歴史の世界

エジプト文明:初期王朝時代① 統一王朝の誕生の過程

古代エジプト史、あるいはエジプト学では、先王朝時代の後に初期王朝時代が来る。初期王朝時代は王朝時代の最初の時期で第1王朝と第2王朝を含む。

この記事では、統一王朝の誕生の過程について書いていこう。

簡単な流れ

上エジプトでナカダ文化が現れたときは、まだ農耕牧畜文化の中で比較的平等に生活が営まれていた。しかしⅠ期~Ⅱ期前半までに階層化が進んで分化していった。

Ⅱ期後半よりこの流れが加速するその一方で、今度は集落間でも階層化が始まった。つまり大集落が中小集落を支配するようになった。

そしてⅢ期になると大集落の都市化と地域統合が始まり、王が誕生した。Ⅲ期終盤になると地域がヒエラコンポリスとアビュドス(アビドス)の2大都市に統合される(2つとも上エジプト)。

いっぽう、下エジプトにはマアディ・ブト文化という、ナカダ文化と時期的に並行した文化が存在していたが、ナカダ文化と比べると階層化が進まず平等社会のままだった。この文化はナカダⅡ期の終わり頃に消滅し、ナカダ文化に呑み込まれた。

最終的にアビュドスの王ナルメルが初代の統一王朝の王になる。

ナカダⅡ期後半から統一までの流れ

上記のようにⅡ期後半から階層化が加速した。エリート層は中小集落を支配するために舶来品やその模倣品を使ったが、Ⅲ期になると西アジアへの交易ルートを独占するために下エジプトに拠点を作った。

下エジプトの交易ルートの拠点からナカダ文化が周囲に広がったと思われるが、上エジプトからの植民もあったらしい。Ⅱ期の終わり頃に下エジプトはナカダ文化に呑み込まれた。

Ⅲ期の後半にはヒエラコンポリスとアビュドス(アビドス)の2大都市が地域統合を行い、エジプトの2大勢力になる。この時期に下エジプトにも独立した政治勢力があったようだが、詳細はわかっていないらしい。

最終的にアビュドスの王ナルメルが初代の統一王朝の王になる。

アビュドスがヒエラコンポリスをどのように併合したかはわかっていない

参考文献にはアビュドスがどのように冷えら今ポリスを併合したのかは書いていなかった。そもそもこの時期は文字システムの黎明期で行政文書を作れるところまで発達していなかった。遺物からも読み解く手がかりになるものは無いようだ。

ここで、私の仮説を書き留めておこう。

まずは以下の図。

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出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p38

この本の同ページには「ただし、ヒエラコンポリスとクストゥールが同じ王国に属するという見解は、あまり一般的ではない」とある。

ヒエラコンポリスとサヤラの間に第1急湍があり、ここがエジプトと北ヌビア(下ヌビア)の境界になっている。

仮にヒエラコンポリスが下ヌビアの集落を支配したとしても、文化の違う集落なのでそれなりにコストが増大したかもしれない。

いっぽう、ヒエラコンポリスの北の勢力の中心はアビュドスだ。この図ではティニスと書いてある都市。アビュドスは北に拡張していった。

Ⅲ期の初頭に下エジプトはナカダ文化を受容していたため、アビュドスの拡張(征服・侵略活動?)も容易だったかもしれない。

下エジプトと下ヌビアのことについては記事「エジプト文明:先王朝時代⑨ マアディ・ブト文化/下ヌビア/南パレスチナ」で書いたが、下エジプトの方が下ヌビアよりも収入が多かったようだ。

このように見ていくと、アビュドスの方がヒエラコンポリスよりも利益が多かっただろう。

アビュドスがヒエラコンポリスを併合できた理由は利益の多寡にあるのではないだろうか。

以上、とりあえず、アビュドスがエジプトを統一したということを前提として書いてみた。

統一の時期に戦争があったかどうか

未解決の問題の一つとして、統一事業に武力が使われたかどうか、という問題がある。

他地域を併合する時に武力を使わないというのは、世界史をふり返ればあまり考えられないことだが、戦争を証明できる明瞭な証拠は発見されていない。

しかし、「やはり武力は使われただろう」という主張が多いようだ。この主張の拠り所になっているのが、「ナルメル王のパレット」だ。

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出典:ナルメル<wikipedia

歴史的記述と解釈するG. ドライヤーは、アビドスで出土した豊富な文字史料から、当時の日付は年の名前で示され、その年の最も重要な出来事にちなんで名前が付されていたことを突き止めた。つまり、ナルメル王のパレットも彼が北の統合を果たした年を示しており、それは軍事的統合の歴史的事実を描いているとする。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p71

これに対して反論もある。ケーラーという学者がいうには、このパレットに描かれているような図像表現は、ナカダⅠ期後半にすでにある、だからこのパレットも先王朝時代から王朝時代まで続く定式化された図像表現の一つに過ぎない、としている。(p71-72)

現在、両者の主張のどちらが優勢なのかは分からないが、このブログではドライヤー氏の主張すなわち「武力制圧はあった→ナルメル王のパレットは史実を表している」を前提に話を進める。

エジプト文明:先王朝時代⑨ マアディ・ブト文化/下ヌビア/南パレスチナ

馬場匡浩氏によれば*1、エジプト先王朝時代は上エジプトのバダリ文化とナカダ文化、そして下エジプトはマアディ・ブト文化(マーディ・ブト文化)の3つの文化が含まれる。

