが、彼らが人間を人間として問題にするようになると、「徳」は「性」と関連づけられたり「性」と同じ意味になったりして、それが『荘子』や道家の文献の中にも現れるようになる。(p137)

ここで出てきた「性」は「性善説」「性悪説」の「性」だ。この「性」は「人間の本性」と解釈されている。つまり精神・心を表している。

道家による人間に対する「徳」の意味は、一つ上の引用になるように身体・「形」を表すことのほうが多いが、どうやら戦国末期の儒家荀子の影響を受けて、道家でも「性」の概念を取り扱うことになったらしい(「性」については『荘子』では駢拇篇で取り扱っている。池田氏/p208)。

徳の充ちたる者とは?

荘子』における徳が内面に充ちあふれた人とは、簡単に言ってしまえば「道」を体得した人、つまり『荘子』の中で言うところの至人・聖人・真人と呼ばれている人のことだ。

では、至人・聖人・真人とはどういう人なのか?それは「我々が存在するこの世界は万物斉同である」と信じて疑わない人のことを言う。そしてそのような人は人々から慕われて離れがたくなるという(ここまで来ると もう思想ではなく宗教と言ったほうがいいのではいいのではないかと思えてくる)。

さて、徳充符篇から一つ引用をしよう。以下は闉跂支離無脤(いんきしりむしん)と甕㼜大癭(おうおうたいえい)という架空の人物の紹介から始まる。二人とも五体満足ではない人物だが、徳の充ちたる者であり、為政者たちは彼らの教えを受けて感動して心惹かれてしまうほどだった。

これに続けて徳の充ちたる者とはどのような人物化を説明する。

これらの例によっても明らかなように、徳が長ずるにしたがってかえって、人は形を忘れてゆく。逆に、形を忘れない者は徳を忘れる。これこそ真(まこと)の忘失というものだ。

従って、全(まった)き徳を抱く聖人は何ものにもとらわれぬ。かれは知をひこばえ[樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと *1 --引用者] のようなものと見る。規範を膠(にかわ)のようなものと見る。世俗の道徳を補足と見る。作為を商取引と見る。聖人にとって、これらは無用の長物だ。

何ひとつ意図しない人間は必要としない。いっさいを分別しない人間は規範を必要としない。本性を損なわない人間は補足を必要としない。自己を売り物にしない人間は取引を必要としない。この「意図しない、分別しない、本性を損なわない、自己を売りものにしない」の四つを「天鬻(てんいく)」という。つまり、天に養われることである。天に養われるからには、あらためて人為によって養う必要がどこにあろう。

聖人とは、人間の形を持ちながら人間の情を持たぬ存在だ。かれは人間の形を持つがゆえに、人間社会に生きる。しかし、人間の情を持たぬから是非にとらわれない。聖人といえども、一個の人間としては微々たる存在にすぎない。だがかれのみが自然と一体化して、その限りない偉大さをわがものとなし得るのである。

出典:岸陽子/中国の思想 荘子/徳間文庫/2007(原著は1996年に刊行)/p217-218

途中から聖人(「道」の体得者)の話になっているが、要するに徳の充ちたる者=聖人ということだ。

そして、『荘子』のいうところの聖人は、儒家の聖人である孔子ですら感服して教えを請いたいと思わせる魅力を持っている、ということになっている。

明鏡止水

明鏡止水は徳充符篇から出た言葉だ。

まずは、現代における意味を確認しよう。

《「荘子」徳充符から》曇りのない鏡と静かな水。なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態をいう。

出典:小学館デジタル大辞泉/明鏡止水(メイキョウシスイ)とは - コトバンク

次は該当箇所を見ていこう。該当箇所は「明鏡」と「止水」に分かれる。

そしてここで言ってしまうと、「明鏡」も「止水」も共に聖人(徳の充ちたる者)に対する比喩なのだ。

まず「明鏡」から。

『鏡に曇りなく澄んでいれば、塵垢は付かず、塵垢がつけば鏡は曇る。』と言いますが、長らく賢人と一緒にいて、鏡の曇りを拭い去ってもらうと、塵垢のような過ちもなくなるもの。

