歴史の世界

前漢・武帝④ :東南勢力併合

この記事でいう東南勢力とは、南越国・閩越(びんえつ)国・東甌(とうおう)国の3つの国とする。長江下流より南に位置する。この3国がどのような国だったのかを調べた。調べたといっても、wikipedia調べでそのソースは『史記』などの短文のものだ。どこまで正確かは分からない。約5000字。


前138年頃 東甌国、滅亡。
前135年  閩越国、南越国に攻撃をしかける。南越王は漢に事件の処理を要請。閩越のクーデタにより漢の軍事行動は中止された。これに南越王趙眜(ばつ)はこれに感謝し、長安に太子を差出し、忠誠を示す。
前115年頃 四代目南越王趙興は即位後、南越国を「内藩国」にすること(純粋に漢帝国の一部になること)に同意したが、越人の官吏が反発しクーデタを起こす。
前112年  漢帝国南越国を滅ぼし、9つの郡を置く。
前110年  閩越国、漢帝国の圧力に屈し滅亡。南方併合完成。


南越国

南越国は、]紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって中国南部からベトナム北部にかけての地方(嶺南地方)に自立した王国(帝国)である。南粤、趙朝とも記す。

首都は番禺(現/中国広州市)におかれ、最盛期には現在の広東省及び広西チワン族自治区の大部分と福建省湖南省貴州省雲南省の一部、ベトナム北部を領有していた。南越国は秦朝滅亡後、紀元前203年に南海郡の軍事長官である南海郡尉の趙佗が勢力下の南海郡に近隣の桂林郡と象郡を併せることによって建国された。紀元前196年と紀元前179年に、南越国は2度漢に朝貢し、漢の「外臣」となるが、紀元前112年、5代君主である趙建徳と漢の間で戦闘が勃発し、武帝により紀元前111年に滅ぼされた。

f:id:rekisi2100:20170116110217j:plain
南越国領域(紫)*1

出典:南越国wikipedia

上のように南越国は趙佗によって建てられた国。趙佗は漢人

この国の住人はほとんどが越人(ベトナム系)で、当初為政者層は漢人だったが、次第に越人も加わり増えていった。

その越人の中心にいたのが大族の出身である呂嘉(りょか)。呂嘉は南越王二代目趙眜(ばつ、趙胡とも)から三代にわたり丞相として仕えた。西嶋定生氏によれば、呂嘉の一族は「七十余人が高官となり、その男子はすべて王女を妻とし、その女子はすべて王族に嫁し、その実勢力は王をしのいでいた。」*2

漢帝国初期は外征を極力しない方針をとっていたので南越国を併呑しようとは考えなかった。

紀元前196年、南越王は高祖劉邦に対して朝貢する。ここで南越国は外藩国となった。つまり漢の属国となったということだ。属国になったといっても形式的なものだった。

趙佗の代の南越国の勢力は強く、一時漢帝国領内を侵略したこともあった。これに対しも当時の漢帝国は全面戦争になることを避けた。状況が変わったのは武帝が即位して領土拡大の方針を採ってからだが、これについては後述する。

閩越と東甌

閩越(びんえつ)は、現在の中国福建省に存在した政権。

戦国時代に楚によって滅ぼされた越人がこの地に逃れ、現地の百越族と共同して樹立した。存在期間は紀元前333年から紀元前110年頃とされる。特に紀元前202年前後の半世紀は国力が充実し、当時の中国東南部最大の国家勢力となった。閩越王無諸が城村(現在の福建省武夷山市興田鎮)に築いた王城はこの地域最大の都市となった。

