歴史の世界

エジプト文明:中王国時代⑨ まとめ その2 灌漑/書記/文学

灌漑

ナイル川については、「先史⑪ ナイル川下流域 -- エジプト文明の舞台」で書いた。人工灌漑の話をする前にリンク先の知識が必要だ。

詳しくは、リンク先で紹介しているが、ナイル川は1年の中で繰り返す水量の増減が、耕地に養分を与え、塩分や疫病を洗い流してくれる。古代エジプト人はこの自然灌漑というべき自然のサイクルを利用して農業をしていた。

そして、高宮いづみ氏によれば、本格的な人工の灌漑を行ったのは中王国時代に入ってから、というのが有力な説らしい。その灌漑は「貯留式灌漑」と呼ばれ、同じような方法が20世紀中葉まで続けられていた。

貯留死期灌漑は、沖積低地に運河と低い堤を建造することによって、増水時に沖積低地すなわち耕作地に流れ込む水を制御するシステムであった。運河を用いて、増水位が低いときにそのままでは冠水市内農地にも水を引き込み、砂漠縁辺部に近い低湿地から速やかに水を排出して耕地化することができた。堤は、低水位の際に引き込んだ水を長期間とどめておいたり、高水位の際に集落を防御するために役立った。つまり、可能な限り面積の広い沖積低地=耕作地を、増水時の適した期間冠水させて、ナイル川の自然灌漑の効果を増幅もしくは安定化させるシステムだったのである。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p71

また第12王朝アメンエムハト2世の治世から(断続的に?)行われたファイユーム開拓事業でも灌漑が行われた。

書記(官吏)

官吏となるには古王国においては身分・家柄が第一の要件であったが、中王国においては、文字知識を備えていれば誰にでも門は開かれていた。もちろんヒエログリフの習得はきわめて難しく、多大な時間と金とを要したため、誰でもという訳にはいかなかったが、第1中間期に成長してきた都市の住民(手工業者など「中産階級」的な存在、「庶民」ともよばれる)の子弟が多数官吏への道をたどりはじめる。この意味で中王国の国家は「庶民国家」とよばれることがある。書記養成学校での教科書として、最初に編集されたのは「ケミイト」とよばれる教科書で、題の意味は「完全なもの」とも「総括」とも訳されている。後代のラーメス時代の多数のオストラコン[注:メモ程度の文が書いてある遺物*1]から、ポズネ―らの努力によって部分的に復原されているにすぎないが、官吏(書記)に必要なさまざまな知識を初学者に教えることを目的としており、内容は書簡の標準的な書式、慣用的な表現、教訓の抜粋(文字の知識とともに書記としての生活態度をも教えるためのもの)などを収めていた。

出典:杉勇・尾形禎亮(ていすけ)(訳・解説)/エジプト神話集成/ちくま学芸文庫/2016(『筑摩世界文学大系 1 古代オリエント集』(1978年)の「エジプト」の章を文庫化したもの)/p644

引用先によれば、第12王朝時代は書記養成学校というものが存在していた。

また、「古代エジプト文学 - Wikipedia」によれば、古代エジプトの歴史を通じ、「識字率は人口のわずか1%に過ぎなかったと考えられている」。

文学

中王国時代は多くの文学作品が作られた。

中王国時代の文学作品はしばしば政治的なプロパガンダ(宣伝)を目的とするものであったとされる。書記達は王と密接に結びついており、彼らを読者として想定した作品群は王の意向を色濃く滲ませたものとなったとされる。フランスのエジプト学者ポズネールは、第12王朝時代に成立した文学は王の利害と密接に結びつき、政治宣伝を目的としたものであると指摘している

出典:エジプト中王国 - Wikipedia

リンク先には代表的な作品が紹介されている。



まとめというか補足・付け足しになってしまった。

ただし補完というには程遠い。

エジプト文明:中王国時代⑧ まとめ その1 マアト(秩序)の維持と社会正義/宗教上の大衆化・民主化

中王国時代のまとめのようなことを書く。今回は古王国時代や第1中間期からつながる話。

マアト(秩序)の維持と社会正義

マアト(マート)は古代エジプトの文化の土台と言うべき考え方・宗教観念である。

このことは、以前に何度も触れてきたが、大事なことなのでもう一度復習しよう。

古代エジプト人が〈創造神によって最初に定められた宇宙の秩序〉を指した言葉。エジプト人の世界観の基本概念をなす。〈秩序〉のほか,時に応じて〈正義〉〈公正〉〈真理〉〈真実〉〈善〉とも訳される。創造神である太陽神ラーの娘とされ,頭上にマアトを意味する羽根を頂く女性として表現される。ファラオ(王)の役割はマアトを維持・更新することにより人間社会の繁栄と安寧を確保することにあるとされ,マアト女神像を神に奉納する主題が神殿の壁面に好んで表現された。

出典:マアトとは - 世界大百科事典 第2版>株式会社平凡社>コトバンク

古王国時代のマアトの維持

古代エジプトの王の重要な役割の一つがマアトを維持することだ。

古王国時代は、王都メンフィスの神殿の祭儀をしたり、地方神の神殿に寄進したりしてマアトを維持した。

なぜこのようなことがマアトの維持につながるのかというと、神々はマアトを左右する力があると考えられ、王は彼らのご機嫌取りをしてマアトを維持してもらう、というのが王の役割だった。

