歴史の世界

前漢・武帝⑮:神秘主義/巫蠱の乱

神秘主義、オカルトと言ってもいいだろう。現代では大の大人がオカルトを真顔で話し出すと信用を落としかねないが、近代科学のない古代中世の世ではそうではなかった。数々の偉業を成し遂げた武帝もその一人だった。絶大な権力を持つ武帝神秘主義に振り回された時、それによって引き起こされた被害とコストは甚大だった。約1900字。

神秘主義

武帝代の]特色は、強力な体制を整えた漢帝国が、その国家権力を発動して、周辺諸民族を制圧し、国内の人民を統治し、そこには力による政治というメカニズムのみが働いたいたかのようにみえる。しかしこの次代の社会の基層には、これと並んで神秘的なものと呪術的なものとが、どす黒い渦を巻いていたのである。この神秘性・呪術性をはなれては、当時の思想はもとより、国家権力の保持者である皇帝の性格も、また、それをとりまく宮廷の生活も、あるいは一般民衆の生活も理解できないであろう。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p271

現代のオカルト(神秘主義)は合理主義とか科学に圧倒されて「アヤシげなもの」と思われるまでになっているが、近代以前は思想家たちが神秘主義を合理的に説明しようと躍起になっていた。前回の武帝代の儒教で書いたようにこの時代においては天人相関説・陰陽五行説・災異説などがそれである。

武帝と方士

史記』に「孝武皇帝初めて即位し、尤も鬼神の祀を敬う」とあるように武帝は祭祀を甚だ重視したが、その結果、武帝は方士の言説に振り回されることになる。

出典:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p90/上記は鷹取祐司の筆

武帝は方士の言説を取り入れて毎年郊外で祭祀をすること(これを郊祀という)にしたが、不死の黄帝にあこがれた武帝は前110年、封禅を決行する(封禅<wikipedia参照)。

西嶋氏によれば郊祀・封禅のほか、改元暦法改正なども神秘主義にもとづいている。*1

巫蠱の乱

神仙を体得し、神秘にして超越的なるものに接近しようとする武帝の努力は、呪術の世界がかれのまわりをとりかこんでいたことのあわれである。そして、この風潮の中で不老不死を念願したかれは、老年となったのちに、呪術の世界に住む身として最大の悲劇を受けなければならなかった。それがいわゆる巫蠱の乱である。

巫蠱とは気で人形を作り、これを土中に埋めて、相手の寿命を縮めようとする呪術である。

出典:西嶋氏/同著/p279

巫蠱の乱は前91年に起こった。この事件の主人公のひとりは江充という。彼は武帝に重用された酷吏だった。武帝に忠実な江充は長公主)だろうが皇太子だろうが容赦しなかった。

江充は武帝の伯母である館陶長公主の侍従が皇帝専用の道を使っているのを見ると、その車や馬を没収し、また皇太子(劉拠)の使者が同じく皇帝専用の道を使っているのを見ると同じく没収した。皇太子は「皇帝には言わないで欲しい」と江充に頼んだが、江充は聞き入れず武帝に上奏した。武帝は「人臣はこうであるべきだ」と言い、ますます信用するようになった。

出典:江充<wikipedia

江充は老齢の武帝が亡なって皇太子が後を嗣げば自分の身が危ういと考えた。そして前91年7月、武帝が病気になると江充は武帝に上奏して曰く、その病は巫蠱です、と。武帝が江充に宮中を取り調べさせたところ、江充は皇太子の宮殿から呪いの人形を発見したと報告した。

皇太子は江充に陥れられたと悟り、江充を捕らえて斬り謀反を起こした。しかし武帝より派遣された部隊に敗れ追ってに囲まれついに自殺した。この事件により多くの人が連座で処刑された。*2

ただし話はこれで終わらない。この事件の直後に江充の詐術と皇太子の冤罪が明らかになる。武帝はその悲しみを江充の遺族を族誅して晴らそうとしたが後の祭りだった。

それのみならず、亡き皇太子を想う老皇帝は、皇太子が殺された湖県に思子宮(子を思う宮殿)を建立し、また、高台を築いてこれを「帰来望思の台」と呼んだ。皇太子の魂魄の帰りくることのみを望んでいたという。

出典:西嶋氏/同著/p282

武帝の死は前87年なので死ぬ4年前の出来事だった。



*1:西嶋氏/同著/p279

*2:江充<wikipedia