歴史の世界

古代オリエント世界の始まり(前二千年紀後半)

「オリエント」という言葉は複数の意味を持つが、(古代)オリエント世界といえば、エジプト文明メソポタミア文明とその周辺国を合わせた広範囲の文明圏(地域、世界)を指す。

2つの文明はほそぼそとした交易関係はあったものの、長く文明的にも政治的にも別個なものであり続けた。これが前二千年紀後半に経済的にも政治的にも蜜に繋がるようになり、大きな文明圏(地域、世界)を形成することになった。

※注:世界史用語としての「シリア」は「歴史的シリア」とか「大シリア」などとも呼ばれ、現代のシリア・レバノン・ヨルダン・イスラエルを含む地域を指すのだが、このブログでは「シリア」は現代シリアの領域、これの南方を「パレスチナ」として表す。

国際化、オリエント世界

メソポタミア文明の文明圏はユーフラテス川を遡る形で広がっていき、この地域の覇権国はミタンニ(シリア、フリ人)、その次の時代はヒッタイトアナトリアヒッタイト人)、そしてその次がアッシリア(北メソポタミア、アムル人)と続く。

これにエジプト勢力が東地中海あるいはパレスチナを北上してメソポタミア文明圏に頻繁に政治・経済両面で接触するようになる。 ここに「オリエント世界」というにふさわしい領域が出来上がる。

戦車、馬の操作術の向上

この時代の戦争は戦車で戦った。戦車といっても馬が牽く戦車だ。初期王朝時代にも戦車は有ったが、ロバあるいはオナガー(高足ロバ)を使用し、戦車の車輪は板を二枚張り合わせたものだった。

ようやく前2000年頃に輻[スポーク]が発明され、前2000年紀前半には馬に戦車をひかせた。この戦車の基本形をミタンニがつくったようだ。

さらに、ミタンニが戦車をひかせる馬の調教に長けていたということは、ヒッタイトの都ハットゥシャ遺跡から出土した『キックリの馬調教文書』からわかった。

出典:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p146

  • 「キックリ」は調教師の名前。

これが中アッシリア時代初期のミタンニの強さの秘訣になるのだが、馬と戦車の操作術はオリエント世界に広がることとなる。

鉄器時代の到来

製鉄技術の起源はヒッタイト、というのが定説だったと記憶しているのだが、最近は違うらしい。

津本英利『古代西アジアの鉄製品-銅から鉄へ-』 *1 によると、人工鉄の鉄製品で最古のものはアナトリアトロイアやアラジャホユックのもので、時期は前三千年紀前半だ。つまりヒッタイトの歴史より古い。

鋼(はがね)の最古のものはボアズキョイ遺跡(首都ハットゥシャ)からのもので、こちらは前1400年頃。しかしこれも津本によれば、「浸炭」という技術が見つかっていないという。浸炭とは刃物などの実用金属にするための技術で、恒常的・大量生産の前提条件。これをヒッタイトは持っていなかった。浸炭の最古の例は前12世紀のキプロスパレスチナに見られる。

また、かつての定説では、ヒッタイト新王国は前1190年頃に滅亡した後にこの国が「独占」していた製鉄技術が他地域に拡散したとされていたが、鉄器が青銅器を量的に上回るのは前10世紀になってからだ。

鉄器時代の到来の原因がヒッタイトでなかったら何なのかというと、東地中海の錫の不足だという。錫は青銅器を作る材料で、これが入手困難になった時にこの青銅器の代替として、鉄鉱石から鉄製品を作る技術を開発したという。

その後、キプロスパレスチナから技術が拡散した。特に良質な鉄資源があるウラルトゥ(アッシリアの北)からは前10世紀頃の大量の鉄器が出土している。



古アッシリア時代③ ヒッタイト古王国

今回はアナトリア半島ヒッタイトについて。

今回はヒッタイトの先史からヒッタイト古王国までを書く。

まずはアナトリア半島の地理から話を始める。

アナトリア半島の地理

アナトリア半島は、現在トルコ(共和国)の領土になっている地域。

地理は以下の通り。

アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。[中略]

中近東という位置や地中海やエーゲ海からくる印象から、一般に温暖な印象であるが、沿岸地域を除くと冬は寒冷な国である。エーゲ海や地中海の沿岸地方は温暖で、ケッペンの気候区分では地中海性気候に属し、夏は乾燥していて暑く、冬は温暖な気候で保養地となっている。

