歴史の世界

中国文明:二里頭文化④ 二里頭遺跡と新石器時代末期の違い/「夏王朝」の関係

二里頭文化は文字資料が無いため、よく分かっていない部分が多い。

二里頭文化が中国文明の黎明期と考えられているが、新石器時代と二里頭文化は何が違うのだろうか?

また、二里頭文化を夏王朝とする研究者がいるが、その真偽はどうなのか?

二里頭文化期と新石器時代末期の違い

現代中国のここ数十年の急激な発掘・研究により、後期新石器時代末期において中国各地で文化が発達し、その中の幾つかの大集落は都市文明の段階にまで到達していた。

特に新石器時代で最大の集落と言われる陶寺遺跡は中国では「最古の帝都」「堯の都」と言われている。

日本の学会で新石器時代末期を初期国家段階とするか首長制社会段階とするかというような議論がどのように為されているのか分からないが、たとえば吉本道雅氏は以下のように書いている。

国家とそれ以前の社会を分かつ指標としては、階級分化のほかに、都市・冶金術・文字の出現などを挙げうるが、龍山期[新石器時代末期―引用者]にはこれらの要素はほぼ出揃っている。

出典:概説 中国史 上(古代ー中世)/昭和堂/2016/p24(吉本道雅氏の筆)

これに対して、宮本一夫氏はまだ首長制社会段階であったとする。

その理由としては要するに首長権の系統を維持することができなかったとする(宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p356)。おそらく世襲できなかった、王朝を建てることができなかった、だから国家段階ではない、と言いたいのだと思う。

そして宮本氏は、二里頭文化期から初期国家の段階に入ったとする。その理由は各地の「社会組織維持のための精神基盤」すなわち際し儀礼を取り入れた、新しい祭祀儀礼として「宮廷儀礼」というものを確立したことを挙げている。(p356-357)

宮廷儀礼は自然信仰(五穀豊穣など?)と祖先信仰を合体させた祭祀になってるという(p316)。

精神面(宗教・思想)は上の説明で良いとして、具体的な面、つまり軍事や経済の面ではどうだろう?

これらのことに関する情報を見つけられなかったので私が勝手に考えると、青銅器がキーワードになると考えられる。

銅鉱山・製造技術を独占すれば、持てる者と持たざる者の格差は圧倒的なものになる。ステータスシンボル(威信財)としての青銅器だけではなく、武器としても他を圧倒する力となっただろう。

これが初期国家段階への進化を可能にしたのではないだろうか。

いずれにしろ、二里頭文化は先史時代から歴史時代*1への過渡期であり、宮本氏によれば「本格的な初期国家の段階は殷王朝の統治から」(p358)ということだ。

二里頭文化と「夏王朝」の関係

現代中国では、二里頭文化の王朝を『史記』などの古い文献に出てくる夏王朝だと断定している。日本の研究者は賛否が分かれる。

そもそも二里頭文化の発見者である徐旭生は夏王朝の王都(夏墟)を、文献上の夏王朝に関する伝承を元にして探し当てたのだ*2佐藤信弥/中国古代史研究の最前線/星海社/2018/p65-68 参照)。

「二里頭文化=夏王朝」説を否定する落合淳思氏は以下のように書いている。

なお二里頭文化の王朝は、文献資料に記された「夏王朝」と同一視されることもあるが、両者は想定される時代が近いものの、内容に食い違いが大きい。

例えば、文献資料では夏王朝の支配が「九州」であったとされているが、「九州」には沿海地域の兗州・青洲・徐州、あるいは長江流域の揚州・荊州・梁州などが含まれており、黄河中流域のみを支配した二里頭文化の王朝の実態とは異なっている。また、最後の王である桀が暴君であったとする伝説が知られているが、紂王の「酒池肉林」伝説と酷似しており、それを模倣して作られたものにすぎない。

ようするに、「夏王朝」は後代に作られた神話であり、二里頭文化に実在した王朝とは直接の関係がないのである。日本では、このことがよく理解されており、便宜上「夏王朝」と呼ぶことはあっても、文献資料の記述をそのまま受け入れている研究者はほとんどいない。しかし、中国ではいまだに文献資料の権威が強く、桀王の説話などを信じている研究者も見られるので注意が必要である。

ちなみに、二里頭文化に実在した王朝については、名前が伝わっていない。そもそも、二里頭文化に続く「殷王朝」も自称ではなく殷を滅ぼした周王朝による命名であり、おそらく王朝の名前を付けるということ自体が周代に始まった文化であると考えられる。