出典:ビン越<wikipedia

上の地図で南越の北東、Minyueと書いてある地域が閩越。

東甌(とうおう、前472年 - 前138年)とは、越王勾践の後裔東甌王が封じられた国であり、現在の浙江省温州市付近に存在した。「甌越」とも表記される。

出典:東甌<wikipedia

東甌の場所は閩越の北東に位置する。

両国に共通する話として、

  • 前334年、勾践の7世の孫無彊が楚により殺害され翌年に越国が滅亡し、逃亡した越の王族が原住民の閩人・甌人と融合して閩越人・甌越人を形成した。

  • 前220年(始皇帝が中国を統一した翌年)、秦帝国は当時の東甌王安朱及び閩越王無諸の王号を除き君長と改め、その地域には閩中郡を設置した。郡を設置した後は、他の郡の政務とは異なり、君長に従来の政治を継続させたという。*3 *4

  • 秦末は閩越・東甌ともに反秦活動を行い、楚漢戦争では劉邦についた為、前202年に劉邦は無諸を閩越王に封じ、遅れて前191年に恵帝が雒搖に東甌王の称号を与えて、それぞれの王国が復興した。

以下は東甌のみの話だが、呉楚七国の乱(前154年)で、当初呉軍側で参戦したにも関わらず最後に裏切って呉王劉濞を殺した東越王とは東甌王(貞復?)のことらしい。*5

さて、上記三国のうち、最初に滅ぶのは東甌。武帝ではなく閩越王によって滅ぼされた。以下引用。

前154年、呉楚七国の乱が平定されると、呉の太子劉駒は閩越に逃れその保護を得る。そして劉駒の挑発により、建元3年(前138年)に閩越、東甌で內訌が派生し閩越王郢出(中国語版)(無諸(中国語版)の子)は東甌を攻撃、東甌王貞復(中国語版)(雒搖の次王)はこの混乱の中に死亡した。武帝は中大夫厳助を会稽より派兵し東甌国を支援、閩越軍はこの知らせを受け撤退する。新たに東甌王となった驺望(中国語版)(貞復の次王)は閩越の圧力に抗しきれず、族人を上げて廬江郡(現在の安徽省舒城)に北上して遷り、前漢朝より廣武侯に封じられた。これにより東甌国の名称は前漢朝の行政上から姿を消す。しかし甌越人は故地に留まり、また多くの国人は戦乱を避け周辺の東海各島へと散らばっていった。

出典:東甌<wikipedia

「呉の太子劉駒」とは呉王劉濞の子だ。見事に仇を討った、人のふんどしで。この戦いにより閩越は領土を拡大したが、南越にも戦争を仕掛けて南方で覇を唱える勢いだった。

これに対して南越は漢帝国に助けを求める。そしてこれが武帝の南方作戦へとつながっていく。*6

南越国滅亡の過程

太子の入朝

紀元前137年、趙佗が死去したが、百余歳という高齢であったため、実子はみな趙佗に先立って死亡しており、王位は孫の趙眜(趙胡)によって継承された。趙眜が即位した2年後の紀元前135年、閩越は王位継承により不安定な南越の辺境城鎮を攻撃した。趙眜は即位したばかりで国内の民心が定まらない状況の下、武帝へ上書を提出、閩越による南越攻撃を説明し、漢による事件の処理を求めた。武帝は趙眜の行動を冊封体制の体現であると賀し、韓安国両将軍を司令官とする閩越討伐軍を派遣した。漢軍が南嶺に至る前に、閩越王の弟余善が反乱を起こし閩越王を殺害し漢朝に帰順したため、討伐計画は中止された。

出典:南越国wikipedia

趙眜はこれに感謝し、太子の趙嬰斉を入朝させた(趙眜自身の朝見は大臣らの諫言により止めることにした)。太子嬰斉を入朝させただけでなく、武帝の宿衛として長安に留まらせた。つまり人質を差し出して忠誠を誓うということだ。こうでもしないと国家または趙王朝の存立が保証されなかったのだろう。

南越国の滅亡

三代目嬰斉(えいせい)は上記の通り長安で暮らした。嬰斉は入朝する前に越人の妻との間に子をもうけていたが、長安において漢人の妻(樛氏)を娶って子を作った。それが四代目趙興となる。

