歴史の世界

兵家(5)孫子(他者・他書との比較 -- 対クラウゼヴィッツ『戦争論』篇)

記事タイトルどおり、他者(他書)との比較について書く。

他と比べて、『孫子』がどのようなものなのか、イメージだけでも分かればいいかと思って書いてみた。

戦争論〈上〉 (中公文庫)

戦争論〈上〉 (中公文庫)

孫子クラウゼヴィッツ

守屋淳氏の見解

news.livedoor.com

孫子が歴史上もっとも偉大な戦争思想家であり、おそらく孫子を除けばクラウゼヴィッツが依然として西側世界の知的伝統においてもっとも偉大な戦争理論家である>(『クラウゼヴィッツと「戦争論」』マーチン・クレフェルト著、清水多吉、石津朋之編、彩流社

しかし、『孫子』と『戦争論』では、その記述に大きな食い違いがあります。なぜ、そもそも同じ戦争という事象を扱っているはずなのに、食い違いが出てしまうのか――。

出典:古典「戦争論」と「孫子」の決定的な違い - ライブドアニュース

(以下の引用も守屋氏)

守屋淳氏はその違いを3つ挙げている。

1つ目。

クラウゼヴィッツの場合、「プラトンイデア」「中世の一神教の神」「仮説検証による法則」といった発想の流れを汲み、
「本質重視」
という考え方が根底にありました。対象の普遍的な「本質」をまずは見つけることが、そのものの何よりの理解になる、と考えるわけです。[中略]
一方で、『孫子』には、西欧的な意味での本質重視という考え方がありません。

ここでは、現代に残る『孫子』13篇は、魏の曹操武帝)が分類しまとめ上げたもの(『魏武注孫子』)である(孫子 (書物) - Wikipedia )ことを断っておく必要があるだろう。曹操は戦争の実戦に不必要な部分を削ってしまった可能性も無くはない。

またクラウゼヴィッツに上のような背景があるように、孫子孫武)にも時代背景がある。

守屋氏が「音階の基本は、宮、商、角、徴、羽の五つにすぎないが、その組み合わせの変化は無限である」という『孫子』兵勢篇を引用しているように、孫武の生きた春秋末期は諸子百家に代表される中国における思想・哲学の黎明期であった。「要素」などの発想はオリエント世界やインドから輸入されたのかもしれない。

『真説 孫子』の著者であるディレク・ユアン氏によれば、『孫子』は老子に影響を受けているという *1。パッと思いつくのは「兵に常勢無く、水に常形無し」(『孫子』虚実篇)と「道の道とすべきは、常の道に非ず」(『老子』第一章)。(ユアン氏はタオイズムにおける「陰陽」と『孫子』の関係について詳説していたが、まだ理解できていない。)

さて、守屋氏の2つ目。

「おのおのの寄って立つ環境による違い」です。
まずクラウゼヴィッツは、決闘の比喩や、戦争と平和の循環の指摘でも明らかなように、
「一対一で、やり直しが利く」
という条件から戦争や、その勝ち方を考えました。ですから、その勝ち方は条件の似ている将棋と近似します。一方で『孫子』は、
「ライバル多数で、やり直しが利かない」
という条件から戦争やその勝ち方を考えたのです。
この条件は、たとえばライバルが多く、栄枯盛衰の激しかったコンピューター業界にそのまま当てはまるものでした。このため、ビル・ゲイツをはじめとして、コンピューターやIT企業の大立者はほぼ例外なく『孫子』の影響を受けていたりもします。前提条件が同じなので、そこから出てくるノウハウが、自分たちの状況にそのまま当てはまってしまう面があるからです。

戦争論』は「戦争とは、他の手段もって継続する政治の延長である」という有名な文句にあるように『戦争論』でも政治についても言及されて入るが、クラウゼヴィッツ自身は生粋の軍人(将校)なので、戦闘の話の方が本筋だ。むしろ軍人が政治を論ずることを憚(はばか)っていたのかもしれない。(ただし、『戦争論』も(本人が死んでしまったため)未完成だったことを断っておく必要があるかもしれない。)

これに対して孫武の方は、将軍ではあるが場合によっては宰相にもなったかもしれない。春秋末期は内政と軍事の役職が未分化であったし、戦国時代に入っても呉起が楚で宰相になったように峻別はされていなかった。このような環境にあって、孫武は論ずるところを政治まで広げることは当然だった (現代でも軍人が政務を担っていることはよくあることだということはここでは無視する)。

ということで、クラウゼヴィッツは目の前の一個の敵を倒すことから話を始めているのに対して、孫武は最初から複数の敵(将来 敵になるかもしれない勢力も含む)の存在を前提として話を始めている。両者は似たようなことを言ってはいるが前提条件は全く違うことを知っておくことは重要だろう。

さて、3つ目。

孫子』には「戦わずして人の兵を屈す」という有名な言葉があります。よく、「戦わずして勝つ」とパラフレーズされますが、この言葉に象徴的なように、『孫子』は全般的に政治家目線が強い内容が特徴になっています。つまり、政治・外交的な立場からいえば、そもそも戦わないのも、上手い政略のうちなのです。

一方の『戦争論』は、クラウゼヴィッツが基本的に軍人だったこともあり、あくまで軍人目線。基本的に戦うことを、当たり前の前提にしている点に特徴があります。

これは上で書いたこと。2つ目と3つ目の順序を逆にすれば理解しやすかった。

マイケル・I・ハンデル氏、あるいは奥山真司氏の見解

以下はマイケル・I・ハンデル著『米陸軍戦略大学校テキスト 孫子クラウゼヴィッツ』の紹介をしている奥山氏のブロクからの引用。

この本は、孫子クラウゼヴィッツという洋の東西を代表するそれぞれの戦略思想家の理論を、それぞれの言葉を同じテーマにそって並べて比較・検討するというところにそのキモがあるわけですが、この比較から浮かび上がってくるのは、
孫子クラウゼヴィッツは、けっこう同じこと言ってたんだ」
という意外な結論。[中略]

