歴史の世界

秦代⑭:秦代のまとめ

秦代あるいは秦朝は始皇帝による中華統一から滅亡までの期間を指す。前221年から前206年までのわずか15年間だが、始皇帝が築いた統治システムは次代の前漢に継承されてその後の王朝の統治システムの土台となっている。

政策

始皇帝が亡くなってすぐに秦は滅亡してしまったので、始皇帝の政策=秦の政策ということになる。

↓は始皇帝の主要な政策。後世にどのような影響を及ぼしたのかまで分かる。

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出典:浅野典夫/図解入門よくわかる高校世界史の基本と流れ/秀和システム/2005/p65

政策についての細かい話は前回までの複数の記事で書いた(「中国_秦代/楚漢戦争」カテゴリー参照)。

上の図解の「法家の採用」とは、浅野氏の説明によれば、戦国秦の商鞅からの内政改革を指しているとのことだが、基本的には成文法に基づく行政システムと解釈していいだろう。すでに戦国時代には確立していたものだが。

焚書坑儒」は思想統制政策で、丞相・李斯は学問の自由が体制批判につながると考えて全国の書物を焼却処分にした。戦国時代の諸子百家の論争華やぐ時代はここで断絶した。思想統制ような考え方は商鞅の改革を想起させる。現代の中共政権にまでつながるかもしれない。

先秦と秦代以降の違い

「先秦」という言葉があるように、秦代は中国史の中の大きな画期となっている。

どのような画期になっているのか、以下に3つ挙げる。

焚書政策

「先秦」という言葉がある。秦より前の時代すべてを指す言葉。

典故は『漢書』景十三王伝にあり、「(河間)献王の得るところの書はみな古文先秦の旧書」とあり、顔師古注には「先秦は猶お秦の先を言うがごとし。未だ書を焚せざる前を謂う」とある。

出典:典故は『漢書』景十三王伝にあり、「(河間)献王の得るところの書はみな古文先秦の旧書」とあり、顔師古注には「先秦は猶お秦の先を言うがごとし。未だ書を焚せざる前を謂う」とある。

上記のように、始皇帝と李斯による焚書政策のせいで、先秦の史料がごく少量しか遺っていないために、歴史の中で秦代が画期となっている *1

中華統一

春秋戦国時代(前770年-前221年)は長い分裂時代だった。これを始皇帝は統一する。始皇帝の死後すぐに再び分裂したが、劉邦が建国した漢により長く続く統一体としての中国が作られた。劉邦は秦の政策をほとんどそのまま流用したので、劉邦始皇帝の継承者だと言える。

夏殷周の三代について

中国の正史では、秦よりも前の時代に3つの統一体があったとされている。

ただし、日本の研究者の中には夏王朝の存在を否定する人が多く、加えて夏王朝の文字資料が皆無のために、王朝の話は殷から始まる(中国では夏王朝が存在することは政府の決定事項になっているらしい)。

殷周代は封建体制のため、秦代以降の皇帝による統治システムとは全く異なる。殷や周の王室の領地以外の地方は諸侯と呼ばれる人物が統治してほとんど独立していた。

よって始皇帝が作り上げた統治システムは、彼より前には存在しない *2

滅亡

始皇帝が亡くなるとすぐに帝国は滅亡への向かう。

皇帝を継承した二世皇帝の胡亥が宮中へ引きこもり、趙高に実権を丸投げしてしまった。趙高の本当の役目は宮中全体を管理する責任者程度であったが、二世皇帝と朝廷を取り次ぐという名目で政治を動かした。

趙高は始皇帝の政策を継続しようとしたが、臣下を動かす能力を含めて全国を統治する能力を欠いていた。

また図解にあるように、始皇帝の治世に急ピッチで進められた幾つもの大事業のために、臣民ともに疲弊していた。さらには、戦争に対する秦への恨みはまだ地方に残っていた。

これらのストレスは、有名な陳勝呉広の乱により爆発して各地で反乱が始まった。これらの反乱の中に項羽と劉邦がいる。

最後は帝国軍の主要な将軍が項羽軍に投降して、事実上 秦帝国は破綻した。三代目となる子嬰は、皇帝を名乗らず秦王として劉邦軍に投降した *3

本当にあっけない滅亡だったが、これによって始皇帝の有能さが証明されたといえるかもしれない。ただし、「二世、三世、万世と伝えていく」と言った割りには次代については考え無しだったようだ。



*1:ただし隠されて難を逃れた書物が近年に発掘された例が幾つかあるようだ

*2:ただし、始皇帝が行った政治の大部分は戦国時代に有ったものだ。郡県制も戦国後期には有る

*3:三代目を継ぐ頃には支配力は都の周辺にしか及ばなかった

秦代⑬:始皇帝の死から秦帝国滅亡へ

前210年、始皇帝は第5回の巡行の途中で死去する。これをきっかけに強大な新帝国は わずか3年で崩壊する。

この記事では、政権の内部崩壊のことを書く。項羽劉邦の反乱側については別の記事で書く。

二世皇帝・胡亥と権力者・趙高

皇太子がいない状態で皇帝が死んだので、当然のごとく後継者争いが起こった。長子・扶蘇と末子・胡亥の間で争われたが、胡亥の勝利に終わり、扶蘇は殺された。

胡亥が皇帝の座に就いた時の年齢は12歳と20歳と2つの説があるが、いずれにせよ胡亥は宮中に引きこもって政治のことは趙高に丸投げしてしまった。

趙高とはどういう人物か?長い間 宦官 *1 として始皇帝の側に仕えていた人物。中車府令に就いていたのだが、この役職は始皇帝が宮中を離れる時は常に車に同乗して仕えることが任務だった。この任務の他に趙高は胡亥の教育係も命じられていたので、始皇帝の信頼の厚さがうかがえる。

