歴史の世界

前漢・高祖劉邦③:功臣粛清

楚漢戦争で劉邦勝利に導いて諸侯王になった功臣たちは、漢帝国ができて直後に「危険人物」と見なされて滅ぼされる。約2700字。

功臣を粛清する理由

帝国内における王国の広さは、皇帝の直轄地が十五郡であったのに対して、[諸王国の総和は]三十余郡にも及んでいたのであり、この点からみれば、中央政府の支配権は、秦帝国に比べてはるかに劣弱であったといえよう。

事実、上述のように、王国内の統治権は諸侯王に委譲され、その官僚は相国(丞相)のみが中央政府に任命され、それ以外はすべて諸侯王が独自に任命するものであった。また、諸侯王はそれぞれ年号を立て、国内の財政権を掌握していた。したがって、この郡国制における封建王国の性格は、周代封建制が復活したものと考えられやすい。また実際問題としても、このような王国の性格からすれば、それが中央政府の支配から離脱して、地方的独立国となる傾向があったことは当然である。

このような傾向に対して、あるいはこのような傾向をたどることを予見して、高祖劉邦は、その在位中に一定の政策を実施した。それは、諸侯王のうちの異姓のものを除き、同姓諸侯王のみ存続させるという政策である。すなわち、ともすれば中央政府から遠心的傾向に走る諸王国を、血縁の原理によって中央に統合させようとし、その原理を適用できぬものの存在を抹殺しようとしたのである。

出典:西嶋定生秦漢帝国講談社学術文庫/1997年/p112*1

  • 中央政府項羽が行った論功行賞を元にした封建制を止めて、西周代と同じような、つまり本来の封建制に近づけようとした(と言っても郡県制と併用だが)。

  • ちなみに、前回に書いた「列侯」には政治的な実権は無く、その領土に応じた租税分を与えられるだけだった。

標的となった異姓諸侯王、最初の七人

この七人とは前々回で書いた劉邦を皇帝に推戴した七人のこと。すなわち、楚王韓信・韓王信・淮南王英布・梁王彭越・趙王張敖(ちょうごう)・もとの衝山(こうざん)王呉ゼイ(項羽によって王位を剥奪された)・燕王臧荼(ぞうと)*2(ここまで示した肩書は劉邦の即位の直前のもの)。

  1. 臧荼(ぞうと)(燕王)。劉邦前202年劉邦が皇帝即位した年)10月、早くも謀反を起こし、討伐された。

  2. 韓王信(韓王)。前201年匈奴に囲まれ、匈奴と交渉した時に中央政府に謀反を疑われ、匈奴に寝返った。wikipedia「韓王信」によれば、「紀元前196年に陳武(柴武)との戦いに敗れて斬られた」。

  3. 韓信(斉王から楚王に転封)。前201年に「軍隊を勝手に発動した罪」で淮陰侯におとされた*3。前196年、韓信は反乱を起こそうとしたが密告され、蕭何の計略にはまり斬られ、一族も誅された。

  4. 張敖(趙王)。前198年、王国の丞相貫高らの高祖暗殺計画が発覚し、張敖にも嫌疑がかけられた。張敖は無罪放免になったが、宣平侯におとされた。前182年、列侯のまま死去。宣平侯は世襲された模様。

  5. 彭越(梁王)。前196年、王国で罪を犯して長安に逃亡した太僕(官名)に謀反を告発されて蜀に流された。しかし蜀でもまた謀反を起こしたとされて一族とともに誅殺された*4

  6. 英布(淮南王)。前196年、彭越が誅殺されたの聞き、反乱を起こし、敗れて殺された(前195年)。

  7. 呉ゼイ(長沙王に分封)。前202年、分封された年に長沙王のまま死去。子の呉臣に世襲された。七人のうち諸侯王を剥奪されなかったのは彼だけだ。南の辺境だったから見逃されたのかもしれない。数代のちに「呉氏長沙国」は廃絶する(前157年)。

もう一人の異姓諸侯王、盧綰

盧綰

劉邦とおなじ沛県豊邑中陽里の出身。

盧綰の父親と劉太公が親友付き合いをしており、また、盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、彼らの息子である二人も竹馬の友として育った。平民時代の劉邦が罪を犯して逃亡した際も、盧綰は劉邦と行動をともにしたという。二人の親友付き合いは、劉邦が皇帝になってからも続き、劉邦の臣下では唯一盧綰のみが、劉邦の寝室に自由に出入りすることが許されたという。

出典:盧綰<wikipedia

盧綰は劉邦とともに戦い続けた。そして前202年、臧荼が反乱を起こした時は太尉(軍事担当宰相)だった盧綰が後任の燕王に封建された*5。しかし前195年、彼もまた謀反の疑いをかけられた。竹馬の友の劉邦に直接話して嫌疑を解くことを望んだが、同年に死去してしまったため、盧綰は匈奴に逃亡した。

功臣粛清の裏に呂后

これら異姓諸侯王については、漢王朝の脅威となったため排除されたとしばしば説明されるが、自発的に反乱した臧茶以外はいずれも積極的に漢王朝に反抗したわけではなく、むしろ王朝のほうが言い掛かりをつけている。韓信・彭越の殺害が高祖の皇后である呂后(前124~180)の意向であったように、異姓諸侯王を排除しようとしたのは呂后であった。盧綰亡命の経緯はその点を明確に示すものである。呂后は漢王2年(前205年)、劉邦項羽に大敗して人質になった時に、漢側諸侯が楚に寝返るさまを目の当たりにした。この経験から、恵帝を案じて諸侯王反乱の芽を摘み取ろうとしたのかもしれない。唯一残っていた長沙王呉氏も文帝7(前157)年に後嗣なく死去して国除となり、異姓諸侯王は完全に消滅する。

出典: 冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p73/上記は鷹取祐司の筆

功臣粛清が呂后の意向だという主張は上の本以外には見たことはないが(見落としてるだけかも)、興味深いので書き残しておく。



中央政府の方針は達成したように思えたが、のちに同姓諸侯王が反乱を起こすことになる。


*1:同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版

*2:西嶋氏、同著/p100

*3:出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p140

*4:鶴間氏同著/p141

*5:上記wikipedia