そしてこのご機嫌取りの方法が祭儀や寄進だった。寄進も地方神の祭儀や神殿のメンテナンスを滞りなくするためだった。

中王国時代のマアトの維持

中王国時代になるともっと積極的になる。

中王国時代の王像には、古王国時代の穏やかで神のような満ち足りた表情からもうすこし現実的な、実物に似せる傾向への変化がみられる。王は依然として地上の神ではあるのだが、それにもまして王はこの世の幸福と安定に責任があるという考え方が大きくなってきた。エジプト人はもはや、王の不滅の未来のために大建造物をつくることに、力も資源も傾けなくなったのである。それを反映してか、中王国時代のピラミッドは昔よりやや粗末なものになった。代わって、前述の大ハバル・ユーセフ運河の例で示されるように、より大きな関心が農業の改革やその他の事業に向けられた。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p108

「この世の幸福と安定」というのが社会正義だ。

社会正義の考え方は第1中間期に現れ、中王国時代もこれを受け継いだ。古王国時代末期の地球規模の寒冷・乾燥化が上のような変化を起こさせたのだろう。(第1中間期③ 文化の変容 参照)

ただし、このことは神々への信頼が無くなったことを意味しない。

中王国の王たちは地方神の神殿を建設したり、海外遠征で得た貴石などで飾り立てたりした。だいたい神殿を飾ることが遠征の主な目的のひとつだった。

高官たちの墓と社会正義

以前*1に第1中間期のヒエラコンポリスの州侯のアンクティフィの墓銘(墓に記した文章)の紹介をした。これをもう一度引用しよう。

私は飢えた人にパンを与え、裸の人に服を与えた。私のオオムギは、南は下ヌビア、北はアビドスまで運ばれた。上エジプトの人々は飢餓で死にそうで、子供を食べる人までいる。しかし私のノモスでは飢えで死ぬようなことはさせなかった。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p114

以前の記事では、これが当時の寒冷・乾燥化があった証拠として紹介したが、今回は社会正義に関連したことについて。

アンクティフィの岩窟墓が発見されたのが1971年。しかしフェクリ・ハッサン教授が古王国時代末期に寒冷・乾燥化があったことを突き止めるまで、墓銘の内容はついてあまり注目されなかった。

その理由は、「私は飢えた人にパンを与え、裸の人に服を与えた」のような文は当時の位の高い人々の墓の常套句だったからだ。

[当時の高官の]墓銘の内容のほとんどが、当時の理想的な人間像(教訓文学が教える冷静で自制心に富み、社会正義を遂行し、王に忠実な人物)であることを示す決まり文句で埋められており、かれの経歴を記すことが皆無に近い…。

出典:杉勇・尾形禎亮(ていすけ)(訳・解説)/エジプト神話集成/ちくま学芸文庫/2016(『筑摩世界文学大系 1 古代オリエント集』(1978年)の「エジプト」の章を文庫化したもの)/p574

アンクティフィの上の墓銘は馬場氏や他の研究者も自伝として紹介されることがあるが、実は常套句で経歴とは無関係(または無関係な可能性が高い)らしい。

宗教上の大衆化・民主化

オシリス神の大衆化

これも第1中間期からの流れ(第1中間期③ 文化の変容 参照)。

第5王朝末あたりから、王は死後に冥界の王オシリスになるとされていた。

しかし第1中間期から大衆はオシリス神を来世復活の神として信仰するようになった。

第1中間期から中王国時代初期になると、王家や貴族だけでなく民衆の間にも、死んだら再生復活できるというオシリス信仰が普及し、オシリスの聖地アビドスには、家族ステラを納める祠堂を建立するために巡礼を行う者が後を絶たなくなった。

また、オシリスはエジプト最初の王と考えられていたため、王家も神殿や遺体を納めない空墓(セノタフ)を盛んに造営するなど、古代エジプトでは極めて重要な聖地であった。

出典:アビドス | 吉村作治のエジプトピア EGYPTPIA 2012/02/24

ステラとは石碑のこと。「職人長、書記、彫刻師イルティセンのステラ(石碑) | ルーヴル美術館 | パリ」によれば、「信心深い人々は、生前の行いが良かった事を、死後、神に思い出してもらえるよう、自分の名前と記念の銘文を刻んだステラを、少なくとも一つはこの地に建立したという」。

ただし、古代エジプト識字率は全人口の1%程度だったらしい(識字率 )。

第1中間期③ 文化の変容」で引用したものを再び貼ろう。

エジプトでは、中王国時代に神官たちが、第1王朝のジェル王の墓を冥界の神オシリスの埋葬地と断定して以来、アビドスは聖地として重要な巡礼の中心地となった。年に1度、オシリスとその復活を祝う祭礼がおこなわれ、国中から巡礼者が訪れた。

出典:特集:古代エジプトの聖地 アビドス 2005年4月号 ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP

西村洋子氏によると*2「第1王朝ジェル王の墓がオシリス神の墓として改造されたのは王[センウセレト3世]の治世でした」とのこと。

センウセレト3世も空墓(セノタフ)をアビュドスに建造した。王の治世にオシリス信仰のピークを迎える*3

コフィン・テキスト

これも第1中間期からの流れで、中王国時代にも普及する。

しかし、「しかし、主に長い宗教テクストを書き記すには適さないミイラ型棺の導入のような、さらなる葬祭上の変化の結果として、第12王朝中頃にこれらのテクストの使用は突然終わりました。」((西村氏/History of Ancient Egypt_第13王朝) )