始皇帝亡き後、胡亥が頼れる人物は趙高しかいなかった。趙高は郎中令(宮中を職務いっさいを管理する役職)となって、引きこもった胡亥と李斯ら閣僚との間を取り次いだ。

こうして趙高が胡亥に代わって宮中から政治を行う体制が出来上がった。

年表

ここから年表を書いていく。わずか3年だが、ある程度詳しく分かっている。ソースは鶴間和幸『人間・始皇帝』の「始皇帝関係年表」。年度が10月から始まることに注意。

前210年後9月(閏9月) 始皇帝の喪を発表し、胡亥が皇帝に即位(二世皇帝)。
前209年10月 趙高が郎中令に就く。
同年10月 始皇帝の寝廟に備える犠牲と山川祭祀の礼の供え物を増やす。
同年春 二世皇帝、全国を巡行を実施。
同年春 二世皇帝、大臣の蒙毅を殺し、蒙恬を服毒自殺させ、さらに始皇帝の公子12人を咸陽の市場で殺し、10人の公主(始皇帝の娘)を杜県で身体を裂いて処刑する(李斯列伝)。秦始皇本紀では、6人の公子を杜県で殺したという。
同年4月 始皇帝陵の墳墓の土を盛る工事が終わったので、阿房宮の工事を再開させる。
同年7月 陳勝呉広の乱、起こる。民衆の支持を集めるために陳勝扶蘇呉広は項燕(旧楚の英雄)を名乗った。張楚を建国し、陳勝が国王となる。
同年9月 項梁と項羽劉邦がそれぞれ反乱を起こす。
前208年冬 陳勝軍が始皇帝稜の近くまで進軍する。この時の兵数は数十万人まで膨れ上がった。秦の将軍・章邯は始皇帝稜で働いていた囚人を群に編入して防戦した。ここでようやく秦軍が反転攻勢し、陳勝軍は後退し続けた。
同年12月 陳勝が殺され、張楚国は滅亡。だが、各地で反乱軍が次々と立ち上がり、秦軍は再び防戦を強いられた。
(12月から7月の間) 丞相李斯・馮去疾(秦の丞相は二人体制)と将軍馮劫が二世皇帝に阿房宮の工事を中止などを訴えたが、聞き入れられず。馮去疾・馮劫は諫言したことを罪とされて、自殺に追い込まれる。
前207年冬 李斯の長男で三川郡守の李由が生前楚軍と内通していたという罪(濡れ衣)で処刑される。趙高が丞相に就く。
同年1月 鉅鹿の戦いにおいて、秦将王離が項羽の捕虜となり、秦将蘇角は殺され、同じく秦将の渉間は焼身自殺した。
同年4月 秦将章邯、連戦連敗の状況で中央に援軍を要請するも拒否される。 同年7月 秦将章邯・司馬欣・董翳が項羽に投降。秦帝国の崩壊は決定的となる。
同年8月 趙高、二世皇帝を自殺に追い込む。
同年9月 二世皇帝の兄の子の子嬰が秦王となる(趙高が全国を統治できない現状に合わせて、皇帝ではなく秦王を名乗るようにした)。
同年9月 秦王子嬰、趙高を刺殺。
前206年10月 子嬰、進軍してきた劉邦に投降。秦帝国滅亡。

趙高の評価

以上のように、秦帝国を滅亡させた張本人は趙高だった。二世皇帝胡亥に丸投げされた形で実権を握った趙高は公子・公主を殺し、閣僚を殺し、将軍たちには敵軍に投降された。

他人を従わせる能力も勢力も持ち合わせていなかった趙高は粛清の恐怖で従わせようとしたが、統治能力の無い彼に諫言をしただけで殺されてしまうのだから国が凋落したのは当然のことだ。

また、陳勝呉広の乱は「秦の法ではいかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首である」という法律が原因で起こったというから、趙高は閣僚から農民まで容赦が無かったということになる。

始皇帝の中華統一やその後の治世に恨みを抱いていた人々は多く存在したとは思うが、始皇帝を継承した趙高の政治はこの不満にさらなる不満を上乗せした挙げ句に爆発させた。地方の反乱に対応する閣僚まで殺してしまい、挙句の果てには自身も殺された。



*1:鶴間和幸『人間・始皇帝』(p203)によれば、秦代の宦官は「宦者」と呼ばれていた。宦官が去勢された男子に限定されたのは後漢以降のことなので、趙高が去勢された宦官(宦者)であると断定はできない。

秦代⑫:外征 後編(南方編)