出典:池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)/p141

  • 原文は《『鑑明則塵垢不止,止則不明也。久與賢人處則無過。』》。

曇りなき鏡のように澄んでいる賢人(=聖人)は彼と接している人々の塵垢(過ち)も無くすことができる。

それほど聖人は偉大で、不思議な力を保持している。

次に「止水」。

人は誰しも、流れ動く水に顔を映して見ようとはせず、静止した水に顔を映そうとする。このように、ただ静かな心だけが、静けさを求める多くの人々に静けさを与えて、彼らを引きつけることができるのだ。

出典:池田氏/p139

  • 原文は《人莫鑑於流水而鑑於止水,唯止能止衆止》

聖人は、止まっている水のような静かな心を持つのだが、そういった心を持つ者は静けさを求める多くの人々を惹き付ける。

以上が「明鏡」「止水」の該当箇所だ。

大辞泉が言う、明鏡止水の意味《なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態をいう》は「道」を体得した者の心理状態と言ったところだろうか。



*1:孫生え、蘖。蘖 - Wikipedia

道家(27)荘子(養生)

今回は「養生」について。

「養生」とは何か?

まず、『荘子』や道家のことを一旦 脇において、一般的な「養生」の意味を確認する。

① 健康に注意し、病気にかからず丈夫でいられるようにつとめること。健康を保つこと。摂生。
② 病気やけががなおるようにつとめること。保養。

出典:三省堂大辞林 第三版/養生(ヨウジョウ)とは - コトバンク

テレビで健康に関する話題を見かけない日は無いというほど現在でもこの手の話は多くの人々の関心の的だ。

次に『荘子』の「養生」の説明。

「養生」すなわち「生を養う」とは、人々が病気にかかったり、不慮の事故に遭って横死したりせず、「天」から与えられた生命を本来のままに生き尽くすことを意味する。

「養生」の思想や術は、思想界においては、戦国時代中期になって始めて唱えられたもののようである。「養生」に対する諸子百家つまり知識人たち反応は、学派によってまちまちであり、例えば、儒家の場合は、戦国中期の孟子、戦国末期の荀子は、その道徳を重視する立場からこれを低く評価した。戦国末期以降は、学派の違いを越えて広く唱えられ、実践されるようになっていったが、道家もまた戦国末期からこれを採用しており、『荘子』中、本篇[養生主篇--引用者]だけでなく至るところで「養生」の説が顔を出している。

この学派が、人間の精神よりも身体を、「心」よりも「形」を、確かなものとして重んずるようになるのは、戦国末期のことである。その背景には、「無」(非存在)こそ世界の真実態であるとした古い万物斉同の哲学を部分的に放棄して、「無」を「道」の本質的属性に限定しつつ、「万物」の「有」(存在)性を回復していった、という哲学上の動きがあった。道家による「養生」説の受容は、こうした形而上学上・存在論上の転換と、相互に因果関係があると考えられる。そして、道家の一部が、人間をっ含む世界の存在や変化・運動を、質量因としての「気」だけで説明する「気」一元論に接近した時、「養生」説の重要性は決定的となったのである。

なお、この「養生」と、後代の神仙・道教の「不老不死」や「永生」との間には、共通点もあれば相違点もある。したがって、十把一絡げに取り扱わないほうがよいと思う。

出典:池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)/p99-100

  • 《「心」よりも「形」を》とあるが「形」とは、その前に書いてあるように「身体」のこと。

  • 池田氏は『荘子』は荘周が書いたものから前漢武帝期まで編纂が続けられて今日私たちが見る『荘子』が出来上がったと説明している *1。 そのような長い編纂の変遷の中で、「無」と「有」の重要性に少なからず変化が生じ、「養生」の言葉もそれに影響されているということだ。

