歴史の世界

儒家(4)孔子(「礼」と「孝」)

儒教にとって、最重要の礼と孝を説明してみる。

「礼」とは何か

礼記(らいき)』は中国古代王朝・周の礼の規定とその精神を雑記した書物で、49篇からなります。本文の主要な篇の最後には規定を補足する「記」が付き、礼の背後にある精神が述べられています。

「礼」は支配層氏族内部の階層秩序の規定、つまり敬天・崇祖(天を敬い、先祖を崇拝する)の日常儀礼を伴う父系血縁集団の組織規定であり、祭・政・教・一致の秩序規定です。祖孫(先祖と子孫)・父子の上下を根幹として孝悌道徳(父母に真心で仕え、兄によく従う道徳)によって維持しようとしたものです。

出典:呉善花(お・そんふぁ)/日本人として学んでおきたい世界の宗教/PHP/2013/p219-220

日本人として学んでおきたい世界の宗教

日本人として学んでおきたい世界の宗教

  • 作者:呉 善花
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2013/06/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

孔子儒教の言うところの「礼」は単なる作法や型ではなく、上のように秩序や道徳を含む社会全体を覆うものである。

「礼」は孔子儒家が創作した

孔子は礼学の大先生だった。孔子は、古代の礼制を復元すれば中原(中華世界)に秩序が復活すると主張した*1

しかし孔子の生きた春秋時代末期は夏・殷はおろか西周滅亡からも300年も後の時代であり、各王朝の礼制を忠実に再現するような手がかりはほとんど無かった。

結局のところ、孔子の礼学の中身はそのほとんどが彼の空想の産物だった(浅野裕一儒教 ルサンチマンの宗教/平凡社新書/1999/p30)。浅野氏は『論語』よりこれを論証してみせたが(前回の記事「「儒」の起源」 参照)、西周代の金文からもその事がわかる。

『周礼(しゅらい)』『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』などは、孔子の後学となる儒家たちが春秋後半期から戦国・秦・漢期にかけて体系化してまとめた。

礼記』の諸篇では天子・諸侯・卿・大夫・士・庶人と身分ごとの守るべき礼制を提示しているが、このうち卿・大夫という呼称自体が西周末以前には存在しない。

『周礼』は、西周の官制や、その官が担う職掌儀礼などを記録したものとされているが、近年になって中国の沈長雲・李晶が、『周礼』に見える官制は西周の金文に見える官制よりも春秋期の諸侯国の官制に近いと指摘している。

要するに儒家の提示した礼制とは、当時の東周の礼制に、彼らが西周のものと信じる要素(その中には本当に西周に由来するものも多少含まれていただろうが)を加えて復古的なものに仕立て上げ、体系化したものだったのである。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p187

(礼制と金文の関係については上の本のp185-187。)

「孝」:儒教における最重要な要素

上述の佐藤氏は、儒家が礼制に道徳を付加したと説明し、最初に「孝」を説明しはじめる(周/p187)。ただしこの本での説明はわかりにくいので他の図書に頼ることにする。

儒教では、子の親に対する愛である「孝」に始まり、これを万人にまで拡大してゆけば人類愛としての「仁」に至ると考え、これは天から人間に与えられた人間の本性の働きであるとします。そのように、家族、社会、国家を一貫する普遍的な倫理・道徳があり、それにすべての者たちが従う形をもって、国家の法や一般社会の規範との一体化がはかられ、秩序が形成されるとします。

そのため儒教では、家父長制家族の倫理・道徳が、そのまま政治的な国家統治の倫理・道徳(法)にまで延長されます。またその哲学・思想は、家父長制観念の無限拡大といえる性格をもちます。

儒教社会では、民間に古くからある父系血縁集団(宗族)の霊魂観が、儒教の教えと強く結びついています。この霊魂観では、亡くなった父の霊は再び子の世に戻ってきて息子(長男)に憑依し、なおもこの世で生き続けると考えられました。そのようにして一族の霊魂は、息子から息子へと伝わっていって、永遠にこの世に生き続けるのです。古くは中国でも朝鮮半島でも、そうした霊魂観に基づき、父が亡くなると父の霊を呼び戻して息子に憑依させ、これをもって一家の新当主とする民間儒教儀礼が執り行われていました。

ここに、儒教が父系血縁集団の倫理・道徳として強く作用してきた理由があります。

日本に見られる先祖供養や葬式の形式は、もとは仏教のものではなく、中国の民間儒教の影響を強く受けたものといわれます。

儒教社会での最高の徳目は「孝」だといえます。日本では一般に、孝といえば親孝行のことで、両親への敬愛の範囲を出るものではないでしょう。しかし、儒教社会での孝とは、両親と祖先に対する孝であり、同時に結婚して子供を、とくに家系を継ぐべき男子を生むことまでをふくんでいます。

出典:呉善花氏/p215-216

  • 「仁」については次回に書く。
  • 霊魂観についてもっと詳しく知りたかったが、他に文献を見つけられたなかった。

さて、一般には最高の徳目は「仁」だとされていると思うが、呉善花氏は「孝」としている。私個人としては呉氏と他の本を読んでみたけっか「最重要な要素」は「孝」であると思う。孔子が古代中国における親子間の道徳倫理を社会全体にまで広げたのが儒教だということだ。

礼と孝

加地伸行氏によれば、「礼」の最単純モデルは親の喪礼であるとする。そこから説明して話を広げていく。

なぜなら、一般的に言って、親が子よりも後でなくなるという特別な事情を除くと、人間はほとんど必ず親の死を迎え、喪礼を行うからである。この必ず経験する、親に対する喪礼を基準として、それを最高の弔意を表すものとする。逆に言えば、最も親しいがゆえに、最も悲しむわけである。