前回に続いて、今回は南方の外征について書く。

史記』始皇本紀には、始皇33年(前214年、オルドス攻略の翌年)に嶺南(旧楚の領域の南)を占領して3つの郡を置いたと書いているのみだ。

しかし、下記に記すように、嶺南攻略には運河の建設も含まれるので、外征開始から占領まで1年の内で終わる話ではない。時系列は諸説ある。

嶺南の位置

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出典:鶴間和幸/人間・始皇帝岩波新書/2015/p96

南部の斜線が攻略地。南海(郡)、桂林(郡)の北には南嶺山脈五嶺山脈)があり、旧楚との境界となっていた。嶺南には現在のベトナムの北部も含まれる。

南方攻略の目的

目的は南方ルートの確保だ。

南方からは象牙や犀角、カワセミ羽、真珠、翡翠など秦帝国内には無い物産が輸入されていた。このルートを確保すれば、莫大な利益(の一部)が始皇帝の懐に入るというわけだ。

また、長江以南の領域は旧楚の領域も含め、人口が極めて少ない未開拓地であったので、ここに北方の人々を強制移住させて開拓しようと目論(もくろ)んだ。

攻略の経過

経過についての出典は『淮南子』人間訓に求められるようだ *1。 尉(軍司令官)屠睢率いる50万人の大軍を5隊に分けて南下させたという話はこれが出典だ。

下のリンク先に該当する文章と訳が書かれていた。

[mixi]『淮南子』人間訓 20 - 中国史 | mixiコミュニティ

これによると、秦軍は運河を建設して兵站を確保しながら順調に攻略していったが、越軍が山間部に逃れてゲリラ戦を展開し始めてから苦戦するようになった。そして ついに軍司令官の屠睢の戦死という事態に至った。

ちなみに、《三年不解甲弛弩(三年間甲冑を解かず、いしゆみの弦を緩めることはなかった》とあるので、これを信じれば、前214年の3年以上前には攻略が開始されていたことになる。

さて、南方攻略の話の続きをする前に、ここで運河建設の話をしておこう。

霊渠の建設

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出典:人間・始皇帝/p142

  • 小さくて分かりにくいが九疑山の左。

霊渠とは運河のこと。「渠」は溝の意味を持ち、運河を表す。「霊」は運河の北の地名「零陵」から取ったとされる。

この運河は湘江の上流と、漓江の上流を結ぶ。2つの川は五嶺山脈(南嶺山脈)を分水嶺として前者が北に、後者が南に流れる。湘江は長江に接続、漓江は西江に接続する。西江は珠江水系の一部であり現代の香港のある河口に至る。

つまり、この2つの川を運河でつなげれば、長江から船で兵站を運搬することが可能になる。戦後は商用ルートになっただろうが、現在では灌漑施設になっているそうだ (霊渠 - Wikipedia )。

この運河は現存し全長約33km。川には高度差があったが、川を堰き止めて水位を上昇させる技術は秦代以前に既に有った。

南方攻略とその後

さて、攻略に話を戻す。といっても攻略の話は少しだけ。

戦死した屠睢の代わりに新たに任囂を尉(司令官)に任命して進軍した。戦闘の詳細は分からないが秦軍の勝利となり、嶺南は秦帝国支配下に入った。そして『史記』に書いてある前214年に南海郡、桂林郡、象郡の3郡が設置されるという話になる。

史記』の該当部分は
《三十三年,發諸嘗逋亡人、贅婿、賈人略取陸梁地,為桂林、象郡、南海,以適遣戍。》 *2 この訳は
《始皇33年(前214年)、逃亡した罪人、困窮のために売られて婿入りした者、商人を動員して嶺南地方を占領し、桂林、象(しょう)、南海の三郡を置き、罪人に守らせる。》 *3 *4

上にあるように、本土のあぶれ者たちを集めて軍を編成し、嶺南を占拠したら彼らをそのままそこに住まわせた。嶺南は高温多湿で、北方の黄河流域の乾燥した地域に住んでいた本土の民は伝染病に罹る可能性が高かったので、進んで住みたいという漢人はいなかっただろう。

少し話は逸れるが、長江以南と南嶺山脈の間の地域も人口が少なかった。古代中国は黄河中流域に人口が集中していて、この地域の人口が増加するようになるのは東晋代(後317年)からだ *5。 湿潤な気候も北方の民にとっては住みにくい場所だったようだ。

また、同じように台湾も伝染病のために中国本土の歴代政権は台湾に植民しようとは思わなかった。台湾の伝染病の問題を解決したのは日本統治以降のことだ。

話を戻す。

占領後、任囂は留め置かれ、南海郡尉(郡の軍司令官)に任命されたのだが、前210年に始皇帝が旅先で死んでしまってから事態が変わってゆく。

紀元前210年、始皇帝が病没し、二世皇帝が帝位を継承したが、紀元前209年その暴政に対し陳勝呉広の乱が発生し秦国内は混乱、やがて劉邦項羽による楚漢の抗争となり、中国全土は混乱状態に陥った。このような状況下にあった紀元前208年、南海郡尉の任囂が重病となると、龍川県令の趙佗が郡尉の職務を代行することとなった。程なくして任囂が病没すると、南海郡尉に就任した趙佗は南海郡内の軍隊に対し中原の反乱軍隊が進入するのを阻止する命令を発し、同時に秦が南海郡に派遣していた官僚を粛清して、新たに自らの腹心を官僚に登用した。紀元前206年に秦が滅亡した後、紀元前203年には桂林郡と象郡を併合し、南越国を建国し、「南越武王」を自称した。