上の引用から、「養生」意味は、荘子』の中の「養生」には私たちが使う一般的な意味に加え、「不慮の事故に遭って横死したり」しないという危機管理の側面も含まれることに注意。

荘子』養生主篇

養生主篇の「養生」は上で説明した通りで、「主」は「根本原理」という意味。 *2

上述したとおり、『荘子』には「養生」に関する話が至るところに書かれているが、養生主篇から話を進めてみよう。

池田氏によれば、養生主篇は4つの話(章)に分けられる。 *3

第一章は危機管理と中庸の話。

私の人生には限りがあるが、知るべきことには限りがない。限りある人生を費やして、限りなき知を追いかけるのは、危険なことだ。そうであるにもかかわらず、なお知を追い求めるのは、危険極まりないことだ。

私の人生を危険に陥れるものは、名声や刑罰もそうである。善を行うことがあったとしても名声を掲げない程度にし、悪を行うことがあったとしても刑罰に触れない程度にして、善と悪の中間にある根源を守ることを、不変の原理としたいものだ、そうするならば、我が身体の安全を保持することも、我が身体の安全を保持することも、我が生命を恙(つつが)なく全うすることも、肉親を養育することも、さらには天寿を本来のままに生き尽くすことも、全て可能となるのである。

出典:池田氏/p100-101

引用の「善と悪の中間にある根源を守ること」は中庸を表している *4。 何事においても中庸を心がければ養生は達成されるとのこと。

第二章は庖丁(ほうちょう・ほうてい)という人が主人公の話。ちなみに料理道具の包丁はこの「庖丁」の人名(架空の人物だが)が語源になっている(現在「庖」は常用漢字外のため、「包」を代用字として用いる) *5。ちなみに、中国では包丁(庖丁)とは言わないそうで刀という字を使うようだ(菜刀など)。

さて、諸橋轍次荘子物語』 *6 に頼って書いていく。

料理人の庖丁は文恵君という殿様のために牛を解体した。その手際の良さに文恵君は、庖丁の技術を褒めた。
しかし庖丁は技術という言葉が気に食わない様子で文恵君の前に進み出てこう言った。

「私の修めておるのは道である。術ではありません。術以上のものであります。」

更に続けて言う。

「実は私もこれまでにいろいろの修養をした。初めて牛を解体したときは、あそこにもここにも牛というものが目の前にちらついて、ほとほと困った。ところが三年間たってみると、解剖しようという場合にも牛が見えなくなった。もう今日では精神で牛を解剖している。だから手先は自然に止(とど)まるべきときに止まり、動くべきときに動いている。さらにまた肉と肉との間には必ず接触面に隙間がある。その隙間に私の刀が自然に入っていくのだから、そこに無理がない。」

こうして庖丁が19年間愛用している刀は今でも新品同様だという。

文恵君は「ああ実にいい教えを受けた。今日私は庖丁の言葉を聞いて自分の養生の道を得た」と嘆息した。

話は以上。文恵君は庖丁の話から、ただ闇雲に行動することの愚を知り、「道」の道理に従って行動することが養生の道であることに気づいた、ということだろう。

以上養生主篇から2つの話を書いた。ちなみに養生主篇の全4話の内のその他2つの話は、池田氏によれば、養生思想とは無関係とのこと。

在宥篇から

さて次の話。次は養生主篇を離れて、在宥篇から広成子という賢人の話。今回も諸橋轍次荘子物語』*7に頼って書く。

中国最初の帝王とされる黄帝が賢人・広成子に教えを請うた。広成子が教えをたれるようになるまでのエピソードは省略して、広成子は黄帝に対して養生の道を説いた。以下、諸橋氏の説明。