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出典:トルコ - Wikipedia

アナトリアの先住民「ハッティ人」

ヒッタイト人がアナトリアに建国する前に、中央部にはハッティと呼ばれる人々が住んでいた(言語系統不明)。

ただしハッティ人についてはよく分かっていないようだ。

ハッティ人 - Wikipedia」ではアッカドサルゴンの時代(紀元前2350年 - 紀元前2150年ころ)に言及されていると書いているが、「Hattians - Wikipedia」によると、これは「King of Battle」という叙事詩の中の話なので、事実とは断定できないとのこと。

トレヴァー・ブライス(英語版)は、次のように記している。

いわゆる「ハッティ人」の文明の証拠は、後年のヒッタイト語の古文書の中に見出される、インド・ヨーロッパ語族の言葉ではない、ある言語の断片によってもたらされる。この言語は「hattili」、すなわち「ハッティの言語」と称されている。伝えられている数少ないテキストは、宗教的、ないしカルト的な性格の内容である。これらのテキストは、多数のハッティの神々の名や、人名、地名を伝えている *1

出典:ハッティ人 - Wikipedia

ハッティ人はいくつかの都市国家に分立しており、その中の一つカニシュにはアッシリア商人の拠点(カールム)が在ったという話は以前にした。当時のアナトリアでは金や銀が産出した。

ヒッタイトの先史時代

↓の「キュル・テペ文書」とは、かつてカニシュがあった遺跡キュル・テペで見つかった文書のこと。

カニシュのカールムは前1740年に火災があって、アッシュル商人の交易活動はおしまいになった。その理由はアナトリア情勢の変化と考えられる。

というのは、「キュル・テペ文書」のなかに、インド・ヨーロッパ語と思える名前がわずかだが記されていて、ヒッタイト語の単語らしきものもあるからである。つまり、ヒッタイト人が前19-18世紀のカニシュにすでにあらわれていたことを意味している。ヒッタイト語を、ヒッタイト自身は「ネシャ語」といった。ネシャとはカニシュのことで、カニシュはヒッタイト人がアナトリアへ進出した際に、重要な拠点だったようだ。

出典:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p96-97

ヒッタイトの最古の歴史は「アニッタ文書」に求められる。この文書はハットゥシャの遺跡から出土した粘土板で、前16世紀の古期ヒッタイト語で書かれており、おそらく後世のハットゥシリ 1 世が筆写させたものとされている。 *2

これによると、最古のヒッタイト人の王はクシャラ市(場所は不明、アナトリアのどこか)のピトハナという王だった。クシャラ王ピトハナはカニシュを攻略した。上の小林氏はこの攻略と火災を関連付けているわけだ。

ただし、ピトハナ王が「前1740年の火災」の直接の原因だという確証はなく、ピトハナ王の前に別のヒッタイト人が侵略して「重要な拠点」としたのかもしれない。そしてこれをピトハナ王が倒したのかもしれない。

ピトハナの子がアニッタ。アニッタはアナトリア中央部と黒海方面の有力な諸都市を支配下に置いてアナトリアの覇権を握った *3

ヒッタイト古王国の建国

そして「ヒッタイト(古)王国」を建国するのはハットゥシリ1世(前1620-1590年頃) *4。 なのだが、アニッタ王とハットゥシリ1世の関係については分かっていない。

ハットゥシリ1世は、当初「クシャラの人」 *5 「ラバルナ」という称号を名乗っていたが、首都をカニシュからハットゥシャに遷してからハットゥシリ(1世)を名乗るようになったという。ハットゥシャはこれ以降ヒッタイトの首都であり続けた。

17世紀後半に、ハットゥシリがヤムハド(シリアの覇権国)に攻め込んだことは前回書いた。ハットゥシリはヤムハドの首都ハラブ(アレッポ)を攻撃するほどの勢いを見せたが、陥落させるまでには至らなかった。

次代のムルシリ1世(前1620-1590年頃、ハットゥシリの孫)は前1600年にハラブを落とし、前1595年にバビロンを落とした。

しかし、帰還してすぐに暗殺され、ヒッタイトは混乱期に入る。

古王国の終焉

この後、ヒッタイトは弱小期に入り文献記録も途絶え、傑出した君主もなく、その支配領域も縮小した。強い王の下での拡張と、弱い王の下での縮小というこのパターンがヒッタイト王国の500年の歴史を通じて何度も何度も繰り返された。このため衰弱期の事象の歴史を正確に組み立てる事は難しい。この頃のヒッタイト古王国の政情不安定の一因は、その頃のヒッタイトの王権のあり方により説明できる。紀元前1400年以前のヒッタイト古王国では、ヒッタイト王はヒッタイト市民からエジプトのファラオのような「生き神様」と見なされていたのではなく、むしろ平等市民の中の第一位の者と見なされていた。