出典:南越国 - Wikipedia

趙佗は任囂の副将として派遣された人物だが、南海郡のひとつ竜川県の県令となった。その後は引用の通り。南越国前漢武帝の代まで続いた。

先住民、百越について

百越とは、いわゆる漢族とは文化や言語系統が異なる南方民族の総称。単に越人とも。百越と呼ばれる諸民族は上の統一秦地図にある斜線部(嶺南)とその北東に位置する旧楚の領地に点在していた。人口は少ない。これら越人の中には国あるいはそれに準じる組織体を持つ民族がいた。それが閩越と東甌だが、このことは以下の記事に書いた。

百越は日本人の先祖の一部「弥生人」と関係があるとされているが、私はよくわかっていないので、ここでは書かない。



*1:淮南子』は劉邦の孫の劉安が編纂させたと言われている

*2:史記/卷006 - Wikisource

*3:人間・始皇帝/p255 参照

*4:「以適遣戍」。「適」は「謫」すなわち流刑を受けた罪人のこと。「戍」は国境を守ること。

*5:《PDF》中 国 に お け る 文 化 中 心 の 遷 移 - J-Stage www.jstage.jst.go.jp › article › chirikagaku › _pdf › -char

秦代⑪:外征 前編(北方編/オルドス/直道/万里の長城)

秦が中華統一を達成してから6年目の前215年に対外戦争が始まった。中華統一した時は36の郡であったが、対外戦争の結果10増の48郡になった。

今回は北方の外征について書く。

結果

先に結果を書いておく。

前215年、始皇帝蒙恬将軍に30万の兵を与えて北方の匈奴を討伐を命じ、オルドス地方(後述)を占拠した。その後、北方防衛のために、同じく蒙恬将軍に万里の長城と直道(後述)の建設を命じた。

目的

キーワードは2つ。

1つ目は、頭曼単于の存在。

始皇帝と同時代の匈奴では頭曼単于(?-前209)という強いリーダーが登場していた。頭曼(チュメン)とは匈奴のことばで万人の長の意味であり、単于とは広大な天を表す。

出典:鶴間和幸/人間・始皇帝岩波新書/2015/p132

頭曼単于は、冒頓単于の父。冒頓単于前漢の高祖(劉邦)を打ち負かして北アジアに大勢力を張った傑物。

頭曼単于の時代の北方地域では匈奴以外にも幾つかの勢力がいたようだが、その中でも匈奴は、秦が警戒しなければならないほどの大勢力になっていたようだ。そのことは将軍・蒙恬に30万の兵を持たせたことや長城を築いたことでも分かる *1

頭曼単于のようなリーダーが誕生したのは、始皇帝による中華統一に呼応した事態だと考えられる。

遊牧民の生業は遊牧と交易と略奪だ。小さな邑・都市を襲うのなら大軍は必要ないが、統一体となった秦帝国に小規模な勢力で略奪を働いたら、絶滅を覚悟しなければならない。そういうわけで、遊牧民側も大軍を編成して挑まなくてはいけなくなった。ただし、匈奴が他の民族を従えて統一体になるのは冒頓単于の代になってからだ。

2つ目のキーワードはオルドス。

オルドス地方とは、中国・内モンゴル自治区南部の黄河屈曲部で、西・北・東を黄河に、南を万里の長城に囲まれた地方。[中略]

オルドスという地名は、明代以降この地に住み着いたモンゴル人の部族「オルドス部」に由来する。

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内モンゴル自治区におけるオルドス地方の位置。

出典:オルドス地方 - Wikipedia

オルドスは今でこそモウス沙漠やフッチ沙漠が広がっているが、当時は豊かな草原地帯であり、匈奴と秦との争奪地であった。秦は軍馬を放牧する牧場の地として占拠したかったのだ。

出典:鶴間和幸/中国03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004/p73(下線は引用者)

ただし、やはりオルドス占拠の第一の目的は安全保障の為だと思われる。

そのように言える根拠は「直道」だ。

直道

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出典:【6月12日配信】皇帝たちの中国 第2回「皇帝は中国最大の資本家」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube

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出典:(PDF)黄暁芬/甦る、東洋最古のハイウェー - 山口県大学共同リポジトリ

  • ↑の地図の真ん中の志丹の上あたりに東西に長城が走る。

この直道は首都・咸陽の北の郊外・雲陽に発してオルドス高原の北限の九原まで延びる。その距離1800里(約700km)、軍馬で走れば数日の距離。道幅は平均約30m、最大で50m。オルドスに敵が現れたら咸陽に配置している部隊をすぐさま出動できる態勢を作った。 *2

上の地図を見れば分かるようにオルドスは咸陽とそう遠くない。この遊牧民の垂涎の「豊かな草原地帯」に匈奴の本拠地が置かれたら堪らない。それに長城があれば安全保障面は万事解決といかないことは、前漢の高祖が匈奴冒頓単于に毎年貢ぎ物を贈っていたことからも分かるだろう。

直道と長城の建設の責任者は蒙恬将軍だった。建設に携わっていた人々は当然のことながら防衛隊も兼ねている。

万里の長城

蒙恬が建設にあたったと言われている万里の長城始皇帝が作ったとも言われる。これには幾つもの注意書きが必要になる。

1つ目。現存の万里の長城始皇帝の時代に作られたものではなく、明代に作られた。明代に建設(修復)された長城は秦代のものよりも南下している。

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出典:万里の長城 - Wikipedia

2つ目。蒙恬が建設したのはオルドス地方だけで、その西側は秦、趙、燕の長城につなげたものである。

3つ目。秦代の長城と現存の長城は見た目も違う。秦代のものは版築を用いた土の壁と、石を積み重ねたものがある。鶴間氏によれば、高さ4m、幅4m*3。現存する長城のイメージ(長城の上に通り道がある)とはかなり違う。