私がこの本で一番重要だと思うのは、ハンデルがこの両者の理論を比較することによって、間接的に「戦略は普遍的なものである」ということを主張している点でしょうか。[中略]

ハンデルのこの研究の前提にあるのは、
戦略というものは、時代と場所を越えても変わらない
という保守的な考え方。

そしてこの考えはどこから来ているかというと、それは、
人間の本質は不変である
という確信から来ているわけです。そうなると、2000年前に書かれた本と、200年前に書かれた本も、どちらも「人間」の行為である「戦争」という現象を対象としている点では同じなわけですから、現代にもヒントになることがあるという前提があり、ここにわれわれが今でもこれらの古典を研究する価値があることになります。

ハッキリいえば両者(とくにクラウゼヴィッツ)の難解な言葉を読むのは多少抵抗のある人もいるかもしれませんが、比較することで浮かび上がってくる両者の違いと共通項、そしてその限界というのは、軍事・戦略・安全保障以外の分野にも応用できるきわめてすぐれたものばかり。

出典:孫子vsクラウゼヴィッツ : 地政学を英国で学んだ

  • この記事では、両者の際立った違いの一つとして情報(インテリジェンス)を挙げている。詳細はリンク先参照。

同種の本を読み比べると共通項が浮かび上がってくるのは当然といえば当然だが、上の例で言えば「孫子クラウゼヴィッツは、けっこう同じこと言ってたんだ」ということ。

ちなみに、戦略学者の奥山氏いわく《日本には「戦略」を体系的にしっかり学ぶ という姿勢・発想がありません。故に、クラウゼヴィッツの「戦争論」の理解が大変お粗末な状態となっています。》とのこと*2

最後に

孫子クラウゼヴィッツは、けっこう同じこと言ってたんだ」ということ。

これは軍人と政治家が全く同じ認識を持っているという錯覚を引き起こす可能性につながるだろう。

共通項が多いことの裏側には、軍人と政治家の間に異なった認識が存在していることも浮かび上がっている。

それがどのようなもので、その違いについてどのように対処すべきかも考えなければならないのだろう。



兵家(4)孫子(春秋時代末期から戦国時代の戦争へ)

まだ時代背景は続く。

しかし今回はいよいよ『孫子』の著者の孫武の登場。

春秋末期。孫武の戦争

春秋末期。中原の社会秩序は凝り固まったまま崩れていく過程にあった。

この時代に、孔子は新しい秩序を提示し、孫子孫武)は新しい戦争のやり方を提示した。どちらも時代の要求に答えた思想・書物だった。

前回の記事に春秋後半から戦争のやり方が変わり、新しい戦争の要素が現れ始めたことを引用した。以下はその続き。

このような新しい要素は、孫子自身がその計画の作成や実戦での指揮において大きな役割を果たした「柏挙(はくきょ)の戦い」(紀元前506年)で初めて見られたのだが、この戦いで孫子は自らが仕えていた呉の最大のライバル国であった楚に対し、8年間続いた戦争の最後に行われた迅速な軍事行動によって、劇的な勝利を収めている。この戦闘では陸軍と水上艦隊の両方が使われ、作戦全般としては機動や連続作戦によって構成され、呉軍の移動距離は2000里(周時代には1里が約415メートル)を越えており、楚の首都である郢(えい)に侵攻する前に、5回連続して戦っている。したがって孫子の「10万の軍を動員して、千里の遠くに出陣することになれば」(第13 用間篇)という記述は、実際はそれほどの誇張ではなかったのである。[中略] この戦いは、春秋時代の軍事作戦の頂点を示し、孫子の最も偉大な軍事面での成功を示したのだ。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p77

春秋後期の中で旧来の戦争の仕方が崩れ、試行錯誤して新しい要素が生まれ、その集大成が上の戦争で表現されたと考えてはどうだろうか?

この戦争以前にこれより完璧な戦争があったかどうかは知らないが、とりあえず、この戦争は新しい時代の戦争の完成形を示した。孫武の戦争の集大成に近いのではないだろうか。後世の戦争指揮者たちはこの戦争と孫武の兵書(『孫子』の原本)をお手本にしたことだろう。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

戦国時代の戦争

前回の記事で引用したように、戦争は長期化して暴力的に変化していった。その結果として消耗戦に突入するリスクが常に付きまとうことになる。

孫子が強調することの一つに、「最上の勝利は(謀略を張り巡らして)戦わずして勝つこと」(謀攻篇)というものがあるが、戦争の仕方が短期決戦から消耗戦へ変わってしまった初期に、孫子は「消耗戦をしていては、勝っても利益はないどころか損をする可能性が高い」ということを警告している。

以下は呉越戦争(孫子がした戦争)の前後の変化。

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呉越戦争を契機とする戦争形態の変化

出典:湯浅邦弘/諸子百家中公新書/2009/p214

戦国時代は「専制君主+富国強兵+国民皆兵」の時代に変わっていった。そして国の存亡を賭けて戦争を繰り返した。

前回に書いた通り将軍という職が現れ、将軍は徴兵された国民を使って「多彩な用兵・戦術」を展開した。

前5~4世紀から、遊牧民が中原の境界に現れる。前4世紀末より、秦・趙・燕は北方に進出して長城を構築する一方、趙武霊王は遊牧民の軍装である「胡服騎射」を採用した(中国史 上/昭和堂/2016/p56(吉本道雅氏の筆) )。

孫子』に書いてあるように、大規模な戦争が繰り返し行われた一方で、に外交交渉が行われていた。蘇秦張儀らの縦横家が有名。春秋時代と戦国時代の外交の違いは、戦国時代の外交官が専門職になり、王室・貴族に代わって蘇秦張儀のような一介の遊説家あがりの人物が中心になって時代を動かしていた。

おまけ:あぶみの話

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出典:浅野裕一/図解雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p231

話は逸れるが鐙(あぶみ)の話。上の絵にあるように戦国時代には鐙は存在していなかった。

「鐙」という漢字が表現しているように、この器具の起源は馬に登る際に使用したものだった。これが乗馬時に体を安定するものに変わっていった。

体を固定するための鐙の 世界史における出現時期については、「鐙 - Wikipedia」には西暦290~300年頃と書いてあるが、複数の説があるらしい。

鐙で体を固定できるということで馬上の戦闘が容易になる。鐙が無い場合でも幼少から乗馬に慣れ親しんた人々(特に遊牧民)はどうにかなったが、そうではない人は乗馬自体に苦労することになる。