養生の道は、第一に「何事も昏昏黙黙たれよ」 ── すべての耳目を動かすなとの意味であります。そこで、次には「見ることなかれ、聞くことなかれ」とも教えます。あるいはまた「神を抱(いだ)いて以て静かなれ」「汝の形を労することなかれ。何時の精を動かすことなかれ」、そこだできれば「以て長生すべし」と教えています。要するに広成子の教えるところは、むだなことにからだを費やすな ── 「目見るとところなく、耳聞くところなく心知るところなければ、何時の神はまさに形を守らんとす。形すなわち長生す」というのがその主張であります。

以上荘子の述べた、精力を蓄えるということ、耳目口腹(じもくこうふく)を動かさないようにすること、これらはすでに老子がたびたびいっているところであります[以下略]

出典:諸橋轍次荘子物語/講談社文庫/1988/p292

荘子物語 (講談社学術文庫)

荘子物語 (講談社学術文庫)

老子』は「無為」を重要視し、「養生」を思想に取り入れるときに、「無為」を使った。『荘子』も同じ。

余談だが、貧乏人の心得に「動くな腹が減る」という物があるが...これと比べてはいけないか。ニートが読んだら「我が意を得たり」といいそうで怖い。

荘子』の養生論の中身

上の本では『老子』の養生に関する箇所として第59章の一部を紹介している。

老子は「人を治め天に事(つか)うるは、薔(しょく)に若(し)くは莫(な)し」といっています。人を治める政治の道も、天に事える、すなわち自分の身を養う養生の道も、どちらもなるべく事を少なくし欲を少なくし、仕事の分量も少なくするがよい、という意味であります。

出典:諸橋氏/p290

労力も勉力も食も八分までにしておけば回復が早く、平常でいられるとのこと。

諸橋氏は「荘子の養生論は、ほぼ老子の養生論の衣鉢を伝えたものと見ることができます」(p291)としている。

以上をまとめると、荘子の養生論の中身は「無理をしない」「中庸に努める」くらいになるだろう。

*1:道家(19)荘子(著者と成立時期) - 歴史の世界を綴る 参照

*2:岸陽子/中国の思想 荘子/徳間文庫/2007(原著は1996年に刊行)/p129

*3:章分けは池田氏以外にも通用するのかどうかは知らない

*4:諸橋轍次荘子物語/講談社文庫/1988/p301-302

*5:包丁 - Wikipedia その他

*6:講談社文庫/1988/p293-295

*7:p292-293

道家(26)荘子(無用の用)

*前回の末尾に「(次回は逍遥遊篇の中の「無用の用」に関する話について書く)」と書いたが、予定を変更して逍遥遊篇に限定しない「無用の用」全般について書く。

「無用の用」は『荘子』を代表する重要なキーワードだ。

前回話したように逍遥遊篇に無用の用に関する話が2つあったが、他の箇所にも散見される。

荘子に見られる「無用の用」の話》というウェブページでは「無用の用」に関する話が一覧になっている。

しかしこれを見ると、どうも「無用の用」の中に言いたいことの異なるものがあることに気づく。

この記事では、2種類の「無用の用」を示す。

人間世篇の「無用の用」

これを見ると、「無用の用」に関する話を一番多く扱っているのは人間世(じんかんせい)篇だった。

人間世篇はどのような篇かというと、岸陽子氏は以下のように簡潔に説明する。

肩ひじを張り、人より抜きんでようとしたところでどうなるか。才子は才で身を滅ぼし、策士は策に倒れる。「人間世」 ── 人間社会に生きて、危害を避け、天命を全うするには、どうすればよいか。本篇もまた、さまざまな事例に即して「無為」を説き、「無用の用」を語る。

出典:岸陽子/中国の思想 荘子/徳間文庫/2007(原著は1996年に刊行)/p141

人間世(じんかんせい)とは引用にあるように人間社会のこと。

荘子』は人間社会に無関心だというイメージがあるのだが、池田知久氏によれば、そうとも言い切れないらしい。

荘子』の中で、作者たちが自らの住まう人間社会を全く無視したり、ことさら背を向けたりの、出世間的な態度を取るべきことを主張している文章は、あまり多くはない。それは、人間社会を含む世界の真実態を「一」と把(とら)え、さらには「無」と見なした初期道家万物斉同の哲学や、世間的な社会や「万物」の世界からの超出を説いた「遊」の思想など、比較的早い時期に見いだされるにすぎない。