外征のきっかけ

話が前後するが、外征のきっかけについて。

始皇32(前215)年第四回の巡行で、始皇帝ははじめて北辺を回り、上郡から咸陽に戻った。匈奴の動きをみずから察知して、匈奴を攻撃するきっかけを得ようとしたと思われる。もちろん丞相李斯を置いてこのようなことを仕掛ける人間はいなかった。その意を受けたかのように、燕人廬生が『録図書』を奏上した。そこには「秦を滅ぼす者は胡なり」とあった。図書とは河図洛書のことで、河水と洛水から現れた予言書を意味する。のちの後漢儒者の鄭玄(じょうげん)は、胡は二世皇帝胡亥のことであり、秦は人名であることをしらずに北方の胡に備えたと深読みをした。しかし胡とは単純に匈奴のことであり、李斯は匈奴を攻撃する正当な理由を予言書に求めたのである。すぐさま始皇帝蒙恬将軍に30万の兵を発動させて胡(匈奴)を攻撃し、河南の地を奪うことになる。

出典:人間・始皇帝/p133-134

こういったインチキは中国史では よく見られるが、他の地域も探せばたくさん出てくるのだろう。



*1:「30万」と言う数字は嘘かもしれないが、30万=大軍と解釈すればいい

*2:人間・始皇帝/p137-139

*3:人間・始皇帝

秦代⑩:「朝廷」「朝礼」「朝貢」「冊封」

「朝廷」「朝礼」「朝貢」は秦代で始まったことではないが、これらは秦代から始まる中華帝国のシステムの一部、ということで ここで紹介する。

ネタ元は岡田英弘宮脇淳子両氏 *1。 以下は主要なもの。youtube動画を視聴すれば理解できてしまうと思うが、そこで話されていないことも書く。

「朝廷」「朝礼」の起源の話

「朝廷」「朝礼」「朝貢」がどの時代に始まったか詳しくは分からないが、宮脇氏によれば「都市=国であったころ」、つまり都市国家の時代に始まった。

余談だが、中国史において殷周時代は封建制(邑制国家、都市国家連合体制)で、領域国家に変わるのは戦国時代に入ってからと言われている。ただし春秋時代の半ばでも晋のような大国が周辺の小国を併呑していた。

さて、「朝廷」「朝礼」の話に戻す。

「朝礼」というと、学校で朝、生徒がグランドに集まって「礼!」をして、校長先生や教頭先生が話をするようなイメージでしょうか。しかし、元来は市場の開始前に行なわれるものでした。「皇帝は最大の資本家」といいましたが、皇帝はもともと市場の一番偉い人、商売を仕切る人でした。

都市の真ん中に役所があり、その前に大きな広場、庭がある。それが「朝廷」です。「朝廷」の「廷」は本来「庭」という意味なのです。そこで、市場開始の日の出前、暗い時分に全員で集まり、整列して、神様にお礼の儀式をします。それが「朝礼」です。その後、朝廷の北側にある市場で取引きが開始されます。

出典:【皇帝たちの中国史1】中国・皇帝とは何か~シナ文明と始皇帝|歴史チャンネル

これが初期の「朝廷」「朝礼」のイメージ。都市国家の長は皇帝ではなく王または諸侯。

朝礼で示される序列

「朝礼」では、皇帝直属の臣下が位に従って並びます。そのときに、「人」が「立」つ場所が「位」です。「位」という漢字は、形のとおりの意味で、一位、二位、三位というのは、本当に一、二、三……と並ぶ位置のことだったのです。「正」と「従」があり、「正一位」が最も高く、以下「従一位」「正二位」「従二位」……「正九位」「従九位」と続きます。

皇帝の一番近くに立つ人が、最も上位の人、大臣です。

出典:宮脇淳子/【皇帝たちの中国史1】中国・皇帝とは何か~シナ文明と始皇帝|歴史チャンネル

日本の朝廷もこれに倣って作られた。

下は紫禁城故宮博物館の太和殿)

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出典:【6月19日配信】皇帝たちの中国 第3回「朝貢の真実」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube

朝貢の実態

朝貢」とは、以上で説明した朝礼の場に中央政府の外部から来た者が貢ぎ物を持って参加することを言う。朝貢は国外だけではなく、国内の地方の者の参列も含む。

この朝貢は皇帝(または王、諸侯)たちにとって重要な場だった。

どのように重要だったのかを説明する前に、中国人の特性を示さなくてはならない。

一つ目。

中国人は、ひとりずつ見ると、一匹の竜のようだ。中国人はひとりなら、その場所が、研究室にしろ、試験場にしろ、とにかく人間関係を必要としない状況ならば、ひじょうにすばらしい仕事をすることができる。しかし、三人の中国人が一緒になると、つまり三匹の竜が一緒になると、たちまち一匹の豚、いや一匹の虫、いや一匹の虫にさえも及ばなくなる。なぜなら中国人のもっとも得意なのは、派閥争いと内ゲバなのだから……