出典:落合淳思/殷―中国史最古の王朝/中公新書/2015/p18-19



できれば日本の研究者に後期新石器時代最大の大集落である陶寺遺跡(山西省)と二里頭遺跡の比較をしてもらいたい。

陶寺遺跡は、中国では「最古の帝都」「堯の都」と言われている。遺跡の面積は56万m²(0.56km²)以上。

近年発見された宮城は13万m²だと言う。(山西陶寺遺址 發現陸現存最早宮城 2017/06/09 | 兩岸 | 中央社 CNA )。

*1:文明誕生の前後、文字資料の有無の違い

*2:ただし、当初本人は殷王朝初代湯王が置いた都「西亳(せいはく)」だと主張していた

中国文明:二里頭文化③ 二里頭遺跡/中国で最初の国家誕生

ようやく二里頭文化の中身について書いていく。

二里頭遺跡は中国最初の国家・王朝の王都となる場所だ*1

二里頭遺跡から発した文化を二里頭文化と呼ぶ。現代中国では二里頭文化を「夏王朝」だと断定している。日本では賛否があるがその比率はわたしには分からない。

この国家は謎だらけでどのような国家だったのか詳細は分かっていない。

時代区分

  • 1期(前1800-1740年)
  • 2期(前1740-1610年)
  • 3期(前1610-1560年)
  • 4期(前1560-1520年)

以上の時代区分は宮本一夫著『中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)』*2に載っている夏殷周三代断代工程*3の時代区分。

宮本氏によれば、1期は「新砦文化」に並行する。

新砦文化とは黄河淮河のあいだにある新砦遺跡*4を中心とした文化。新砦文化の時期、この遺跡は周辺で最も大きく、周囲を支配していたと考えられている。

これに対して、二里頭遺跡1期は「小規模な集落が2、3散在する程度の洛陽平原のなかでもありふれた場所にすぎなかった」*5

二里頭遺跡2期に入って、この遺跡が周囲の中心遺跡となる。二里頭遺跡が国家と呼べるほどになるのは2期に入ってからだということだ。

さらに、青銅器が本格的に使用されるのは3期に入ってから、という。後期新石器時代の終わりを前2000年としていたが、結構なズレが生じることになる。

大雑把な時代区分だと二里頭文化は「初期国家の始まり」で、且つ「青銅器時代の始まり」でもあるのだが、詳細を見るとズレがある。ココらへんはどの地域どの時代でも有る話だと思う。

1-2期/国家誕生

二里頭遺跡の1期については上記の通り。「Erlitou culture#Phases - Wikipedia英語版」によれば、1期の遺跡の範囲の面積は1km²*6

2期の範囲は、東西の最長が2400m、南北の最長が1900m、面積は3km²*7、人口約11000人。

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出典:江村治樹/河南竜山・二里頭・殷周都市の特質/2011(pdf

  • 長方形の宮城の城壁は3期に造られる。

上の地図の2号(宮殿址)の下に3号宮殿址がある。2号宮殿址は3期、3号宮殿址は2期のもの。

2号宮殿址は南北150m東西50mの大型建築で、回廊で囲まれた北院・中院・南院の中庭から成り、中院が主殿、その他は中型墓が5基配置され、銅器や玉器などの副葬品が遺っていた。

3号宮殿址と同時代には、他に5号宮殿址、祭祀区域、青銅工房区域が発見され、道路の区画を伴う都市計画があったことを確認できる。(宮本氏/p313-314)

宮本氏は、林巳奈夫氏の首長を参考にして、2期から宮廷儀礼が始まった可能性があった可能性があるとしている。(p316)

宮廷儀礼とは宗廟(始祖の廟)で行う祖先祭祀と自然神に対する儀礼を結びつけたもの、らしい。(同ページ)

この宮廷儀礼とは、まさしく為政者の権力を始祖の廟において行使し、その権限を正当と認めさせるものであったのであろう。こうした儀礼の存在は、まさに王権に近い状態であったと考えざるを得ないのである。

出典:宮本氏/p316

宮本氏はここを重要視して、新石器時代後期(末期)の強大な権力を持つ首長の「首長権」と二里頭文化以降の王権を分けようとしている。

3-4期

3期は内部だけではなく、外部へも発展していった時期だ。

3期で上の地図の宮城の城壁が築かれる。この時代に1号宮殿址と2号宮殿址の大型建築物が造られる。1号は9600m²、2号は4200m²。人口は約24000人(Erlitou culture#pheses - Wikipedia英語版 )。