鐙の発明の原因は農民国家の中国が遊牧民の騎馬兵に対抗するため、というのが先程のwikipediaに書いてあった。



兵家(3)孫子(春秋時代後期の戦争)

今回も時代背景の話。

戦争そのものの変化

新しい戦い方は、春秋時代後半に次第に広まってきた。ただしその原因や結果は、戦争の規模が拡大したことにあるのかは明確には言えない。いずれにせよ、当時の国々が行った改革のおかげで徴兵軍が一般化したのが、まさにこの時期に当たる。さらに言えば、戦場は河川の多い中国大陸の南部に広がってきたのであり、これによって艦船・水運システムが発展し、水上戦が当たり前のこととして行われるようになったのだ。同時に、軍が直面する地勢状況のおかげで、戦力の中心が戦闘馬車から歩兵へと移り変わってきた(ただし歩兵と戦闘馬車を含む共同作戦は続けられた)。軍事作戦の烈度が新たなレベルに到達すると、戦争はさらに長期化して暴力的なものになってきた。この新しい戦い方により、浸透、連続作戦(continuous operations)、側面方位機動(outoflanking movement)、そして包囲などを可能にするために、軍隊にさらなる機動性が求められるようになった。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p76‐77

  • 著者は歴史家ではなく戦略学専門の人。

上では言及されていないが、春秋後期は次第に中原の秩序が乱れていく時期だった(孔子の登場 その1 時代背景#国内外における秩序の崩壊 参照)。

戦争というものが(スポーツのような)ルールのある戦いから「長期化して暴力的な」弱肉強食のものに変わっていったのは、秩序の乱れが大きく関わっている、と私は考えている。

いずれにしろ、戦争は「長期化して暴力的」で戦場は水上・山中・攻城・スパイ戦なんでもありのものへと変わっていった。現代の私達がイメージする戦争へ近づいたと言ってもいいだろう。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

「将軍」職の発生

古代中国では、戦争が頻発していたにもかかわらず、とくに戦時において部隊の史記を直接担当して戦争を専門に行う「将軍」という存在は、戦争が段々と激しさを増してきた春秋時代の後半になるまで登場しなかった。ところがこれは、それ以前の時期にこのような役職が存在しなかったというわけではない。『司馬法』の中で使われている「司馬」という名は、まさにこの役職を示すために使われていた。たとえばその著者の田穰苴 *1 は、一般的には司馬穰苴として知られていた。「司馬」にとって軍の指揮は、責務のうちの一つではあったが、その他にも軍政全般や非軍事的な案件についても責任を持っていた。政府高官は、戦時には将軍として使えることはよくあることだったのである。したがって、管仲は有名な国家のリーダーであり、斉の改革者でもあったのだが、軍を直接率いることも多かった。この「政府高官」と「将軍」という複合的な役割は、春秋時代初期においてはごく普通のことであり、この二つの役割の間には明確な線引きがなかったのである。結果として、政治と軍事はかなり密接に絡み合っていた。もちろん孫子自身はかなり「純粋」な将軍に近いのだが、それでも『孫子兵法』が、そのデザインや方向性として大戦略的であることは、以上のような状況からもおわかりいただけるはずだ。

政府高官と将軍の役割の明確化は、春秋時代後半から徐々に定着し始めたのだが、そのプロセスは、戦国時代になるまで終わらなかった。この変化の大きな兆しの一つが、軍の幹部が「司馬」ではなく「将軍」という名で知られるようになったという事実である。

出典:デレク・ユアン氏/p80‐81

政府高官は西周初期にはほとんど王族で占められていたが、時代を下るとともに畿内(王都周辺)の大貴族が就くようになった。彼らの多くも(大きくは)王族だったとは思うが、血縁が遠くなれば、利害も一致する部分が少なくなっていったことは想像に難くない。

政府高官から将軍職への分化がなかなか起こらなかった理由は他人に軍(兵)をもたせることへの不安にある。つまり、兵を持つものが敵ではなく自分に向けられるリスクにある。

春秋末期から戦国時代にかけて「将軍」職が当たり前になっていくのだが、上のリスクをどのように防いだのかはよく分からないが、文官であれ武官であれ、官僚は近縁の者から有能な者へと変わっていった。そうしないと国が滅んでしまうからだ。

引用の中で「大戦略」という語がある。私は戦略学は無知なので、翻訳した奥山真司氏の「戦略の階層」の図を貼り付けておく。

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出典:戦略の階層を個人向けに修正 : 地政学を英国で学んだ

ちなみに、『孫子』の後の時代に書かれた『呉子』『孫臏兵法』は基本的に戦術の話が書かれている。



*1:司馬法』は戦国時代に編纂されたものであり、司馬穰苴(田穰苴)の兵法はその一部でしか無い。司馬法 - Wikipediaなど参照

兵家(2)孫子(春秋時代前期の戦争)

この記事では孫武が生きた時代が戦争の活気であったことを示すために春秋戦国時代の戦争の移り変わりを書いていこうと思う。

戦闘について

今から2500年以上前、中国春秋時代の戦争は、互いをはるかに見通すことのできる大平原に、両軍の戦車が日時を決めて布陣し、開戦の合図によって戦いを始めた。貴族戦士によって構成される軍隊は、兵力数数百から数千。最大でも数万という規模。戦闘も数時間から長くて数日、勝敗が決まると、互いに軍隊を撤収し、講和が結ばれた。