出典:岡田英弘/この厄介な国、中国/ワック/2001 (『妻も敵なり』(1997/クレスト社)を改訂したもの)/p96(ただし、この文章は柏楊『醜い中国人』からの引用)

上の文章の前段として「日本人は、ひとりずつ見ると、まるで一匹の豚のようだ。しかし、三人の日本人が一緒になると、まさに一匹の竜になる」とある(三人集まらないと一人の中国人に対抗できない)。

以上のようなことは中国人だけの特徴とは思えない。イスラエルでもイタリアでも韓国でも同じようなことがお国事情として語られる。要するに、日本の団結精神のほうが世界に比べて際立っていると考えたほうがいいかもしれない。

さて話を戻して2つ目。

中国人は人的ネットワークを重要視する。外部の都市の人間と婚姻関係を結ぶことによって より強いネットワークを築いた。そして、より多くの、より遠くのネットワークを持っている人物は尊敬された。

これも中国だけの話ではないが、日本とは比べ物にならないくらい弱肉強食な中国ではネットワークの多寡は一人の人物の価値に大きく影響したのだろう。そして現代も同じ。

2つの特性を頭に入れた後に以下の引用を読んでみよう。

「朝廷」で、遠方の国からやってきたエキゾチックな服装の人々が、皇帝に珍しい品物を献上する。それは、多くの人が居並ぶ中で、皇帝の権威を高める演出として効果的です。訪問者の国が遠ければ遠いほど、立派な大国であればあるほど、持参する品物が珍しければ珍しいほどいいのです。

皇帝にとっても、ウエルカムなわけで、どんどん朝貢に来てほしい。ですから、顎足つき(あごあしつき=交通費・食事つき)なのです。一歩でもシナに入ったら、もう食べ物・飲み物、宿泊費用まで、全部、シナ側が持ってくれるというのが普通です。費用だけでなく、ふさわしい身なりをはじめ一挙手一投足を教えてくれます。

出典:宮脇氏

朝貢は皇帝自身のネットワークの広さを臣下たちに示すデモンストレーションだった。これにより臣下たちは皇帝に偉大さを感じて平伏するというわけだ。

皇帝が朝礼に参列している臣下に向かって言いたいことは「お前たちはどう思っているかしらないけれど、外部の人間はわしを最高権力者と認めておるんだぞ」 *2

もちろん それはフィクションなのだが、中国ではこのような茶番が連綿と続けられて現在も同じようなことをやっているそうだ。

朝貢する側の話

朝貢する側も、強制されてイヤイヤ行っていたわけではありません。古い時代には日本の北九州あたりの豪族が、シナ皇帝の出先機関の役人のいわれるままに朝貢したでしょう。行けば、返礼として、持参した以上のお宝がもらえます。そんな話を伝え聞いた人は「俺も行こう」と思ったでしょう。そうやって付き合いが始まり、広がっていったのです。

出典:宮脇氏

朝貢をした人物たちは上にあるように貢ぎ物以上の返礼も大変魅力なわけだが、それだけではなかった。彼らは国に帰って原住民に「返礼」を見せて、皇帝とのネットワークを持っていることを自慢できる。前近代の中国は東アジアの国々にとって比類なき大国であったので中国皇帝とつながっている人物はそれだけで重要視される。これは現代日本でも同様で、日本の総理大臣の価値のバロメーターの一つに米大統領との親密度がある。

ここで、引用にある「日本の北九州あたりの豪族」に関連した話をひとつ。これは漢委奴国王印をもらった博多港にいた豪族の酋長の話。

後漢光武帝博多港にいた豪族に金印を渡して倭の国王に仕立て上げた。当時(西暦57年)の日本は都市すら無い時代だったので、王と言っても名ばかりの酋長だったが、彼を中国商人の保護と交渉の窓口を委託した。

そしてこの王は日本列島(と言っても西日本の一部だが)における中国貿易の利権を独占した。倭人の諸勢力は貿易の旨味にあずかるために、王に冥加金を渡さなくてはならなかった。こうして王は皇帝からの返礼のみならず、日本の他地域からの冥加金を貰える利権を手にした。このようにして日本は経済が系列化して、これが日本の政治を作り上げていった。(岡田英弘/日本史の誕生/弓立社/1994/p56)

このようなことは邪馬台国卑弥呼も同様だ(長くなるのでここでは書かない)。

朝貢冊封の関係

冊封の話はおそらく秦代とは関係無い話だが、朝貢と関連が深い言葉なのでここで書く。

冊封とは、中国の皇帝が、その一族、功臣もしくは周辺諸国の君主に、王、侯などの爵位を与えて、これを藩国とすることである。冊封の冊とはその際に金印とともに与えられる冊命書、すなわち任命書のことであり、封とは藩国とすること、すなわち封建することである。

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/冊封体制(さくほうたいせい)とは - コトバンク

  • 上の引用のネタ元は『西嶋定生著「六~八世紀の東アジア」(『岩波講座 日本歴史2』所収・1962・岩波書店)』
  • 「藩国」とは従属国のこと。
  • 起源については「国内で郡国制が採用された漢代初期から朝鮮、南越を対象として発生する」とある。

さて、朝貢冊封の関係について。

冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもあるが、その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることができる。