出典:ヒッタイトの歴史 - Wikipedia

古王国最後の王はテリピヌ(前1500年頃)という。彼はテリピヌ勅令を発して、王位継承の原則を定めた。

[王位継承は]第一王子が王位を継ぐこと、第一王子がいなければ第二王子が、もし王子がいなければ第一王女の婿が王位を継ぐこと定めた。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 *6p350(渡辺和子氏の執筆部分)

テリピヌは娘婿のアルワムナに王位を継承したようだが、アルワムナはタフルワイリという人物に王位を簒奪されて、再び史料の乏しい時代が続くようになる(これ以降の時代は70年ほど続くがこの時代を中王国時代という)。



*1:Bryce, Trevor (2005). The Kingdom of the Hittites (New Edition ed.). Oxford University Press. pp. 554. ISBN 9780199279081 2017年12月1日閲覧。 pp.12-13

*2:世界の文字

*3:小林氏/p97

*4:年代については諸説ある

*5:クシャラ市は先史時代の首都という意味で重要な場所だった

*6:1998年出版されたものの文庫化

古アッシリア時代② シリアの興亡

今回は古アッシリア時代のシリアの話を書いていく。

マリ、ヤムハド、カトナについて書く。

ミタンニについては次回の中アッシリア時代で書く。

ソースはwikipedia

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出典:シャムシ・アダド1世 - Wikipedia

マリ

マリ市については当ブログで何度も言及してきた。現在のシリア国内のユーフラテス川沿岸に在る都市で、イラクとの国境の近くに在る。メソポタミアと地中海を結ぶ要衝の地だ。

マリがシャムシ・アダド1世によって滅ぼされたことは前回書いた。マリ王ヤフドゥン・リムはシャムシ・アダドと互角以上に戦っていたが、マリ王が内紛で暗殺された混乱中に滅ぼされてしまった。

ヤフドゥン・リムの息子ジムリ・リムは西の大国ヤムハドに亡命して難を逃れ、シャムシ・アダドの死後、マリを奪還した。彼の治世にマリは復興した証拠として、300以上の部屋を持つ宮殿が発掘されている。

マリ市奪還の時からジムリ・リムはバビロンのハンムラビと同盟を組んでいたが、ハンムラビの勢力が強くなるに連れてハンムラビはマリ市のために援軍を出し渋るようになる。そしてハンムラビがメソポタミアを統一した後、前1759年、ハンムラビは同盟を破棄してマリ市を征服した。

「マリ市にはその後も人が住んでいたが、重要拠点として史料に現れることはなくなった。 」(ジムリ・リム - Wikipedia

ヤムハドと首都アレッポ

アレッポは、マリと同じく、メソポタミアと地中海を結ぶ要衝の地だ。前三千年紀にはHa-lamという名で記録されている *1

1800年頃、アムル人がこの地を支配してヤムハド王国を建国した。

アッシリア時代のアッシリアのシャムシ・アダド1世とは、始めのうちは他国と同盟を組んで対抗していたが、マリ国が滅亡した後はシャムシ・アダドと同盟を組んで繁栄を維持した。

一方で、シャムシ・アダドに滅ぼされたマリ王ヤフドゥン・リムの息子ジムリ・リムをアレッポで匿った。シャムシ・アダドが没するとジムリ・リムはマリを奪還した。

上記のように、マリはハンムラビによって滅ぼされるのだが、ハンムラビはそれ以上西には向かわず、ヤムハドと同盟を組んだ。ヤムハドはその後も繁栄を維持している。ハンムラビと同盟を結んだヤムハド王ヤリム・リム(1世)はカトナとはライバルだったが、現代シリア北部あたりの都市国家を征服または臣従させた。彼は大王(Great king)と呼ばれ、この称号は世襲された。

ヤリム・リム(1世)から約100年後の17世紀中葉にヤリム・リム3世が在位していたが、この頃になると内紛により弱体化していた。さらにアナトリア半島ヒッタイトが勢いを見せるようになった時期だった。

ヤリム・リム3世と同時代のヒッタイト王ハットゥシリ1世がシリアに侵攻し、ヤムハド側は防戦一方。ヤリム・リム3世の次代の王ハンムラビ3世(バビロンのハンムラビとは無関係)の治世にハットゥシリ1世はアレッポを攻撃するまでになった(陥落はしていない)。ハンムラビ3世は前1620年に死去するが、この時にはもはや大王と呼ぶ者はいなかった。前1600年、ハットゥシリ1世の次代の王ムルシリ1世によってアレッポが陥落し、ここでヤムハド王国は一旦滅亡する。