そこで、親の喪礼の規定(礼制)が、こと細かに作られている。礼は形式で示されるから、悲しみの表現を形式に表わすという具体化を行なう。原則は最高度の悲しみの表現であるから、平常の衣服を着ないで、悲しみで身辺のことなどには気を配らないことを表わす喪礼用の姿となる[中略] 。

子は上述のような最も粗末な(それは最高の悲しみを表わす)喪服姿となるが、遺族といっても、死者から遠い関係になるもの、たとえば、死者の孫となると、遺子よりは、粗末でない喪服姿となる。[中略]

死者と弔意を表わす血族の関係あるいは君臣の関係を、喪装やその期間といった具体的な形で規定しているわけである。だから、血縁の関係あるいは君臣の関係が遠くなるにつれて平服に近く、喪に服する期間も短くなってゆく。

これが喪服のほんらいの意味である。だから、現代における葬儀のように、参会者のだれもが黒色の喪服姿というのは、儒教的でない。儒教流に言えば、遺族のみが喪服を着、死者と関係が遠くなってゆくのに比例して平服姿へと近づくべきものである。遺族と同じ喪服を身につけるということは、遺族の悲しみと同じということになり、死者や遺族に対して僭越ということになる。

出典:加地伸行儒教とは何か/中公新書/1990/p72-74

ページを少し飛ばして、「孝」と「礼」について。

孝とは何か、という弟子の質問に対して、孔子はこう答えている。

生〔生きている親〕に〔対して〕は、これに事(つか)うるに礼をもってし、〔親の〕死に〔対して〕は、これを葬るに礼をもってし、〔忌日などに、祖先〕これを祭るに礼をもってす。(『論語』為政篇)

すなわち、死生の上に孝を置き、孝の上に礼を載せている。この礼が社会の規範(それを延長すると最後は政治理論となる)であることは言うまでもない。そして、その礼の基準の役割を果たしているのが、親の葬儀を中心にしている喪礼である。

出典:加地氏/p77-78

礼と形式主義

孔子は、……[親への]愛情や[その死の]悲しみを<形として>表わし、共通の規則あるいは慣行として守ろうとした。すなわち<礼>がその具体的表現である。儒教とは、人間の常識を形として(大小や数量など)表現することでもある。そして、この礼を守ることによって社会の秩序が成り立つと考えた。

もちろん、礼は単なる形式ではない。ほんらい真情の真摯な表現である。孔子は「礼と云い、礼と云う。玉帛を云わんや」(『論語』用貨篇)と述べる。このことばは、「人は礼、礼というが、礼の根本は、それを行なう真情にあるのであって、礼式に使う玉や絹束(帛)の大きさや数がどうこうというのは、端々(はしばし)のことだ」という意味である。この孔子の非難にすでに現れているように、ともすれば、礼は形式に流されやすい。形だけ礼式にあっているが、それをしているときに、ともすれば、心はどこかに行ってしまっている、ということになりがちである。とすると、これもまた偽りとなってくる。

しかし、こうした形式主義への堕落を批判したのが、墨子たちや老子荘子たちである。

出典:加地氏/p109

加地氏はこのように書いているが、そもそも孔子の時代の人々(諸侯・貴族)は、形式的なものを欲して、孔子儒家の主張を採用したのだ。



孔子儒家は「仁」を説いたが、後世の中国を見ると、やはり儒教は形骸化して形式化したとしか思えない。


*1:浅野裕一/古代中国の文明観/岩波新書/2005/p63-64

儒家(3)孔子(「儒」の起源)

wikipediaから引用。

儒(じゅ)の起源については、胡適が「殷の遺民で礼を教える士」として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。

東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした。

出典:儒教#起源 - Wikipedia

つまり、孔子より前の「儒」とはシャーマニズムの一種だったということだ。

加地伸行著『儒教とは何か』(中公新書/1990)を中心に もう少し詳しく書いていこう。

「原儒」

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

加地氏は孔子より前の儒を原儒と呼ぶ。原儒は職業シャーマンで、大半が超能力者の類ではなく、祈祷と葬送儀礼を職業としていた(p52-54)。

岡田英弘氏は原儒について次のように書いている。

本来の儒教[原儒のこと―引用者]は、先祖を祀ることを重んじ、その儀礼をいちいち定めた信仰であった。いわば葬式専門の学派だったらしく、葬式や副葬の儀礼についてはひどくうるさい。墨家の文献に『非儒篇』というのがあり、その中に当時の儒家について書かれている部分があるが、それによると、儒家というのは人が死ぬとやって来て、屋根に上がってホイホイと魂を呼んだり、鼠の穴をほじくって出てこいと叫んだりするので、バカバカしくてしょうがないとある。どうやらこれが儒教の本来の姿、つまり一般民衆の生活に根ざした姿であったようだ。

出典:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC/p179-180

原儒もいろいろな流儀があったのだろう(墨家儒家に批判的、岡田氏は中国に批判的な向きがあることに注意)。

祈祷や葬礼は現代日本では神主や坊さんがやってるが、孔子の時代には原儒がやっていたと思えばいいだろう。

大儒と小儒

儒教とは何か/p56-58)

原儒はもともとシャーマンだったが、いつからか「大儒」と「小儒」の2つの階層に分かれた。孔子はそれぞれ「君子儒」「小人儒」と呼んでいる。いつ分かれたのかは分からないが、私は識字率が上がるのは春秋時代末期の秩序が乱れた時期だと思っているので、孔子の時代かその直前だったのではないかと考える(春秋時代⑨ 孔子の登場 その1 時代背景 )。