出典:湯浅邦弘/諸子百家中公新書/2009/p213


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出典:詳説 世界史図録/山川出版社/2014/p36


春秋戦国時代の初期から孫子の生きた時代(彼は紀元前512年に呉の国に仕え始めた)までは、戦争のあらゆる面で大きな変化が起こっていた。斉の桓公の統治時代に管仲の改革下にあった斉の軍隊も、規模としてはたった三万人だけであったと考えられており、戦争もたった一度の戦闘で決まり、しかもそれは一日以上続くことはなかったのである。たとえば斉の桓公の統治時代の初期に行われた「長勺(ちょうしゃく)の戦い」(紀元前684年)という大規模な戦いでは、斉の軍は敵軍〔魯軍〕の前線を三度の突撃によっても突破することができず、反撃を許してしまったために敗北している。この戦いの勝敗は、太鼓の連打(攻撃/突撃の合図)が文字通り三度打たれた後に決せられた。右の例は、春秋時代の初期にはその戦争の規模の大きさにかかわらず、全般的に言ってこのような急襲による戦闘がまだそれほど一般的なものではなかったことを教えている。桓公の狙いは「覇」(諸侯のトップ)になって覇権を追求することであり、敵国を破壊することではなかったからだ。したがって支配者たちの目標を達成する手段としては、戦闘よりも抑止と外交のほうが好まれたのである。

新しい戦い方は、春秋時代後半に次第に広まってきた。[以下略]

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2018(原著は2014出版)/p76

春秋時代の戦争は戦国時代の戦争と大きく異なっていた。

戦国時代の戦争は、簡単に言えば、専制君主・富国強兵・国民皆兵を基本として数万・数十万の歩兵を動員して長期の戦争も辞さず、攻城戦も行い、諸侯国の併呑にも積極的だった。

「戦闘よりも抑止と外交のほうが好まれた」時代の戦争の意味はどういうものなのか?戦争自体で実利を得るのではなく、強さを示して外交交渉を有利にするための手段として戦争を活用したということだろう。また諸侯たちに承認されなければ戦争で得た実利(領土など)は我が物にならなかったのかもしれない。

春秋時代の戦争では、諸侯国の併呑が無かったわけではないが、戦国時代と比べれば少ないと言っていいと思う。

春秋時代の戦争は西周代の様式の残滓が かなり残っていると言われるが、戦国時代までの間に次第に変わっていった(春秋時代後半の戦争については別の記事で書く)。

ルールについて

以下も基本的には前期の話で後半になって次第に崩れていったそうだ。

司馬法』仁本篇から引用。

昔は、敗走する敵を百歩以上は追撃しなかった。敵対する敵も三舎(30数キロ)までしか追わなかった。こうして「礼」を守っていることを示したのである。

また、戦闘不能になった的には止めを刺さず、傷ついた敵兵には情けをかけた。こうして「仁」のあることを示したのである。

さらに、敵が陣列を整えてから進撃の太鼓を打ち鳴らしたが、こうして「信」のあることを示したのである。

また、大義だけを争い、利益は争わなかった。こうして「義」に則(のっと)っていることをしめしたのである。

降伏してきた敵は快く許した。これは「勇」があることを示したのである。

開戦しても終わらせる潮時をわきまえていた。これは「智」のあることを示している。

教練のときに、あわせてこの六つの徳を教え込み、人民の守るべき規範としたのが、古来の軍政であった。

出典:守屋洋守屋淳 訳・解説/[新装版]全訳「武芸七書」2 司馬法尉繚子(うつりょうし)・李衛公問対/プレジデント社/2014/p36

ここでの「礼」は戦闘のルールと言い換えることができる。

ちなみに『司馬法』の成立については、3つの説がある。*1

  1. 春秋時代の斉景公(在位:前547-490年)に仕えた司馬穰苴(しば じょうしょ)が自撰したもの。*2
  2. 戦国時代の斉威王(在位:前356-320年)が重臣たちに命じて、古くから伝わる斉の兵法を研究させ、それに司馬穰苴が作った兵法を付け加えて「司馬穰苴の兵法」としてまとめたもの。*3
  3. 偽作

守屋氏らの本では「威王が作らせた」説を採用している。一方で上述のデレク・ユアン氏は「司馬穰苴本人の作」説を採用している。個人的には『司馬法』が儒家くさいので、戦国時代に成立した法を採りたい。

いずれにしろ、上にある「昔」とは、おそらく夏殷周三代を指しているのだろうが、当時は夏殷のことは神話なので実際のところは春秋時代前期と西周時代の記録が遡れる時点までといったところだろう。

春秋時代前期に限れば、ユアン氏によれば、戦争は敵国を落とすことではなく覇権を追求することなので、『司馬法』のルール(礼)で良かったのかもしれない。

「宋襄の仁」

戦争のルールに関することで、有名な「宋襄の仁」について。

まずおさらい。春秋時代の宋の襄公(在位:前651-637年)が楚軍との戦争(泓水-おうすい-の戦い)のエピソード。事前の話を飛ばして戦闘場面。

楚軍は宋軍に比べて圧倒的大軍であった。そこで目夷は敵が渡河している間に攻撃するべきだと言ったが、襄公はこれを許さなかった。楚軍は渡河し終わったが、いまだ陣形が整っていなかった。目夷は再びここで攻撃するべきだと言ったが、襄公はこれも許さなかった。ついに楚軍は陣形を整え、両軍は激突したが、当然大軍の楚の圧勝に終わり、襄公は太股に怪我を負った。

帰国後、なぜあの時に攻撃しなかったのかと問われ、襄公は「君子は人が困窮している時に付け込んだりはしないものだ」と答え、目夷はこれを聞いて呆れ、「戦時の道理は平時のそれとは違う」と言った。

出典:襄公 (宋) - Wikipedia


このことから、敵に対する無用の情け、分不相応な情けのことを宋襄の仁(そうじょうのじん)と呼ぶようになった。

ただし、宋襄の仁を批判しているのは『春秋左氏伝』であって、『春秋公羊伝』では襄公が詐術を使わずに堂々と戦ったことを賞賛している。

出典:泓水の戦い - Wikipedia

ユアン氏はこのエピソードを以下のように説明する(p74-75)。

(要約)宋襄公が『司馬法』の言うところの「戦争における規範」(つまりルール)に従って行動したのに対して、楚軍は従わなかった。襄公の最大の計算違いは楚軍が同じルールに従って行動すると思っていたことだ。たとえ、楚軍が従わないとおもっていても覇者であろうとする襄公はルールに従うことを選択した。