3期に青銅器が本格的に採用される。青銅器は中期新石器時代には中国西北から導入されていたようだが、3期以前は(または同時代の中原以外の場所では)工具・武器・装飾品に使われる程度だった。

中原ではこれを身分階層を表すものとして採用された。製造技術も発達した。

二里頭遺跡に置いては王墓に相当するような大型墓が発見されていない(未発見なのか存在しないのかも分からない)らしい(p322)が、墓の副葬品を見ると最上位の階層にだけ青銅器(酒器や楽器、武器など)が用いられている。さらにこれらの青銅器は二里頭遺跡でしか発見されていない。つまり、青銅器の副葬品が身分標識の役割を持っていることになる。(p320-324)

さて、外側への発展を見てみよう。

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出典:宮本氏/p344

この図の網掛け部分が直接支配していた範囲でその外側(王湾3期文化より一周り大きくした範囲)はおそらく服属した首長たちが支配していたのだろう。土器の型より3地域に分けられているようだが、これが政治的な区分と重なるかどうかは明確ではない。

宮本氏によれば、中条山脈は銅鉱山や岩塩が豊富な場所で二里頭遺跡の重要な物資の供給地であったと考えられる。また玉器の材料も文化圏内から「貢納」されたのかもしれない。

文化面での広がりは四川や遼河西部に及んでいた。これらの地域では土器など二里頭文化を模した遺物が発見されている。(p345-346)

また二里頭遺跡から遠く離れた場所から、交流の痕跡が政治的・文化的な広がりとは関係なく散見される。玉璋と呼ばれる玉器の一種の遺物が陝西省北部、四川省成都平原、長江中流域、東南沿海部、広東、香港、さらにベトナム北部の遺跡から見つかっている。(世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p71-72(西江清高氏の筆))

上の地図では、二里頭文化圏の外に先商文化(下七垣かしちえん文化)と岳石文化*8が描かれている。これらの文化は二里頭文化に服属していない別の文化圏だ。

4期になると衰退して廃絶する。人口は約20000人*9。衰退の詳細は分からないが、二里頭文化は殷の勢力である二里岡文化に取って代わられた。王朝が交代した。



*1:後期新石器時代の大集落(囲壁集落)を国家とする研究者もいるようだ

*2:講談社/2005年/p309)

*3:夏商周断代工程。夏商周年表を作成したプロジェクトを指し、具体的な年代が判明していなかった中国古代の三代について、具体的な年代を確定させた中華人民共和国の第九次五カ年計画のプロジェクトの1つ。夏商周年表プロジェクト - Wikipedia 参照

*4:前回の記事「二里頭文化② なぜ洛陽盆地は生き残れたのか#王湾3期文化から二里頭文化へ」で少し触れた。地図も参照。

*5:小澤正人・谷豊信・西江清高/中国の考古学/同成社/p163(西江清高氏の筆)

*6:キロ平方メートル

*7:キロ平方メートル

*8:山東龍山文化崩壊後にできた文化。高度な文化は継承されていない

*9:Erlitou culture#Phases - Wikipedia英語版

中国文明:二里頭文化② なぜ洛陽盆地は生き残れたのか

記事「後期新石器時代 その8 新石器時代末期の終焉」で書いたように、新石器時代の末期に地球規模の気候変動(寒冷・乾燥化)が起こり、中国本土の各地の文化が崩壊・衰退した。

そんな中で洛陽盆地を含む黄河中流域にあった王湾3期文化(中原龍山文化の中の一つ)だけが生き残った(二里頭遺跡の集落は王湾3期文化圏の中で発展していった)。

なぜ洛陽盆地を含む王湾3期文化は生き残れたのか?

この記事では洛陽盆地とその一周り大きな地域の王湾3期文化について書いていく。

王湾3期文化から二里頭文化へ

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出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p296

中原龍山文化は上図のように分けることができる。

この中で陶寺文化の陶寺遺跡は、中原龍山文化の中で最も大きな大集落であったが、新石器時代末期あたりに戦争によって破壊され、衰退した。

陶寺文化繁栄期の王湾3期文化は中心集落を持たず、小集落が分散していたが、新石器時代末期から青銅器時代の変わり目(国家・王朝の誕生期)に中心集落ができるようになった。

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出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p124