「小儒」とは「シャマン系下層の儒」、つまり元来の原儒だ。「大儒」とは「王朝の祭祀儀礼・古伝承の記録担当官と遠く関わりを持つ知識人系上層の儒」。大儒が小儒から派生したということだろう。

もちろん、孔子は大儒(君子儒)に属した(『儒教とは何か』にはそう書いていないが)。

孔子は礼学の塾を開いて門人を集めたが、大儒というものが孔子の時代に確立していたのならば、孔子より前に礼学の塾があり孔子はそこで学んだと想像できるのだがどうだろう。

もう一つ、別の想像をするのならば、大儒の派生が春秋末期とすると、下剋上の徒が成金趣味でハイソな祭祀儀礼をしたいと原儒に依頼したのに対応するように大儒が出来たのかもしれない。孔子は成金の依頼に対応した大儒だったのだろうか。

孔子の学識の根拠はどこにあったのだろう?

夏や殷の礼制に関する孔子の特殊な知識は、いかなる方法で獲得されたのであろうか。孔子は語る。夏王朝の礼制がどのようなものであったのか、わしにはきちんと説明できる。だが杞の国の礼制は、わが学説を証明するに足る徴証とはならない。杞は殷に滅ぼされた夏王朝の祭祀を絶やさぬため、夏の末裔たちを封じた国家で、実際にその礼制に基づいて、各種の祭祀儀礼や国家行事が取り行われていたのである。もとより、長い年月の間に失われた部分もあろうし、変容した部分もあろう。それでもなお、夏王朝の礼制を復元しようとする場合、生きた化石のごとく現存する杞の礼制こそは、依拠すべき最大の物的証拠となるはずである。

しかるに孔子は、杞の礼制では、自分の理論の正しさを証明できないと言う。それでは、「夏の礼は吾能く之を言う」と誇る孔子の礼学的知識は、いったい何を論拠に組み立てられたのであろうか。[中略]

この不可解な現象に対し、孔子はその理由を「文献足らざるが故なり」と説明する。つまり文字資料(文)と賢者が伝える口頭伝承(献)が足らないので、杞や宋で現に実施されている礼制と、自分がそうであったと説明する夏や殷の礼制を埋め、両者を連続させることが出来ないのだ、というわけである。[中略]

要するに孔子は、語るに落ちる形で夏や殷の礼制に関する自分の学説には、ほとんど何の証拠もないと、自ら告白したのである。[中略] 孔子の学説は、ほとんど彼が観念の中に作り上げた、空想の産物だと言わざるをえない。[中略] 「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ」(『論語』為政篇)と教え諭した孔子の学問の、これが実態であった。

出典:浅野裕一儒教 ルサンチマンの宗教/平凡社新書/1999/p30

当時の礼学の大先生だった孔子がこのような知識量だ。

浅野氏の言い分が正しいとすると、大儒の知識はそれほど蓄積されていたわけでもなさそうだ。となると大儒が小儒から派生した時期は春秋時代末期だったのではないか。



儒家(2)孔子(孔子の人生について)

孔子の人生については『史記』の孔子世家に書かれている。「孔子#生涯 - Wikipedia」は基本的に孔子世家をベースに詳述している。

世家は諸侯クラスの家柄の人物伝が書かれているカテゴリーなので、孔子がこのカテゴリーに入れられていることは司馬遷がそれだけ孔子に対して過度な思い入れがあったのではないだろうか。司馬遷が作り話を考えたわけではないにしても、儒家たちが孔子を聖人だったというあらゆる伝説を作り上げていたらしく、司馬遷がこれらを採用したのかもしれない。孔子世家で「最高裁判官である大司寇」にまでなったとされている部分も、孔子に箔をつけるための虚構だと考えることもできる。疑いだしたらキリがないが、弟子たちが孔子を神聖化していたことを留意しておくべきだろう。

ちなみに、孔子の直弟子の子貢が孔子について何を言ったのか引用しよう。

あるとき、叔孫武叔が孔子を非難した。もとより彼は学団外の人間で、魯の大夫である。聞きつけた子貢は論駁する。わが師を非難してはなりませんよ。孔子は決して中傷できないのですから。

孔子への非難がなぜに不可能なのか、子貢はその理由を説明しはじめる。世間の賢者は、譬えてみれば丘陵で、たしかに平地より高くはなっていますが、努力すれば何とか乗り越えることもできましょう。ところが孔子は、並の賢者とはまるで別格、譬えてみれば太陽や月と同じです。どんなに頑張ったところで、太陽や月を足で踏み越えられる人はいないでしょう。たとえ人々が、わが足で太陽や月を走破したいとのぞんでも、どうして太陽や月を土足で踏みつけたりできましょうや。そんなことを考えても、測りがたいまでの孔子の高さを思い知らされるだけです。

出典:浅野裕一儒教 ルサンチマンの宗教/平凡社新書/1999/p73-74

こんなことを言われたら、もはや議論すること自体無意味だ。孔子を批判した叔孫武叔もドン引きだったろう。

子貢のような孔子を神聖視している門人でなくとも、儒家たちは儒教の始祖である孔子を神聖化したことは想像に難くない。どの宗教でもそんな人たちは数え切れないほどいる。

さて、孔子の人生に話を戻すが、要するに孔子の人生は孔子が学団を開いて門人を集めたこと以外は確実なことは分からないということだ。

それでも『論語』の中には『史記』よりは真実が書かれていると考えられているようで、上述の浅野氏は『論語』の中から孔子の人生を抽出する方法を採っている。ただし浅野氏は孔子の人生を「詐欺師的人生」と書いている(p272)。『史記孔子世家とは対照的で面白い。