三代目嬰斉は即位後は、先代と同じように、入朝しなかった。だが四代目趙興は入朝しようとした。

[四代目趙興(哀王)は、]明王趙嬰斉の次男として生まれた。母は邯鄲樛氏。元鼎2年(紀元前115年)に父王が薨去すると、南越王として即位した。母の樛氏を太后に立てた。前漢は哀王の入朝を促すため、太后の元愛人の安国少季を使者として派遣した。太后は再び安国少季と通じるようになり、哀王に入朝を勧めた。相の呂嘉はたびたび哀王を諫めたが、聞き入れなかった。太后は呂嘉の反乱を恐れて、処刑の口実を作るため宴席を設けた。呂嘉は気配を察して虎口を逃れ、大臣たちと反乱を相談した。

韓千秋と樛楽は漢の武帝の命を受けて兵2000人を率いておもむき、呂嘉の殺害を謀った。呂嘉はついに兵を起こして哀王と太后・安国少季を殺し、哀王の庶兄の趙建徳を擁立した。

出典:趙興<wikipedia

「哀王の庶兄の趙建徳」とは三代目嬰斉が入朝する前に越人の妻との間にも受けた長男。呂嘉らは漢軍をけちらして、一時期は政権を確立した。

もうひとつ、別のところから引用。

武帝期になると、漢は南越国に圧力をかけ、南越国が外藩国から内藩国にかわること、すなわち官吏の漢による任命、漢律の適用などを要求した。第四代目の王およびその母后(いずれも漢族)はこれを受け入れたが、丞相で越族の呂嘉は反対し、両者の対立が南越国内で激化した。人口の大部分を占める越族は呂嘉を支持したため、呂嘉は新王を立てて一時南越国の実権を握った。しかし、前112年、武帝は10万の兵によって三方から番禺城[都の城]を攻め、南越国を滅ぼした。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p387/引用部分は太田幸男氏の筆

内藩国とは諸侯王のことで、このころの諸侯王は実権をほとんど持っていない。四代目南越王の趙興と太后樛氏は実権を捨ててでも諸侯王になろうとした。彼らは実権を失うが王という名誉と税収を受取る権利が残った。

だが丞相以下の南越国の官吏は違う。大部分が越人の彼らは漢の中央政府の命令により従来の権益を剥奪される可能性が高い。クーデタを起こす動機としては十分だろう。ただし武帝はこれを許すはずがなく、兵を派遣した。前回が二千だが今回は十万だ。南越国は五代、約百年で滅んだ。

この地は9つの郡が置かれたが最南端は現在のベトナムの北部まで及んだ。

閩越の滅亡、南方併合の完成

武帝時代に漢は[閩越王]無諸の孫の騶丑(すうちゅう)を繇(よう)王として立て、東越〔閩越〕国を継がそうとしたが、まもなく騶余善が東越王を自称したため、王が並立する状態となった。武帝が南越を攻めるにおよび、余善は漢に協力するとみせかけて南越と通じ、漢の圧迫を受けたためやがて漢に反旗を翻した。繇王は他の仲間とともに前110年、余善を殺して漢にくだった。漢は彼を他の地に侯として封じ、福建の地は地形的におさめにくいと判断して東越の民をすべて長江と淮河のあいだの地に移住させたため、東越の故地はしばらく空虚地と化したといわれる。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p388/引用部分は太田幸男氏の筆

これによって、南方の攻略は完成した。



*1: (製作者)Sea888/(作品名)Map of ancient Nam Việt (204 BCE - 111 BCE) - an ancient kingdom that consisted of parts of the modern southern Chinese provinces of Guangdong, Guangxi, Yunnan and northern Vietnam./(リンク元https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%B6%8A%E5%9B%BD#/media/File:Nam-Viet_200bc.jpg 

*2:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p215

*3:東甌<wikipedia

*4:ビン越<wikipedia

*5:東甌<wikipedia

*6:wikipediaの閩越・東甌のページには参考文献が書いていないが、おそらく『史記』の「卷114 第54 東越列傳」を参考にしたのだと思われる