コフィン・テキストの呪文集の文化は新王朝時代に「死者の書」として受け継がれる。



エジプト文明:中王国時代⑦ 第13王朝・第14王朝

第13王朝と第14王朝は第2中間期に分類する研究者もいるが、このブログでは中王国時代に分類する方を採用する。

第13王朝の初期は第12王朝と繋がりを持ち王都も同じだ。

第14王朝はデルタ東部の都市アヴァリス(現在のテル・エル=ダバア遺跡)でレヴァント系の人々が建てた王朝だ。王朝成立の時期は第13王朝の中期にあたる。つまり、この王朝は第13王朝と並立していた。

以上2つの王朝はヒクソスが建てた第15王朝によって倒される。

このブログでは、第15王朝の成立の時期を中王国時代の終わりとする。

年代について

王朝成立の時期

前回の最後にも書いたが、第13王朝は第12王朝からスムーズに継承された王朝と考えられている。

第13王朝の成立(=第12王朝の終わり)の年代は参考文献によって複数ある。

例えば、ピーター・クレイトン氏の『古代エジプトファラオ歴代誌』(1999年)*1によれば、その時期は1782年で、馬場匡浩氏『古代エジプトを学ぶ』(2017年)*2では1773年を採用している。

第14王朝の成立もまた意見が別れている。

恐らく第14王朝は第13王朝末期に並存していた勢力であったが、その正確な年代については研究者の間でも見解が分かれている。Kim Ryholtは第14王朝が第12王朝最後の女王であるセベクネフェルの治世の半ばかその直後には既に成立していたと主張する。その中心となったのは第1中間期以降、エジプトに流入して数を増やしていたカナン系の住民で、ナイルデルタ東部で独立勢力になって以降、メンフィスの第13王朝政府に対抗したという。この説では第12王朝が終焉した紀元前1805年頃あるいは紀元前1778年頃からヒクソスに制圧される1650年頃まで約150年間存続したとされる。 一方で、第14王朝のものと見られる遺物の殆どは第13王朝中期以降の時代の地層から発見されていることから、他のエジプト学者は第14王朝が第13王朝のセベクヘテプ4世(在位前1730年頃 - 1720年頃)の治世半ばかそれ以降の年代に独立し、最長で約70年間続いたと考えている。

出典:エジプト第14王朝 - Wikipedia

Kim Ryholt(キム・リーホルト)氏はデンマークコペンハーゲン大学エジプト学者で、有名な人らしい。

いっぽう、上述のクレイトン氏はもう一方の説を採用している。

馬場氏の本では第14王朝に触れていなかった。

王朝の終わりの時期

上述の通り、2つの王朝は第15王朝の成立の時期を中王国時代の終わりとするのが おおかたの見方だ。

しかし、クレイトン氏によれば*3、第15王朝がメンフィスを陥落させたのが前1720年頃だと書いている。

さらに、近年のメンフィスの一角コム・ラビア遺跡の発掘調査によれば、第2中間期の層位では中王国時代からの文化様式が新王朝時代まで継続されている一方、レヴァント系の遺物は皆無に等しい、という。馬場氏は第15王朝がメンフィスを実質的に占領した証拠は「きわめて乏しい」とまで書いている(p132)。

以上のことによれば、メンフィスより南部にあった第13王朝の王都イチ・タウィが、従来言われていたように第15王朝成立直後に征服された可能性は低い(征服されたこと自体あやしい)ということになる。

だとすれば、第13王朝の終わりの時期はいつか?ということになるが、それは不明というしかない。

第14王朝の終わりの時期は、おおかたの見方のとおりでいいだろう。第14王朝と第15王朝の王都が同じアヴァリスだからだ。

第13王朝

Kim Ryholt等によれば、この王朝の初代の王はセベクへテプ1世で、この王と2代目のソンベフは第12王朝の最後から2番目の王アメンエムハト4世の息子だ、ということだ。(セベクヘテプ1世 - Wikipedia

ただし、この王朝は先王朝とは違って一つの王族の世襲ではなく、複数回 平民が王になり王族が変わっている。また、先王朝とは違って短い年数で王が交代している。王の数は数十人にのぼるとされる。

短期間の王の交代は国内の混乱を想起させるが、行政は ちゃんと機能していたようだ。

この理由として第12王朝時代に長期間かけて作り上げられ、センウセルト3世(前1878 - 前1841)によって完成されていた官僚機構が第13王朝時代にも正常に機能していたことがあげられる。中王国の官僚組織は極めて完成度が高かったらしく、王権が弱体化しても事実上の統括者であった宰相を中心として国家を運営することが可能であったと見られている。

出典:エジプト第13王朝 - Wikipedia

複数の参考文献をみると、どうやら官僚たちと王族は政略結婚により複雑な系譜を作り上げていたかもしれない。

第13王朝は上下エジプトと第12王朝に統治したヌビアをアイ王(後述)の治世まで統治していたと考えられている。

最盛期は平民出身のネフェルヘテプ1世と次代セベクヘテプ4世の治世とされる(両者は兄弟)。前1741-前1720年頃。

しかし、セベクヘテプ4世以降に王朝の弱体化が進んだ。アイ王(メルネフェルラー・アイ、前1700 - 前1677年頃)王が上下エジプトを統治した最後の王とされている(デルタ東部の第14王朝がこの頃すでに有るはずなのだが)。アイ王の後の王が下エジプト(デルタ)を統治した証拠は見つかっていない。