簡単にその半生を見ていこう。

まず、孔子は門人を前にしてうそぶく。「もし自分を任用してくれる君主がいさえすれば、一年やっただけでも、水準以上の仕事をしてみせる。三年もやらせてもらえば、偉大な性向も間違いなしじゃ」(p16)。裏を返せば、孔子に声をかけるものは誰もいなかった。そして門人の一人が朝廷での職を得ると、彼に対してやっかみや嫌味を言って八つ当たりする。

前505年、魯では陽虎という者が実権を握った。陽虎は季孫氏の家臣だったが反旗を翻して専制を開始した。陽虎は渋る孔子を熱心に誘い、ついにその勧誘を応諾してしまう。

しかし孔子は日頃より季孫氏らが魯の君主を蔑ろにして専制するような下剋上の風潮を非難していた。門人の子路がこれを突いて押し止めようとすると言葉巧みに子路の制止を振り払おうとした(p20-22)。ただし、この登用は実現しなかったらしい。

浅野氏は孔子を「出世主義者、オポチュニスト」としているが、彼の野望はこれに留まらず、最終目標は自らが王となり、魯に新しい王朝を建てることだった。

あるとき、門人の南宮适が孔子に訊ねた。羿(げい)は射撃の名手、奡(ごう)は船を盪(うご)かす怪力。ともに天下に勇名を馳せたのですが、どちらも非業の死を遂げました。一方、禹や稷は、自ら耕す一介の農夫だったのが、最後は天子となって天下をわがものにしましたね。孔子は押し黙ったまま答えなかったが、南宮适が退出したとたん、君子なんだねえあの人は、徳を尊ぶんだねえあの人は、と叫んだ。

出典:儒教 ルサンチマンの宗教/p47

南宮适の問いかけはもちろん暗喩で、武力を誇る2人は春秋の覇者を指す。彼らは最終的には滅ぶ、と。一方、禹や稷のように偉大な徳を持つ者が最後に天下をわがものにする。南宮适は孔子に対して、今は一介の処子にすぎないが、偉大な徳を持つあなたは天下を所有するおつもりなのでしょうね。

孔子は王位簒奪の意思を伺うようなこの危険な問いかけに沈黙を保ったが、南宮适が退出した後に我が意得たりと彼を称賛し、喜びを隠すことができなかった。

下剋上の風潮を良しとせず乱世を憂いて、秩序を復活させるための礼学を教える孔子が、実は自身の理想の王国を建国しようとする野望を持っていた。浅野氏は孔子こそ「乱世の申し子」であると書いている。(p30)

しかし、孔子が王となるチャンスなどおとずれるはずもなく、最晩年は以下のようなありさまだ。

いくらのぞみが、叶わずとも、天を怨んだりはせぬし、人のせいだと責めたりもせぬ。ひたすら地上で学び続け、やがては天の高みに到達するのじゃ。わしを知ってくれるのは天だけぞ。

蛮地に移り住むとか、筏に乗って海に浮かぶとか、もう何も語らぬなどと、孔子は自棄にも似た絶望的言辞を吐き、現実に敗れ去った者が多くそうするように、天に最後の理解者を見出さんとする。

出典:儒教 ルサンチマンの宗教/p63-64

そして『儒教 ルサンチマンの宗教』のカバーのそでには以下のように書いてある。

孔子というみじめな生が、すべての始まりだった。
「貧にして且つ賤」の一介の匹夫が抱いた、
天子にならんとする妄執―そして挫折と怨恨。
それは「受命なき聖人」の神話へと肥大し、
ルサンチマンの宗教=儒教が生まれた。[以下略]

儒教ルサンチマンの宗教 (平凡社新書 (007))

儒教ルサンチマンの宗教 (平凡社新書 (007))



儒家(1)孔子(時代背景)

晋の「覇者体制」が崩壊して無秩序の世の中になった時、諸侯たちは新しい秩序を求めるようになった。その要請に答えたのが孔子であり儒家儒教であった。

これより数回に亘って孔子および儒教について書いていくが、この記事では孔子が登場した時代背景を書いていく。

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湯島聖堂にある孔子

出典:孔子 - Wikipedia *1

国内外における秩序の崩壊

春秋時代は以前に書いた通り、「覇者体制」によって晋が支配し、混乱は少なくなかったけれども、一定の秩序を保っていた。(晋の文公/晋による覇者体制 )。しかし前6世紀後半にこの体制は弛緩し、前6世紀末に崩壊する。この秩序の崩壊により、弱肉強食の戦国時代に突入していく。

さらには、諸侯国間の秩序崩壊と同時に、諸国の国内でも秩序が乱れ内乱が続発するようになった(支配階級の変遷 )。

知識人の増大

弱肉強食の実力主義の時代に入り、負け組は職を失ったり逃亡・亡命しなければならなかった。他方、勝ち組の方も統治機構に必要な人材が不足することとなる。

そして、勝ち組は有用な人材の補充に迫られ、負け組は別の国へ移って職を探したり、あるいは学問集団を作った。

そして負け組ではない人々も職(あるいは権力)を求めて学問集団へ入会したり独自に学んだりして知識を得た*2

こうして知識人の裾野が広がった。

諸子百家の幕開け

諸子百家とは「中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称」だ*3。学問の隆盛は戦国時代に入ってからになるが、春秋時代から始まる。そして諸子百家の筆頭にくるのは儒家であり、孔子だった。

知識人の拡大により、玉石混交のアイデアが世に披露され、その中で秀でたものだけが後世に残る。孔子の思想もその一つだ。

以下は儒教に関する引用。

天の崇拝は中東から中央アジア北アジア遊牧民の間に広く見られます。孔子の時代の中国では、すでに定着農耕が広く行われていましたので、農耕民の間では、天は母なる大地に豊かな稔りをもたらす父の威力と感じられていました。