これに対して上述の守屋氏は「古代の作法どおりの戦い方は、この時代になると、すでに嘲笑の対照になっていたのである」と書いている(p13)。

襄公はこの戦いに勝って覇者としての仕事を全うしようとしたが、逆に大敗して諸侯らから相手にされなくなったという。

さて、ここまで書いておいて言うのもなんだが、おそらくこのエピソードは作り話だろう。ソースは落合淳思氏。

宋と楚の軍事力にはもともと大きな差があり、「宋襄の仁」などなくても襄公の大敗は自明のことであった。また、軍議の内容が公表されるはずもない。楚は黄河流域の諸国から野蛮視されていたが、その楚が勝ったため、後にこじつけた話が作られたのであろう。

出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p71

このエピソードの出典の『春秋左氏伝』は『春秋』の注釈書だが、作り話が多く混入されているという*4

『春秋左氏伝』の成立時期は戦国前期なので、編纂者は「春秋時代の人々はおかしな戦争のしかたをしていたようだ(笑)」と思ってこのエピソードを採用したのかもしれない。



*1:(PDF)湯浅邦弘/『司馬法』に於ける支配原理の峻別

*2:『隋書』以降の芸文・経籍志類の採る立場

*3:史記』司馬穰苴伝などに記されている

*4:落合氏/p60-62

兵家(1)孫子(『孫子』は誰が書いたか)

これから『孫子』に入る。まずは著者と著作について。

兵法書孫子』は誰が書いたか

孫子』の「子」は先生というくらいの意味で、『孫子』の著者は孫氏であることは間違いない。

司馬遷史記』によれば、春秋戦国時代で有名な兵法家の孫氏は2人いる。呉の孫武と斉の孫臏だ。

班固『漢書』芸文志・兵権謀家類には、「呉孫子兵法」82巻・図9巻と「斉孫子兵法」89巻・図4巻を見ることができる。

このうちの「呉孫子兵法」の一部の13篇が現在に伝わる『孫子』である。

かつて著者について論争があった

しかし最近に至るまで『孫子』を書いたのが孫武か孫臏かで永い論争が続いていた。

漢代は、各々を『呉孫子』『斉孫子』と言って区別していたが、そのどちらか片方が早くに散逸し、後世に残ったほうが『孫子』の原本となった。そのため『孫子』の著者が、孫武・孫臏のいずれになるか不明となっていた。あるいは両方とも散逸し、現代まで伝わる『孫子』は後代の偽書であるという説もあった。

竹簡孫子 - Wikipedia

平凡な推測をすれば以下のような感じだろうか?

先に流通していた孫武の『孫子』が後に出てきた孫臏の『孫子』と区別する時にだけ『呉孫子』『斉孫子』という呼称が発生し、『斉孫子』が忘れ去られた時に昔通りに『孫子』と言えば孫武の著書を指したのだろう。そしてそれから数百年が経った時に『孫子』の著者がどっちかわからなくなってしまった。

これを解決したのが「出土文献」、即ち1972年に発掘された古代の墓の中から発見された竹簡だった。

現行本の『孫子』の著者は、春秋時代孫武(そんぶ)ではなくて、その子孫である戦国期の孫(そんびん)とする説がこれまで有力であり、孫武は架空の人物であるとまでされてきた。しかし発見された竹簡本『孫子兵法』がいまの『孫子』に相当し、同時に『孫(そんびん)兵法』が現れたことにより、従来の定説は一気に覆された。

出典:日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館銀雀山漢墓(ぎんしゃくさんかんぼ)とは - コトバンク


もとより、13篇が最終的に今の形に定着するまでには、孫臏をはじめとする孫氏学派の手が加わっているであろうが、『孫子』の内容が示す時代背景の面からも、その主要部分は、やはり春秋末の孫武兵学を伝えていると考えるべきであろう。

出典:浅野裕一/図解雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p206

現代に伝わる『孫子』までの変遷

現代の私達が読むことができる『孫子』は孫武が書いたものそのものではない。時代を経て あらゆる人々が手を加えてきた。研究者たちはこれらの変遷がどのようなものであったのかも研究しているが、その一例がwikipediaにあったので、ここにコピペしておく。

孫子』研究者の考え方の一例を挙げると、その成立を河野収は以下のように5段階に分けられるとする。他の研究者も概ねこれに近い成立を想定している。

  • 紀元前515年頃、孫武本人によって素朴な原形が著される。[3]
  • 紀元前350年頃、子孫の孫臏により、現行の『孫子』に近い形に肉付けされる。そして戦国末期までに異本や解説篇が付加されていった。その一つがここで『竹簡孫子』と呼ぶものである。
  • 秦漢の時代も引き続き本論に改訂が加えられていき、多くの解説篇が作られた。[4]
  • 紀元200年頃、曹操により整理され、本論13篇だけが受け継がれていくようになる。[5]
  • 曹操以降、写し違いや解釈の相違により数種類の異本が生まれ、それらは若干の異同を持ったものとなる。しかし基本的には、第4段階のものと大きくは違わず現代に伝わる。現在手にすることができるものは、ほとんどがこの段階の『孫子』である。

出典:孫子 (書物)#成立時期 - Wikipedia

というわけで、私達が読んでいる『孫子』は曹操に整理された13篇である。

ちなみに、どうして曹操がこんなことをしたのかというと、幹部クラスの教科書にする目的で整理して注釈をつけたとのことだ。これは『魏武注孫子」と言われている。これについて詳しくは「【目からウロコ】魏武註孫子は○○○として編纂された | はじめての三国志」というブログ記事に書いてある。この記事の参考文献は 中島悟史 訳・解説『曹操注解 孫子の兵法』だそうなので、もっと詳しく知りたいのならこの本を読めばいいのだろう。



小説 孫子の兵法〈上〉 (光文社文庫)

小説 孫子の兵法〈上〉 (光文社文庫)

  • 作者:鄭 飛石
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 1991/04
  • メディア: 文庫