ただし、これら冊封国の義務は多くが理念的なものであり、これを逐一遵守する方がむしろ例外である。例えば、朝貢の頻度は、冊封国側の事情によってこれが左右される傾向が見られる。 正朔についても、中国向けの外交文書ではこれを遵守するが、国内向けには独自の年号・暦を使うことが多い。またこれら冊封国の違約については、中国王朝側もその他に実利的な理由がない限りは、これをわざわざ咎めるようなことをしないのが通例であった。

出典:冊封 - Wikipedia

朝貢」は貢ぎ物を差し出して返礼を受ける一連の行為。「冊封」は形式的な主従関係を結ぶ行為、と覚えればいいだろう。

上で触れた「委奴国王」は冊封されたということになる。しかし「委奴国」自体が国家というレベルに達しているかどうかすら疑問であるので、上のような義務を果たしたと考えるほうが間違っているように思う。

なお、西嶋定生氏が作った「冊封体制」という言葉についてはここでは書かない。



*1:岡田英弘宮脇淳子両氏は夫婦で、岡田氏は宮脇氏の師匠

*2:『この厄介な国、中国』p98を参照

秦代⑨:政策(9) 全国巡幸 後編(泰山封禅と始皇七刻石)

前回からの続き。

泰山封禅と始皇七刻石は、全国巡幸の一部として行われた。そういうわけで、この2つも秦の皇帝が天下の支配者であることを万民に知らしめるための行為だ。

泰山封禅

封禅とは?

中国古代に天子の行った天と地の祭り。山上に土壇をつくって天を祭り、山の下で地を祓(はら)い清めて山川を祭った。

出典:小学館デジタル大辞泉/封禅(ほうぜん)とは - コトバンク

封禅は自然神祭祀の一環。馬彪氏によれば *1 、周王たちは諸侯を引き連れて泰山で自然神祭祀を行った。(泰山については後述)

封禅を行うことは天下を支配する君主(王・皇帝)の特権であり、場所は泰山に限られていたようだ。それと同時にこれを行うことで、天下の支配者の継承することを天界と地上界に表明することを意味する。

鶴間和幸氏によれば *2始皇帝は封禅の正式なやり方を知ることができず、秦で行っていた天を祭るやり方を採用した。その方式も記録されなかったので後世には遺っていない。

史記』封禅書の斉桓公管仲の逸話

史記』には「封禅書」という巻がある。藤田勝久氏によれば *3司馬遷の父である司馬談前漢武帝の巡幸に随行した際に情報収集をしたものが書かれている。

封禅書には春秋斉の桓公管仲の逸話が書かれている。この逸話が作り話だとしても、後世の人々はこれを信じた。始皇帝司馬談司馬遷よりも前の時代の人間だが。

覇者となった桓公が封禅を行おうとしたところ、管仲がそれをたしなめた。

管仲曰く、

  • 有史以来,封禅を行った帝王は72人(そのうち管仲の記憶するところで12人)
  • 天命を受けたうえで封禅は行われる
  • 封禅を行うためには祥瑞(しようずい)の出現が必要である

このように列挙して、桓公に対して「資格があるとお思いでしょうか?」と問い詰めた。桓公は引き下がらざるを得なかった、というのが逸話の中身。

桓公が封禅を行おうとしたのは自らが天下の支配者だと言いたいが為であったが、管仲は分不相応な行為が後の不幸をもたらすことをよく知っていた。

以上のように、管仲桓公を諌めるために語ったことだが、封禅に関する上の内容は、後世では事実として語り継がれた。

泰山

ここで天下の祭祀がどうして泰山なのかという話を書く。

まずは場所から。

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出典:泰山 - Wikipedia

東方大平原の中央にある山東丘陵は平均500メートルほどの高さしかない。西高東低という中国の地形では、西方には数千メートル級の山々はいくらでもある。天により近づこうと思えば、そうした山に登ればよい。しかしあえてそうしなかったのは、東低の黄河下流の大平原の中央に鎮座する山東丘陵に、当時の人が畏怖を感じたからであった。大河の黄河でさえも山東丘陵を南北に避けるようにして東の海に注ぐ。こうした泰山の立地によって1524メートルという高さ以上の威容を感ずる。

出典:鶴間和幸/人間・始皇帝岩波新書/2015/p113-114

泰山は始皇帝よりも前の時代から信仰の対象とされていた。後世の宗教にも少なからず影響を与えている。

以上のような信仰を支配することは、泰山封禅の目的の一つであっただろう。

始皇七刻石

始皇七刻石とは、秦の初代皇帝・始皇帝が権力誇示のために国内6ヶ所に建てた、秦及び始皇帝の徳を讃える7基の顕彰碑の総称。

始皇帝の側近であった李斯の筆と言われるが定かではない。秦の公式書体である篆書体で刻まれ、篆書体の数少ない書蹟として知られる。

出典:始皇七刻石 - Wikipedia

  • 「始皇七刻石」という呼び方はwikipediaに倣ったもので、特に定まった呼び方があるわけではないようだ。
  • 現代にはこのうちの2基の一部が遺っており、篆書体の数少ない書蹟として書道方面からも注目されている。

引用にあるように始皇帝の業績を讃えた内容になっている。

場所については、鶴間氏によれば *4、 東方の山川祭祀の重要な場所に建てられている。

人民の支配と同時に、「私が地上の支配者です」と、天界へのアピールであったのかもしれない。



秦代⑧:政策(8) 全国巡幸 前編(巡幸の意義)

