歴史の世界

前漢・武帝⑤:西南諸民族攻略

西南諸民族は西南夷と呼ばれていた。『史記』では「西南夷列伝」に書かれている。東南地域と同様にこの地域も漢人はほとんど住んでいなかった。そもそも中原とは全く気候の違う場所で、当時の漢人には住みづらい場所だっただろう。そして当然、中央政府の威光も及んでいない。約2100字。


前109年 西南夷を攻撃して滇国を服属させる。*1


西南地方には漢初から巴郡・蜀郡・広漢郡(以上は現在の四川省)、漢中郡(現在の陝西省南部)の四郡がおかれていたが、武帝は前135年に犍為(けんい)郡(郡治は現在の貴州省遵義じゅんぎ市付近、5年後に四川省南部に移動)をおいた。しかしそれらの域内およびその周辺には多数の民族が族長に率いられて割拠しており、なかでも貴州省南部にいた夜郎雲南省昆明市付近にいた滇(てん)、滇の北方にいた邛都(きょうと)は強大であり、滇は国を称し、族長は王を称していた。武帝は南越を攻めるにあたって、犍為郡に対して徴兵を命じたが、且蘭(しょらん)族が抵抗し、漢の使者と犍為太守を殺した。この事件を契機に漢は諸民族の弾圧に乗り出し、且蘭・邛都などの君長を処刑にし、新たに牂珂(そうか)郡など数郡をおいて漢の直接統治を強化した。

しかし、夜郎は漢の圧力を恐れて入朝したため、漢はその君長を夜郎王に封じ、牂珂郡内にいながら一定地域を漢の官吏を受け入れて統治した。滇国に対しては、漢は最初から外藩とすることを目論んでおり、武力による圧力と、滇と親交のあった二国を滅ぼすことによって入朝を強制し、その地を益州郡とするが、君長をあらためて滇王に封じ、漢からの官吏を受け入れて統治権を認めた。

このように夜郎・滇に対してだけは王印を授けて外藩国として残したのである。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p388-389/引用部分は太田幸男氏の筆

・郡治とは郡庁所在地のこと。

場所の確認。

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出典:中国人民共和国<wikipedia*2

巴郡・蜀郡・広漢郡(以上は現在の四川省)と書いているが、巴は重慶じゃないのか?

滇国への道

……大夏(たいか)の東南には身毒国(インド)があるとされている。張騫が身毒について知ったのは、かれが大夏にいたとき、そこの市場で邛(きょう)(四川省西昌県東南)の竹杖と蜀(四川省成都地方)の布とを発見し、その購入先を尋ねたところ、それは身毒から求めたものであると答えたことによる。

これによってかれは身毒と蜀との距離が近く、その間に交易が行われており、匈奴の地を避けて漢から大夏などの西域諸国に行くには、身毒経由が便利であろうと推定した。かれはこのことを武帝に上言して、みずから試みることを申し出て許され、蜀から南方の山地にはいり、身毒への道を求めた。しかし、張騫のこの努力はついに成功しなかった。とはいえ、これによってはじめて滇国に通ずることができてといわれている。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p226

大夏とはパミール高原西南のバクトリアにあった国のこと。

これによれば、漢帝国または漢人は滇国の場所さえ分からなかったことになる。

張騫については別の記事で書く。

夜郎自大

史記』では夜郎は当時の西南地区における最大の国家であり、武帝が時南越国討伐に唐蒙(中国語版)を派遣した際、その地で当時蜀(現在の四川省)で産出された枸醬(こうしょう)が夜郎よりもたらされたことを知り、南越国を牽制する目的で使節を派遣、現地に郡県を設置し、夜郎王族を県令に任じることとした。その漢の使者と面会した夜郎王が「漢孰與我大」(漢と我といずれが大なるか)と尋ねたことより、「世間知らずで、自信過剰」を表す「夜郎自大」(夜郎自らを大なりとす)の故事成語が誕生した。漢による郡県の設置は南越国滅亡後にようやく実施され、夜郎による漢への入朝も行われ、武帝夜郎王に封じている。

出典:夜郎wikipedia

実は『史記』の「西南夷列伝」には「漢孰與我大」と言ったのは滇王の方で、その直後に「及夜郎侯亦然(夜郎侯もまた同様だった)」と書いてある。本来なら「滇王自大」というはずだったが、何故か「夜郎自大」が普及した*3 *4。語呂が良かったから?



*1:夜郎がいつ服属したか分からないが、おそらくこの年か前後だと思われる

*2:ファイル名:Chuugoku gyousei kubun.png、ダウンロード元https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Chuugoku_gyousei_kubun.png著作者名が分からない(利用者ラン氏?) 

*3:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p240

*4:史記/卷116西南夷列傳 第五十六