歴史の世界

前漢・元帝の治世

宣帝のまっとうな政治と匈奴の弱体化のおかげで元帝の代も平和な時代だと言っていいように思う。元帝は宣帝の作った道を進めば良いだけでほとんど何もしないでよかった。元帝の治世では大きな災禍はなかったようだ。

そのような状況の中で朝廷がやったことが祭祀制度改革だった。これは儒家勢力が増大したために起こったことだが、儒家勢力の思想が朝廷を覆い、それはやがて簒奪者王莽を産み出すことになる。約3200字。

元帝の儒教偏重

宣帝が元帝の未来を憂いていたのは有名な話。

現実主義者であったため、理想主義、懐古主義である儒教を嫌い、儒教に傾倒する皇太子劉奭(元帝)とは反りが合わず廃嫡も考えた。儒者登用を進言した皇太子を一喝した言葉は古来名言とされており、『漢書』・『十八史略』などで広く日本社会にも流布している。

(太字部分は故事成語になった部分)
「漢家おのずから制度あり。元々、覇王道を以ってこれを雑す。なんぞ純じて徳教(儒教)に任じ、周政をもってせんや。かつ、俗儒は時宜に達せず。好んで古を是となし今を非となす。人をして名・実を眩ませ、守るべきところを知らず。なんぞ委任するに足らんや。我家を乱すものは必ず太子ならん。」
(意味:漢王朝では昔から覇道[法家]・王道[儒家]の良いところを取っているのだ。なぜお前は儒教だけが素晴らしいなどと言い、儒教が理想とする周の政治に戻しましょうなどと世迷い事を言うのか。そのうえ、俗な儒者どもは時局に合わせてものを考えず、常に「昔はよかった、今は良くない」などと言い出し、現実を見ようとせず、政治が出来ない。そんな連中を登用せよとは何事か。お前のような奴が漢王朝をおかしくするのだ。)

しかし、結局、劉奭に後嗣(のちの成帝)が生まれたことを理由に廃嫡を見送った。元帝はこの一喝の言葉通り、儒者を登用して王莽の専制を招き、前漢滅亡の端緒を開いたのである。

出典:宣帝<wikipedia

漢書』の「元帝紀」に書いてあるエピソード。『漢書』の著者・班固は前漢滅亡の起因を元帝に求めたのかもしれない。しかしたとえ班固の言うとおりだとしても元帝の治世は安定していた。

匈奴との和平

呼韓邪単于が漢に投降したことは前回の記事宣帝の治世で書いたが、その後も漢と匈奴の関係は良好だった。

前回の記事にも書いたが、呼韓邪単于と分かれて単于になった郅支単于は前36年に漢の派遣した兵により殺された*1

さらに呼韓邪単于は前33年に漢に入朝した際に後宮の女を妻としたいと所望し、元帝はこれを受けいれて後宮から選んだ女を与えた。これにより匈奴単于は漢皇帝の外戚となった*2

ちなみにこの女の名は王昭君と言う。王昭君は呼韓邪単于の妻(閼氏えんし)となったが、その死後、その子である復株累若鞮(ぶくしゅるいにゃくたい)単于の閼氏となった。これはレビラト婚*3と呼ばれる婚姻の慣習のひとつだが、中国の婚姻の慣習に照らし合わせれば考えられないものなので王昭君は後世に悲劇のヒロインとして有名になった。その代表作が『西京雑記』だという。*4

復株累若鞮単于も前25年に入朝した。

内政、貢禹の献策

上の匈奴との和平を背景にして、内政ではより一層の恤民政策*5が献策された。その代表となる人が貢禹だ。

貢禹は高齢になってから地方官から中央官になった儒家官僚だが、元帝に気に入られて多くの献策を行った。

そのなかでも公費の節約(具体的には宮殿の一部廃止、衛卒〔※警備兵、番兵〕の数の削減など)、人民への賦課の軽減(口賦〔※人頭税の一種〕が課される年齢を[三歳から]七歳に引き上げる)などは実現し、塩鉄専売も一時期停止された。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p423/引用部分は太田幸男氏の筆