ムルシリ1世はバビロンを陥落させバビロン第一王朝を滅ぼした人物だが、ムルシリが遠征から帰還するとすぐに暗殺されてしまい、これよりヒッタイトは内紛状態となり、シリアは権力の空白状態となった。

この時期に、ヤムハドの王族の一人サラ・エラがアレッポを奪還した。しかしヤムハドの名は使われなくなり、君主の称号はハラブの王となった *2 (ハラブとはアレッポのこと)。

サラ・エラの2代あとのイリム・イリマ(Ilim-Ilimma I)の治世にミタンニ国によってアレッポを陥落された(前1524年)。

カトナとオロンテス川

カトナはメソポタミアからシリアのアレッポを経由してエジプトに繋がる通商要路にある都市。オロンテス川の支流に接していた。

オロンテス川

オロンテス川は、上の地図にあるように、南北に流れ(南から北)、これを遡ると陸路でエジプトに行ける。

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Qatna at its height in the eighteenth century BC

出典:Qatna - Wikipedia

  • カトナ王国の最盛期の版図

メソポタミアからエジプトへの行路はユーフラテス河岸のエマル(Emar)からアレッポ(Halab)を経由してオロンテス川を通ってカトナ(Qatna)へ、さらに南下して上流のベッカー高原へ。ベッカー高原からリタニ川を南下するとハゾル(ハツォルHazor)に到着する。ハゾルからさらにヨルダン川上流からガリラヤ湖を抜けて死海経由で紅海またはシナイ半島へ出る。

アッシリア時代は地中海の航路の言及は少ないが、次の時代、中アッシリア時代(前二千年紀後半)に盛んになってくる。そうなるとオロンテス川経由の行路の重要性は落ちることになる。ただしこの川の流域で、カデシュの戦い(前1286年頃)などいくつかの重要な事件があるので、重要性が全く無くなったわけではない。

カトナ

さて、カトナ(王国)の話に戻る。

王国建国は前2000年頃だが、最盛期はアッシリアのシャムシ・アダド1世と同時代のイシュヒ・アダドIshi-Adduの治世だった。この二国は同盟を組んで、比較的安定した時代であった。

ただしヤムハド王国のシリア北部の覇権が強くなるとヤムハド王は交易路のコントロールを支配するようになり、これがカトナを劣勢にさせた *3

前1759年にバビロンのハンムラビがマリを滅ぼすのだが、この事件以降、カトナの詳しい情報が途絶える。

前16世紀にミタンニ王国の属国になる。


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古アッシリア時代① アッシリア(地域)/アッシリア(王国)の興亡

メソポタミアの北部(アッシリア)の時代区分で、前二千年紀前半を古アッシリア時代と呼ぶ。この時代は古バビロニア時代と同時代で対となる。

アッシリアは西方のシリア北部やアナトリア半島に交易ネットワークを持ち関係が深い。さらにはエジプトの交易も益々頻繁になってくるようになる。

今回はアッシリアの政治の話をして、次回はシリア・アナトリアの話をしよう。

アッシリアと都市アッシュル

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出典:アッシリア - Wikipedia

まずは都市アッシュル(アッシュール)から話を始める。

アッシュールには前2600年頃から人が住み始め、後14世紀半ばに放棄されるまで、およそ4000年続いた。

出典:アッシュール - Wikipedia

アッシュルを首都とする領域国家の国名がアッシリアで、この国名を使った国家が数度に亘り、歴史から消えては復活した(歴史から消えても都市アッシュルやアッシリア人は存続していた)。アッシリアはおおよそメソポタミア北部を支配していたのでこの地をアッシリアと呼ぶ。

アッシリア人とは?