古代、天は天帝ともいわれる人格神として信仰され、王朝の君主は天帝の意志によって立てられたり、廃されたりするものと考えられていました。こうした天帝信仰を背景として、知識人の間では、天を世界のあらゆる物事を律する法則とみなす思想が生まれてきました。そして、やがては宗教的な信仰とは別に、孔子のように世俗的・非宗教的な道徳思想や哲学が中国に盛んとなっていったのです。

出典:呉善花/日本人として学んでおきたい世界の宗教/PHP/2013/p211-212

天の崇拝は周王朝が中原にもたらしたもので、周王朝が健在だった時には上のような議論をすることはおそらく恐れ多くてできなかっただろう。それが議論できるようになったのは、周王朝の権威の失墜とその権威の守護者を自任していた晋の権力の失墜のせいだろう。

このような学問の自由は、秦による中華統一の中で圧迫され焚書坑儒の号令で煙となって消滅した。もしかすると現代まで続く中国史の中で学問の自由が一番あった時代はこの時代なのではないだろうか。

時代に要請された孔子の登場

周王朝の朝廷では、定まった期日に、天地や祖先神、山川の神霊を祭る祭祀儀礼が行われた。また天子の即位や葬儀、諸侯や使節の入庁などに関しても、煩瑣(はんさ)な儀礼が執り行われた。人々はこれらの儀礼を唯一の行動規範と仰ぎ、それに厳格に従って行動するように求められた。礼法に服従し続ける限り、人々は自己の主体的な意思や感情のままに、好き勝手に振る舞うことを禁じられ、身分制に基づく一定の様式の下に、常に身のほどを思い知らされながら、受け身の言動を取らざるをえなくなる。したがって王朝儀礼の遵守は、人々を天子の権威に服従させ、王朝体制を強固に維持する上で、重要な役割を果たす。体制側の人間、保守的な人間が、決まって儀礼の尊重を口にするのは、そのためである。

だが封建された諸侯の力が強大になって、天子の命令に従わなくなれば、彼らは当然、周の王朝儀礼をも無視しはじめる。特に有力な諸侯は、天子が独占してきた儀礼を自国の朝廷内で勝手に実施し、己の分を超えて、自らを天子に擬す僭越をくり返す。

このように王朝体制の弱体化と王朝儀礼の衰退とは、表裏一体の現象であるかのように進行する。そこで王朝儀礼をもう一度復活させれば、王朝体制の弱体化も阻止できるとの発想が生じてくる。そのために、失われつつある古代の礼制を復元しようとするのが、礼学とよばれる学問である。

出典:浅野裕一/古代中国の文明観/岩波新書/2005/p63-64

儒教は、日本では道徳の教えのように思われているが、その本質は礼学だった。

礼学は上に書いてあるように、TPOにおけるマナーについての学問だけではなく、上下関係を含む秩序の論拠を示す、つまり現状の上下関係を正当化して秩序を築くための学問である。

ただし孔子は周の王族でもなければ、諸侯の系譜ですらない。彼は下級役人か庶人と言われている。結局のところ、孔子の礼学はわずかな断片的な情報を思い込みで繋げたシロモノでしかなかった。

このような人物が教える礼学が採用されたのだから、よっぽどこの時代は混乱していたのだろう。

孔子の人生や思想については次回書こう。



*1:著作者:あばさー - 本人撮影

*2:役人になれば賄賂は取り放題。中国の官吏の生計は賄賂で成り立つ。清官三代

*3:諸子百家 - Wikipedia

諸子百家とは?

これから諸子百家について書いていく。儒家墨家などは別の記事で書くとして、ここでは諸子百家とはなんぞやということについて書いていく。

諸子百家とは?

中国の戦国時代 (前 403~221) に輩出した多数の思想家の総称。「子」とは先生,「家」とは学派のことである。『漢書』によれば,189家があげられており,儒家道家陰陽家,法家,名家,墨家縦横家,雑家,農家,小説家の 10派に分類されている。ほかに兵家があり,なかでも,思想的に重要なのは,儒,道,墨,法の4家であった。諸子百家 (用例の初出は前漢史記』の賈誼伝) のなかにすでに中国的思考のあらゆる原型が出ており,後世の思想史の最大の要素,源泉となった。

出典:諸子百家(しょしひゃっか)とは - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典<コトバンク

歴史

無秩序の時代(春秋末期~戦国初期)

春秋時代末期、それまで覇者として君臨していた晋をはじめ、各諸侯国内で権力争いが激化して秩序が乱れた。身分秩序が揺らいで下剋上が起こる状況で各地の権力者は有能な人材を集めるようになった。

このような状況で、思想家個人が門人を集めて学団を形成するようになる。この先駆なる人物が孔子で、彼は礼をもって秩序を回復し国を統治することを訴えた。これに墨家が続き孔子儒家と対立するように勢力を増していった。道家老子(老耼、ろうたん)や兵家の孫武孔子と同時代の人物だ。

春秋時代末期から戦国時代初期までの学団の門人は、『墨子』によれば、どうやら高級官僚に仕官することを目指す人々だったようで、思想を身につけることはその手段に過ぎなかったようだ。現代日本で言えば、松下政経塾のようなものかもしれない。

百家争鳴、隆盛期(戦国中期)

諸子百家が隆盛の時期を迎えるのは戦国中期に入ってからだ。この頃になると斉の威王が王都・臨淄の城門のひとつである「稷門」の近くに学堂を構えて各地から学者を募った。これら学者を「稷下の学士」、学問(=思想)を「稷下の学」と呼ぶ。