上の本は上巻は孫武、下巻は孫臏が書いてあった(と思う)。

物語のベースはもちろん『史記孫子呉起列伝。時代小説好きなら楽しめるだろう。


墨家(2)思想実践、墨家の歴史

前回は墨家の基本思想について書いたが、今回は墨家の歴史について。

墨家は思想よりも歴史のほうが重要なのかもしれない。

以下は浅野裕一著『雑学図解 諸子百家』(ナツメ社/2007)を頼りにして書いていく。

諸子百家 (図解雑学)

諸子百家 (図解雑学)

  • 作者:浅野 裕一
  • 出版社/メーカー: ナツメ社
  • 発売日: 2007/04/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

創始者墨子=墨翟

墨子の本名は墨翟(ぼくてき)という。魯の人で、墨子が活動した時期は「前439年を少し遡る頃から、前393年を少し下る頃まで」(浅野氏/p108)。亡くなるのも「前393年を少し下る頃」。

孔子が亡くなったのが前479年、
孔子の後期の弟子で戦国初期の覇王・魏の文侯に支持された子夏の死去は前420年頃、
文侯の在位が前445-396年、
孟子の生きた時代が前372?-289年。

ということで、孔子は戦国魏が覇権を握っていた時代に活動していた。孔子の後期の弟子の子夏の死よりも後に活動を始め、孟子が活動し始めるかどうかの時期に墨子は亡くなった。

墨子の活動

さて、墨子が活動しはじめた時期は戦国魏の派遣の時代だった。子夏の弟子の李克・呉起・西門豹*1が魏・文侯のブレーンになっていた。思想界においては儒家がリードしていた。というか儒家以外の諸子百家はまだ誕生していなかったのかもしれない。

墨子は自己の理念を実現すべく、魯に学団を創設し、ここに墨家が誕生する。墨子は、多数の門人を教育して一人前の墨者に仕立て上げ、諸国を遊説させたり、官僚として諸国に送り込んだりする手段で、自己の思想を世界中に実現しようとしたのである。ところが、せっかくの墨子の計画も、なかなか狙い通りには運ばなかった。

というのは、集まってきた弟子たちの入門同期は、ほとんどの場合、墨子のもとで学問を身につけ、高級官僚として仕官したいとする一点にあって、墨子の思想自体に共鳴したからではなかったためである。つまり、理想実現のために学団を創設した墨子の思想と、利益目当てに入門してきた弟子たちの思惑は、はじめから大きく食い違っていたのである。

出典:浅野氏/p114

  • 墨者とは墨家の一員の意味(だと思う)。

墨子と弟子たちの思惑の相違の問題は孔子の学団でも起こっていただろう。

春秋末から封建制が崩れ始め、読み書きのできる者なら仕官できる希望があった時代だった。孔子墨子の学団の入門者は読み書きできる者の中でも、貴族でもなく、コネもないような最下層の人々だったろう。

現代日本でも同じようなことが起こる。有名人が政治団体や政治塾を立ち上げるとどこからともなく、入会者が多く現れるが、彼らがその有名人の思惑に賛同して集まっているかと言えば、そんな人は一握りしかいないだろう。

さて、こんな入門者たちを強化するために墨子はどのような手段をとったのか?それが鬼神信仰を吹き込むことであった。

墨子は、鬼神は明知であって、人間のあらゆる行動を監視しており、善行には福をもたらし、悪行には禍いを下して、人間の倫理的行動を監督すると、弟子たちに説いた。つまり墨子は、鬼神の権威を借りた外部からの規制を、教化の有力な手段に据えたのである。

出典:浅野氏/p114

上の引用の後、浅野氏は鬼神が門人に賞罰を与えることを疑ったと同時に墨子への不信が生まれるリスクを書いているが、墨子が亡くなった後も鬼神信仰は墨家の中で充分に機能した。

二代目・禽滑釐と「質的変化」

上のように「初代墨家」の墨子の時代の弟子たちはその思想よりも仕官に興味をもつものばかりだった。これが三代目の孟勝になるとトップの強力な統率の下に思想を実践する集団になっていた(三代目については後述)。

三代目・孟勝の代の強力な統率については『呂氏春秋』上徳篇に言及されているが、二代目の統率力に関する言及はどの書も触れていないらしい。

浅野氏はこの「質的変化」は二代目・禽滑釐(きんかつり)の代で起こったと考えて、禽滑釐という人物にクローズアップする。

[禽滑釐]は墨子が特に信頼する高弟で、墨子の死後、二代目の鉅子[墨家のトップ]を継いだ人物である。しかも彼は、『墨子』兵技巧諸篇で、墨子から守城術を伝授されており、墨子に代わって防御部隊を指揮していることから、とりわけ防御部隊の育成による非攻活動の実践に情熱を注ぎ込んだ人物と目される。

このように禽滑釐が、防御戦闘の中心人物としての立場から鉅子の位を継いだことは、必然的に彼の団員に対する統率力を強化する奉公に機能したであろう。戦時に際しては、平時よりも鉅子の権威が一段と強化され、団員はその命令を軍律として受けとめ、それに絶対的に服従することが要求され、しかもその権威は、逆に平時の学団内にも波及するからである。[中略]

これによって墨家は、墨子当時の功利的風潮を払拭して、真に思想集団と呼ぶにふさわしい成長を遂げることが可能となったのである。

出典:浅野氏/p130

一般的な話として創始者亡き後の集団をまとめるには、残されたトップが創始者を神格化するように宣伝して、トップは神格化が確立された創始者の衣を借りて強力な統率を実現する、というものがある。

三代目・孟勝

孟勝については上で触れた通り『呂氏春秋』上徳篇に言及されている(孟勝のそれ以外の言及があるのかどうかは分からない)。ここに書かれているエピソードを書いていこう。

孟勝は『呉子』で有名な呉起(前440-381年)と同時代の人。呉起は楚の悼王に迎えられて宰相を務めていたが、悼王が亡くなった途端に呉起が抑圧していた貴族たちに報復を受け殺害される。