+図中の「密新群」は「新密群」の誤記だと思われる。

上図のように二里頭文化期(青銅器時代の最初の文化)において洛陽盆地を中心に集落が集中するようになった。

ただし、宮本一夫氏によれば(宮本氏/p300-303)洛陽盆地(二里頭遺跡)が繁栄する前に河南省新密市にある新砦遺跡が中心集落になり、潁河・北汝河(単に汝河とも言う)流域の集落を服属させていた。*1

この短期間の流動は気候変動による新石器時代末期の各地域の文化の崩壊*2と関係があるかもしれない。

つまり、各地で崩壊した文化圏(具体的には山東龍山文化、良渚文化、石家河文化など)から押し寄せてきた人々がこの地域を揺り動かしたのかもしれない。

なぜ、洛陽盆地は発展できたのか

まず、なぜ洛陽盆地は気候変動(寒冷・乾燥化)の中で生き残れることができたのか

西江清高氏の推測によれば、黄河流域・長江流域が「単作型の農耕経済(それぞれアワ・キビ農耕、稲作農耕)だったのに対して、王湾3期文化は両方の農耕経済が重なる地域で、多様な栽培形態が可能だった結果だ、とする。(世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p69-70(西江清高氏の筆) )

王湾3期文化は黄河中流域の南部に位置していて華北と華中の植生が重なっていた。上の推測に付け加えるのならば、狩猟採集の面においても多様な食料資源が存在したのではないだろうか。

西江氏は上のような農耕経済がどのように中原王朝を支える生産の基盤となりえたのかについては「資料の増加をまって清朝に検討すべき問題」として、その後に次のように書いている。

その場合少なくとも、多様な食糧生産のあり方が国家的に管理されるようになる時、国家のシステムのなかに、その多様性を取り込んでいくための従来にはなかった複雑な仕組みが用意されたであろう、ということは想定できる。

交通・交流の交差点という側面も、生態環境・自然地域の交錯地帯という側面も、見方を変えればその地が地域間関係においても自然地域においても、周縁に位置していたことを意味する。その周縁の地が中心地へと転化する時、従来は関係が希薄であった複数の地域が新たな中心を介して結合され、結果として従来にない大きな関係圏が形成されたと考えることができる。さらに、そうして生まれた地域間関係の中心は、重層的な文化と社会の成り立ちをもったと思われ、そこに従来にはなかった複雑な社会が生成される条件があったと考えられるのである。中原王朝の形成には、こうした背景があったのではないだろうか。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p70(西江清高氏の筆)

気候変動の動揺により、各地の人々がこの地に押し寄せてきたことは、二里頭文化の中身によって容易に想像できることだ。以下のようなものが代表例。

+玉器文化→良渚文化。 +土器の副葬による階級づけ→山東龍山文化*3 +占卜→長城地帯

文化だけを取り入れたと考えることもできるが、他地域の文化が衰退していることと考え合わせると、やはり文化と一緒に人々も移ってきたのだと思われる。

中国文明:二里頭文化① 洛陽・中原につながる黄河・淮河・長江

この記事から中国における二里頭文化すなわち最初の国家の誕生について書く。

この記事では、誕生の地である洛陽盆地と黄河淮河・長江の関係について書いていく。

「中原」については文中で書く。

中国本土に張り巡らされた河川

中国の大河は大小の支流が多く持ち、それら支流も支流をもっている場合も多い。そのようにして河川は中国本土に張り巡らされている(歴史の本に載っている地図では中小の支流は描かれていない。淮河すら描かれない地図も多い)。

現代中国でも上のような状況は変わらないが、これは歴代の為政者たちが治水を行った結果だ。先史時代は治水技術が知られていない、あるいは きわめて原始的な方法しか知られていないから、中国本土の東半分の平原は「水浸し」の状態だった。

ここで2つ引用しよう。

現在よりも温暖であった完新世前期のころ、華北平原には湖沼や湿地帯が稠密に分布して、華北の西部と東部との恒常的な交流を妨げる状況が生じていたと考えられる。そのころ黄河中・上流側の黄土地帯と、黄河下流側の山東半島を中心としたいったのそれぞれに、仰韶文化と大汶口文化という独自の新石器文化が生成したことには、そうした地理的背景があったと思われる。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p7(西江清高氏の筆)