都市アッシュルは前2600年頃から存在が確認できるのだが、この当時の住人がどのような人なのかは分かっていない。古アッシリア時代の初期にメソポタミア都市国家で、アムル人が支配者つまり王となったのだが、アッシュルもそのうちの一つと考えられている(支配層はアムル人で、被支配層はおそらくアッカド人だとは思うが、そのように書かれている文献を見たことはない)。

バビロニアアナトリアの中継交易で盛える

アナトリア半島中部にキュルテペ遺跡があるが、ここは古アッシリア時代のアッシリア人によりカニシュあるいはカネシュと呼ばれていた。この地の支配者はハッティ人(系統不明)だったが、アッシリア人はここにアナトリア半島の拠点を置いた。

アッシリア人はロバのキャラ版を組んで、アナトリアバビロニア産の上等な毛織物とアフガニスタン産の錫 *1 を運んで金や銀を得た。

カニシュには商人の居住区があるのだが、これをカールムと呼ぶ。カールムはカニシュだけではなく、アナトリアとシリア北部で発見されているので、交易ネットワークができていたようだ。そのような状況の中でカニシュのカールムはその中心的役割を持っていた。ちなみにカールムは裁判権も有ったとのことなので *2治外法権をもつ租界のようなものだったと想像できる。

アッシリアとアッシュル神

アッシリアが数度に亘り、歴史から消えては復活したことは既に書いたが、これを支えたのはアッシュル神とその信仰の民アッシリア人だった。

「アッシュル」は神、都市、土地の名前であったが、限定詞を変えることで意味を区別された。アッシリア人はアッシュル神の神像を作らなかった(像を作らないところは一神教などにつながるかもしれないが参考文献にはそのようなことは言及されていない)。

アッシリアの王の伝統的な称号は「アッシュル神の副王」で、真の王はアッシュル神ということになっていた。

シャムシ・アダド1世

さて、ようやく政治の話になる。シャムシ・アダド1世は都市国家アッシュルを領域国家アッシリアに変えた王。彼の事績は『アッシリア王名表』による。

シャムシ・アダド1世はもともとは、アッシュル市の王ではなかった。彼のアッシュル市の近くの小国エカラトゥムの王であったらしい。王の若い頃に南の勢力エシュヌンナが侵攻してきて、戦いに敗北した王はバビロニアに亡命した。

前1811年、エカラトゥムを奪還すると、その3年後にアッシュル市を征服、王位を簒奪する。この時、シャムシ・アダドはアッシュルを宗教ごと継承し、『アッシリア王名表』に改ざんを加えて自らを組み込んだ。

その後、アッシュルの北の肥沃な平原を征服する *3

そしてクライマックスは交易の要衝の都市国家マリとの戦いだ。マリは現代のシリア国内のユーフラテス川沿岸の都市でイラクとの国境付近に在る(上の地図参照)。メソポタミアと地中海を繋ぐ交易の要衝地だった。

当時のマリ王ヤハドゥン・リムとシャムシ・アダドとの数度の戦いは、エカラトゥムを奪うなど前者のほうが優勢だったようだ。しかしヤハドゥン・リムは内部の人間によって暗殺されてしまい、シャムシ・アダドはこの機会に一気にマリを併合した。

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出典:シャムシ・アダド1世 - Wikipedia

その後、シャムシ・アダドはヤムハドとカトナと同盟を組んだ。バビロンの当時の王ハンムラビがシャムシ・アダドに臣属していたことは前回書いた。アッシリアのこの支配体制はシャムシ・アダドが死ぬまでは安定していた。

シャムシ・アダド1世の死後の激動

シャムシ・アダド1世は長期にわたって王位にあったが、前1781年に死去した。これは当時のオリエント世界における大事件であり、バビロンをはじめ多くの国でこの年に「シャムシ・アダド1世が死んだ年」またはそれに類する意味を持った年号がつけられている。

出典:シャムシ・アダド1世 - Wikipedia

細かいところだが、「年号」ではなく、「年名」。

シャムシ・アダドには二人の息子がいることが知られているが、有能ではなかったようだ。彼ら以上に有能な王たちの群雄割拠の中で、2人の息子たちは領地を一貫して削られていった。最終的にはハンムラビに滅ぼされてしまった(前1761年)。



*1:これもバビロニア経由。錫は青銅器を作る材料の他にハンダとしても使用されていた

*2:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p94-95

*3:北限はシンジャル山地。上の地図のシュバト・エンリルより少し上に東西に広がる

古バビロニア時代③ バビロン第一王朝/古バビロニア時代の社会

今回はバビロン第一王朝の話。バビロン第一王朝は「ハンムラビ法典」で有名なハンムラビ王が属する王朝だ。

これと合わせて、古バビロニア全体を通しての法典と経済の話も書こう。

バビロン第一王朝

バビロニアの時代区分としては「バビロン第一王朝時代」は前1784年頃-前1595年となるが、王朝はその前からあったので、少しさかのぼって話す。

バビロン第一王朝はスム・アブム(アムル人)(前1894年-前1881年*1 が初代王とされる。バビロン市の都市国家の王として。バビロンの遺跡はバビロン第一王朝時代まで発掘できていないので、詳しいことは分からない。周辺地域が書き遺した記録からこの王朝の歴史を再現している。それによれば、バビロンはイシン・ラルス時代は有力国家ではないがある程度は支配領域を持っていたというのが通説だ。有名なハンムラビ王によって一気にバビロニアを制圧した。

