記事タイトルどおり、他者(他書)との比較について書く。
他と比べて、『孫子』がどのようなものなのか、イメージだけでも分かればいいかと思って書いてみた。
- 作者:カール・フォン クラウゼヴィッツ
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2001/11/01
- メディア: 文庫
孫子とクラウゼヴィッツ
守屋淳氏の見解
<孫子が歴史上もっとも偉大な戦争思想家であり、おそらく孫子を除けばクラウゼヴィッツが依然として西側世界の知的伝統においてもっとも偉大な戦争理論家である>(『クラウゼヴィッツと「戦争論」』マーチン・クレフェルト著、清水多吉、石津朋之編、彩流社)
しかし、『孫子』と『戦争論』では、その記述に大きな食い違いがあります。なぜ、そもそも同じ戦争という事象を扱っているはずなのに、食い違いが出てしまうのか――。
(以下の引用も守屋氏)
守屋淳氏はその違いを3つ挙げている。
1つ目。
クラウゼヴィッツの場合、「プラトンのイデア」「中世の一神教の神」「仮説検証による法則」といった発想の流れを汲み、
「本質重視」
という考え方が根底にありました。対象の普遍的な「本質」をまずは見つけることが、そのものの何よりの理解になる、と考えるわけです。[中略]
一方で、『孫子』には、西欧的な意味での本質重視という考え方がありません。
ここでは、現代に残る『孫子』13篇は、魏の曹操(武帝)が分類しまとめ上げたもの(『魏武注孫子』)である(孫子 (書物) - Wikipedia )ことを断っておく必要があるだろう。曹操は戦争の実戦に不必要な部分を削ってしまった可能性も無くはない。
またクラウゼヴィッツに上のような背景があるように、孫子(孫武)にも時代背景がある。
守屋氏が「音階の基本は、宮、商、角、徴、羽の五つにすぎないが、その組み合わせの変化は無限である」という『孫子』兵勢篇を引用しているように、孫武の生きた春秋末期は諸子百家に代表される中国における思想・哲学の黎明期であった。「要素」などの発想はオリエント世界やインドから輸入されたのかもしれない。
『真説 孫子』の著者であるディレク・ユアン氏によれば、『孫子』は老子に影響を受けているという *1。パッと思いつくのは「兵に常勢無く、水に常形無し」(『孫子』虚実篇)と「道の道とすべきは、常の道に非ず」(『老子』第一章)。(ユアン氏はタオイズムにおける「陰陽」と『孫子』の関係について詳説していたが、まだ理解できていない。)
さて、守屋氏の2つ目。
「おのおのの寄って立つ環境による違い」です。
まずクラウゼヴィッツは、決闘の比喩や、戦争と平和の循環の指摘でも明らかなように、
「一対一で、やり直しが利く」
という条件から戦争や、その勝ち方を考えました。ですから、その勝ち方は条件の似ている将棋と近似します。一方で『孫子』は、
「ライバル多数で、やり直しが利かない」
という条件から戦争やその勝ち方を考えたのです。
この条件は、たとえばライバルが多く、栄枯盛衰の激しかったコンピューター業界にそのまま当てはまるものでした。このため、ビル・ゲイツをはじめとして、コンピューターやIT企業の大立者はほぼ例外なく『孫子』の影響を受けていたりもします。前提条件が同じなので、そこから出てくるノウハウが、自分たちの状況にそのまま当てはまってしまう面があるからです。
『戦争論』は「戦争とは、他の手段もって継続する政治の延長である」という有名な文句にあるように『戦争論』でも政治についても言及されて入るが、クラウゼヴィッツ自身は生粋の軍人(将校)なので、戦闘の話の方が本筋だ。むしろ軍人が政治を論ずることを憚(はばか)っていたのかもしれない。(ただし、『戦争論』も(本人が死んでしまったため)未完成だったことを断っておく必要があるかもしれない。)
これに対して孫武の方は、将軍ではあるが場合によっては宰相にもなったかもしれない。春秋末期は内政と軍事の役職が未分化であったし、戦国時代に入っても呉起が楚で宰相になったように峻別はされていなかった。このような環境にあって、孫武は論ずるところを政治まで広げることは当然だった (現代でも軍人が政務を担っていることはよくあることだということはここでは無視する)。
