前回の続き。
申不害
申不害は戦国初期の人で、韓の釐侯(=昭侯)に15年間 仕えた。
紀元前375年に鄭を滅ぼしたものの、戦国時代の韓は七雄の中では最弱であり、常に西の秦からの侵攻に怯えていた。しかし申不害(? - 紀元前337年)を宰相に抜擢した釐侯の治世は国内も安定し、最盛期を築けた。次代宣恵王が紀元前323年に初めて王を名乗ったものの、申不害の死後は再び秦の侵攻に悩まされた。
そんなわけで、申不害が宰相をつとめた時期が韓が輝いた唯一の時期だったようだ。
さて法家としての申不害の話。
戦国初期は人口増加や戦争の大規模化などが起こり、君主や貴族の能力だけで処理できる規模を大きく超えてしまった。ここで臣下の官僚化が始まることになる。
そのような状況の中で申不害が採った方法は実定法(成文法)と「形名参同術」だった。
実定法、つまり法律が成文化されることは現代では当然だが、これは客観的基準を設けることによって、下部に任務を移譲できる一方で、貴族や臣下の恣意的な行動を抑制することにもなった *1。
次に「形名参同術」。
申不害は君主が臣下に仕事を命ずるとき、臣下の申告(名)と、その後の実績(形)を照合する方法を発案した。必要な人員・費用・期間や役割分担、見込まれる成果など、事前に詳細な計画書を提出させる。そして、必ず計画書通りに事業を成功させますと誓約させる。もとよりその契約は、証拠として、すべて文字(名)で記録しておく。申不害のいう名とは、こうした文字記録(文書)を指している。約束の期限がきたら、君主は臣下の実績を査定し、賞罰を与える。この方法で君主が官僚を数の使役すれば、いちいち乏しい賢智を労せずとも、多数の官僚を制御し自動的統治を達成できる。これが、申不害が発明した形名参同術である。
- 査定時に契約と実績を照合することが「参同」。
上の2つの方法で、君主は複数の下部組織に、事業を移譲・分担させることができたが、このメリットの他に申不害は、君主が才能が乏しくてもこの方法によって安定した統治が可能になる、と一歩踏み込んでいる。
『漢書』芸文志には『申子(しんし)』6篇があったと記録されているが、現存するものは逸文(他の文章の中などに一部分だけ残った文章)しかなく、しかもその逸文も疑う研究者がいる。 *2
慎到
戦国中期、威王・宣王の頃、諸子百家の中心地である斉の都・臨淄で稷下の学士として大夫の待遇を受けていた。 *3
慎到の著作とされる『慎子』は現在伝わっているのは5篇のみであるが、偽作説など諸説あるらしい。
下の引用は、『慎子』5篇の要点の説明。慎到も申不害と同じように、君主の力量に依存しない統治体制を提案している。
第一は、民衆や官僚への業務委託である。そもそも民衆は、政府がいちいち監督・指導しなくても、それぞれに自活する能力を備えている。だからあ政府が民間への規制や介入を減らし、民間の自活・自営に委ねれば、効率も上がって君主の苦労も減る。また君主が自分の賢智を働かせて率先して指揮を執れば、失敗したときに臣下からその責任を追求される。そこで普段から臣下に官職を割りふり、分業体制で実務を担当させれば、君主は何もせずにすむ。第二の方法は、自動的統治を可能にする勢位の保持である。勢位とは、民衆や官僚が各自の分担に励んで、君主の能力不足を補う、「助けを衆に得る」(『慎子』威徳篇)必治の態勢である。君主の地位や権力、官僚制度や法律といった人工的に機能して君主を助け、必ず国家は治まると言うのである。
浅野氏/p248(下線は引用者)
2番目の「勢位」=「勢」は『韓非子』に採用されている。
「勢」という漢字は「いきおい」が原義。「人間や物事を一定の方向に向かわせる推進力」 *4。
ここから派生して次のような意味になる。《政治力、経済力、武力などによる社会的な支配力。他を圧倒する力。権勢。富裕。》 *5 という意味もある。この意味の起源は慎到あるいは『韓非子』だろう。
『韓非子』では「勢」を《君主(王、侯など)の地位と、その地位が有する権勢》と定義している(『韓非子』難勢篇)。
さて、上の浅野氏の『慎子』の解説に戻る。
以下は引用文の「勢位」についての説明を図解にしたもの。
出典:浅野氏/p249
引用文では、上のような統治の体制(引用では態勢)を「勢位」と言い、権勢はその一部ということになる。
ただし、『韓非子』は慎到の主張に賛同する篇(難勢篇)を設けているので、実質的な差異は無いと思われる。