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ホル王の等身大木製カア像。
頭上にカア(魂)のシンボル(両腕を上げた意匠)をのせている。
水晶と白石英を銅でかこんだ目は、生きているようなリアルさを像に与えている。
ダハシュール出土(カイロ博物館)。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p117

  • 古代エジプトを通して有名な像の一つ。第13王朝はこれだけの品質の像を作れるだけの文化力を持っていた。

第14王朝

第14王朝はデルタ東部の都市アヴァリス(現在のテル・エル=ダバア遺跡)を王都に成立したとされる。

1970年代よりオーストリア考古学研究所のM. ビータック氏によりテル・エル=ダバア遺跡の発掘調査が始められた(2010年以降、同研究所のIrene Forstner-Müllerに引き継がれた)。

この調査より、この地域にレヴァント系の居住区が登場したのは第12王朝末期からだ。第13王朝に入ると更にそれは拡大し、中央政府はレヴァント系の人々を高官として雇ったという(馬場氏/p127-130)。

第15王朝(ヒクソス時代)の直前から、居住域はより一層の広がりをみせる。[中略] レヴァント系のコミュニティーが多数派を占めるようにな[る。][中略] またこの頃から、それまで比較的均一であった家屋の規模に格差が生じるようになる。複数の部屋をもつ強固な造りの大型家屋が出現し、小さな家屋はその周囲に配置される。つまり、先述した高官たちを中核にして、レヴァント系の人々のなかに社会的身分差が生じたのだ。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p131

以上から判ることは、第15王朝(ヒクソス時代)の直前まで「複数の部屋をもつ強固な造りの大型家屋」が無かったということだ。これだと第14王朝の存在すら疑われる。ちなみに馬場氏はこの王朝について触れていない。

しかし、第14王朝の証拠は少ないものの、ネヘシというレヴァント系王族から王位を奪ったエジプト人高官の家系の人物により、いちおう証明されている。

第15王朝のことは また別の機会に書くが、この王朝はマネトーの『エジプト史』にかかれているような「東方から突然現れた正体不明の侵入者たち」*4ではなく、第12王朝末期あるいはそれ以前からデルタに存在していたレヴァント系住民の末裔だった。

第14王朝と第15王朝はおそらく何らかのつながりがあっただろう。マネトー他がこれを分けた理由は私には分からない。

両王朝の衰退の仮説

ネヘシの治世と考えられる1705年頃以降、デルタ地域が長期の飢饉と疫病に見舞われた痕跡が発見されている。これらの災厄は第13王朝にも打撃を与えた可能性があり、王権が弱体化し、多数の王が短期間で交代する第2中間期の政治情勢の一因となり、ひいては第15王朝の急激な台頭を招いた可能性がある。

出典:エジプト第14王朝 - Wikipedia

もう一つ。

テル・エル・ダヴァの最初の拡張は流行病によって一時的に確認されました。遺跡のいくつかの部分で、ビータック氏は多数の遺体が何の儀式も行われずに安置された大きな共同体の墓を発見しました。その後、F層以降、集落と共同墓地のパターンは以前ほど平等社会を示しません。周囲に小さな家が集まった大きな家、集落の端よりも中心により複雑な建造物があること、主人の墓の前に埋葬された召使いたちはすべて、裕福なエリートグループの社会的優勢を示します。

出典:History of Ancient Egypt_第二中間期(1)

以上のことより、上で述べた第15王朝(ヒクソス王朝)が第14王朝と関わりがあるという説とは別の説が考えられる。

その仮説とは、デルタで起こった長期の飢饉と疫病により人口が激減した後に、新しいレヴァント系の人々が流入してそれまでの平等社会とは違う社会を築いた。この流入してきた人々がのちにヒクソスと呼ばれる人たちだ、というもの。

いずれにせよ、疫病の発生は証明されており、これが画期になったのだろう。



*1:創元社/(原著は1994年出版)

*2:六一書房

*3:p120

*4:馬場氏/p126

エジプト文明:中王国時代⑥ 第12王朝 その4 6代目から最後まで

前回からの続き。

アメンエムハト3世

王の治世が中王国時代の最盛期とされる。先代までの貯金を着実に増やした結果と言えるだろう。

内政としてはファイユーム開拓が挙げられる。アメンエムハト2世の治世に始まった開拓事業がアメンエムハト3世の治世でも継続されたことが確認されている。

この時期にファイユームの地方神であるワニ神セベクに献じた大神殿がキマン・ファリスに建立された。

遠征は先王の南方から一転して、北方のシナイ半島に継続的に行われた。目的はトルコ石鉱山の開発。

Amenemhat III - Wikipedia英語版」によれば、ワディ・ハンママートで採石を行い、(アスワンの南東の東部砂漠内にある)Wadi el-Hudi でアメシスト紫水晶*1を採掘した記録がある。プント国にも高官が赴いた。軍事遠征の記録はほとんど無い。

碑文の90%以上が国外で発見されることは奇妙ではあるが、シリアからナイル第3急湍までの多数の建造物や碑文から、アメンエムハト3世が偉大な王であると考えられている。

(ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p111-113)

王はピラミッドを2つ建造したが、そのうちのダハシュールの方のピラミッドの頂点に置くキャップストーン(ピラミディオン、ベンベン石)がカイロ博物館にある。

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エジプト第12王朝のアメンエムハト3世のピラミッドのキャップストーン。カイロのエジプト考古学博物館所蔵
碑文の内容 「話される言葉 : 彼が天空を渡るとき彼が地平線の支配者を見るために、上・下エジプト王、両国の支配者、ニーマートラーの視界を開け!彼が太陽神ラーの息子、アメンエムハトを神、永遠の支配者、沈まないものとして現れさせますように。」

出典:ベンベン - Wikipedia

上の碑文の説明は西村洋子氏の「ちょっとだけ碑文解読(1)」参照。

アメンエムハト4世

最後から2人目の王。

王に関する記録は少ないが、その記録によれば、王の治世は先王の事業を受け継いで安定していた。

シナイ半島、ヌビア、Wadi el-Hudi などに記録が残っており、プント国やレバントのビブロスと交流があった。

トリノ王名表では、アメンエムハト4世の治世は9年3ヶ月と4日続いたと記録されている。歴代王と比べると短い。数年のあいだ先王との共同統治をしていた。

アメンエムハト4世 - Wikipedia

セベクネフェル

セベクネフェルについて書かれた記録は殆どなく、統治の実態はよく分かっていない。しかし、女性が王となるという事態は当時としてはかなり特異なことであり、後継者を巡る何らかの問題があったことを示唆している。実際、彼女の死をもって第12王朝は終焉を迎え、新たに第13王朝が創始された。王朝の交代は大きな混乱を伴うことなくスムーズに行われたらしく、第12王朝が確立した国家制度は第13王朝に受け継がれている。

出典:セベクネフェル - Wikipedia

女王セベクネフェルで第12王朝が終わる。

王朝交代

昔は王朝交代の時期に内乱があったと考えられていたが、近年ではそれは否定されているらしい。有能であったかどうかは分からないが、最後の2人の王の治世は安定していた、ということだ。

セベクヘテプ1世 - Wikipedia」によれば、この王は「RyholtやDarrell Bakerらによって、第13王朝の最初の王でアメンエムハト4世の息子と見做されている」とある。

これが正しいのなら何故王朝を分けたのだろうか?私には分からない。



エジプト文明:中王国時代⑤ 第12王朝 その3 5代目センウセレト3世

前回からの続き。

マネトーによれば、センウセレト3世は身長約2メートルの大男であった。

大きな体格は現在においても、政治に限らず交渉事においてアドバンテージになり得る。しかしアドバンテージにできない人は「ウドの大木」だとか「大男の見掛け倒し」などと陰口を叩かれることになる。

センウセレト3世はこのアドバンテージを見事に使うことができた。王は中王国時代の最大の英主として現在まで語り継がれている。

行政改革(中央集権化)

センウスレトは自らの領土を、それぞれ宰相直属の長老会議に支配される三つの大きな行政区画(デルタ、南はヒエラコンポリスまでの上エジプト、エレファンティネと下ヌビア)へと再編成した。これは第12王朝初期を特徴づけていた地方自治を、事実上終わらせたのである。

出典:トビー・ウィルキンソン/図説 古代エジプト人物列伝/悠書館/2014(原著は2007年出版)/p149

  • エレファンティネはエジプト河谷の最南端(付近)。ヌビアに対する要塞(ヌビア遠征の基地?)がある。

先王センウセレト2世は州侯たちと友好関係を築いていた、と前回に書いたが、クレイトン氏によれば*1、州侯たちが増長して王国に挑戦するまでになってしまっていたという。

ヌビア遠征

ヌビア遠征は第12王朝の初代から続く事業だ。その中でも王の名声は特筆される。

王はまずアスワンの第1急湍にある迂回路の運河を浚渫(しゅんせつ)・拡大し、遠征の規模拡大の準備をした。発掘された碑文の一つには、治世8年目に同様の改修工事を行った。*2

この改修工事の後、10年の間に4度の軍事遠征が行われ、第2急湍付近に多数の要塞を建てた。これらの要塞は軍事遠征・国境警備の他に税関の役目も持っていた。すなわち、人とものの移動を管理していた。(ウィルキンソン氏/p150-151)

以下は おおよその地図

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Location of Semna along the Nile River in Nubia

出典:Semna (Nubia) - Wikipedia英語版 *3

  • 「Segona cascada」が第2急湍。

他の建造物も見てみよう。

下は第2急湍付近の地図と要塞の位置。

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Mappa delle fortezze egizie lungo il Nilo all'altezza della seconda cateratta

出典:Askut - Wikipediaイタリア語版*4

  • Uronartiのすぐ北が第2急湍。

王と指揮官たちのための一時的な遠征用宮殿がコル(Kor)とウロナルティ(Uronarti)に建造された。要塞化された穀倉の一つは中洲になっているアスクト(Askut)にあった。*5

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Uronarti

出典:Uronarti - Wikipedia*6

ブヘンの要塞都市も有名で、東西約150m、南北約170m、全体を分厚い日干し煉瓦の城壁が2重に取り巻く大要塞であった。*7, *8

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A view of the fortress from the north

出典:Buhen - Wikipedia英語版*9

そして征服地の南端であり国境であるセムナ。

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Perspective view of a reconstruction of the Semna West Fort