塩鉄専売の停止は国用不足のため、実施の3年後に廃された*6

また、採用されなかった献策の中には銅銭の廃止というものがあった。その理由は「民衆が農業を棄てて商業に走るのは貨幣のせい」というものだった*7

貢禹の上の献策は、宣帝の現実主義に比べて明らかに儒教の理想主義に偏重していたが、元帝はこれに対して取捨選択はしたがその献策に耳を傾けることを好んだ。これは儒教的理想主義を献策どまりではなく本当に実行して、失敗して、滅亡してしまった王莽の時代の過渡期といえるだろう。

儒学勢力の増大と祭祀制度改革

前段で儒家思想の影響力について書いたが、思想の影響力の増大だけでなく儒家官僚の数も増大した。鷹取祐司*8によれば、「官吏登用を目的とする博士弟子も、昭帝の時に100人だったのが元帝の時には1000人、次の成帝の時には3000人に拡充された」。

祭祀制度の改革の議論は元帝から王莽の代まで朝廷でのメインテーマだった。

漢王朝は高祖の時に太上皇(高祖の父)廟を王国に設置したのを皮切りに、高祖を祀る太宗廟、武帝を祀る世宗廟を郡国に設置した。これに対し建始元年(前32)、儒家官僚が皇帝の宗廟を郡国に設置し官僚に祀らせることは礼制に合致しないと主張したので、全国167ヶ所の郡国廟が廃止された。[後略]

出典:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p98/上記は鷹取祐司の筆

以下祭祀制度の改革の話は略すが、儒学勢力が増大したとは言え、武帝を含む漢室の祖先が作り上げた祭祀を合致しないというだけで廃止・改革できたのは元帝の意志の反映だろう。

この祭祀制度が全てまとめられたのは(「新」王朝ができる前の)王莽政権になってからのことだった。

宦官と外戚の進出

宣帝から成帝にかけての時期、次代を予告する二つの状況が発生している。宦官と外戚の政界進出である。宦官の政務関与は、武帝が後宮に入り浸り政務の報告に宦官を用いたことから始まった。宣帝の時には、宦官の弘恭・石顕(せきけん)が法令故事に通じていたので彼らを重用し枢機をたずさわらせ掌(つかさど)らせ、元帝も宦官には姻戚がいないといって二人を用いた。弘恭の死後は石顕が政務を取り仕切り、自己を脅かす者があればこれを排除した。これが宦官が権力を握った初めであるが、成帝が即位すると石顕は旧悪を告発され罷免された。

出典:鷹取氏/同著/p100

外戚が権力を掌握することは前漢初の呂氏政権の頃からあったが、宦官が掌握したのは元帝の時代からだった。

元帝の治世になって石顕がその人となった。石顕は宣帝の時代に中書令になる。中書令とは「内廷(後宮など宮廷の皇帝の私的な部分)の秘書長」*9である。権力が朝廷でなく後宮に移った。

ただし石顕の権力の基盤は元帝の寵愛だけだった。「石顕<wikipedia」によると彼は元帝の権力を蔑ろにするほどの権力は持っておらず、自分が不利の立場になった時に元帝の寵愛にすがって保身を保っていたようだ。だから元帝が亡くなってその後ろ盾が無くなった時、成帝は彼を簡単に罷免できた。

外戚の禍については成帝の治世の時に始まる。



*1:シツ支単于wikipedia

*2:呼韓邪単于wikipedia

*3:レビラト婚<wikipedia

*4:王昭君wikipedia

*5:霍光政権①

*6:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p348

*7:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p98/上記は鷹取祐司の筆

*8:鷹取氏/同著/p98

*9:中書令<wikipedia