完新世前期のころの状況は長江下流域も同じだったようで、そのせいで農地が広がらなかったと考えられている。

では、もう一つの引用。

古くは黄河下流は、開封市の北方で多くの細流にわかれて、北は北京市から南は徐州市にいたる河北省、山東省の平原に網の目のごとくひろがっていた。これを九河という。そしてこうした多数の分流の形成するデルタを九州と呼んだ。この黄河デルタの南辺は、淮河デルタに重なり、淮河デルタの南辺は長江デルタ(江西省の九江市以東)に重なる。

というわけで、黄河淮河、長江の下流の多くの分流や、それらが形成する多くの湖沼の複雑にからみあった水路を上手に利用すれば、北はいまの河北省、山東省、河南省の平原から、南は江蘇省安徽省、そして浙江省江西省にいたるまで、いいかえれば、黄河杭州湾のあいだの内陸部を小舟によって航行することができるのである。こうした水路に人口の手を加えて運河とすることは、秦の始皇帝の統一とともに行なわれ、隋の再統一ののち煬帝によって営まれた大運河の開通は、そうした水路を体系化したものであった。

出典:岡田英弘中国文明の歴史/講談社現代新書/2004/p30-31

華北は馬、華中・華南は舟、つまり南船北馬。南北で河川または湖沼・湿地帯への考え方が変わる。

いずれにしても、地図に載っていない中小の河川が人々の生活を支えていたことに注意を払わなければいけない。

洛陽盆地

さて、本題に入ろう。

洛陽盆地は、後期新石器時代の文化の区分で言えば、中原龍山文化の中にあった。

「中原」というのは戦国時代における東周の都・洛陽を中心とした一帯のことで現代の河南省一帯を指していた(中原 - Wikipedia )。

中原の中心の洛陽は現代の洛陽市のことで、最初の国家と言われている二里頭遺跡は洛陽市内の東部、偃師市にある。

ここでは洛陽市がある洛陽盆地について書いていこう。

世界史などの地図では洛陽は黄河中流の南岸にあるように描かれているが、実際は黄河と洛陽の間に邙山(ぼうざん)という低い山がある。さらに東に虎牢関、西に函谷関、南に伏牛山と囲まれて盆地になっている。

邙山のおかげで黄河の破壊的な氾濫の被害に遭わなくて済む。邙山は洛陽の北を黄河沿いに走って鄭州あたりまで伸びている。

さて、古来より交通の要衝と言われている。ここで洛陽(盆地)と黄河淮河・長江の関係について書いていこう。

洛陽と黄河

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図1 黄河流域水系略図
出典/駱承政・楽嘉祥主編 『中国大洪水―災害性洪水述要』(中国書店 1996)

出典:ガイダンス - 実施報告 龍と亀 日本の治水術と中国の治水史:里川文化塾│ミツカン 水の文化センター

この地図で重要なのは洛阳(=洛陽)の南にある2つの河川、洛河・伊河だ。洛河・伊河は洛陽盆地内を走る。この合流点の内側に二里頭遺跡がある(洛河・伊河を描いている地図は少ない)。

洛陽が交通の要衝だと書いたが、黄河に関しては以下のようなことが言える。

洛陽盆地よりも西では、その両岸の険しさと急流とで、交通の障碍になるし、また洛陽盆地の東方では、年々の氾濫と水路の変化によって、これまた交通の障碍になる。ただ洛陽から東方、開封にいたる約200キロメートルのあいだだけは、流速は緩く、両岸は低く、水路は安定して、南から北へ、北から南への渡河は容易である。

出典:岡田氏/p32

西方に行きたいのであれば黄河の支流である渭河に沿って黄河の上流に出ることができる。

洛陽と淮河

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出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p138

+後期新石器時代龍山文化期)も同様に東から淮河を通って影響を受けている。

淮河から潁河(えいが)を遡ると周口辺りで3つの分岐するが真ん中が潁河、北に流れるのが賈魯河(かろが)、西に流れるのが沙河で平頂山の手前で北に伸びる支流は北汝河という。

洛陽から淮河に行くためには潁河を下ればいい。

洛陽と長江

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黄河(Yellow)と長江(Yangtze)と漢水(Han)と淮河(Huai)ほか*1

洛陽盆地を南下すると漢水の支流唐河に突き当たる。唐河は白河に接続し、白河が長江に接続する。

つまりこのルートをたどれば長江に出ることができる。

洛陽は交通の要衝

以上のように洛陽からは川筋に沿って、あるいは渡河して四方に行くルートがあり、人々はこのルートを使って往来した。

以上のことについては上で引用した岡田英弘氏の『中国文明の歴史』の第1章の1~3に書いてある。

中国文明:先史⑮ 新石器時代 その13 後期新石器時代 その8 新石器時代末期の終焉

中国本土の各地で繁栄した後期新石器時代も終焉が訪れる。

中国本土に何が起こったのかを書いていこう。

後期新石器時代に「文明」は誕生した?