出典:Semna (Nubia) - Wikipedia英語版*10

  • セムナの砦(要塞)。この対岸のクンマ(Kumma、Semna Eastとも)にも同様の砦を築いた。

セムナにあった大きな石碑には下のように書かれている。*11

余は、彼らの女をさらい、物を奪い、彼らの井戸に行き、牛を殺した。余は彼らの穀物を刈り取り、それに火を放った。

同地で、未来の王たちには以下のような訓戒を遺した。*12

余が勝ち取ったこの国境を守りぬく余のすべての子孫よ。汝は余の息子、王者の生まれ、父王のごとく覇王になる者。父王の領国を守る者である。さて、国境の守りをゆるめる者、国境のために戦わぬ者よ。汝は余の息子に非ず、余の生みし者に非ず

これほどまでに、ヌビア遠征に力を入れたのは、祖先の王と同じく、南方からの鉱物資源の道の確保のためだが、ウィルキンソン氏はそれだけでなく、原因の一つとしてクシュ王国の興隆を挙げている。

要塞は同時に、心理的な目的も持っていた。それらは意図的な力の誇示、エジプトの軍事力と政治力の誇示であって、第2急湍のかなたに位置する国、クシュ王国に向けられていた。このナイル上流域の新興勢力はエジプトとそのヌビアにおける権益にとって、増大しつつある脅威だった。エジプトの公式文書ではクシュにたいして見くびるような調子が向けられるとはいえ、脅威が切実なものとして感じられていたことは明らかである。大規模な要塞線はセンウスレト3世の断固たる回答であり、集団的防衛手段として計画されていた。

出典:ウィルキンソン氏/p151-152

これら第2急湍の要塞はアスワンハイダムの建設時に人口湖(ナセル湖)により水没した。他の時代を含む遺跡は考古学者たちの手によって他の場所に移された。

建築王

ヌビア遠征で得た富の多くは、エジプトの神殿の建設や改修にあてられた。役人イケルネフェレトの碑文(アビドス出土)には、オシリスの船、神殿、祠堂を、黄金、エレクトラム(琥珀金)、ラピスラズリ、孔雀石その他の貴石を用いて修復するようセンウセレト3世から命じられたと記されている。

出典:クレイトン氏/p110

王は自分のためのピラミッドも建てたが、地方の多くの神殿の建設・改修を行った。

この行為は多かれ少なかれエジプトの王はやっていることで、神殿の神々の建設・改修は、神々にご機嫌取りをして、世界(エジプト)の秩序(マアト)を維持してもらうための行為だ。

古王国時代は寄進を行うなどしていたらしいが、中王国時代は自ら建設・改修に当たった。

王としての威厳

前述のセムナに王は別の言葉を残している。(ウィルキンソン氏/p152)

余は余の彫像を、余が定めたこの国境に建立させた。そなたたちがそれによって鼓舞され、そのために戦えるように。

王の彫像はセムナだけでなく、王国全土に建立された。

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A statue of Senusret III at the British Museum, showing the traits that are peculiar for this king

出典:Senusret III - Wikipedia英語版 *13

不機嫌そうな表情と大きな耳は、ウィルキンソン氏によれば、「誇張されたもの」(p150)だという。「センウスレトが自らの権威を主張するため、文字と図像を利用する術に熟達していたことは疑いない」(p153)。

これが本当だとすれば、彼の目的は成功したのだろう。

センウセレト3世は新王国時代も(トトメス3世)、プトレマイオス朝時代も(マネトー)、そして現代も彼を英主として讃えている。

ただ、王国全土どこに行ってもあの無愛想な表情の彫像が出会うのはあまり気分のいいものではなかったかもしれない。

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出典:Big Brother (Nineteen Eighty-Four) - Wikipedia



*1:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p108

*2:クレイトン氏/p109

*3:著作者:Jolle~commonswiki

*4:著作者:Madaki

*5:ウィルキンソン氏/p151

*6:著作者:9bryan

*7:関廣尚世/スーダン共和国におけるヌビア遺跡群の現状と 文化財保護における課題/西アジア考古学 第11号(2010年)pdf

*8:エジプト中王国 - Wikipedia

*9:著作者:Franck Monnier

*10:著作者:Jolle~commonswiki

*11:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p109

*12:クレイトン氏/p110

*13:著作者:Captmondo (Own work (photo) ) 

エジプト文明:中王国時代④ 第12王朝 その2 2代目から4代目まで

第12王朝は、8人の王を出しておよそ200年続く。最後の2人を除けば有能な王が続いた王朝のようだ(都合の悪い記録を遺していないか発掘できていないだけかもしれないが)。

6代目の王の治世で最盛期を迎えるが、7代目が若いうちに子をもうけずに亡くなり、8代目で王朝は終わる。

センウセレト1世

先王暗殺の事態をすばやく収拾した後、先王の軍事政策を継続させた。南方への遠征を繰り返し行い、ナイルの第2急湍まで進出して13もの要塞を設置し、領土化した。オアシス地帯にも遠征したことが分かっている。