今回は下エジプトのマアディ・ブト文化と先王朝時代にエジプトと交流・交易があったヌビアとパレスチナについて書こう。

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出典:大城道則/ピラミッド以前の古代文明創元社/2009/p19

各集落の場所は上図で確認できる。

マアディ・ブト文化

場所

ファイユーム地方の入り口のナイル河谷両岸からデルタの地中海沿岸まで。

時期

馬場氏によれば*2、前3900-3300年。

生活様式

この文化はメリムデ文化などの下エジプトの文化から発展したものと考えられている。メリムデ文化では農耕家畜の重要性が狩猟採集と比べて増大していった時代だったが、マアディ・ブト文化になると完全に農耕家畜文化といえるほどになっていた狩猟採集はその補完と言っていいかもしれない。これに漁撈が加わる(ナマズナイルパーチなど)。

住居は、円形または方形のプランに上部構造が小枝や植物の歯などで造られる家屋だった。これはナイル河下流の一般的な形態だった。

(高宮氏/2003/p72-76)

埋葬については、マアディ遺跡の埋葬について馬場氏が以下のように書いている。

マアディ遺跡にみる埋葬は極めて質素であり、墓の規模や副葬品の多寡などの格差もなく、エリート層や厚葬が特徴のナカダ文化とは対象的である。また、集落においても、南レヴァントとの強い関係を示すものの、文化的には簡素であり、ナカダ文化と比較しても社会の成熟度は低く、平等的な社会といえるだろう。

出典:馬場氏/p65

交易

馬場氏の本のマアディ遺跡の項より。↓

[南レヴァントからの]輸入土器はおそらく、ワインやオイルを入れてレヴァント地方から持ち込まれたものであろう。また、ここでは銅の存在も特筆され、道具だけでなく、インゴットや原鉱もあり、分析ではその原産地はレヴァントとされる。マアディ遺跡では、エジプト最古のロバの骨が出土していることから、レヴァントとはロバを使った陸路交易で結ばれ、モノだけでなく人も頻繁に行き来する、西アジアとの玄関口として機能したのだろう。

出典:馬場氏/p65

シナイ半島には先王朝時代の遺跡があり、それらはエジプト=レヴァント間の旅路をつなぐ場所だと言われている。

マアディ遺跡の地下式住居

マアディ遺跡では上述の一般的な住居の他に、地下式と呼ばれる、エジプトでは類例を見ない住居が発掘されている。

地下を2mほど掘って地表面ほどの高さで屋根で覆い、幾つかの柱で支える構造になっている。炉址と埋設土器があることから貯蔵施設ではなく、住居と考えられている。

この住居の例は唯一、同時代の南レヴァントのビールシェバ文化に存在することから、このことからもマアディ・ブト文化と南レヴァントとの強い関係が認められている。

ブトと神話 

ブト遺跡がある場所は現在テル・エル=ファライン(ファラオの丘の意)という地名になっている。ここはかつては海岸に近接していたとされている。

この遺跡の発掘には理由があった。

エジプト史を編纂したプトレマイオス王朝の神官マネトによれば、最初のファラオはメネス(古代語でメニ)であり、それ以前は、「死者の魂 (Spirits of the Dead)」とよばれる神々がエジプトを支配していた。その代表が、「ネケンの魂 (Spirit of Nekhen)」と「ペの魂 (Spirit of Pe)」の神であり、神話では、上エジプトのヒエラコンポリスと下エジプトのブトがそれぞれ中心地とされる。そして、この北と南の二つの地域を統一してエジプト王朝を築いたのが、メネスという。

出典:馬場氏/p31

このような伝説・神話を証明しようとすることは、考古学の原動力の一つである。

しかし先王朝時代の層にたどり着くことは、堆積層が厚いだけでなく、地下水位も高いため困難をきわめた。

神々が支配する時代における下エジプトの中心地というブトの神話は、ながらく伝説のままであった。それに果敢に挑んだのがドイツ隊である。1980年代、彼らは伝説か史実かを確かめるため、北のテルにて調査を開始した。24時間ポンプを使って地下水を汲み上げながらの調査である。そしてついに、地表下7mで先王朝時代の層を検出することに成功した。土器をはじめとする物質文化は、マアディ遺跡のそれと類似する。時期的には、マアディ遺跡が途絶えるころに、ブトが営まれるようになる。やはりここでも、南レヴァントとの関係が色濃く、装飾を施した良質なレヴァント系土器が出土する。

出典:馬場氏/p67

これによって、この地は先王朝時代から古王国時代まで連続して利用されていたことが確認された。

そしてこれにより、マアディ・ブト文化からナカダ文化へ置き換わる様子が、考古学的証拠として初めて確認された(p67)。マアディ・ブト文化の一つ上の層、つまりナカダⅢ期の層は日乾レンガの使用が確認されている。

マアディ・ブト文化の消滅

上述のようにマアディ・ブト文化はナカダ文化に取って代わられた。時期はナカダⅡ期末からⅢ期にかけて。このことについては記事「エジプト文明:先王朝時代④ ナカダ文化Ⅱ期後半(前3650-3300年) 後編 」で書いた。

上エジプト(ナカダ文化)のエリート層が西アジアへの交易ルートの支配をするために、下エジプトに拠点を作ったことがきっかけとなったのだろうと思われる。拠点を作った後に植民したかもしれない。