ここでは、古いが有名な都市(化)の指標(要素)であるゴードン・チャイルド氏の10項目(Childe 1950: 9–1 6)*1を見てみよう。

  1. 大規模集落と人口集住
  2. 第一次産業以外の職能者(専業の工人・運送人・商人・役人・神官など)
  3. 生産余剰の物納
  4. 社会余剰の集中する神殿などのモニュメント
  5. 知的労働に専従する支配階級
  6. 文字記録システム
  7. 暦や算術・幾何学天文学
  8. 芸術的表現
  9. 奢侈品や原材料の長距離交易への依存
  10. 支配階級に扶養された専業工

中国社会科学院考古研究所の王巍所長は、「良渚や陶寺等の都、大型宮殿の跡地、大規模な墓が発見されていることから、一部の文化と社会が発達した地域では、夏王朝より前から国家が形成されており、文明史が始まっていたことが分かる」と主張している*2

仮に「国家」と呼んだとしても、それは王家(首長)の家政に過ぎなかっただろう。しかし良渚遺跡や陶寺遺跡の中身を見ると、文明の指標(要素)がほぼ全部有る。サインのような抽象的な記号(未解読らしい)はあるが文字というにはびみょうなところだ。陶寺遺跡には暦と天文観測の場がある。あとは「奢侈品や原材料の長距離交易への依存」が欠落している。

まあ、すべての項目をクリアしなければ文明ではにということでも無いので、「中国文明」は後期新石器時代のあいだに誕生した」といっても良いと思う。

後述する地球規模の気候変動(寒冷・乾燥化)が無ければ、各地域で独自の国家が誕生して群雄割拠の時代になったかもしれない。

新石器時代の崩壊

以上のように後期新石器時代において文明段階まで来たわけだが、ここで中国本土全体に天災が訪れる。

良渚文化の記事ですでに紹介したが、4200年前(前2200年)前後に中国本土全体どころか地球規模の寒冷化・乾燥化が起こった

この寒冷化・乾燥化に影響を受けたと思われる事例をいくつか挙げてみよう。

中国本土では以下の文化が消滅した。

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大寒冷化直前の諸文化の分布 *7

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図3 本研究で明らかになったコア採取地の温度変動と、長江デルタの文明変遷。

出典:20181201|世界最古の水稲栽培文明を滅ぼした急激な寒冷化イベント|東京大学大気海洋研究所

中村慎一氏が良渚文化の崩壊について寒冷・乾燥化以外の原因を提示しているように*8、中国本土の新石器時代末期の終わりのすべての原因を寒冷・乾燥化に求めることはできないが、これが最も大きな原因と考えられる。

「なぜ中原だけが発展することはできたのか」は別の記事で書く

「中原」の中でも「衰退・崩壊」のは一部だけだ。上記のように中原龍山文化西部(渭河流域)の客省荘第二期文化は衰退する。

発展した地域は洛陽-鄭州区域で、この地域の発展から初期国家(二里頭文化)が誕生して、中国本土は新しい歴史の時代が始まる。

「なぜ中原だけが発展することはできたのか」は別の記事で書く。



中国文明:先史⑭ 新石器時代 その12 後期新石器時代 その7 長城地帯の変容/西方からの新要素の導入

中国の北方、農耕地域と放牧地域を分けるように万里の長城が築かれている。この東西に伸びる地域を長城地帯と呼ぶ。

この地帯の歴史の移り変わりを書いていく。

この記事では、宮本一夫氏の『中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)』*1の「第7章 牧畜型農耕社会の出現」にしたがって黄河上流域(甘粛省青海省東部)と内蒙古地区を中心に書く。

中国における新石器時代の時代区分。

  • 早期(前9000-前7000年)
  • 前期(前7000-前5000年)
  • 中期(前5000-前3000年)
  • 後期(前3000-前2000年)

生業の変化

中期は「完新世の気候最温暖期」と呼ばれ、地球規模で温暖化していた。中国も温暖湿潤化して、農耕の北限が畑作(アワ・キビ)と稲作両方とも北上した。この気候変動により長城地帯に「華北型農耕」が拡散された。