戦国末期には、たとえ暴君の支配する恐ろしい現実の人間社会であっても、生にとっての所与の条件として甘受しようという姿勢が普通のこととなり、時代が降るに連れて、現実への肯定は次第に強まっていった。

出典:池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)/p108

人間は、水が飲みたいのに飲水がそばに無い時は水のことしか考えられなくなり、密閉された空間で酸素が薄いと息をすることしか考えられなくなるという。

戦国末期という生きにくい時代では人々は生きることに精一杯で、『荘子』の初期の理想を俗に言う「お花畑」と思ったのかもしれない。そのような状況の中で『荘子』の作者・編纂者たちは人間社会に背を向ける態度を緩めざるを得なかった。

そして現実社会の中で生きていくための処世術として「無用の用」を説いた。

さて、以下は孔子と狂接輿という隠者の話。この隠者に『荘子』の主張「無用の用」を代弁させている。

人間世篇より。

孔子が楚に旅した。すると楚の狂接輿が孔子の宿舎の門前でこんな戯言を口にした。
「鳳よ鳳よ[孔子に対する呼びかけ--引用者]、なぜそんなに徳が衰えたのか。
先のことを心配しても始まらない。昔のことを振り返っても無駄なこと。
天下に道が行なわれているなら仕えもしようが、廃れているなら身を隠すがよい。
こんな世の中では、刑罰を逃れるのがやっとのことだ。
幸せは羽根よりも軽いから、授かっていてもわからない。禍は大地よりも重いから、だれも避けて通れない。
人様に徳を押しつけるなんて、やめるがよい。
せまい世界であれこれあげつらうのは、身の破滅。
馬鹿のまねをすれば、痛い目に会うこともないし、まわり道を行けば、足を痛めることもない。
山の木は実を結ぶから傷つけられ、灯火は点(とも)るためにみずから燃え尽くす。肉桂は食べられるから切りとられ、漆は役に立つから裂かれてしまう。
人はみな有用の用は知っているが、無用の用など知りもしない」

出典:守屋洋/「荘子」の人間学/プレジデント社/1996/p181-182 *1

ここで言う「無用の用」は要するに以下の通り。

自分より上層の人たちに「有用」と思われたら酷使されて人生を棒に振ることになる。
天寿を全うしたいのなら馬鹿のまねに徹して人々の目に止まらないようにすることだ。

以下の引用は守屋氏の解説。

狂接輿のような隠者は、中国の歴史にしばしば登場してくる。かられはただの庶民ではない。学問もあれば見識もあり、現実の政治に対する批判も持っている。出身階層から言うと、孔子と同根なのである。

ただし、孔子はあくまでも現実政治の改革に意欲を燃やしたのに対し、隠者たちは政治に見切りをつけて市井のなかに埋没していった。荘子もそんな隠者の一人と言ってよい。

隠者たちは必ずしも孔子の生き方を軽蔑しているわけではない。隠者から見れば、世の中のことは、政治にしても経済にしても結局は成るようにしか成らない。それを改革しようなどというのは、大きな流れに逆らうこと。どんなに努力しても報われることがない。それを改革しようなどというのは、大きな流れに逆らうこと。どんなに努力しても報われることがない。そんなことに自分の一生を賭けるよりは、大自然の懐に抱かれ、市井のなかでのんびりと暮らしたほうが、はるかにまっとうな生き方ではないか、というのである。