今回は始皇帝の全国巡幸について。

「巡幸」:言葉の意味

巡幸
(「幸」は天子が出る意) 天子の巡回。天皇が各地をまわること。

出典:精選版 日本国語大辞典/巡幸(ジュンコウ)とは - コトバンク

日本では「天皇が~」だが、中国では皇帝あるいは先秦の王たちが各地をまわること、という意味になる。巡幸は巡行とも巡狩(じゅんしゅ)とも書く。同じ意味。

殷周の巡幸

巡幸は殷周代でも行われていた。殷代の甲骨文(亀甲や骨に書かれた文)や周代の金文(青銅器に書かれた文)で確認されている。

馬彪氏によれば *1 、殷王の巡幸の目的の一例として、征服地の神を支配することが挙げられる。周王の巡幸の目的の一例として自然神祭祀がある。『史記』封禅書に「天子は天下の名山大川を祭る」とある。周王は諸侯を引き連れて泰山で自然神祭祀を行った。(泰山については後述)

さらに馬彪氏によれば*2、古代君主は天上に存在する祖先の霊や自然万物の霊を祭る義務があると信じ、これと同時に地上の民の君主であり、「天」と「人(民)」の間にある特別な存在だと自らを位置づけていた。このため、天(霊)を祭ることは大事な政事であった。

始皇帝の全国巡幸

始皇帝の巡幸の目的を一言でいうと、万民に天下の支配を認めさせるための行動、となる。

庶民に対しては、大勢の行列と威勢を見せつけて畏敬の念を抱かせる目的。インテリ層(貴族たち)に向けては、上のような殷周の伝統を継承する意を示すことによって服従させようとした。

中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)は[95]いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる[96]。

しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された。

出典:始皇帝#天下巡遊 - Wikipedia

  • 順路については引用先に書いてある。

第一回は秦の本拠地の周辺を巡っただけなので、祖霊を祀る巡幸。第二回以降は周王室の慣例に倣って自然神への祭祀を行った。

自然神祭祀のうちで一番大事な泰山封禅と、有名な始皇七刻石については次回の記事で書く。

ちなみに6国の王たちが祀っていた社稷(「社」は土地神、「稷」は穀物神)は破壊した。中国の国の滅亡は王室の断絶ではなく、社稷を亡きものにすることによって滅亡とする *3

また、山東半島または渤海湾に何度も訪れたのは、馬彪氏によれば、始皇帝が「蓬莱神話」に執心していたからだという。「蓬莱神話」とはどういうものか?

蓬莱山
中国古代の戦国時代(前5~前3世紀)、燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし)(神仙術を行う人)によって説かれた神仙境の一つ。普通、渤海(ぼっかい)湾中にあるといわれる蓬莱山、方丈(ほうじょう)山、瀛洲(えいしゅう)山の三山(島)を三神山と総称し、ここに仙人が住み、不老不死の神薬があると信じられた。この薬を手に入れようとして、燕、斉の諸王は海上にこの神山を探させ、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が方士の徐福(じょふく)を遣わしたことは有名。三神山中で蓬莱山だけが名高いのはかなり古くから[以下略]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/蓬莱山(ほうらいさん)とは - コトバンク

蓬莱山
中国,古代における想像上の神山。三神山 (蓬莱,方丈,瀛〈えい〉洲) の一つ。山東地方の東海中にあり,仙人が住み,不死の薬をつくっており,宮殿は金玉,白色の鳥獣がおり,玉の木が生えているとされた。しかし,遠く望めば雲のようであり,近づけばどこへか去って,常人にはいたりえないところという。前4世紀頃から盛んにいわれるようになり,神仙思想の原型となった。[以下略]

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/蓬莱山(ほうらいさん)とは - コトバンク

山東省北部にある蓬莱市では島の蜃気楼が見えるという。実際の島の上に逆転した島が乗るような形で見えるという *4。 この現象が下地となって「蓬莱神話」または神仙にまつわる文化が生まれたとされている。

始皇帝は不老不死の薬を求めて山東半島または渤海湾へ訪れ、現地の方士たちに会っていろいろと話を聞いた *5

「蓬莱神話」を追い求める始皇帝と方士たちの揉め事が焚書坑儒の坑儒に関係するのだが、その話は以下の記事に書いた。

あらためて巡幸の重要性について

既に巡幸の重要性について書いたが、最後に引用を書き留めておく。

古代における君主が祭祀を行うのは自らの権威を示すための重要な手段であり、天子は天神と人民のバランスをとる中軸である役割を持つのである。皇帝の巡幸というのは、必ずしも君主の個人的な趣味ではなく、それは国家の政治行為という意味を持つ。

出典:馬彪氏

始皇帝やその臣下の思いつきで行われたのではなく、殷周の伝統やそれ以前の堯舜の神話(戦国時代に創作されたもの)に基づいて、国家を継承する意を表す重要な政治行為だった。




自然神祭祀のうちで一番大事な泰山封禅と、有名な始皇七刻石については次回の記事で書く。


*1:(PDF)馬彪/古代中国帝王の巡幸と禁苑

*2:同上

*3:鶴間和幸/人間・始皇帝岩波新書/2015/p92

*4:鶴間和幸/中国03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004/p83-84

*5:鶴間氏/同書/p83