悼王を継いだ粛王は呉起暗殺に加担した貴族全員を処罰する方針を取り、その貴族の一人の陽城君は出奔して自分の城邑に戻った。

楚軍に攻められることとなった城邑防衛のために陽城君は かねてから親交のある孟勝に防衛を委託するように依頼した。

しかし度重なる猛攻に防衛が絶望的になると、孟勝は契約不履行の責任を取るために集団自決をしようとする。これに対して弟子の一人・徐弱が「鉅子(墨家のトップ)のあなたが死んでしまえば墨家の系統は途絶えてしまう」と反対した。孟勝は以下のように返答する。「ここで責任を取らずに死を逃れたら、それこそ墨家は信用を失い滅んでしまうだろう。私が死んだ後は宋の田襄子が鉅子を継いでくれるだろう」。

孟勝は田襄子に鉅子の位を譲る使者を出した後、指揮下の墨者180人全員と共に自決した。田襄子に譲位を伝達した使者2人は田襄子の制止を振り切って城邑に戻り、皆の後を追って自決した。

以上のように孟勝の下の墨者たちは狂信的と言えるほどに思想を実践して殉じていった。

戦国中期~末期

四代目の田襄子のエピソードについては分からないが、その後(その後も?)墨家は隆盛し続け、戦国期の二大思想の一つとなった(もう一つは儒家)。

孟子(前372?-289年)の時代、戦国中期には「楊朱墨翟の言説が天下に満ち溢れている」(『孟子』滕文公下)という状態だった(ちなみに孟子が活躍する前は儒家は低迷していたらしい)。

ただ、拡大する組織にありがちの分裂が戦国中期には始まっていたらしい。荘子(前369年頃-286年頃)の『荘子』天下篇には「墨家が大きく2つのグループに分裂し、互いに相手を「別墨」と非難して……今に至るまで決着がつかない」(浅野氏/p132)と書いている。

また、韓非(韓非子)の時代、戦国末期には「墨は離れて三と為る」(『韓非子』顕学篇)とある。

分裂の内情はわからないままだが、それでも墨家は戦国末期に至るまで「儒家と並んで「天下の顕学」たる揺るぎない地位を保ち、巨大な勢力を誇り続けたのである」(浅野氏/p132)。

墨家消滅

戦国末期まで隆盛を極めた墨家だが、秦帝国成立以後、忽然と姿を消した。

墨家消滅の経緯の詳細はわからないままだが、浅野氏は推測して3つの事柄に言及している。(p134)

  • 秦の李斯による焚書や「狭書の律」などの思想統制・抑圧政策。

  • 全国的活動をしていた巨大組織である墨家は弾圧の対象になった。

  • 「墨者の法」を持つ治外法権的組織を秦が許さなかった。

これに付け加えるとすれば、墨家の主張であった「封建国家体制の維持」が意味をなさなくなったため、墨家は解散するよりなかったか、危険な組織・非合法組織として徹底的に潰されたかしたのではないか。

いずれにせよ、組織として実践することを旨(むね)としてきた組織は、その組織の壊滅とともに思想も忘れ去られてしまった。

墨子の思想が蘇った(?)のは なんと清末になってからだという。

ひるがえって、墨子その人が賤民の出身だったという説がある。きっと工人の技術をもっていた。あるいは数学の技法に長けていたかもしれない。墨子はやっと清の時代になって評価されることになるのだが、そのとき清は西洋列強の餌食になろうとしていた矢先であった。慌てた中国の知識人たちは、ついに墨子を探しあてたのである。そして、「西欧の学は古来、わが墨子に備われり」と気がついた。けれども、時すでに遅かった。あの中国にして、墨子を思い出すのが遅すぎた。

出典:817夜『墨子』墨子|松岡正剛の千夜千冊



墨守 [名](スル)《中国で、思想家の墨子が、宋の城を楚(そ)の攻撃から九度にわたって守ったという「墨子」公輸の故事から》自己の習慣や主張などを、かたく守って変えないこと。「旧説を墨守する」

出典:小学館 デジタル大辞泉墨守(ボクシュ)とは - コトバンク


*1:呉起は後に楚に行く

墨家(1)基本思想

墨家の基本的な思想は「十論」と呼ばれる十個の主張からなっているが、その中でも有名な「兼愛」と「非攻」を先に書いていこう。その後に「十論」。

兼愛

兼愛説【けんあいせつ】
中国,戦国時代の前4世紀の思想家墨子(ぼくし)の説いた墨家思想の中核をなす考え。天地万物の主宰者である天に対して,人は長幼貴賤の別なく均しく天の臣であり,天が万物を公平無私に愛するがごとく,人もまた自分の国・家・身を愛すると同様に他人の国・家・身を愛するならばこの世は平和となり,天はこれを賞する,という。このような無差別愛を兼愛といい,儒家の説く仁は自分の父親を愛することからその愛を親族・他人におよぼす類のものであるから差別愛であるとして,墨家ではこれを排斥した。兼愛説の愛は精神的なものにとどまらず,利益をともなうもので,愛しあうことによって利益を与えあう(兼愛交利)。また〈義は利なり〉〈孝は親を利するなり〉とあるように,ここでの利は道徳に合致するものでなければならない。

出典:百科事典マイペディア/平凡社兼愛説(けんあいせつ)とは - コトバンク

一般的な説明は上のものでいいと思うが、湯浅邦弘氏はもう一歩踏み込んで以下のように説明する。

墨子の説く兼愛とは、決して博愛や平等という意味ではない。墨子は自己への愛と他者への愛との間に区別を設けてはならないと言っているのである。[中略] すべての人々が兼愛を実践していけば、結果として、博愛・平等愛の世界が実現する。しかし、それは結果であり、墨家は何も最初から万人を平等に愛せよなどとは言っていないのである。

出典:湯浅邦弘/諸子百家中公新書/2009/p134

  • この引用の論拠は『墨子』兼愛上篇。

一つ前の引用に戻って、「兼愛交利」の話。自己を愛するように他者を愛するのだから、他者の不幸は自分の不幸だということになる。その結果として、「愛しあうことによって利益を与えあう」という互助の実践が行われることになる。これが「兼愛交利」。