しかし後期に入ると気候は温暖湿潤化から冷涼乾燥化へと変わり、長城地帯の人々は生活様式の変更を余儀なくされた。

長城地帯では冷涼乾燥化に伴なって、森林が草原に変わってしまった。食料資源の一部をシカの狩猟に頼っていたこの地域の人々は、代わりにブタ(家畜)と共にウシ・ヒツジ(牧畜動物)の比重を格段に高めた。

これに対して中原(黄河中流域)は牧畜動物への依存は少なく、特にヒツジに関しては存在が認められない。さらにシカの狩猟も激減したとはいえ一定程度は認められる。

このように家畜と牧畜動物への高い依存は長城地帯の生業の特徴と言える。こうした長城地帯の生業を含む社会を宮本氏は「牧畜型農耕社会」と呼んでいる。(以上、宮本氏/p209-219)

緯度による社会の相違の形成

上記の牧畜型農耕社会は黄河上流域(甘粛省青海省東部)で発生し、遅れて東方の遼河西部へ伸びる。

両地域は中期新石器時代には交流は無かったが、後期に入ると融合とも言われるほどの交流が土器様式や器種構成によって認められる。

こうして以下のような図式が出来上がる。

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出典:宮本氏/p220

遊牧社会は西周以降の冷涼乾燥化の中で牧畜型社会から出現する。さらに北方のシベリアから極北は狩猟採集社会。(p221)*2

占卜の起源

卜骨は、……ウシ、ヒツジ、ブタといった家畜動物やシカなどの肩甲骨を焼いた亀裂の形態から吉凶を占うものである。卜骨は未来を占うという高位そのものが祭祀高位であり、先史時代の社会集団にとっては必要なものであった。卜骨の対象となる動物は、ヒツジが最も多く、ついでブタ、その次がウシであり、シカはごく僅かである。[中略] ウシやヒツジのような牧畜動物が主体であるように、卜骨は牧畜活動と密接に関係しているのである。[中略]

卜骨は、最も古いものが馬家窯文化の甘粛省武山県傅家門遺跡に見られ、牧畜型農耕社会である西北地域が起源である可能性が高い。[中略]

殷王朝は、長城地帯やその接触地域に広がった卜骨祭祀を元に、それを王権体制に組み込むようにして卜骨や甲骨文字を発達させていったのである。

出典:宮本氏/285-288

西方からの新要素の導入

ヒツジ

確実なところでは中期新石器時代末に西北(黄河上流域)に導入された。普及するのは後期以降。(p285)

青銅

青銅器は既に中期新石器時代(仰韶期)に出現しているが、後期(龍山期)まではナイフや錐(きり)といった工具や女性の装飾品として見られる程度で、青銅器時代と言われる二里頭文化期以降のような青銅器は出現していない。

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99 新石器時代における青銅器の拡散(佐野2004 より) 中国では青銅器は西北地域に始まり、その後、黄河中流域でも認められるが、二里頭文化期には長城地帯と黄河中流域ではその内容を異にしていく

出典:宮本氏/p223

興味深いことに、中原では青銅器時代において青銅器は礼器や威信財となるのだが、長城地帯においては短剣や装飾品にはなったが威信財にはならなかった。(p222-227)

コムギ

コムギは後期新石器時代に中国に流入してきたそうだ。宮本氏は「牧畜型農耕社会が長城地帯に成立する段階と時を同じくして、コムギが流入していくとすれば、冷涼乾燥気候に適応した新たな栽培穀物であったということができるのではないだろうか」と書いている。(p231)

ただし、「チャイナネット」の記事によれば、コムギが華北において重要な穀物になるのは殷代の(紀元前16世紀-紀元前1066年)の初期の二里崗期になってからだそうだ(4000年前のコムギの伝来が中国北部の農業革命をもたらす 2006年9月19日/チャイナネット - china.org.cn )。



*1:講談社/2005年

*2:大興安嶺山脈の東方から日本海沿岸までは雨量が多いため、狩猟採集社会だった

中国文明:先史⑬ 新石器時代 その11 後期新石器時代 その6 中原龍山文化

前回より続き。

龍山文化がどういうものかは前回に書いた。

今夏は中原龍山文化。「中原(ちゅうげん)」の範囲は中国史の各時代によって異なるのだが、新石器時代黄河中流域を指す。

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出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p115

