塩鉄専売/五銖銭と貨幣の中央政府独占発行の記事でこれらの経済政策を行う時に違反を厳しく取り締まる酷吏の存在が必要だったことに触れた。別の記事で算緡令と告緡令に触れたが、「告緡令のせいで中産以上の商人の大半が破産した」という。商人をそこまで追い詰めたのは酷吏だった。古今東西、社会はコネと賄賂でできているが酷吏がここまで活躍できたのは稀なケースだったかもしれない。約3000字。
前126年 儒家・公孫弘が御史大夫(今の副首相格)になるが喫緊の課題に対応できず。武帝は儒家より「酷吏」を徴用するようになる。
前106年 州刺史の設置
武帝、儒家官僚を登用する
武帝より前までは黄老の思想が尊重され*1、儒学は軽視されていた。武帝が即位して間もない頃に儒家の趙綰(ちょうわん)を重用したが、彼は儒学を嫌っていた竇太后に自殺に追い込まれた*2。
竇太后や丞相だった田蚡(景帝の王皇后の異父弟)らが死去すると武帝はいよいよ専制君主として動き始める。武帝は公孫弘や董仲舒ら儒家を重用した。董仲舒は儒家の立場から武帝に献策して儒家の官吏登用の道を開いた*3。公孫弘にいたっては丞相にまで昇進した。
緊急時に使い物にならなかった儒家・公孫弘
彼が御史大夫となった年[前126年]は、対匈奴戦争の最中であった。このとき、東方に蒼海郡、北方に朔方郡を設置するという問題がおこったが、公孫弘はそれを無用の地のために国力を費やすものとして反対した。これに対して武帝は朱買臣らに10ヶ条にわたって朔方郡設置の必要を議論させた。ところが、公孫弘はその1ヶ条すら反駁できなかったという。抽象的な理想主義の主張では、もはや政務に即応することはできなくなっていたのである。
出典:西嶋定生/秦漢帝国/講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国/講談社/1974年の文庫版)/p260
・御史大夫は今で言えば副首相格レベルの地位。
この後、公孫弘は武帝の怒りを買うこと無く丞相へ昇進したが(前124年)、この頃の丞相には政治を動かす権限はなかった*4。
酷吏の出現
当時の漢帝国が必要としたのは、公孫弘のように、いたずらに堯・舜の時代を賛仰する儒家官僚でなくて、対匈奴戦争を遂行し、そのために国家の治安を維持し、前述の新財政政策の貫徹をはかる有能な実務官僚であった。それは皇帝の命令を絶対的なものとし、国家の法を忠実に遵守して、法術を施行するにあたり、いささかの私情をさしはさむこともないという官僚である。このような官僚を司馬遷は酷吏と呼び、そのために『史記』に酷吏列伝を立てている。
出典:西嶋氏/同著/p261
「新財政政策」はそれまで大商人が手にしてきた利益を国家が横取りする政策だったが、彼らの抵抗(すなわち不正)を抑止するためには酷吏が必要だった。大きな利益の前では儒教の教えなど意味を成さない。
大商人だけでなく官吏も取締りの対象だとなった。かれら官吏は大商人と結託し不正によって利益を得ていたが、彼らも官吏によって厳罰に処せられた。中国には清官三代という言葉がある。清廉潔白な官吏でも三代まで豊かに暮らせるほどの蓄財を賄賂で稼いでいることを言い表した言葉だ。
さらには一般庶民も酷吏に処罰された。彼らの中でも五銖銭の盗削改鋳が横行していた。
このように上から下まで厳罰を受けて酷吏は怨みを一身に受けたが、それでも上のように「実務」を続けられたのは武帝の絶対的な権力を背景としていたからである。酷吏は武帝の治世の特色の一つであり、武帝亡き後はまた元の古き良き賄賂社会に戻っていった。
州と州刺史の設置
州刺史の設置
一応書いておくが「酷吏」というのは役職ではない。法を忠実に遵守して他人に恨まれることも厭わない官吏のことである。このような官吏が武帝の時代に多く出現したことは『史記』の「酷吏列伝」のとおりだが、彼らに頼ってばかりではなく行政制度を改善しようとする動きが出てくるのは当然だろう。その一つの答えが州刺史の設置だった。
前106年の州刺史の設置も社会不安への対応のひとつである。全国に13の州がおかれ、そこに刺史を派遣して常置の監察官としたものである(三輔・三河と弘農郡にはのちに司隷校尉がおかれて同様の職務をもった)。州刺史の職掌は各郡にいた豪強の横暴を監察することと、郡太守やその子弟の監察、とくに彼らが豪強と結託するのを監察することであった。つまり盗賊や豪強を見逃していた地方官を、その上から見張り、中央に報告させたのだあり、酷吏を全国に派遣したのである。
・三輔とは長安の周辺つまり関中のこと*5、三河とは河南・河東・河内の三郡をさす。三輔が政治の中心で三河は掲載の中心*6。
・弘農郡は長安と洛陽の間の郡。函谷関を含む軍事の要衝。
上のような書き方を見ると酷吏の出世コースがつくられたような感がある。
行政単位としての「州」の誕生
「州」という地域区分は昔からあった。『尚書』などの古書に「九州」というのが中国全土を表す雅称として用いられていた*7。しかし統一秦や武帝までの前漢では「州」は行政単位として用いられていなかった。三国志の小説でよく出てくる州という行政単位は武帝の時代から始まった*8。
ただし州刺史の役目が郡太守を監察するということで、従来の郡という行政区分とその中の役職はそのままだ。州の区分は刺史が監察する担当の区分だ。これが紆余曲折して曹操らが活躍し始める後漢末の時は、州は州都を持ち、州刺史は州牧と名を変えて兵権をも含む州内全般の統治権を持つ役職になっていた*9。