歴史の世界

前漢・恵帝/呂太后/恵帝・呂太后の治世の社会

史記』の本紀には恵帝・少帝恭・少帝弘の本紀がなく、その代わりに呂太后本紀がある。『漢書』には恵帝紀と高后紀が置かれ少帝恭・少帝弘は無い。皇帝でない呂太后がこのように本紀に書かれるように、彼女は絶対的権力を持っていた。約1800字。

恵帝の治世

高祖劉邦は反乱を起こした英布との戦いで受けた矢傷が元で前195年に死去した。二代目に就いたのは恵帝。

影が薄い恵帝は初めから政治に興味が無いわけではなかった。相国の曽参の職務怠慢を責めた説話がその証拠だ。恵帝が政務を顧みなくなったのは呂太后の戚夫人に対する仕打ちを見てからだという。

劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、呂后は皇太后としてその後見にあたる。また、自らの地位をより強固なものにするため、張耳の息子張敖と魯元公主の娘(恵帝の姪に当たる)を恵帝の皇后(張皇后)に立てた。だが、高祖の後継を巡る争いは根深く尾を引いており、恵帝即位後間もなく呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企て、斉王暗殺は恵帝によって失敗するが、趙王とその生母戚夫人を殺害した。この時、呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その後便所に置いて人彘(人豚)と呼ばせた、と史書にはある(なお、古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿の始末をさせていた。戚氏を厠に入れた事から、豚に喩えたと思われる)。

出典:呂雉<wikipedia

太后は恵帝を呼んでこの戚夫人の姿を見せた。この時ショックを受けた恵帝はそれから政務を放棄し酒に溺れたという。*1

太后の治世

臨朝称制:呂太后の専横

恵帝は皇帝に就いて七年で死去してしまった。わずか23歳。そして後継には恵帝が女官に産ませた子、少帝恭が就いた。呂太后が選んだとされる。少帝恭は恵帝と張皇后の子と公表していた。発覚を怖れて呂太后は実母である女官を殺害した。*2

少帝恭は幼年であるため、呂太后が代わりに政務を代行した。これが臨朝称制といわれる。臨朝とは「朝廷に臨む」つまり国政を裁決すること、称制は制書(天子の制度に関する命令の書)や詔書(天子の命令、お言葉の書)を発布すること*3摂政みたいなものだ。

少帝恭は成人して実母を殺されたことを知って呂太后に恨みを持った。彼の恨み言が呂太后の耳に届き、少帝恭は幽閉された後に殺された。後継に別の後宮の子・少帝弘が就いた。

太后は政務をほしいままにし、甥の呂禄、呂産を王にするまでした。中央政府はこれまで諸侯王を劉一族のみにする政策をとってきたが、呂太后がこれを侵した。当然それまでの劉一族の王を排除して王に就かせたので、呂太后及び呂氏一族への怨みは全土に達した。

呂氏一族誅殺

前180年、呂太后が没する。この時呂産が相国、呂禄が上将軍になっていた。ほどなく、斉王劉襄(劉邦の孫)と長安の内部が連携してクーデタを起こし、呂氏一族は呆気無く滅ぼされた。

政権を奪取した周勃や陳平は代王の劉恒(劉邦の庶子)を招き皇帝に戴いた。これが文帝だ。

文帝が長安に入ると少帝弘は廃位させられ、殺害された。

恵帝・呂太后の治世の社会

呂后の時代は、残忍な政争が続いたが、それは宮廷の内部にとどまったことであった。呂后自身も静謐(せいひつ)を尊ぶ道家系統の「黄老の学」を好んだ人であり、「折からの休息の時代にふさわしく、内政の一般は安定しており、農業生産は回復し、衣食ともに充実した」というのが、司馬遷の史評である。

出典:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p307(引用部分は尾形氏の筆)

恵帝の治世にも挟書律が廃止された。挟書律とは医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令のこと。秦の焚書坑儒のころから続いていた。

*1:戚夫人<wikipedia

*2:少帝恭<wikipedia

*3:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年((同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p133