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出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 *2 /p228

ハンムラビ

ハンムラビ(在位:前1792年頃-前1750年頃)は若くして6代目バビロン王になった。そして、(イシンやラルサではなく)アッシリア王シャムシ・アダド1世に臣属していた。

シャムシ・アダド1世はこの時代でメソポタミア随一で圧倒的な強さを誇る王だった。

またバビロニアの強国ラルサの王リム・シンは前1794年にイシンを滅ぼした。バビロンはラルサと敵対しなければならなかったはずで、だからアッシリアに臣属したと推測できる(前1794年よりも以前にイシンは既に弱くなっていたが)。

だが、シャムシ・アダド1世の死(前1781年)とともに、メソポタミアは群雄割拠群雄割拠の地へと戻った。

シャムシ・アダド1世没後の様相を表す文書が遺っている。

……一人で十分強力な王はいない。10人または15人の王がバビロンのハンムラビに従っているし、同じくらいの数の王がラルサのリム・シン1世、エシュヌンナのイバル・ピ・エル2世、カトナのアムト・ピ・エルに従っている。そしてヤムハドのヤリム・リムには20人の王が従っている……

出典:ジムリ・リム - Wikipedia

この文書は、当時の強国の一つマリの文書(マリ文書)の中から発見されたもので、マリ王ジムリ・リムの臣下が王宛てに出した手紙の一節。時期は前1769~前1766年の間。ハンムラビは有力な王の一人として名を挙げられている。言い換えると、ハンムラビ以外の王たちも当時のメソポタミア(とシリアの一部)の有力者たちだ。

メソポタミア統一

その後のハンムラビによる領土拡大は「年名」により分かる。「年名」とは前年に行なわれた業績を誇って短い文句にして記録したものだと思えばいい。

これによると、ハンムラビの 治世29年(前1764年)に、エラム、スバルトゥ、グティ、エシュヌンナなどを撃破したことが分かる。エラムグティは東方(現在のイラン)の勢力、スバルトゥはアッシリアのことを指す。エシュヌンナはバビロニア北東部の有力国家。

治世30年(前1763年)に、ラルサ王リム・シンに勝利し、ラルサを併合する。

治世32年(前1761年)、アッシリア地方とマルギウム(バビロニア東部の都市国家)を併合する。つまりこれにより、メソポタミア全土を征服したことになる。

治世34年(前1759年)、さらにシリア東部にある強国マリをも倒して征服した。

(以上は、小林登志子『古代メソポタミア全史』(中公新書/2020/p122-123, 128)による)

ハンムラビがどのように戦ったのかは分かっていない。

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出典:ハンムラビ - Wikipedia

衰退から滅亡

ハンムラビが前1750年に死んで、次代7代目サムス・イルナになると、早くも衰退し始めた。各地で反乱が起き、イシンやラルサで反乱が起こったほか、後にバビロン第3王朝を建てるカッシート人がアッシリア地方に侵入者として登場する。

そして、チグリス川とユーフラテス川の河口には「海の国(第一王朝)」が建てられる(前1732年頃-前1460年頃)。この王朝は「バビロン第二王朝」とも呼ばれる。資料が少なく、実体は明らかになっていないが、アッカドを話していたという。

バビロン第一王朝は、サムス・イルナ以降も存続するが、一貫して衰退していった。それでもメソポタミアはハンムラビ以降 傑物が久しく出なかったため存続できた。

最後はアナトリアヒッタイト王ムルシリ1世( ?-前1530年頃)に滅ぼされる(前1595年)。

バビロニアの社会

法典

この時代は人類最古級の法律文書が次々と現れる時代でもある。既にシュメール時代にもウル・ナンム法典などが存在したが、イシン・ラルサ時代の法典はシュメールの伝統を継承しつつ作成されたものと考えられ、この時代が単に戦乱と無秩序のみの時代であったわけではないことがわかる。

イシンのリピト・イシュタル法典、エシュヌンナのエシュヌンナ法典、そして何よりもバビロンのハンムラビ法典などが次々と編纂された。ただし、これらが実際に運用された法律であると考えるには体系性がないことが知られており、法律というよりは「判例集」「法規集」のような性質を持っていたともいわれる。実際にこれらの法典を用いて行われた裁判の記録などは発見されていない。