稷下の学士は、直接斉の政治に関与する人々ではなかったが、卿につぐ次官級の俸禄を与えられて優遇された。人数は、数百人から千人ともいわれている。おそらく彼らは斉の政府が政治を行う上での案を採る対象として招かれた、もしくは集まった人々であると思われる。しかし、中には例外もいる。稷下の学者村の初代村長となった淳于髠は、何度も他国に使節として派遣されている。

出典:稷下の学士 - Wikipedia

儒家墨家・法家・兵家に加えて、縦横家陰陽家・農家・名家など様々な思想が出現するが、これらは戦国中期にまでには出揃っていたという*1

これらの諸子により、世界のあるべき姿や、国家の望ましい統治方法、理想的人間像などについて、多彩なアイデアが提出された。彼らは門人を引き連れて各地を遊説し、行く先々の君主に対し、自己の理想を受け入れるよう弁論活動を繰り広げた。

当然、異なる学派があちこちで鉢合わせする結果となり、至る所で論争が展開された。論戦に敗れると、騶衍との論争に敗北した公孫龍が、客として厚遇してくれていた平原君から退けられたように君主の保護を失ってしまい、経済的に困窮することにもなるため、学派間の論争は熾烈を極めた。そうした論戦の過程で、異質な思想同士が刺激し合って、相手から新しい要素を取り入れながら、それぞれの学派はさらに思索を深めていく。

出典:浅野裕一/図解雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p36

諸子百家 (図解雑学)

諸子百家 (図解雑学)

  • 作者:浅野 裕一
  • 出版社/メーカー: ナツメ社
  • 発売日: 2007/04/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

臨淄だけでなく ところ構わず侃々諤々と論戦を繰り広げていたわけだ*2

そして引用にあるように、別の学派からも相互し合っていた。

その思想は様々であり、政治思想や理想論もあれば、実用的な技術論もあり、それらが渾然としているものも多い。墨家はその典型であり、博愛主義や非戦を唱えると同時に、その理想の実践のための防御戦のプロフェッショナル集団でもあった。儒家も政治思想とされるものの、同時に冠婚葬祭の儀礼の専門家であった。兵家は純粋な戦略・戦術論を唱える学問と考えられがちであるが、実際には無意味な戦争の否定や富国強兵を説くなどの政治思想も含んでいた。

出典:諸子百家 - Wikipedia

ほかに重要なのは やはり文字使用の拡大だ。戦国時代は まだ紙が発明されていないため、細長い竹に書いた。これを竹簡という。木製バージョンは木簡。ひとまとまりの竹簡を紐で結んで一冊の読み物にした。これとは別に絹布に書かれた帛書というものも戦国時代の墓地から発見されている。

有名なものの一つは郭店楚簡というもので、「郭店楚簡 - Wikipedia」で簡単に説明されている。膨大な竹簡は前300年頃に造影された墓地から発見されたので、「成書時期は紀元前300年を下ることはなく、およそ戦国時代の中期とみられている」。内容は儒家道家の類だ。

このような思想書が(ごく一部かもしれないが)流通していた*3 *4

これらの学を修めた人々が仕官したり、前述の平原君のような有力者の庇護下に入ったりした。

吉本道雅氏によれば、遊士(遊説家)の活躍は前320年以降に頂点に達したという。有名なところでは秦の宰相・張儀(?~前310年)や燕などの宰相を勤めた蘇秦(?~前284年)。「『戦国策』は、合従連衡に携わった遊士の弁論を載せるが、前329年~前280年の半世紀に属するものが6割以上を占める」とある。(中国史 上/昭和堂/2016/p55)

百家争鳴の終焉(戦国後期と秦帝国統一以降)

秦の独走が決定的になると、縦横家の口舌による外交はもはや無用のものとなり、戦国諸国では、国制の合理化が急速に進む。その帰結が秦漢専制国家である。現行の諸子百家の文献のほとんどは、この時期に成書したが、『管子』『司馬法』『周礼』『商君書』などは、来るべき理想国家のモデルを示すべく編纂されたものである。秦の相邦・呂不韋(?~前235)の『呂氏春秋』編纂など、思想統制の趨勢が現れ、儒家では孟子楽天的な性善説を否定する荀子(前340?~前245?)の性悪説が登場し、その弟子で法家の韓非子(前280?~前233)は、奸臣に騙せれない国君の心得に議論を矮小化した。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p56‐57(吉本道雅氏の筆)

そして秦による中華統一後び有名な焚書坑儒により、諸子百家の歴史は断絶する。

秦の始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越(中国語版)は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。『史記』によると、丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって現政府を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて挟書律(医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令)を制定した。

これにより、民間人が所持していた書経詩経諸子百家の書物は、ことごとく郡の守尉に提出させ、焼き払うことが命じられた(焚書)。李斯は、秦の歴史家によるものを除いてすべての史書は燃やすべきであると主張し、各諸派によって書かれた書物は、地域の官僚に処分をするよう命令が出された。儒教の経典である六経のうちの『楽経』はこの時失われ、漢代に五経として確立された。

翌(紀元前212年)、盧生や侯生といった方士や儒者が、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺した(坑儒)。ただし、その後も秦に仕えた儒者はおり、陳勝呉広の乱が起きた際に二世皇帝胡亥が儒者の叔孫通に諮問している。

紀元前206年、漢の高祖劉邦が秦を滅ぼしたが、依然として挟書律は現行法であり、その後恵帝4年(紀元前191年)11月になってようやく廃止された[1]。また、『韓非子』和氏篇には商鞅に仮託して、挟書を政策として採用すべきだと議論しており[2]、李斯の独創ではなく、戦国末期には法家によって提案されていた政策だった。

出典:焚書坑儒 - Wikipedia

前漢代に挟書律を解かれた後に思想界は再出発した。秦帝国がわずか13年ほどで滅亡したので戦国末期の学者は健在であっただろう。また焚書されずに済んだ書籍も少なからずあったようだ。

それでも思想界に百家争鳴のような賑わいが戻らなかった。どうしてだろうか?