中原龍山文化

前回に書いた通り、中原龍山文化というのは「中原(黄河中流域)における(本家の)山東龍山文化に併行する時代(龍山文化期、龍山時代)の文化群の総称だ」。

中原龍山文化圏の個々の地域は前の仰韶文化を継承していたが、以上のような状況で山東半島からの龍山文化を一部受け入れたか、あるいは黒陶技術を受け入れた以外は名ばかりの龍山文化だった、と思われる。

西江清高氏は以下のように説明する。

中原地区の龍山文化期には、同時期の長江中・下流域や山東地区のような大きな地域的社会の統合は成立していなかったと考えられる。確かに山西南部の陶寺類型のように統合度が高い社会も生まれていたが、のちの二里頭文化の母体となる嵩山南北の王湾三期文化や東南部の王油坊類型のように、顕著な中心集落がなく、分節的な小地域単位が競合するような地域もあり、中原地区にはさまざまな地域システムが並び立っていた。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p44(西江清高氏の筆)

上のような説明に対して、宮本一夫氏は異論を唱える。

宮本氏は中原龍山文化の中期に山西南部の陶寺遺跡が中原の中心集落であったと主張する。

陶寺遺跡の中期は城壁は南北1500m、東西1800mという新石器時代の最大の規模を誇る(宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p373)。

大きさだけでなく、中身も他地域に引けを取らない。

城壁の内部は宮殿区・貴族層居住区・一般民居住区・(可能性として)手工業工房区・墓地といった区画に分かれれている。さらに祭祀遺構は天文観測が為されていたことが認められている。これは暦を首長が直接管理していたことを表している。

宮本氏は「このように機能文化した集落構造は、基本的に殷周社会と同じものである。こうした段階を初期国家段階と呼ぶ研究者も早晩出現するであろう」と書いて、陶寺遺跡が堯(伝説の三皇五帝の一人)の所在地とする説を紹介している。(以上、p258-259参照)。

ネット検索すると以下のような記事があった。

中国社会科学院はこのほど北京国務院プレスセンターで、山西省臨汾市襄汾県・陶寺遺跡の発掘成果に関する記者会見を開き、発掘調査の重大な収穫を発表した。中国社会科学院考古研究所の王巍所長は、「陶寺遺跡は『堯の都』であったと推定される。堯舜時代はもはや伝説ではなく、確実な史実によって証明された」と述べた。央広網が伝えた。[以下略]

出典:山西省・陶寺遺跡、伝説の「堯の都」か 2015年06月26日 --人民網日本語版--人民日報

引用の後は宮本氏が書いていた内容とほぼ同じだ。

さて、この大規模な囲壁集落(宮本氏は城址集落と呼ぶ)も中原龍山文化の後期に入る頃に、凄惨な戦闘によって破壊され、集落は衰退した。(p259-260)

宮本市の主張によると、このあと中原の「中心集落」は新砦集落(鄭州市)に移り(初期国家誕生直前期)、そのあとに二里頭集落(洛陽市)に移る(初期国家誕生期)。(p302)

楽器と犠牲

楽器と犠牲は中原龍山文化の特徴である。

楽器

陶寺遺跡でも副葬品によって階層化が認められるが、副葬品は山東龍山文化のような土器ではなく「楽器」だった。ただし威信財(ステータスシンボル)となる楽器は首長のみである。

この楽器は神を祀る祭礼具の一つであり、殷周時代の祭礼(祭祀儀礼)が陶寺墓地に求められる。(宮本氏/280-282)

犠牲

中原地区の独特の祭祀儀礼としてイヌやブタを土坑に埋葬するという「農耕祭祀」というものがあった。土坑の底にイヌ/ブタを置きその上にアワを堆積させて硬い土で塞ぐというものだ。このような祭祀は新石器時代前期からあって他地域にも広がり、動物の種類も変化していったが、動物犠牲が絶えず盛んだったのは中原地区だった。

中原龍山文化期ではさらに動物のみならず、人をも犠牲とする祭祀が行われた。

例えば、河南省登封県王城崗遺跡のような城址遺跡では、建物を建設するに際して、奠基坑(てんきこう)として人の犠牲坑が形成される。このような人の犠牲はとりわけ中原地域である黄河中流域に新石器時代後期に発達する。犠牲祭祀がが集団の結集力を維持し、さらに発展させるための精神基盤を形成していたものと思われる。

動物犠牲が農耕祭祀であるならば、人の犠牲は人間集団をまとめる社会的な祭礼であった。こうした動物犠牲や人の犠牲は、後にとりわけ殷代社会で発達し、動物犠牲も周代社会のの基本的な祭祀として存続していく。

出典:宮本氏/p284