ヌビアAグループ文化

上エジプトの南端はアスワンハイダムで有名なアスワンで、ここが第1急湍(急流部)になっていて、その南はヌビアと呼ばれる。

第1急湍から第2急湍までの間は下ヌビアと呼ばれ、この地域ではナカダ文化と交易・交流していた証拠がいくつも出土している。

ナカダ文化と対応するこの地の文化が「ヌビアAグループ文化」と呼ばれている。

下ヌビアの地は現在はアスワンハイダムの貯水池・人工湖「ナセル湖」の底に沈んでしまって。資料が乏しいのはこのためだ。

Aグループ文化の生業は、農耕、牧畜、狩猟、採集、漁撈を組み合わせたものであったらしいが、資料が乏しいために、それぞれがどの程度の重要性をもっているのか、あまり明らかではない。おそらくエジプトと同じようなナイル河の沖積低地と増水を利用した穀物栽培が行われていたと推測され、栽培種と思われるエンマー小麦と大麦、豆類が出土しているが、沖積低地の幅が狭く、集落の規模も小さいので、エジプトほど規模の大きな沖積地農耕は行われていなかったようである。

出典:高宮氏/2003/p80-87

交易・交流については、ナカダ文化が発達するにつれて増大した。特にナカダⅢ期は、この地にサヤラとクストゥル(クストゥール)という大集落があった。これらは当時の中心地であったと考えられる。このことについては記事「エジプト文明:先王朝時代⑧ ナカダ文化Ⅲ期 その4(先王朝時代の主要な都市・大集落)」で書いた。

パレスチナ

パレスチナは、前3500年頃から初期青銅器時代の文化が普及し、レヴァントで最初の都市化が進行していた。

しかしこの地の初期青銅器時代最初期(Ⅰa期=ナカダⅡb期)から、南パレスチナエジプト人が住み始めていた。証拠としてエジプト製土器とパレスチナ製のエジプト様式の土器が発掘されている(ナカダⅡb期は前半の後半頃)。

Ⅲ期になると、土器・石器以外にエジプトの王名が記された土器、エジプト様式の印章および印影を持つ粘土封、エジプト風の日乾レンガ建造物が発掘されている。

こうしたパレスチナとの関係は、南パレスチナの遺跡やシナイ半島の遺跡から、エジプトの王名を刻んだ土器やエジプト様式の円筒印章と印影をもつ封泥が出土するため、遅くとも第1王朝開闢頃にはエジプトの王たちの管轄下で組織的に行われていたという見解が優勢である。そして、このような状況は、しばしば「第0王朝(Dynasty 0)」と称されるナカダⅢ期の途中までさかのぼる可能性がある。

出典:高宮氏/2003/p93

(高宮氏/2003/p89-93 参照)



*1:古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p41

*2:p63

エジプト文明:先王朝時代⑧ ナカダ文化Ⅲ期 その4(先王朝時代の主要な都市・大集落)

前回、都市化について書いたが、今回は個別の都市あるいは「都市」一歩手前くらいの大集落について書いていこう。

ナカダ

ナカダ文化の由来となった地域。ナカダ文化初期の中心地。

古代エジプト名ではヌブトと呼ばれていたが、ヌブトとは「金」を表す語だ。

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出典:古代エジプト文明社会の形成/2006/p16

  • 上の図の西岸のコプトスの対岸にナカダがあった。

この図で重要なのはワディ・ハンママート(ワディ・ハママート)だ。ワディとは涸れ谷のことで、ここが東岸砂漠へのルートとなっている。ナイル川東岸は絶壁になっているところが多く、東岸砂漠のルートは限られている。

図で示されているように、東岸砂漠には金以外にも多くの鉱物資源がある。このような資源はナカダに集積され、ナカダの人々はこれらをナイル川流域に住む人々に提供し、あるいは地域外との交易に利用された、と考えられている。ナカダは大集落化した。

ただし、ナカダ文化全体の交易は、Ⅰ~Ⅱ期前半までは あまり活発ではなく、Ⅱ期後半に入りようやく活発した*1。そして交易が盛況になったⅢ期にはナカダは没落期に入った。墓地からエリート層が消えた。

ヒエラコンポリス

ヒエラコンポリスは、ナカダ文化Ⅰ期以降に人びとが住みついたが、Ⅰ期のうちに大集落化して都市化の一歩手前まで栄えた。おそらくⅠ期のうちにナカダを抜いてナカダ文化最大の集落になったようだ。ナカダ文化全期を通して栄え、Ⅲ期には王を出現させ都市化した。古代エジプト最古の都市とされている。

Ⅲ期後半には上エジプト南部とヌビア北部を支配下に置いたとする仮説があるが、ヌビア北部を支配下にしたとする見解はあまり一般的ではない。(高宮氏/2006/p37-38)

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出典:高宮氏/2006/p38

ただし、王朝時代開闢直前には、アビドス(アビュドス)と並ぶ二大都市となったことは確か。

ヒエラコンポリス遺跡は、現在は辺鄙な田舎ですが、そのお陰で遺跡が荒らされずに良く残っている*2

ナカダ文化で最大の遺跡で、集落域において住居址、生産址、神殿址などの多様な遺構が検出されている。沖積低地中の微高地上に築かれた古代の都ケネンの址も検出されている(微高地上の検出は稀)*3。この他、世界最古のビール醸造施設や王宮などの遺跡、ナルメル王のパレットやサソリ王の棍棒頭などの特に有名な遺物が発掘されている。