これらの遠征の主要目的は鉱物の産出と安全なルートの確保であった。

領域内では、ワディ・ハンママートの硬質石材、コプトス付近の金などが産出されている。

王の建築したものの中で有名なのが、太陽神の聖地ヘリオポリスのラー・アトゥム神殿の再建だ。彼が建てたオベリスクは現在も遺っている。

晩年の少なくとも3年は、息子のアメンエムハト2世と共同統治した。

アメンエムハト2世

王は遠征を紅海まで推し進め、プント国まで進出した。

プント国のあった位置は正確には分かっていないが、ヌビアのさらに南にあり紅海に接していたらしい。候補としてはソマリア付近かその北付近が挙げられている。

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古文献に示されたプントへの道筋と、プント国の比定地

出典:プント国 - Wikipedia

目的は乳香・没薬(香料)やトラの毛皮など。没薬はミイラの遺体の防腐処理にも使われた。

外交ではクレタ島レバノンビブロスとの接触が分かっている。

テーベの少し南、トードにあるメンチュ神殿基部から貴重な宝物が発見されている。それは蓋にヒエログリフでアメンエムハト2世の名を刻んだ4個のブロンズ箱で、中にはレバント産やエーゲ海産の多数の銀製カップバビロニアの円筒印章、メソポタミアラピスラズリのお護りなどが入っていた。これらの宝物はおそらく外交上の贈り物か貢ぎ物であった。当時エジプトでは銀が金よりも貴重であったから、銀のカップはそれだけでも非常に珍重された。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p104

またこの頃にレバント人の名が目立って増加した、とも書いてある。

内政ではファイユーム地方の開発が挙げられる。

ファイユーム文化の発祥の地であるこの地方は、王の治世でこの地方が狩猟・漁業・耕地として大きな可能性があると注目されて、開発事業が行われることになる。

この支流は以前より運河として利用されていたが、これをさらに広く深く掘削して灌漑をより効果的に行った。

この王も晩年の少なくとも3年間は息子のセンウセレト2世と共同統治を行った。

センウセレト2世

平穏な時代で、王はファイユームの耕作地を広げながら、地方の州侯と友好関係を築いた。中部エジプトのベニ・ハッサンにある州侯たちの大きな墓にある碑文(特にクヌムヘテプ2世の墓)は、王との良好な関係や、王が彼らに与えた名誉について述べている。

出典:クレイトン氏/p105

王のことでもう一つ書くべき事項が「ピラミッド・タウン」だ。

中王国時代の王もピラミッドを建造していて、センウセレト2世もその一人だ。

王のピラミッドはファイユーム地方南東部にあるラフーン(El Lahunまたはカフーン)にある*1。この地の古代の名は「El Lahun - Wikipedia 英語版」によれば、「rꜣ-ḥn.t」らしい。どう読めばいいのかわからないが、「運河の入り口」という意味だという。いっぽう、クレイトン氏によれば(p106)「元の名はヘテプ・センウセレト(センウセレトは満足する)であった」。センウセレトの治世以外はwikipediaの呼び名だったのかもしれない。

さて、ピラミッド・タウンの話。

そのプランは、一辺300m以上の壁体で囲まれたなかに通りが幾筋も走り、それに沿って2000軒以上の家屋が整然と並ぶ。まさに、国家によって造営された計画的なタウンなのだ。ピラミッドでの祭祀活動に仕える人々の居住が主な目的だが、ここには神官以外にも、彼らを支える商人や工人も住んでいたようで、およそ1万人が生活していたと推測されている。大小異なる同一規格の家屋が規則正しく配置されているが、それは明確な身分差の表れであり、国家によって厳しく統制・管理されたいかにも中王国時代らしい特徴を示している。

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p121

クレイトン氏によれば(p106)、「カフーンは多くの所有物をのこしたまま突然放棄された形跡があり、エジプトのポンペイといった趣である」と書いている。氾濫などの天災があったのかもしれない。



*1:第12王朝のピラミッドは古王国時代とは違って王朝ごとに集まっていない。初代と二代目はリシュト、三代目はダハシュールといった具合

エジプト文明:中王国時代③ 第12王朝 その1 王朝交代と初代王アメンエムハト1世

王朝交代

前回も書いたが、第11王朝の最後の王はメンチュヘテプ4世という。彼の治世についてほとんど何も分かっていないが、彼の宰相(の一人?)がアメンエムハトという名だということは分かっている。

エジプトの宮廷には常に何人かの実力者がおり、メンチュホテプ4世の短い治世においても最も影響力があったのは、「エリートの一員」で「市長」、「宰相」、「王のための労働監督官」で王の寵臣でもあるアメンエムハトだった。彼の初期の経歴について知らせてくれるのは、主として東部砂漠の奥深く、ワディ・ハンママートのシルト岩採掘場の岩壁ニ刻まれた四つの銘文である。メンチュホテプ4世2年、アメンエムハトは遠征隊を率いて、王の石棺のための貴重な黒緑色の石材ブロックを切り出して持ち帰った。アメンエムハトはこの企てすべてについて、異常なほど詳細にわたる記録を採石場に確実に残るようにし、この任務の成功がもっぱら彼自身の力によることを示したのである。