[戦国時代において]既存の体制が日々崩壊していくにもかかわらず、未来への展望は全く開けてこない混乱状態。一般の民衆にとっては迷惑この上ない時代なのだが、思想家にとっては絶好のチャンスが到来した時代でも有った。もしかしたら、世界は自分が案出した構想通りに統一されるかもしれない。自分の思想が地上に実現されるかもしれない。そうした可能性が現実に存在したからである。こうした夢が氏桜花を勇気づけ、彼らを膨大な思索と著述、情熱的な遊説活動へと駆り立てた。[中略]

一方、各国の君主の側も、積極的に諸子の遊説を受け入れ、しばしば客として厚遇した。諸侯もまた、国家の安定的統治策や、敵国の脅威への対応策などを模索しており、遊説に訪れる諸子から、何か有益な秘策が得られるのではないかと期待したからである。しかも高名な学者を賓客として迎え入れることは、君主の名声を高め、国威を発揚する手段ともなったから、なおさら諸侯は諸子の来訪を歓迎した。

諸子百家が盛んに活動し、中国学術史上、稀有な黄金時代を築いた背景には、こうした歴史的状況が存在していた。だが秦の思想弾圧を経て漢代に入ると、かつて諸子百家の思想活動を支えていた社会状況そのものが失われてしまう。たしかに漢は秦と違って、学術を保護・奨励する方針をとった。しかし諸子の活動にとって何より重要だったのは、上記のような世界の分裂状態だったのである。

出典:浅野裕一/図解雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p42

後漢以降、「分裂状態」は何度もあったが、諸子百家の状況が出現しなかったのはなぜなのだろうか?よく分からない。

当てずっぽうで書いてみると、戦国時代は中華統一後にどのような政治体制にするのか決まっていなかったが、後漢後は、「秦漢専制国家」というモデルが存在していたので、戦国時代ほどの思想界の隆盛は出現しなかったのだろう。

百家争鳴の世界史的な位置と重要性

諸子百家」は中国史において初めて思想の探求が流行した時代だった。このような時期はどの地域でも有ったそうで、ヤスパースはそのような時期を枢軸時代と呼んだ(枢軸時代 - Wikipedia)。

枢軸時代については記事「四大文明から三大文明圏へ(枢軸時代/遊牧民)」で書いたので詳細はそちらに譲る。

諸子百家のところだけ抽出する。

それ以前の素朴な呪術的・神話的思惟方式を克服して、あれこれの日常的・個別的経験を超えた普遍的なるもの……を志向し、この世界全体を統一的に思索し、そのなかにおける人間の位置を自覚しようとするものであった。じつにここに人間の精神史が始まったというべきである。……中国の精神文明は現在にいたるまで本質的にこの時代に形成されたものをそのまま持続させている点も、ここに注目しておかなければならない。われわれが今日、東洋の思想的遺産として語っているものは、本質的にこの時期につくられたものにほかならない。

出典:伊東俊太郎/新装版 比較文明/UPコレクション/2013(初版は1985年出版)/p68

そういうわけで、戦国後期の百家争鳴が中国の文化の土台となっている。



*1:浅野裕一/図解雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p36

*2:余談だが「喧喧囂囂(けんけんごうごう)」と 「侃侃諤諤(かんかんがくがく)--NHK放送物価研究所」というウェブページがあったので備忘録

*3:流通手段は出版ではなく書写

*4:郭店楚簡の出どころの墓地の被葬者は楚の太子の教育係ではないかと言われている--佐藤信弥/中国古代史研究の最前線/星海社/2018/p232

春秋時代⑧ 中華思想の形成

晋の文公が覇者となり、中原の諸侯国を支配したこと、そして晋国の君主が覇者を世襲したことは以前の記事で書いた(春秋時代④ 晋の文公/晋による覇者体制 )。

この支配体制の期間で、諸侯たちの間で文化が共有された。その文化が現代まで続く中国文化の起源になったようだ。

その一つに「中華思想」というものがある。今回はこれについて書いていこう。

中華思想

まずはwikipediaの簡潔な説明から。

中華思想は、中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する考え方で、漢民族が古くから持った自民族中心主義の思想。自らを夏、華夏、中国と美称し、王朝の庇護下とは異なる周辺の辺境の異民族を文化程度の低い夷狄 (蛮族) であるとして卑しむことから華夷思想(かいしそう)とも称す。

出典:中華思想 - Wikipedia

こういった自民族中心主義は洋を問わずある。特に古代は国家・勢力・文化の境界を示すものとして、このような区別が用いられた。

次に吉本道雅氏の説明。

晋を中心する持続的な外交関係は、それにともなう「礼」を規範化した。「礼」を共有する中原諸国は自らを「諸夏」と称した。中原を「禹跡」(禹の足跡)とし、禹を夏王朝の開祖とする観念がすでに共有されていたためである。これに対し、なお国家を形成していなかった戎狄は、同盟に安定的に参加し得ず、「礼」から排除された。諸夏と異族を対比することは秦景公(前576~前537)政策の青銅器銘文に「蛮夏」と見える。中原に雑居していた戎狄は、戦国時代までには国家を形成して「諸夏」に参加するか、辺境に駆逐されるかして消滅した。『詩経』の大雅には、「中国」「四方」の対比が見える。この「中国」は周王朝都城ないし王畿の意味だが、戦国時代には、これを援用して「中国」「四夷」の対比が出現した。こちらの「中国」は「諸夏」の住まう中原を指し、辺境化された四方の野蛮人たる「四夷」―東夷・南蛮・西戎北狄という呼称は五行思想に基づき四種類の野蛮人を四方に割り振ったものである―に対比するものとして再定義されたものである。ここに「中華」(「華」は「夏」に通づる)思想が完成することとなる。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p44(吉本道雅氏の筆)