この遺跡は現在でも活発に発掘作業が行われ、発掘の歴史だけでも100年以上になる*4

ヒエラコンポリスがその初期にどうして栄えたのか は、参考文献では言及されていないが、その位置から想像すれば、ヌビアとの交易の拠点であったのかもしれない(後述するアスワン付近にあるエレファンティネはⅡ期中葉までしか遡れない*5 )。

アビドス(アビュドス)

アビドスはナカダ文化の初期からこの文化の一員だったが、ナカダやヒエラコンポリスのような大型集落ではなかった。

しかしおそくともⅡ期後半には大型化していたようだ。低位砂漠のウム・アル=カーブでこの時期に年代づけられる大型墓が発見されている。

Ⅲ期の間に都市化して、ナカダを呑み込み、ヒエラコンポリスと並ぶ2大勢力になった。

Ⅲ期初頭に造られた、有名な「U-j墓」は先王朝時代の中で最大のものと言われている。多数の副葬品の中の土器の同部に頻繁にサソリが描かれていることからこの墓の被葬者はサソリ王と呼ばれている。このサソリ王はヒエラコンポリスの「サソリ王の棍棒頭」で有名なサソリ王の1世紀前の人物なので、「サソリ1世」とも呼ばれる。さらに重要なことに、この墓には古代エジプト最古の膨大な文字資料が検出された。

また、ウム・アル=カーブ南部には、「第0王朝」のカーおよび「第1王朝」のナルメル王以下の歴代王の墓が検出され、それまで疑問視されていた。王名表に載っていた王が実在したことが明らかになった。

上で触れたが、現在、第1王朝の初代はナルメル王で、ナルメル王は元々アビドスの王だったと考えられている。

その他の集落

上の集落と比べると重要度が落ちるが特筆に値する(?)集落を幾つか書き記しておこう。

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出典:大城氏/2009/p19

各集落の場所は上図で確認できる。

エレファンティネ

エレファンティネは上エジプトの最南端の集落、第1急湍、現在のアスワンの近くの中洲にあった。その遺跡はⅡ期半ばまで遡ることができる。

中王国時代の途中までヌビアとの交易の拠点かつ防御地点であったので、ナカダ文化期も交易の拠点だった可能性がある。

第1王朝時代の始まり前後に年代づけられる「天然の花崗岩の大岩を利用した小さな祠が発見されている。

(高宮氏/2003/p104、大城道則/ピラミッド以前の古代文明創元社/2009/p41)

ビザンツ帝国時代まで継続して栄えていたようだが、ナカダ文化の時代の終わり頃にようやく(神殿ではなく)小さな祠が築かれたということで、それほど栄えていなかったかもしれない。

ヌビア北部の大集落(サヤラ、クストゥル(クストゥール) )

上エジプトの南はヌビアと呼ばれる地域がある。「ヌビア<wikipedia」によれば、「エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方の名称」。

ヌビア北部(第2急湍あたりまで)を下ヌビアというのだが、ここに前4千年紀にヌビアAグループというエジプトとは違う独自の文化があった。しかし、交易、交流が頻繁になったナカダⅢ期には下ヌビアの墓にはエジプトの影響がかなり見られる。

遅くともナカダⅢ期には、Aグループ文化の内部でも明瞭な社会階層が生じていたと考えられる。サヤラの大型墓からはナカダ文化と共通するモチーフが彫刻された混紡やパレットが、クストゥールの墓地からは多量のエジプト製土器が出土しているため、Aグループ文化の社会階層発展の裏には、ナカダ文化との交易や接触の影響がはたらいていたと推測される。

出典:高宮氏/2003/p138

サヤラとクストゥルが下エジプトの中心地で、エジプトとの交易により大集落化したと考えられているようだ。

下エジプト(ブト、テル・エル=ファルーカ)

下エジプトは、元々ナカダ文化とは別のマアディ・ブト文化が存在していたが、Ⅱ期末の頃にナカダ文化に飲み込まれた。

テル・エルファルーカは西アジアと上エジプトをつなぐ交易の拠点の一つだった。

世界最古のビール醸造所跡が発見されており、特産品としてビールを生産していたことが明らかとなている。またカバの牙で生産された小像や黄金製品が多数出土している。とくに古代エジプト最古の支配者を表したものと考えられているカーネリアン(紅玉髄)のペンダントやラピスラズリの眼の象嵌をもつ金で覆われた彫像は印象的であり、当時この地を治めていた支配者たちの権力の大きさを彷彿とさせるものがある。

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出典:大城氏/p42

ブトはテル・エル=ファルーカよりも大規模な集落とされている。ブトについてはマアディ・ブト文化の記事で書くが、長く南レヴァントとの関係が深い地だった。

ナカダⅢ期でもテル・エルファルーカよりも大規模な集落で、アビドスで出土された先王朝時代のラベルの中にはブトを表す文字が発見されている(大城氏/p43)。



*1:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p173

*2:エジプト文明の起源地を掘る ~国家はいかに形成されたか~ 馬場匡浩 准教授 – 早稲田大学 高等研究所 

*3:高宮氏/2003/102

*4:大城道則/ピラミッド以前の古代文明創元社/2009/p41

*5:高宮氏/2003/p104

エジプト文明:先王朝時代⑦ ナカダ文化Ⅲ期 その3(都市化 ほか)

