歴史の世界

前漢・武帝①:武帝の即位/権力闘争/官吏登用制度

前漢で高祖劉邦の次に有名なのが武帝。その武威を四方に轟かせたために「武帝」と諡をつけられた*1。ただし最初から積極的に外征に出たわけではない。武帝が即位するのはまだ16歳の時であり、親政する力はなかった。約2000字。


前141年 景帝死去。武帝即位。
前135年 竇太后(文帝の皇后)死去。
前131年 灌夫(かんぷ)死去。
前131年 竇嬰(とうえい)死去。
前131年 田蚡(でんふん)死去。


武帝の即位

景帝の後を継ぐ皇太子は劉栄だったが後宮で一悶着あったため廃嫡され(劉栄はその後景帝の代の間に些細な罪で自殺させられた)、その後に劉徹が皇太子に選ばれた。後の武帝である*2

即位当時の武帝はまだ16歳だったが、歳をとっても彼の政治を制限する人がいた。それが年表に書いた竇太后(文帝の皇后。武帝の代では太皇太后)である。竇太后は文帝・景帝の治世でも政治や後継問題にしきりに口を出していた人だった。さらにはどうやら武帝立太子時に彼女の意向が強く働いたため、武帝は頭が上がらなかったようだ。

武帝は即位するとすぐに儒学的教養をもつ趙綰(ちょうわん)を御史大夫に登用しようとしたが、黄帝老子の言を好み儒学を嫌っていた竇太后は、趙綰が自分への政務報告を止めるよう上奏したことをきっかけに趙綰の不正を追求して自殺に追い込んだ。武帝が自身の政策を遂行できるようになるのは、即位7年目の竇太后死去以後である。

出典: 冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p80/上記は鷹取祐司の筆

権力闘争

前漢の官僚のトップは三公と呼ばれる。丞相が総理大臣、御史大夫が副総理格、太尉が軍事長官つまり武官を総括する職位だ。

武帝が即位したころ、三公の要職を占めていたのは、文帝の皇后の一族の竇嬰(とうえい)、景帝の皇后の弟の田蚡(でんふん)、そして竇嬰によって引き立てられた灌夫(かんぷ)らであり、国政を壟断していた。それだけに三者間の勢力争いは厳しく、生来、剛直無頼であった灌夫は、やがて田蚡の讒訴によって刑死し、灌夫を庇った竇嬰も、竇太后の死によって後ろ盾をうしなっており、同じく刑死となった。

この間、人事の一切を握って、「私が任命できる官吏は、何人のこっている?」と幼少の武帝を嘆かせたほどの田蚡も、晩年には、灌夫と竇嬰の亡霊に鞭打たれる幻想にさいなまれて死んだ。かつて淮南王劉安に向かって「皇太子がまだ決まっていないので、あなたにも可能性がありますよ」と反乱を炊きつけたのは、この田蚡である。

出典:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p295/上記は尾形氏の筆

上のように権力闘争に明け暮れた三者はすべて亡くなり、最終的に武帝が漁夫の利を得る形になった。これより武帝は誰憚ること無く政治ができるようになった。

官吏登用制度

この事情[上記の三つ巴]の中で成長した武帝が、行政改革、とりわけて丞相権力の排除に熱意を示したのは当然のことであった。武帝はまず、外戚でも<貴族>でもなく、しかも有徳・有能な人材を民間から抜擢することを考え、また教養に富む賢才を養成することを企図した。人材の登用については、養育する「任子(にんし)」の制度があり、また文帝の時代には、地方から品行方正な有能者(賢良・方正)の官吏登用が試みられていたが、武帝はこの方針を発展させた。

武帝は、長安城の南郊に「太学(たいがく)」を設置して組織的な学生の養成を開始した。いっぽう地方官に督促して、秀才(茂才・もさい)賢良・方正・文学・孝廉などの科目に従って、県・郷・里から人材を推挙させて、これを官吏予備軍として採用し、「郎」として育成する制度(郷挙里選)を拓いた。とくに、親孝行で行いが廉直であるとして抜擢された「孝廉」が当時のキャリアであり、これに受かると、郎から少府の部局である「尚書」へ、そして皇帝の近側の官である「侍中」、「侍御史」へと累進し、途中で地方官(県の令、郡の太守、州の刺史)に出向し、中央に帰って丞相府の官署に配属される……というのが出世コースであった。

出典:尾形勇・ひらせたかお氏、同著/p320/上記は尾形氏の筆

武帝は自分の頭脳、自分の手足になる官僚・官吏を登用する制度を整えた。この制度によって作り上げられた官僚機構は強力だったが、彼らが十分に機能したのは武帝という強大な専制君主が後ろ盾となっていたからだ。



官僚機構や内政(主に経済政策)については別の記事をつくる。

*1:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p200

*2:武帝wikipedia