出典:イシン・ラルサ時代 - Wikipedia

ハンムラビ法典は高校でも習うほど有名なものであるが、基本的には過去の法典とそれ程変わらないようだ。ウル第三王朝の伝統が継承されている。

経済

バビロニアは低地の平原で貴石や鉱物は採れず、木材も乏しかった。海外との取引は農作物と手工業製品との物々交換をしていた。硬貨はまだ存在しておらず、銀が秤量貨幣として存在し、その他 錫や銅、金など鉱物が交換媒体として使われていた。ただし、国内も物々交換が主流だった。 *3

経済は(ウル第三王朝と同様)王室が管理する経済だったが、古バビロニア時代になると、商人の活躍や私有地が目立つようになってきた。一方で、借金に苦しむ農民や債務奴隷も記録されるようになり、王たちは「徳政令」を出して彼らの債務を帳消しにした。



*1:スムアブム - Wikipedia

*2:1998年出版されたものの文庫化

*3:古代メソポタミア全史/p115

古バビロニア時代② イシン・ラルサ時代の興亡

前回からの続き。

イシン第一王朝

上述のように、ウル第三王朝の将軍だったアムル人イシュビ・エラがイシン市で王となり前2017年に独立し「イシン第一王朝」が始まった。これによりイシン・ラルサ時代が始まる。

ただし、イシュビ・エラはバビロニア(南メソポタミア)全土を支配することができなかった。

イシュビ・エラは前2017年に独立するが前2004年まではウル第三王朝は存続する。その後、ウル市を滅ぼしたエラムが新たな敵となるが、これを長い年月をかけて追い払い、そして重要な都市であるウル、ウルクニップル *1支配下においた。

ここでライバルであるラルサが立ちはだかる。(ラルサについては後述)。

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出典:>出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 *2 /p228

↑の地図より上部にエシュヌンナという有力な都市国家が在った(エシュヌンナについても後述)。

イシン第一王朝はウル第三王朝の後継を自認した。これはウル、ウルクニップルを優先して支配したことにも現れている *3。 5代目の王リピト・イシュタルの治世にリピト・イシュタル法典を作成したが、これはシュメール語で書かれた(普段はアッカド語(古バビロニア語)を話し、シュメール語は話されなくなった)(法の話は別の機会に書く)。

イシンの繁栄の源泉はペルシャ湾との交易だった。この交易については以下の記事で書いた。

[メソポタミア文明:シュメール文明の周辺⑥ ペルシア湾岸文明(その3)バールバール文明](https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/mesopotamia-perusia3)

上述のリピト・イシュタル王の治世(前1934-前1924年)にウル市をラルサ王グングヌムに奪われ、ここから衰退することになる。

最後は前1794年、最後の王ダミク・イリシュが、ラルサ王リム・シン1世に敗北し、イシン市は完全に併合された。

ラルサ王朝

『ラルサ王名表』というものがあるのだが、実在が確実なのは4代目王ザバイア(ザバヤ)(前1877-前1868年)からだ。これらの王たちもアムル人。

5代目グングヌム(前1932-前1906年)の治世で、イシンからウル市を奪うことに成功した。その後、王は宗教都市ニップルも占領したが、王の死後に奪還された。だが、これ以降もラルサの優勢、イシンの劣勢の情勢は一貫していた。

13代目王ワラド・シン(前1834-前1822年)は父クドゥル・マブクとともにラルサ王を簒奪した簒奪者だ。クドゥル・マブクはエラム系の名前とされる一方、ワラド・シンは「アムル人の父」と称している。だから彼らはアムル人説とエラム人説がある。ワラド・シンの頃はニップルは支配していたようだ。

14代目王リム・シン(前1822-前1763年)の治世にイシン市を併呑し、南バビロニアを統一したのだが、前1763年、ラルサ市はバビロン軍の攻撃を受けて陥落した。ラルサは滅亡する。

エシュヌンナ

イシンとラルサがペルシャ湾の交易権益を争っていた頃、北東の有力都市国家、エシュヌンナはこの抗争とはそれほど関係していなかった。

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出典:メソポタミア - Wikipedia

エシュヌンナはティグリス川の支流ディヤラ川の東岸に位置する。

東方の山地の貴石や鉱物などの資源を輸入する要衝の地であった。初期王朝時代から名前が見える。ウル第三王朝末期にはウル市の支配から独立した。ただ、これ以降の歴史は断片的にしか分からない。たまに他の国家の歴史で言及される程度だ。