前回の最期に書いたナルメル王のパレットについては別の機会にやる。

今回は都市化について。

J.ウィルソン氏(1958)エジプト文明を「都市なき文明」であった、と主張した。メソポタミアのような都市が発達しないまま、上下エジプトは統一されたのがエジプト文明だというわけだ。しかし1970年以降の発掘の成果より先王朝時代に都市が存在していたことが明らかになった。ウィルソン氏の考える「都市」はメソポタミアにある都市で、エジプトの環境の違いを考慮していなかったらしい*1

それでも都市の出現についてはメソポタミアの研究のほうが遥かに蓄積されているので、メソポタミアの都市論を使ってエジプトの都市化を見ていきたい。

都市あるいは都市化に関する議論

(以下の都市論はメソポタミアのもの)

ある地域が先史時代から歴史時代、つまり未開から文明化へ変わる時、多くの場合 その政治的中心地は都市化する。

しかし、この「都市化」というのは、イメージできても具体的に書き表すというか定義が難しい。というか今だに議論中らしい。

「都市化とは何か」という問題に最初に解答案を世に出したのは、有名な考古学者ゴードン・チャイルド氏。彼の解答案(後述)は今でも影響力を持っているが批判はある。

時代ともに考古学その他の研究が積み重なっていくにつれて、数々の「解答案」が発表されていった。

「小泉龍人/都市論再考─古代西アジアの都市化議論を検証する─/2013(PDF )」には、メソポタミアの都市論を年代別に紹介している。「4.2. 都市化議論抄出」に年代ごとの推移が簡潔にまとめられている。

現在では、考古学による遺物によって構築される各地域(文化)の編年と、人類学から出てきた「複雑化していく社会」(大家族の自給自足する生活様式から王を戴く国家を持つ社会への変遷)を組み合わせて、ある地域の歴史を復元していこうとしているようだ。

先王朝時代の都市化

ここでは、古いが有名な都市(化)の指標(要素)であるゴードン・チャイルド氏の10項目(Childe 1950: 9–1 6)*2を見てみよう。

  1. 大規模集落と人口集住
  2. 第一次産業以外の職能者(専業の工人・運送人・商人・役人・神官など)
  3. 生産余剰の物納
  4. 社会余剰の集中する神殿などのモニュメント
  5. 知的労働に専従する支配階級
  6. 文字記録システム
  7. 暦や算術・幾何学天文学
  8. 芸術的表現
  9. 奢侈品や原材料の長距離交易への依存
  10. 支配階級に扶養された専業工

この定義からすると、少なくともⅢ期の超大型集落のヒエラコンポリスとアビュドス(アビドス)は10項目のほとんどをクリアしているようだ。この2つは都市と言っていいと思う。

大城道則『ピラミッド以前の古代エジプト*3では、上の2つ以外に、ナカダ、エレファンティネ(ヌビアとの国境付近。対ヌビアとの交易拠点)、テル・エル=ファルーカ(デルタ東部)、ブト(デルタ西部)、クストゥル(ヌビア)が都市として挙げられている。大城氏はこれ以外にも都市があったと考えているようだ。上述した「複雑化していく社会」の過程も遺物から証明できる。

ピラミッド以前の古代エジプト文明

ピラミッド以前の古代エジプト文明

神殿

前置きとして、エジプトにおける神の出現について。

古代エジプトの宗教を特徴づける多様な神々の存在は、先王朝時代に各地で地方の守護神となる神が信奉されていたことに起源を発すると考えられている。[中略]

おそらくはアニミズム(自然崇拝)に端を発していたと思われる地方の神々は、先王朝時代と王朝時代の初期には動物や物で表わされることが多かった。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生・同成社/2003/p219

王朝時代以降、神々は人間形になり、統一国家のもとで神々は体系化されていった。

さて、エジプトにおける最古の神殿は、ヒエラコンポリス遺跡HK29A地区で発見されている。Ⅱ期中葉。ヒエラコンポリスの王朝開闢直前に年代づけられる神殿跡(ネケン神殿跡)では、有名な「サソリ王の棍棒頭」や「ナルメル王のパレット」などが発掘されている。

先王朝時代では、ヒエラコンポリスのほかにも地方神殿が幾つか発掘されている。(高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/きょうとだいがく学術出版/2006/p220-222)

大城道則氏によれば*4、大きな(儀式用の)パレットが出現するのは先王朝時代の半ば(Ⅱ期後半?)の頃らしい。

王宮

先王朝時代の王宮についてはよく分からない。

馬場匡浩氏によれば(古代エジプトに学ぶ/六一書房/2017/p56)、Ⅲ期のヒエラコンポリスで「厚い日乾レンガの壁体で囲まれた聖域に、神殿や王宮が建造された」とある。

王朝時代の王都の神殿は上のヒエラコンポリスの神殿と同じく聖域とされ、王と一握りの神官だけしか入れなかった。神々への儀式も王が独占した(実際は神官が代行した)*5

これをふまえて推測すれば、先王朝時代の王を戴く都市(都市国家?)では王朝時代の王都の神殿と同じことをすでにやっていたのだろう。ナルメル王のパレットなどの儀式用の、王による奉納物などがその証拠となるだろう。



*1:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p234-235、高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p97-98

*2:上記の小泉氏の論文から

*3:創元社/2009/p41

*4:ピラミッド以前の古代エジプト文明/創元社/2009/p31

*5:馬場氏/p193

エジプト文明:先王朝時代⑥ ナカダ文化Ⅲ期 その2(王の出現 ほか)