ということで、クラウゼヴィッツは目の前の一個の敵を倒すことから話を始めているのに対して、孫武は最初から複数の敵(将来 敵になるかもしれない勢力も含む)の存在を前提として話を始めている。両者は似たようなことを言ってはいるが前提条件は全く違うことを知っておくことは重要だろう。
さて、3つ目。
『孫子』には「戦わずして人の兵を屈す」という有名な言葉があります。よく、「戦わずして勝つ」とパラフレーズされますが、この言葉に象徴的なように、『孫子』は全般的に政治家目線が強い内容が特徴になっています。つまり、政治・外交的な立場からいえば、そもそも戦わないのも、上手い政略のうちなのです。
一方の『戦争論』は、クラウゼヴィッツが基本的に軍人だったこともあり、あくまで軍人目線。基本的に戦うことを、当たり前の前提にしている点に特徴があります。
これは上で書いたこと。2つ目と3つ目の順序を逆にすれば理解しやすかった。
マイケル・I・ハンデル氏、あるいは奥山真司氏の見解
以下はマイケル・I・ハンデル著『米陸軍戦略大学校テキスト 孫子とクラウゼヴィッツ』の紹介をしている奥山氏のブロクからの引用。
この本は、孫子とクラウゼヴィッツという洋の東西を代表するそれぞれの戦略思想家の理論を、それぞれの言葉を同じテーマにそって並べて比較・検討するというところにそのキモがあるわけですが、この比較から浮かび上がってくるのは、
「孫子とクラウゼヴィッツは、けっこう同じこと言ってたんだ」
という意外な結論。[中略]私がこの本で一番重要だと思うのは、ハンデルがこの両者の理論を比較することによって、間接的に「戦略は普遍的なものである」ということを主張している点でしょうか。[中略]
ハンデルのこの研究の前提にあるのは、
「戦略というものは、時代と場所を越えても変わらない」
という保守的な考え方。そしてこの考えはどこから来ているかというと、それは、
「人間の本質は不変である」
という確信から来ているわけです。そうなると、2000年前に書かれた本と、200年前に書かれた本も、どちらも「人間」の行為である「戦争」という現象を対象としている点では同じなわけですから、現代にもヒントになることがあるという前提があり、ここにわれわれが今でもこれらの古典を研究する価値があることになります。ハッキリいえば両者(とくにクラウゼヴィッツ)の難解な言葉を読むのは多少抵抗のある人もいるかもしれませんが、比較することで浮かび上がってくる両者の違いと共通項、そしてその限界というのは、軍事・戦略・安全保障以外の分野にも応用できるきわめてすぐれたものばかり。
- この記事では、両者の際立った違いの一つとして情報(インテリジェンス)を挙げている。詳細はリンク先参照。
同種の本を読み比べると共通項が浮かび上がってくるのは当然といえば当然だが、上の例で言えば「孫子とクラウゼヴィッツは、けっこう同じこと言ってたんだ」ということ。
米陸軍戦略大学校テキスト 孫子とクラウゼヴィッツ (日経ビジネス人文庫)
- 作者:マイケル・I・ハンデル
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
- 発売日: 2017/09/02
- メディア: 文庫
ちなみに、戦略学者の奥山氏いわく《日本には「戦略」を体系的にしっかり学ぶ という姿勢・発想がありません。故に、クラウゼヴィッツの「戦争論」の理解が大変お粗末な状態となっています。》とのこと*2。
最後に
「孫子とクラウゼヴィッツは、けっこう同じこと言ってたんだ」ということ。
これは軍人と政治家が全く同じ認識を持っているという錯覚を引き起こす可能性につながるだろう。
共通項が多いことの裏側には、軍人と政治家の間に異なった認識が存在していることも浮かび上がっている。
それがどのようなもので、その違いについてどのように対処すべきかも考えなければならないのだろう。