アッシリア方面からの数度の侵攻 *4 も撃退し繁栄を保ったが、最後はバビロンの王ハンムラビに滅ぼされた。

続く。次回はハンムラビのバビロン第一王朝。



*1:ニップルはシュメールにおける最高神エンリル神崇拝の中心地であり、その宗教的重要性のために古代の王たちによって争奪が繰り返された。ニップル - Wikipedia

*2:1998年出版されたものの文庫化

*3:ニップルは上述の通り、宗教上重要な都市である

*4:エシュヌンナ - Wikipedia

古バビロニア時代① イシン・ラルサ時代とは?/アムル人が主役

バビロニア時代は南メソポタミアバビロニア)の時代区分の一つ。

時代区分を理解した後、シュメール人最後の王朝であるウル第三王朝の滅亡の前後から話を始める。

時代区分

前回で引用した年表をもう一度引用する。

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/巻頭ⅵページ

↑にあるように、古バビロニア時代の歴史の範囲は以下のようになる。

小林登志子氏によれば *1、 古バビロニア時代はウル第三王朝が滅びる前2004年からバビロン第一王朝が滅亡する前1595年までなのだが、わかりやすいように、ざっくりと「古バビロニア時代=前二千年紀前半」としたほうが覚えやすい。

バビロニア時代は

  • イシン・ラルサ時代(前2004-前1784年頃)
  • バビロン第一王朝時代(前1784年頃-前1595年)

と分けられる。

この歴史の主役はアムル人

上の年表には紀元前2000年あたりに北部メソポタミアで「アムル人・フリ人侵入」とある。フリ人は北部だけだったが、アムル人は南部にも侵入していた。

ここでは、フリ人の話は別の機会に書くとして、アムル人の話をする。

前時代の主役はシュメール人アッカド人だが、アムル人が取って代わった。

メソポタミアに侵入してきたアムル人は傭兵をやるようになりやがては将軍などの要職に登用されるようになった。そして最後は王を簒奪した。

この交代劇は、別の時代の話になるが、西ローマ帝国が滅亡する直前の時期のローマ人と蛮族ゲルマン人の交代劇と同じだ。ゲルマン人もが東西ローマ帝国の傭兵や要職に就いていた。

さて、少しだけ言語の話をする。

アムル人を示すアッカド語の「アムル」やシュメール語の「マルトゥ」は元来メソポタミアの西の地域を指す地名であり、そこから二次的に西の方角をアムルもしくはマルトゥと呼ぶようになった。それが転じ、メソポタミアから見て西方に位置するシリア地方のビシュリ山周辺を中心に遊牧民として生活していた人々をアムルもしくはマルトゥと呼ぶようになったとされる。

出典:アムル人 - Wikipedia

ウル第三王朝が滅亡した後、メソポタミアの諸都市が独立した(都市国家に戻った)のだが、これらの都市の王のほとんどがアムル人だった(イシン第一王朝が広い領域を支配するのだが、そのことは後述する)。

ただし、行政文書の記録がアムル語ではなく、(ウル第三王朝時代に使われていた)アッカド語で記されていた。

アムル語とアッカド語の違いは方言程度だと言われている。(小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p86)

ウル第三王朝の滅亡:イビ・シンとイシュビ・エッラ

この時代の前がウル第三王朝時代。ウル第三王朝は北メソポタミア支配下においていたが、この王朝の最後の王イビ・シンの頃には既に滅びる過程に入っていて、北メソポタミアへの異民族の侵入を防ぐことはできず、紀元前2025年には、主要都市のひとつエシュヌンナが独立した。

紀元前2022年頃、南部メソポタミアでは大規模な飢饉が発生した。

イビ・シン王はイシュビ・エッラに食料調達を命じてイシン市へ派遣したが、イシュビ・エッラはイシン市を拠点にウル第三王朝に反旗を翻し、イシン第1王朝を建設した。

出典:イシュビ・エッラ - Wikipedia

イシュビ・エッラ(イシュビ・エラ)はアムル人だが、この頃はウルの将軍だった。彼はウル王を見限り、イシン市で王となり独立した(2017年)。これがイシン第一王朝と呼ばれ、イシン・ラルサ時代の幕開けである。

(ちなみに、「イシン第二王朝」はずっと後の時代に興る王朝なので、ここでは言及しない。)

2004年、ウル市はエラム(東方の蛮族)に襲われ、イビ・シン王がさらわれてウル第三王朝が滅びる。



*1:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p85