出典:トビー・ウィルキンソン/図説 古代エジプト人物列伝/悠書館/2014(原著は2007年出版)/p125-126

このアメンエムハトが第12王朝の初代王アメンエムハト1世と同一人物だと考えられている。ただし決定的な証拠は無い。

初代王アメンエムハト1世

アメンエムハト1世が主役の王朝交代劇がどのようなものかは分かっていないが、さほど混乱もなかったようだ。

王は先王朝が行った四方への遠征を継続させながら国内の平和を維持し、さらに王独自の業績を持って後世の繁栄を導いた。

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アメンエムハト1世のレリーフ

出典:アメンエムハト1世 - Wikipedia

  • アメンエムハト1世の葬祭殿より発掘された。

業績①王都遷移

アメンエムハト1世は、王都をテーベからイチ・タウイと命名された場所に移した。現在この場所は分かっていないが、ファイユーム地方の近くのナイル河谷のリシュトにピラミッドを建造したので、王都はその付近にあったと考えられている。

上下エジプトの境に王都を建造して、両者をにらみを効かせるためだったと考えられている。王都イチ・タウイの名は「二つの土地の征服者」という意味を持っている。

業績②ピラミッド建造

古王国時代後半のピラミッドを真似て建造した。今では砂山のようになっている。(Pyramid of Amenemhet I - Wikipedia 参照)

業績③外征と「支配者の壁」

アメンエムハト1世は、ヌビアやアジア(パレスチナ)に外征したようだが、注目すべきものの一つに「支配者の壁」というものがある。

古王国後期以来、エジプトは北東部国境で、「砂上に住む者たち」という形の厄介な問題に絶えず悩まされてきた。シナイ半島パレスチナ南部に住む彼ら半遊牧部族民はエジプトの隊商を定期的に襲撃しており、それによって中断していた。第6王朝のウェニが率いた遠征のように、ときおりおこなわれる軍事遠征は、エジプトの支配を重ねて主張するには役立っていたが、今では脅威の性格が変わっていた。ナイル・デルタの肥沃な農地は、より過酷な環境のレヴァントからあの同じ部族民を惹きつけ、絶え間なく流入させていたのである。もし今後も歯止めがかからなければ、異民族の大規模なエジプト移住によって、国内の安定が脅かされることになる。そこでアメンエムハトは、「支配者の壁」として知られる大規模な防御要塞線を、エジプト北東部国境の全域に建設するよう命じた。この防衛線は200年間にわたってその目的を果たし、「二つの国土」が異国の過度の影響から比較的安全でいられるよう守り続けることとなる。

出典:ウィルキンソン氏/p127-128

業績④共同統治(と暗殺)

アメンエムハト1世の最大の業績は、共同統治のシステムを導入したことで、この制度は第12王朝のあいだ生きつづけた。治世20年目に、息子のセンウセレト1世を共同統治のとして王位につけ、自分が殺害されるまでの10年間、親子で王位を共有した。この間、若きセンウセレトは東西の国境を維持し、南方への伸長をつづけるなど主に軍事を担当した。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p100

アメンエムハト1世の最期は、上のように暗殺で終わる。

『アメンエムハト1世の教訓』は王の暗殺後に書かれた文学作品に王が暗殺された場面が生々しく書いてある。これが本当かどうかは分からないが、後世の人々は王が暗殺されたことは事実と認識されていただろう。

この暗殺によって、図らずも共同統治システムの優秀さが発揮された。息子のセンウセレト1世は西方砂漠の遠征から急遽王都に戻り、混乱を直ちに治めることができた。

共同統治は第12王朝のあいだ存続して、平和と繁栄の一助となった。

正当性を主張するための文学『ネフェルティの予言』

「アメンエムハト1世または第12王朝は、先王朝を受け継ぐべき正当性を持っていない」と思っていた人々もいたようだ。アメンエムハト1世は、彼に反発する諸勢力を艦隊を使って討伐したようだが*1、これとは別に正当性を主張したものがある。

それが『ネフェルティの予言』という政治文学作品であった。

第1中間期の内戦と無政府状態古代エジプト人の心に大きな襲撃を与え、それだけにこの混乱を克服した新しい王朝に対して、「救世主(メシア)」(それは政治的メシアであるが)によって救済されたのであるという見方を生み出したことは容易に想像できよう。この作品はこうした風潮を利用して、第11王朝による国家統一事業を無視し、新しい第12王朝の祖アメンエムハト1世こそこのメシアであるとして、その地位を正当化しようとしたものである。

出典:杉勇 , 屋形禎亮 (翻訳)/エジプト神話集成 /ちくま学芸文庫/2016(『筑摩世界文学大系 1 古代オリエント集』(1978年)の「エジプト」の章を文庫化したもの)/p608-609

この本によれば、作品ができた時期はアメンエムハト1世が即位して間もなくであるとされている。

この作品の要旨はwikipediaに簡潔に書いてある。

『ネフェルティの予言』は、遥か昔の古王国時代に第12王朝の創設者アメンエムハト1世が救済者として現れることが予言されていたと記す事後予言の体裁を取る物語である。全体は三部で構成され、第1部では物語の舞台としてのスネフェル王の宮廷で、ネフェルティが予言を語るに至った経緯を語る。第2部では(古王国から見て)将来に訪れる混乱と無秩序の時代が描写され、その悲惨さが述べられる。第3部で、南方よりきたアメニ(アメンエムハト1世)が秩序を確立し、国土を救済される様が予言されるというものである。

出典:エジプト中王国 - Wikipedia

この作品内では、アメンエムハトが「支配者の壁」を建造することまで予言されている。

スターリンの国内向けプロパガンダのようだが、スターリンとは違い、平和と繁栄の礎を築いた王であったようだ。