  • 戦国時代までに邑制国家(都市連合国家)から領域国家に変わる過程で、中原に雑居していた戎狄が駆逐される。

晋の覇権を強化するために蛮夏の区別を強調したのかもしれない。

ヒトラーユダヤ人を敵にしてドイツ人の一致団結を果たしたが、まあ、どこの地域も探せば同じような歴史をもっているだろう。

次に、石平氏の説明。

中華思想とは要するに、中国の王朝と皇帝をこの世界の唯一の支配者とし、中国の文明はこの世界の唯一の文明だと自任する一方、周辺の民族は皆野蛮人であるから、中国の王朝と皇帝に服従中国文明の「教化」を受けなければならない、という考えである。

現代社会のわれわれの価値観からすれば、このような自己中的な考え方はあまりにも荒唐無稽であるが、中国人自身は昔から、真剣にそう思っているのである。そして、このような荒唐無稽の「中華思想」の源は、やはり儒教である。

たとえば『論語 八佾第三』には、孔子の次のような言葉が載せられている。

「子曰く、夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かず」

現代の日本語に訳せば、「野蛮人の国にいくら君主があったとしても、中国に君主が無い状態にも及ばない。」となるが、周辺の国々を徹底的に貶める一方、というよりも周辺の国々を徹底的に貶めることによって中国を持ち上げるという言い方である。孔子の発したこの言葉はまさに中華思想そのものであり、中華思想の発祥ともいうべきものであろう。

孔子は、ここで周辺の国々や民族のことを「夷狄」という差別的蔑称で呼んでいるが、実は中国では古来より周辺の諸民族を「夷蛮戎狄」と呼んでいて、獣同然の野蛮人だと見なしている。

出典:石平 「中華思想」の源は儒教 | Web Voice

中華思想を正当化・体系化していったのは、孔子の弟子筋が作った儒教だったのだろう。石平氏儒教を政治権力を正当化する「御用思想」と言っている*1

日本人は中華思想と言えば、朱熹あるいは朱子学を思い起こすかもしれないが、朱熹中華思想は体系化の完成形(の一つ)だ。



現代の中共政府あるいは中国人は中華思想を今も抱いているそうだ。困ったものだとも思うが、ヨーロッパ人もヨーロッパ中心主義を今も抱いている人もいるだろう。問題は中共政府が中華思想を掲げて他国を覇権国家になろうとしているところだ(石平氏がそのように主唱している)。

*1:なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか/PHP新書/2018/p15

春秋時代⑦ 支配階級の変遷

今回は春秋時代の支配階級の変遷について書いていく。

諸侯国内の階層

諸侯のもとには卿・大夫・士・庶人・工商および隷属民の身分があった[中略] 。[春秋時代初期の東遷期には、]中原の有力諸侯国が周辺の小国を併合して領域を拡大した。この結果、邑田を獲得して有力化した家系が、卿や大夫上層を独占的に世襲して世族を形成する。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p41-42

金文*1には大夫・士の身分は確認されていないので、東遷期にこの身分が有ったかどうかは疑問が残る。このような身分は『春秋左氏伝』を参照したと思われ、『春秋左氏伝』は『周礼(しゅれい)』という西周代の制度について書かれたものに依っている。ただし『周礼』は戦国時代に書かれたもので、信頼性に疑問が持たれている*2。ただし、ここで否定してしまうと話が続かなくなるので、便宜上、上のような身分があるという前提で話を進める。

本来貴族は諸侯の家系と血縁関係があるものだったのだろうが、これが邑田(所領)を獲得して有力化した家系が取って代わって世族となった。ということはこの時点で一種の下剋上が起こったといってもいいのではないか。これにより諸侯の一族の権力は大幅に削られたことだろう。

晋の覇者体制からの社会の変遷

晋の覇者体制については、記事「春秋時代④ 晋の文公/晋による覇者体制」で書いた。この時期は春秋時代中期と言われる。

中原諸国では、すでに世族が卿位を独占していたが、晋が同盟内部の紛争を禁じ、邑田を獲得しえなくなった結果、後発家系の成長は抑制され加えて晋が同盟国の政権安定を望んだため、世族の地位は一層強化された。当時の中原の政治社会的秩序は、全中原的な覇者体制と各同盟国の世族支配体制により相互補完的に構築されていた。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p44(吉本道雅氏の筆)

覇者体制で強化された世族たちの地位は、覇者体制とともに弛緩・崩壊に向かう。

前546年の弭兵の会により晋楚の同盟が成立し、覇者体制の存在理由が亡くなってしまった。

晋の軍事的規制が弛緩すると、中原諸国では、世族支配体制のもとに蓄積された、世族間、世族とその他支配層(国君の分属である公子や大夫層)、世族宗主と一般成員の矛盾が一挙に噴出することになり、内乱が続発する。

出典:吉本氏/p44

春秋期の上のようなシステムは内乱の中で崩壊していった。新しいシステムは戦国時代とともに形成される。



*1:青銅器に銘記されている文章。貴重な同時代資料

*2:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p224(ひらせ たかお氏の筆)