「オリエント」という言葉は複数の意味を持つが、(古代)オリエント世界といえば、エジプト文明とメソポタミア文明とその周辺国を合わせた広範囲の文明圏(地域、世界)を指す。
2つの文明はほそぼそとした交易関係はあったものの、長く文明的にも政治的にも別個なものであり続けた。これが前二千年紀後半に経済的にも政治的にも蜜に繋がるようになり、大きな文明圏(地域、世界)を形成することになった。
※注:世界史用語としての「シリア」は「歴史的シリア」とか「大シリア」などとも呼ばれ、現代のシリア・レバノン・ヨルダン・イスラエルを含む地域を指すのだが、このブログでは「シリア」は現代シリアの領域、これの南方を「パレスチナ」として表す。
国際化、オリエント世界
メソポタミア文明の文明圏はユーフラテス川を遡る形で広がっていき、この地域の覇権国はミタンニ(シリア、フリ人)、その次の時代はヒッタイト(アナトリア、ヒッタイト人)、そしてその次がアッシリア(北メソポタミア、アムル人)と続く。
これにエジプト勢力が東地中海あるいはパレスチナを北上してメソポタミア文明圏に頻繁に政治・経済両面で接触するようになる。 ここに「オリエント世界」というにふさわしい領域が出来上がる。
戦車、馬の操作術の向上
この時代の戦争は戦車で戦った。戦車といっても馬が牽く戦車だ。初期王朝時代にも戦車は有ったが、ロバあるいはオナガー(高足ロバ)を使用し、戦車の車輪は板を二枚張り合わせたものだった。
ようやく前2000年頃に輻[スポーク]が発明され、前2000年紀前半には馬に戦車をひかせた。この戦車の基本形をミタンニがつくったようだ。
さらに、ミタンニが戦車をひかせる馬の調教に長けていたということは、ヒッタイトの都ハットゥシャ遺跡から出土した『キックリの馬調教文書』からわかった。
- 「キックリ」は調教師の名前。
これが中アッシリア時代初期のミタンニの強さの秘訣になるのだが、馬と戦車の操作術はオリエント世界に広がることとなる。
鉄器時代の到来
製鉄技術の起源はヒッタイト、というのが定説だったと記憶しているのだが、最近は違うらしい。
津本英利『古代西アジアの鉄製品-銅から鉄へ-』 *1 によると、人工鉄の鉄製品で最古のものはアナトリアのトロイアやアラジャホユックのもので、時期は前三千年紀前半だ。つまりヒッタイトの歴史より古い。
鋼(はがね)の最古のものはボアズキョイ遺跡(首都ハットゥシャ)からのもので、こちらは前1400年頃。しかしこれも津本によれば、「浸炭」という技術が見つかっていないという。浸炭とは刃物などの実用金属にするための技術で、恒常的・大量生産の前提条件。これをヒッタイトは持っていなかった。浸炭の最古の例は前12世紀のキプロスやパレスチナに見られる。
また、かつての定説では、ヒッタイト新王国は前1190年頃に滅亡した後にこの国が「独占」していた製鉄技術が他地域に拡散したとされていたが、鉄器が青銅器を量的に上回るのは前10世紀になってからだ。
鉄器時代の到来の原因がヒッタイトでなかったら何なのかというと、東地中海の錫の不足だという。錫は青銅器を作る材料で、これが入手困難になった時にこの青銅器の代替として、鉄鉱石から鉄製品を作る技術を開発したという。
その後、キプロス・パレスチナから技術が拡散した。特に良質な鉄資源があるウラルトゥ(アッシリアの北)からは前10世紀頃の大量の鉄器が出土している。