今回は、王の出現とそれに付随して起こったことについて書いてみる。

王の出現

近年、各地の発掘調査にともなって、ナカダⅢ期ニ年代づけられる複数の王名の存在が明らかになってきた。こうした王名は、「セレク」とよばれ、王宮の正面を象ったと考えられている長方形の枠のなかに記されており、王朝時代初期に用いられた王名表記の先駆であった。王名は、焼成前の土器の外面に刻みつけたり、焼成後にインクで記されたりしたほか、稀に外面に刻みつけた例がある。セレクに書かれた王名の研究から、最古のセレクはナカダⅢa2-c1期に遡ることが明らかになり(Brink 1996; Wilkinson 2000)、初めは王名が書いていないものが多かったが、ナカダⅢb2-c1期には王名が判明できる霊が現れた。

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出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p216-217

  • 「Ⅲa2-c1期」はⅢ期半ばと言っていいだろう。

  • セレクや王名は上エジプト北部でも出土するが、土器や岩壁に記されているもので、本来の拠点とは違うところから出土していると考えられている。だから北部で出土したからといっても、その地域に独自の政体があったとは断言できない。

  • このⅢ期後半の王の出現は王朝時代の第1王朝よりも前の王のため、「原王朝」または「第0王朝」と呼ばれることがある。(高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p36)

これらで名の知られている王の中で有名なのがサソリ王とカー王だ。

★サソリ王

ヒエラコンポリスに棍棒頭を奉納した王。支配者を意味するローゼット・サインとともにサソリのサインが記されているので、サソリが王の名前と思われます。アビュドスからはこの王の存在を示す証拠は見つかっていないので、ナルメル王とほぼ同時代にヒエラコンポリス地域を支配した王だったかもしれません。

サソリ王については、下記のURLもご覧下さい。

http://www.touregypt.net/featurestories/scorpionking.htm

★カー王

アビュドスの二重墓B7/9墓に埋葬されました。この王の存在を示す証拠は北東デルタのテル・イブラヒム・アワドから上エジプトのアビュドスまでとイスラエルのロッドで発見されています。ヘルワンではカー王のセレフが彫られた二つの壷が発見されているので、メンフィスがナルメル王の治世以前に存在し、ヘルワンがメンフィスの墓地として役立っていたことを示します。アビュドスの王墓で発見された土器の銘辞は王の宝庫によって受け取られた収入に言及しており、第1王朝の始まり以前に租税徴収が中央集権化されていたことを示します。

この二人の王以外にもセレフの中のサインの読み方が分からない王やセレフの中に王名が記されていない例が多数発見されており、エジプト統一以前の支配地域が限られた王たちの存在が暗示されます。

出典:西村洋子/History of Ancient Egypt 2_ナカダ3期・第1王朝/2006年6月25日

ここで棍棒(メイス)について書いておこう。

古代エジプトを学ぶ: 通史と10のテーマから

古代エジプトを学ぶ: 通史と10のテーマから


馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017

上の表紙の絵は第1王朝初代王ナルメルを描いたものとされるが、彼が持っているものが棍棒(メイス mace)。打撃用の武器。高貴な身分を表す物として副葬品としても利用された。神殿に奉納するものは実際に使用するものよりも遥かに大きく作られ、絵を彫刻されて奉納される。

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Scorpion macehead (Ashmolean Museum)

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Scorpion macehead (detail) (Ashmolean Museum)

出典:Scorpion Macehead<wikipedia英語版*1

官僚組織

全体的な社会や経済との関係は明らかにはできないものの、文字を用いた物品の管理がナカダⅢ期に始まったらしいことが知られており、この初期の物品管理システムが、王朝時代の管理組織の発達に深く関わっていた可能性がある。[中略]

土器に記した銘文、不腕に押捺した印章、物品に取り付けたラベルによって物品を管理する方法は初期王朝時代にも継続して行われており、ここに官僚組織あるいは少なくとも管理方法の萌芽を見ることができると思われる。ただし、これまで同時期の遺跡から出土した文字資料の数は限られているので、管理対象となった範囲も小さな王家の家政に限定されていたのかもしれない。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p161

このように、官僚組織または行政組織における先王朝時代は、黎明期といえるかもしれない。

文字

20世紀後半まで、エジプトの文字は第1王朝と同時に現れたと思われていた。メソポタミアに影響を受けて成立したという説もある。

しかし、ナカダⅢ期の大型集落であるアビュドス(アビドス)の墓(ウム・アル=カーブU-j号墓ほか)から初期の文字資料が豊富に検出され、研究の結果、エジプト独自に文字が誕生したことが示された。

これらの資料を用いて初期の文字の分析を行ったG.ドライヤーは、50種類あまりに及ぶ文字の使用を認め、それらの性格についても推測している。ドライヤーによれば、この頃すでに、表意文字あるいは絵文字だけではなく、表音文字や決定詞と補足音価を用いて言語を表記するシステムが認められるという。ドライヤーの解釈が妥当ならば、表音文字を用いて言語を表記しているという意味で、早くも本格的な文字が確立していたことになる。使用された文字や文法はエジプト特有のものであるが、初期の印章に描かれたモチーフにはメソポタミアからの影響が認められ、文字の概念はやはりメソポタミアから伝わったらしい。ただし、表音文字を用いた本格的な文字への脱皮は、エジプトの方がやや早かったかもしれない。