こういう隠者の人生観は、戦国乱世を生きた庶民の心情をよく代弁していたと言ってよい。

出典:守屋氏/p183-184

「無用の用」という奇妙な発想が思想として成立したのは、上のような時代背景があった。

上の「無用の用」で思い出すのが「人間万事塞翁が馬」という故事だ。校長先生が朝礼や終業式・卒業式に話したがるアレ。

この話の中に、塞翁(主人公の老人)が落馬をして足を折ってしまうのだが、そのおかげで兵役を免れて命が助かった、という部分がある。まさに「無用の用」。ちなみにこの話の出典は 『淮南子(えなんじ)』。この書は道家の書だ。

また、加賀藩当主の前田利常は徳川幕府に危険人物と思われていたのだが、うつけを装って天寿を全うしたという逸話がある(本当かどうかは分からない)。これも「無用の用」と言えるかもしれない。

逍遥遊篇の「無用の用」

上の「無用の用」は《自分が周りから無用だと思われていることは、自分にとっては用を為している》という意味。

これとは違う意味を持つ「無用の用」がある。

以下は逍遥遊篇にある話。

論敵の恵子が、あるとき、こう言って荘子をからかった。
「魏王から大きな瓢箪の種を贈られたので、まいてみたところ、なんと五石も入るようなばかでっかい実が五つもなったよ。ところが、水を入れると、重すぎて持ち上げられないし、二つに割って杓(ひしゃく)にしてみると、これまた大きすぎて水瓶のなかに入らないのだ。大きいことは大きいのだが、何の役にも立たないので、たたき割ってしまったよ」
荘子はこうやり返した。
「大きなものの使い方がへたな男だな。こんな話があるよ。 宋の国に代々麻を水にさらす仕事で生計を立てている男がいた。商売がらその男の家には、アカギレの妙薬をつくる秘伝が伝わっていた。それを聞きつけた旅人が、薬の製法を百金で買いたいと申し出た。
男は一族を集めて相談した。
『おれたちは代々麻をさらして暮らしてきて、儲けときたら、わずか数金にすぎない。ところが、この薬の製法を売れば、いちどに百金を手にすることができる。どうだい、話に乗ろうじゃないか』
薬の製法を手に入れた旅人は、呉の国に赴いて王に売り込んだ。
たまたま呉は越と戦いを交えることになり、男は将軍に任命された。時は冬である。水上で越軍を迎え撃った男は、アカギレの妙薬のおかげで越軍に大勝し、ほうびとして封地を与えられたという。
いいかね、同じ薬でも、一方は封地を与えられ、一方は麻をさらして細々と暮らしている。物は使いようなのだ。
五石も入る瓢箪があるなら、なぜそれを舟に仕立てて長江や洞庭湖に遊ぶことを思いつかないのだね。大きすぎて水瓶に入らないなどとぼやいているようでは、常識にとらわれているそのへんの連中とまったく変わりがないではないか」

出典:守屋氏/p171-172

これは簡単に言えば、「ものは使いようで価値を生むのだ」 *2 ということになる。

2つの話の違い

狂接輿の話と上の瓢箪の話は、使われる側の話と使う側の話と区別することができるだろう。

さて、注目する点は、「無用の用」という同じカテゴリにくくられるこの2つの話は言いたいことは随分と違うことが分かる。

狂接輿の話は処世の方法を説いているのに対し、瓢箪の話は「万物斉同」に関連している。恵子が瓢箪を用無しとした価値判断を荘子は否定した。これが即ち「万物斉同」。

「無用の用」には少なくとも2種類の「無用の用」があることは注意しておこう。

荘子』は一切の分別など無用というかもしれないが、そこは「無用の用」ということで。

「荘子」の人間学―自在なる精神こだわりなき人生

「荘子」の人間学―自在なる精神こだわりなき人生

  • 作者:守屋 洋
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 1996/03
  • メディア: 単行本



*1:池田知久氏は、狂接輿の話と最後の「山の木は実を結ぶから~」以降の文章は別個のものとしている。私はどちらかというと池田氏の方に説得力があると思うのだが、繋げて読んだほうが「無用の用」を理解しやすいために、あえて守屋氏の方を採用した

*2:守屋氏/p174