歴史の世界

前漢・武帝⑪:運河 漕運/灌漑/治水

太田幸男氏*1によれば、武帝の時代に大規模な運河がいくつも作られた。治水・灌漑・漕運の3つの目的を兼ねたものが多かったとのこと。約3000字。


前132年 黄河、大氾濫。以後二十数年にわたり修復できず。
前126年 漕渠開通。
前109年 前132年に決壊した場所をようやく修復する。
前95年  白渠開通。


まずは黄河の地図

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出典:黄河wikipedia*2

・Weiが渭水(渭河)、Jinが涇水(涇河)、Luoは洛水(洛河)。
・Xi'anが西安長安。上の地図の場所ではなくて、本当の位置は渭水と涇水合流地点の南側。

漕運

漕運とは船を使って物資を運搬すること。前述の太田氏*3によれば、漕運は武帝の時代からいちだんとその必要性が増した。理由は塩鉄専売と均輸法・平準法の大量の物資輸送の国家事業のためだ。

長安山東(崤山こうざん以東の地。現在の河南省西武より東の地)を結ぶ輸送はおもに黄河と渭水が利用された。しかし、急流な黄河を遡ることの困難さとともに、砥柱の険と呼ばれる三門峡付近の難所が漕運を苦しめた。したがって陸送も併用されることが多かった。渭水の遡行にも困難が多かったが、南方に渭水と並行する運河の開鑿が鄭当時によって提案され、武帝が認めて三年間に及ぶ大工事がおこなわれ、前126年に開通した。漕渠(そうきょ)と呼ばれるこの運河によって、航行期間を半減させることができた。

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出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p415/引用部分は太田幸男氏の筆

・この漕渠は灌漑用水路としても使われた。

・砥柱とは「河南省三門峡市の黄河中にある柱のような山の名で,黄河の流れの最も速い所にそそり立っている。」*4

三門峡市は洛陽市の西側にある。

灌漑

武帝時代に掘削した灌漑用水路で有名なのが白渠。上の図28にも載っている。

前95年に白公の建議によって開削された白渠(白公渠)は、ちょうど鄭国渠(図28参照)の南に位置し、涇水と渭水を結ぶ全長80キロ以上におよぶものである。これによって、4500頃(けい)(約80万アール)の農地が灌漑されたといわれ、漢代においては渭水盆地を潤す二代運河をあわせて鄭白渠とも呼ばれていた。そしてこれらの新耕地には、全国各地の災害地からまとめて徙民(しみん)される事が多かった。

出典:前掲書/p416

・徙民は強制移住という意味(だと思う)だが、ここでは救済のために住む場所を与えたような意味になっている。

・「全国各地の災害地」とは後で紹介する黄河大氾濫で被害にあった地域のこと。

上の引用ではポジティブなことしか書いていないが、ネガティブな後日談がある。

白渠が作られた黄土高原と関中盆地の境界地点は、元来、乾燥すればアルカリ化する地勢にありました。畑作灌漑を行うと、毛細管の原理が再び働き出します。集積していた塩は、灌漑すればいったん洗い流されますが、畑では水の供給が止まると表土が乾燥します。その場所の地下水位が、毛細管による地表への上昇可能な程度の深さしかないと、塩分は再び昇ってくるのです。一次的なアルカリ地の場合とは異なり、すでに一度灌漑されて塩分が地下に溜まった土地では、上昇しいた地下水が蒸発する時、重炭酸たトリウムなどが生成され、再生アルカリ化という現象が発生します。再生アルカリ化は水に溶けない物質です。もう灌漑によって洗い流すことはできません。つまり稲作しないで灌漑する畑作地は、鄭国渠建設以前より、さらに農作物に有害な土地に代わってしまうのです。

出典:原宗子(もとこ)/環境から解く古代中国/大修館書店・あじあブックス/2009年/p145-146

・「鄭国渠建設以前より」という部分は「白渠建設以前より」の間違いだと思う。

・鄭国渠は塩害を発生させないために稲作(水稲田)を利用した。空気と毛細管を接触させなければ塩類は集積できない*5

原氏は、灌漑地だけでなく運河の下流にまで被害が及んだとしている*6。さらには「白渠の灌漑は、多額な財政支出を投与しながら、実行が上がらないどころか、被害を発生させた、典型的な「お上の公共事業」だったと思われます」としている*7

また、原氏は、史書にはこのような失敗談が記述されないことも指摘している。だから「その後二千年経っても、再生アルカリ化の悲劇が繰り返されたのです」*8とも。

治水

治水事業は主として黄河の氾濫への対応として進められた。黄河は前138年と前132年に大氾濫があったが、とくに後者の場合は水流が鉅野沢(きょやたく)(山東省泰安市の南西)や淮水・泗水(しすい)にまでいたり、現在の山東・河南両省の広大な地域に被害をもたらした。武帝は10万をこえる人民をこえる人民を動員して復旧をはかったが、決壊した箇所の瓠子(こし)(河南省)では20年以上も堤防が修復できず、被害地域には繰り返し飢饉がおそった。武帝は前109年、自ら決壊箇所に赴き、官僚を直接指揮して大工事を推進し、堤防を完成させるとともに、北方に向けて二本の運河を開いて河水を分流させた。以後黄河下流地方は安寧を得ることができた。

出典:太田氏/同著/p415

鶴間和幸氏によれば*9、前109年に堤防を完成させたのは汲仁(きゅうじん)と郭昌(かくしょう)であって、武帝は前年に泰山で封禅を行った旅の帰りに立ち寄っただけだった(ちなみにこのとき司馬遷が郎中(側近)として随行していて武帝に言われて手伝いをさせられたという。司馬遷はここで見聞きしたことを『史記』の「河渠書」にまとめた)。

前132年の大氾濫から前109年まで修復できなかった理由は、武帝が治水よりも対匈奴戦争を優先したからだ、と鶴間氏は主張している*10

もうひとつ、前掲の原氏の本によれば*11、漢代から黄河の大規模な決壊の記録が出現すると書いてあった。しかし漢代以前の記録はおそらく統一秦の時代に焼かれてしまったので*12記録がないのは当然かと思う。



*1:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003年/p415/引用部分は太田幸男氏の筆

*2:著作者:Shannon/ダウンロード元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3#/media/File:Yellowrivermap.jpg

*3:*1に同じ

*4:白水社 中国語辞典<Weblio

*5:p118-123

*6:p145

*7:p152

*8:p152

*9:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/p205

*10:同著/同ページ

*11:p145

*12:焚書<wikipedia