歴史の世界

前漢・武帝⑧:第二期対匈奴攻戦

第一期対匈奴攻戦は以前書いた。前134年~前119年。衛青・霍去病が活躍し、匈奴を北方へと追いやった。しかし第二期の戦いでは漢の軍事作戦はほとんど失敗し、多大な戦費と人命だけを消費した。武帝は前89年、この戦争から手を引くことを決断した。対外戦争、領土拡大方針の終焉である。約1900字。


前103年 第二期対匈奴攻戦 始まる。
前91年 李広利、戦いに敗れて投降する。
前89年 輪台の詔。武帝の対外戦争が終わる。


戦争の前段階

「第二期対匈奴攻戦」は前103年から開始されるが、この前に漢と匈奴との間に幾度かの交渉があった。

原宗子(もとこ)氏によれば、この頃寒冷化が進んでいた。これが匈奴を弱体させた原因だという *1。 一方、太田幸男氏によれば、匈奴は漢と西域諸国との交流に対して諸国に圧力をかける一方で漢とは和親関係の回復への交渉を望んだ *2

漢帝国側は、東南勢力の攻略が一区切りつけた(東南勢力併合参照)あとに、匈奴との交渉を本格化させた。

…漢は郭吉を匈奴に送り、匈奴に漢の臣下となるよう交渉させた。単于烏維(うい)は怒って郭吉を留置し、北海(バイカル湖)のほとりまで流刑としたが、漢の国境地帯に侵入する勇気がなかったので、たびたび使者を漢に送っては講和を申し込んだ。そこで漢は楊信を送り、講和する条件として、単于の太子を人質として漢に差し出すように要請した。しかし、漢側が公主と絹・綿・食物などの品々を匈奴に送ってから講和する従来の立場と違うとし、使者を送り返した。また漢は王烏を使者として匈奴に送ったが、単于が漢の高官とでないと交渉はできないとし、匈奴の貴族を使者として送ってきた。しかし、その使者が漢に到着すると病気で死んでしまい、漢は高官として路充国を送ったが、単于匈奴の貴族が漢によって殺されたと思いこみ、路充国を留置してしまった。これにより交渉は決裂し、匈奴はたびたび漢の国境地帯に侵入するようになった。

出典:烏維単于wikipedia

上のことは烏維単于が死去する前105年より以前のことだ。

単于(烏師廬うしろ単于)が烏維単于の後を継いだが、漢は分裂工作として単于と右賢王(単于に次ぐ地位)のそれぞれに使者を出した。単于はこれに怒って両方の使者を捕らえ抑留した。

戦争の開始と終わり

弐師将軍李広利が大宛遠征を行っていたころ、匈奴の地方に大雪があり、家畜多数が飢餓と寒さのために死ぬという事態が生じた。これによって匈奴の社会が生活の不安におびえていたとき、単于とその左大都尉との間に争いがおこった。それは年少の単于が人を殺すことを好んだため、左大都尉がこの単于を殺して漢に降伏しようとしたことによる。

この報らせを受けた漢は、受降城(帰綏きあん市の西方)を築いてこれを待つことにしたが、さらに太初二年(前103年)春、左大都尉を援助するために、浞野(さくや)侯趙破奴(ちょうどは)に二万騎を率いさせて匈奴の奥地に向かわせた。まさに十六年ぶりの対匈奴出兵である。ところが、趙破奴の軍隊が到着する前に、単于は左大都尉を誅殺し、八万騎の兵で趙破奴の軍を包囲し、かれを捕虜とした。そのために、漢軍二万騎は全員匈奴に降伏してしまった。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p233

この後も交渉と戦闘が続いたがいずれもうまくいかなかった。大宛攻略で功をあげた李広利はこの戦いの中で敗れて匈奴に投稿し、一度は単于に寵愛されたものの閼氏(えんし、あつし、単于の妻)が病気になった時に神に捧げる犠牲として殺されてしまった。*3

戦果もなく巨額の戦費と多くの人命を失うこの戦争に、武帝は前89年、ついに対外戦争に終止符を打った(輪台の詔)。

ただし、漢と匈奴の紛争と交渉はこの後も続くことになる。



*1:原宗子/環境から解く古代中国/大修館書店・あじあブックス/2009/p163(ただ寒冷化がいつから始まったのかは書いていない)

*2:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p401/引用部分は太田幸男氏の筆

*3:西嶋氏/同著/p238-240