出典:高宮氏/2003/p242

これにより、メソポタミアの文字(楔形文字)とエジプトの文字(ヒエログリフの祖型)が同じ前3200年頃に誕生したことになった。

以下は、メソポタミアとエジプトの文字の出現の理由の違いについての説明。

楔形文字の出現は、数量や種類の防備録といった経済活動にあるようだが、ヒエログリフも物品管理を目的として生まれたと考えられる。アビドスで発見された初期ヒエログリフは、エジプト文明成立前夜の政治的な経済活動のなかから生まれてきたのである。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p260

ちなみに馬場氏はエジプトとメソポタミアの文字は独立して誕生したとしている。高宮氏のいう「概念」云々という話は書かれていない。

美術/図像表現

高宮氏によれば*2美術の歴史の中でも注目されるべき古代エジプトの図像表現は、王朝時代には、石碑や建造物の壁面などの大きな平面に描かれていたが、Ⅲ期はバダリ文化以来の伝統となっていた化粧用パレット、棍棒頭(メイスヘッド)、櫛、ナイフの柄などに施されていた。

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出典:高宮氏/2006/p266

神殿奉納用の化粧用パレットや棍棒頭は実用のものと比べて遥かに大きく作られている。大城道則氏によれば*3、大きな(儀式用の)パレットが出現するのは先王朝時代の半ば(Ⅱ期後半?)の頃らしい。

これらの図像表現の幾つか(ナイフの柄の2匹の絡み合った蛇の図像など)や、技術(浮彫など)はメソポタミアの影響を受けているのではないかと言われている。

そして、有名な「ナルメル王のパレット」は、先王朝時代の図像表現の集大成と言ってよい。

このパレットの図像は、構成まで続く王朝時代の美術の主要な特徴をすでにほぼまんべんなく取入れていた。

出典:高宮氏/2006/p269



*1:上図の著作者:Jon Bodsworth、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Scorpion_Macehead#/media/File:Scorpion_Macehead.jpg、下図の著作者:Udimu、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Scorpion_Macehead#/media/File:Kingscorpion.jpg

*2:2006/p267

*3:ピラミッド以前の古代エジプト文明/創元社/2009/p31

エジプト文明:先王朝時代⑤ ナカダ文化Ⅲ期 その1

ナカダ文化Ⅲ期は、先王朝時代の最後期、王朝時代の直前にあたる(もしかしたら王朝時代の初期まで含むかもしれない)。

ただし、Ⅲ期のあいだにすでに「王」が誕生しており、この時期は「原王朝」「第0期王朝」と呼ばれることもある*1

Ⅱ期後半からエリート層を含む政治勢力形成が急速に進んだが、Ⅲ期の遺跡では神殿や王宮の址が発見されている。文字の誕生もⅢ期まで遡ると言う。

現在、エジプト文明の誕生は第1王朝(初期王朝時代)の誕生とされているようだが、文明の諸条件はすでにナカダⅢ期(先王朝時代)に出揃っていた。*2

この記事では文化について書く。別の記事で王朝の出現と都市の出現について書く。

文化の拡張

ナカダ文化はⅡ期の終わりまでに下エジプト(ナイルデルタ)を飲み込んだが、ナイルデルタの北の頂部(メンフィスの辺り)は空白地帯になっていた、ということは前回にやった。

Ⅲ期になるとこの地帯に大型の墓地が築かれた。またデルタ地帯への拡張は東部を中心に広がっていった(高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p201)。文化の拡張に追いつくように政治的影響が急速に広まっていった。

交易

交易について。先に言っておくが、ナカダ文化は下エジプトにも拡張したが、その中心は、文化的にも政治的にも、Ⅲ期も引き続き上エジプト南部のままだ。これを踏まえた上で交易のネットワークを考えよう。

交易はⅡ期後半に活発化し、下エジプトに拠点を作り、おそらく植民も行われた。しかし交易ルートの支配は不完全だったようで、中距離貿易どまりだった。

これがⅢ期になると、下エジプトは上エジプトの勢力下に入り、南パレスチナにまで交易ルートの拠点が置かれるようになる。エジプト製土器あるいは(地元で作られる)エジプト様式の土器が多数出土する場所(エン・ベソルなど)は、行政中心地と考えられている(高宮氏/2003/p93)。

さらにヌビア方面では下ヌビアの南端(第2急湍)まで直接接触していたと推測されている。(p173)

このように遠距離交易網が確立され、上エジプト南部の政治勢力の交易独占は達成された。

専門化

Ⅱ期後半以降、専門化による大量生産は始まっていたが、Ⅲ期に入ると、支配者から独立した職業集団が現れた。

高宮氏は、各地の土器のヴァリエーションが減って規格化された「オレンジ色の胎土で制作された比較的単調な土器」が増加したこと、大型土器が増えたこと、回転台を用いて口縁部付近を整形された土器が急増したことなどを挙げて、以下のように書いている。

このように規格化、熟練した技術および大量生産は、かねてから指摘された経済的な効率化に起因する専門家の発達を示唆し、従属だけではなく、独立の専門家によっても引き起こされ得る現象である。

出典:高宮氏/2003/p194

  • 上の説明を読むと、独立の専門家といっても、商業の発達というよりも、公的事業の下請けという感じがする。

大量生産は、規格化による大量生産のほかに、交易の頻繁化により土器の大量生産が必要不可欠になったという面がある。つまり、土器および内容物の交易が頻繁に行われた結果、大量生産が必要だった。