そして、墨家の最終目的は兼愛による天下の平和である。「戦国乱世に平和を取り戻すためにはどのようにすべきか」という当時の主題に対して、墨家の答えは兼愛であった。

非攻

墨子は、当時の戦争による社会の荒廃や殺戮による世の悲惨を批判し、政治の目的は人びとの幸福にあるが、戦争は略奪・盗賊的行為であり、人びとに何の利益も幸福ももたらさない。他国を奪取して利益を得たとしても、蓄積された財貨を破壊する行為であることには変わらず、多くの人命も失われると説き、戦争では失うものの方がはるかに多いとして、他国への侵攻を否定する主張を展開した。『墨子』は墨子による直著とみられており、そこでは「人一人を殺せば不義(正義に反する)といい、死刑になる。この説に従うなら、十人を殺せば十の不義で死刑十回分に相当し、百人を殺せば百の不義で死刑百回分に相当する。このことは天下の権力者は皆知っていてその非を鳴らし、不義としている。ところが、(戦争で)大いに不義を働いて他国を攻めると、それを非とすることを知らず、正義と誉める。それが正義に反することを知らないのだ」と訴えている。

出典:非攻 - Wikipedia(「」括弧内は『墨子非攻上篇の一部の日本語訳)

このような思想の下、墨家はどのような行動に出たか?徹底抗戦だ。墨家は戦闘集団とこれを支える兵器開発などの職能集団を持っていた。墨家侵略戦争を仕掛けられた城邑からの要請に応えて自前の戦闘集団を送り込んで侵略者に対して徹底抗戦をした。

墨子』において武力行使が肯定されるのは「誅」と「救」の場合のみ。この軍事行動だけが「義」として認められるのである。侵略戦争は他者の利益を損ねて自分の利益を図る行為であり、兼愛の理想をもっとも過激に破壊するのである。要するに攻伐[大義を持たぬ侵略戦争*1]は不義、それを阻止する防衛戦のみが義なのである。こうして墨家は天下のために奔走した。

出典:湯浅氏/p141(文字修飾は引用者)

墨家の思想は平等主義的だが、日本の一部の非武装中立を謳う念仏平和主義者とは全く違う。

基本思想(墨家十論)

基本思想(墨家十論)

以下が『墨子』における墨家の十大主張である。全体として儒家に対抗する主張が多い。また実用主義的であり、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざす方向が強い。また全体的な論の展開方法として比喩や反復を多用しており、一般民衆に理解されやすい主張展開が行なわれている。この点、他の学派と異なった特色を有する。特に兼愛、非攻の思想は諸子百家においてとりわけ稀有な思想である。

兼愛
兼(ひろ)く愛する、の意。全ての人を公平に隔たり無く愛せよという教え。儒家の愛は家族や長たる者のみを強調する「偏愛」であるとして排撃した。

非攻
当時の戦争による社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難し、他国への侵攻を否定する教え。ただし防衛のための戦争は否定しない。このため墨家は土木、冶金といった工学技術と優れた人間観察という二面より守城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果を挙げた。

尚賢
貴賎を問わず賢者を登用すること。「官無常貴而民無終賤(官に常貴無く、民に終賤無し)」と主張し、平等主義的色彩が強い。

尚同
賢者の考えに天子から庶民までの社会全体が従い、価値基準を一つにして社会の秩序を守り社会を繁栄させること。

節用
無駄をなくし、物事に費やす金銭を節約せよという教え。

節葬
葬礼を簡素にし、祭礼にかかる浪費を防ぐこと。儒家のような祭礼重視の考えとは対立する。

非命
人々を無気力にする宿命論を否定する。人は努力して働けば自分や社会の運命を変えられると説く。

非楽
人々を悦楽にふけらせ、労働から遠ざける舞楽は否定すべきであること。楽を重視する儒家とは対立する。但し、感情の発露としての音楽自体は肯定も否定もしない。

天志
上帝(天)を絶対者として設定し、天の意思は人々が正義をなすことだとし、天意にそむく憎み合いや争いを抑制する。

明鬼
善悪に応じて人々に賞罰を与える鬼神の存在を主張し、争いなど悪い行いを抑制する。鬼神について語ろうとしなかった儒家とは対立する。

出典:墨家#基本思想(墨家十論) - Wikipedia

この十論の成立の時期だが、浅野裕一氏によれば、兼愛・非攻の系統を弱者支持の理論、尚同・天志の系統を大帝国を目指す天子専制理論と捉えた上で、(墨子=墨翟の時代の)前者が衰えるにつれて戦国後期に後者が興ってきたとする見解が、今日ではほとんど定説であるとする。

しかし浅野氏自身は「十論」は墨子(墨翟)自身がその人生のうちに完成させた、という説を採っている。*2

墨子』魯問篇においての説話。弟子の魏越が遊説に出発する前に墨子に質問した。「各国の君主に面会したら、まず何を説けばよいでしょうか?」。墨子曰く「その国家が混乱していれば尚賢・尚同を、経済的に困窮していれば節用・節葬を、音楽にふけって怠惰であれば非楽・非命を、デタラメで無礼であれば尊天・事鬼(天志・明鬼)を、侵略戦争に熱心であれば兼愛・非攻を説け」。

浅野氏は、上の説話は墨子が、「十論」を5グループに分けて相手の国情に応じて説法を使い分けていたことと、十論の最終目的が諸国家を安定的に存続させようとすること即ち封建体制の維持が目的であることを明らかにしている、そして十論の主張はこの他の説話にも散見されている、と書いている*3

というわけで繰り返しになるが十論の最終目的は諸国家を安定的に存続させ、封建体制を維持させるということ。当時の思想界最大の課題であった「秩序回復」に対する墨子の回答がこれだ。

ただし、上に書いたように、浅野氏の主張以外の説もある。



次回は墨家の歴史について書く。


漫画の原作は酒見賢一氏の小説。映画もある。
ネタバレになるが、この作品では墨家は戦国後期に体制側に奔(はし)った説をとっているようだ。主人公はそれを良しとせずに墨家における反体制側の人間として描かれている。


*1:p138

*2:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p118

*3:浅野氏/p118、120