歴史の世界

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前漢・高祖劉邦②:郡国制

郡国制は封建制と郡県制を併用したものと言われている。だからまずは封建制と郡県制を知らなければならない。約2300字。

封建制とは?

中国の封建制は日本と西欧の封建制とは似て非なるものと考えたほうがいい。ここでは日本・西欧のそれの説明はしない。

デジタル大辞泉によれば、「封建」とは《封土を分けて諸侯を建てるの意》。「封土」とは《封建君主が、その家臣に領地として分かち与えた土地》(これもデジタル大辞泉)。

封建制(周)

中国の周時代の封侯建国を意味する政治制度。

 周王朝の政治制度であり、周王が一族や功臣、地方の有力な土豪を諸侯として、一定の土地と人民の支配権を与え、統治したシステムをいう。諸侯に与えられた地域を「国」といい、諸侯を封じて(土地と人民を与えて)国を建てることが「封侯建国」であり、その略が「封建」である。諸侯は国を支配し、国内の土地を一族や臣下に分与した。周王と諸侯、諸侯とその家臣である卿大夫は、擬制的な血縁関係にあり、その基盤には血縁的な宗族によって結びついている氏族社会があった。

出典:封建制(周)<世界の窓

西周代は氏族社会(血縁による共同体)であったが、支配領域が拡大するに従って、擬制的な血縁関係を使ってコントロールしようとした。分封(封建)された諸侯はその地の最高権力者であり軍も持っていたので半独立国であった。春秋戦国時代(東周)に入ると諸侯は事実上独立国となった。中央政府である周室が機能しないのだから当然といえば当然。

項羽が中華統一を果たした時には分封(領地を分け与えて支配させること)して18の王が誕生した。これも封建制といわれているが、擬制的な血縁関係という建前すら無く、単に論功行賞の一環として功臣に分け与えた(分封した)だけ。これを封建制と呼んでいいのかとすら思うが実際に封建制で通用しているようだ。

郡県制とは?

ぐんけん‐せい【郡県制】

中国で、戦国時代から秦代に施行された、中央集権的な地方行政制度。全国を皇帝の直轄地として郡・県に分け、皇帝の任命する地方官を派遣して統治させたもの。

出典:デジタル大辞泉<コトバンク

郡県制は始皇帝が始めたことではなく、戦国時代よりあった制度だ。始皇帝は統一後全土の王国を潰し36の郡を置いた(丞相・李斯の案だといわれている)。各地の既得権益はことごとく潰されたから、権益者たちの不満は打倒秦へと向けられたことは想像に難くない。

郡国制とは?

高祖は7人の功臣を分封し諸侯王にした(他方で近親・同族にも分封し諸侯王とした)。しかし帝国内の過半は郡県とした。統一秦と項羽の統一時代との両方の失敗から学んだ結果ということもできる。この状態が郡国制と言われている。

郡国制

漢(前漢)の高祖の全国統治法。秦の郡県制と周以来の封建制を併用したもの。
漢帝国の初代、高祖の統一政策の中心となった地方行政制度。皇帝の直轄地としての関中(長安の周辺地域)には、郡県制をしき、官吏を派遣して直接支配し、それ以外の地には一族や功臣の有力者を諸侯王として配して世襲的にその地の支配権を任せる封建制を復活した。彼らはそれぞれ王と言われ、その治める地域は国と言われた。このような封建制と郡県制をあわせたものが郡国制である。[以下略]

出典:郡県制<世界史の窓

「周以来の封建制」と書いているが、周の封建制は、上の引用で書いているが、血縁関係が基本になっている。一方、前漢の体制は功臣を分封しているだけで血縁関係を拠り所として封建しているわけではない。功臣を分封することは項羽の天下でも行っていることであり、前漢の体制は項羽の時代の体制を一部継承した形である。

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出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p138

上の地図のように首都に近いところは郡県を置き、遠方は王国を分封して政治を任せる体制が郡国制だ。

郡国制の一部として「列侯」のことも書いておこう。列侯とは諸侯王の次の爵位が列侯になる。列侯には県単位の領地が与えられ世襲ができた。戦功第一と讃えられた蕭何は酇(きん)県を封ぜられて酇侯と呼ばれた*1

列侯は中央政府が定めた二十等爵の最上位だが、その上に諸侯王という爵位がある。



【メモ】郡国制は時代が下るにつれて変わっていく。武帝の時代にはほぼ郡国制と変わらないものになるのだが、ここらへんはおいおい記事にする。

*1:出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年/p108((同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版

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