*1:高宮氏/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p36

*2:時代区分が決まった後の発見や研究成果の結果、こういったズレがでることは少なくないようだ。古代日本史における縄文時代弥生時代の境界もズレがある事例の一つと言えるだろう。

エジプト文明:先王朝時代④ ナカダ文化Ⅱ期後半(前3650-3300年) 後編

前回=前編からの続き。

ナカダ文化の拡張

ナカダ文化の発祥の地はナカダからアビュドスあたりだが、Ⅰ期のうちに北は上エジプト中部のマトマールから南はアスワン(ナイル川の第一急湍)まで拡大した。第一急湍の南はヌビアと言われ、ナカダ文化はヌビア勢力(ヌビアAグループ文化)と境界を接していた。

Ⅱ期中葉になると北へ拡張し、デルタ東部のミンシャト・アブ・オマルにまで到達した。

Ⅲ期に入るまでは、デルタの南端部(メンフィス付近)は空白地帯として残された。(高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p199-201)

高宮氏は拡張した要因について、人口増加の結果デルタに植民したという説と西アジアへの交易ルートの支配という説を紹介している(p204)。個人的には後者のほうに一票を入れたい。パレスチナの土器やアフガニスタンラピスラズリは地域支配や威信材となっている。また、シュメール文明初期に唯一の都市だったウルクは交易ルートに植民をしている。上エジプトにおけるミンシャト・アブ・オマルはウルクにおけるシリアのハブーバ・カビーラ南(Habuba Kabira)に比較できる(記事「メソポタミア文明:ウルク・ネットワークの広がり(物流網/文化の拡散/都市文明の拡散)」参照)。

さて、ナイルデルタ(下エジプト)にはマーディ・ブト文化(マアディ・ブト文化)という既存の文化があったのだが、Ⅱ期末の頃にこの文化は自然消滅した。つまり、下エジプトはナカダ文化に飲み込まれた。

ただし注意すべき点がある。以上は文化の拡張というだけで、政治支配の拡張ではない、ということ。(高宮氏/2003/p203-204)

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出典:高宮氏/2003/p200

政治的地域統合

Ⅱ期後半では広域を支配するような権力を持つ大型集落は現れなかった。

Ⅱ期半ばにアビュドス(アビドス、のちのティス?)、アムラー、ナカダ、ゲベレイン、ヒエラコンポリスといった一部の大型集落が中小集落を支配下に置いて政治的勢力を急速に築きあげた。ただし、これらの大型集落は上エジプト南部のみで、それより北には独立した集落があったようだ。(高宮氏/2003/p218)

ビールと支配

Ⅰ期末ころに、いち早く大型集落化したヒエラコンポリスに、今のところ最古のビール醸造施設が出現した(前3800年)(馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p301)。

この最古のビールについて馬場氏は以下のように主張する。

実は、ビールは簡単には作れません。イースト菌はすごく弱く、他の雑菌に負けてしまいます。雑菌を繁殖させないようにするなど環境対策ができていないと、ビールを作ることはできてもすぐに腐ってしまいます。つまり、適切な環境と酵母の維持・管理が必須となり、専業的なビール職人の存在が示唆されます。このことは発見された醸造址の規模からも支持されます。

一般的に、エジプトではビールは誰でも飲んでいたものとされてきましたが、少なくとも先王朝時代においては違うのではないかと思っています。当時、ビールは一般の人々に作らせなかったのではないでしょうか。ビールはエリート特権のアルコール飲物であり、エリートに従い、また儀式への参加を許されたものだけが飲むことができたのではないかと考えています。つまり、エリートが社会を統制し、自身の地位を確立し、さらに地位を高めるためにビールというアルコール飲料を造らせた。社会コントロールのためにエリートが利用していたものの一つがビールであり、そのためにお抱えのビール醸造職人を擁したのでしょう。

出典:エジプト文明の起源地を掘る ~国家はいかに形成されたか~ 馬場匡浩 准教授 – 早稲田大学 高等研究所 08 NOVEMBER 2016

さらに引用したページには、ビール醸造施設のすぐ近くの食品加工施設の大きな遺構も紹介している。

ビールと豪華なごちそうはエリート自身のためだけでなく、エリートの儀式と地位の維持を支えるために活用した、と馬場氏は考えている。下々の者たちに大盤振る舞いをして権力を維持するということ。

社会の複雑化とは

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社会を最も簡単に模式図で示すと図1のようになります。縦軸は「身分差」、横軸は「職の分化」を表しています。人は元々、みな平等な存在でした。身分差がなく、誰もが自給自足をしている社会だったのです。身分差がない限り、職の分化はほとんど起こりません。なぜなら、自給自足をしない専業的な職人が存在するには、支配者の庇護が必要です。それは、職人は通年で支配者の求めるモノを作り、その見返りに食糧を得るシステムです。このように、身分の階層化があることで、明確な職の分化、つまり専業化が成立すると考えられるのです。ファラオが誕生して王朝時代を迎える頃には、社会的な上下関係が形成され、専業化も進んでいました。ファラオを頂点としたピラミッド型の社会になっていくこうした過程が、先王朝時代なのです。

出典:同上

「社会の複雑化」に対する簡潔な説明を見つけられなかった。私が勝手に説明するとすれば、「未開から文明化する過程」。

上の引用のように「自給自足をしている社会」から「王朝時代」へ、つまり文明化への過程が「社会の複雑化」だ。

この言葉は、メソポタミア文明でも使われていたのだが、スルーしてしまったのでここで書いておく。