歴史の世界

読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

前漢・武帝⑬:儒教の隆盛

始皇帝焚書坑儒によって致命的なダメージを受けた儒教前漢代に入って「解禁」された。しかし前漢代の序盤の思想の潮流は黄老思想が幅を利かせて儒教はその影に隠れていた。

武帝の治世に入り儒教は表舞台に躍り出る。武帝は政治思想の支柱として儒教黄老思想に代わるものにしようとした。これが儒教隆盛のきっかけとなる。約2900字。

武帝までの儒教の勢い

戦国時代、孔子の弟子たちが中国各地で活躍し、さらにその弟子たちも活躍して儒家はねずみ算的に増えていった。その結果、当時の思想界(諸子百家)の中でもトップクラスの勢力を持っていた。

始皇帝の時代になると焚書坑儒が起こり、それまでの勢いから一転滅亡の危機に瀕した。*1

前漢代に入ると秦代の思想統制は去り、儒教は教養の一部として受け入れられたが、最初に書いたように序盤は黄老思想の影に隠れていた。

武帝代の儒教

武帝の治世に入り、竇太后儒教嫌いや(武帝の即位の記事参照)「緊急事態に儒家官僚が役立たない」など儒教の政界への浸透は順調とは言えなかった(酷吏の出現の記事参照)。しかし酷吏の出現の記事で書いたように武帝の治世に儒家の政界進出の道は開かれた。

武帝としては政治の支柱としての思想を黄老思想から儒教に代えようとしたが(後述)、封禅を行う際に儒学者にその具体的な方法を尋ねたところ答えられなかったので、それから武帝儒学者を用いなくなった*2。ただし武帝代の後は発展していった。

思想としての儒教は、董仲舒が著した『春秋繁露』などの著作が後世の中国史に大きな影響を与えた。自然の動きと人間の身体の動き、社会の動きはリンクしていることを説いた。これは天人相関説・陰陽五行説・災異説などはギリシア思想の二元論や陰陽五行説アリストテレスの天体論などと比較されるべきものである。オカルトを理論化しようとしたとも言えるかもしれない(現代において非科学的なものでも古代中世においてオカルト的なものは学問の対象だった)。これらの思想は政治のみならず占いや東方医学などにも影響を及ぼした。

政治への進出・浸透

武帝代の官僚登用制度については武帝の即位の記事で簡単に紹介(引用)したが、ここでは儒教と関連させて少し詳しく書いてみよう。

武帝代より前にすでに官吏候補を推薦させる制度が存在した。これを察挙と呼び皇帝からの命令(詔)によって行われるものを詔挙と呼んだ。その推薦基準となる項目を科目と呼び、賢良(才能・人格が優秀)・方正(行いが正しい)・文学(書物をよく読み、勉強している)・諫言(目上の人を正直に諌める)などがある。*3

武帝代に入り、前140年、まず衛綰の上奏によって「法家および縦横家の学を治めたものは除外する」と決められ、前134年に董仲舒の提言によって毎年各国や郡に命じて孝なる者と廉(れん、行為の潔白なこと)なる者各一人を察挙させ、郎官(皇帝に近侍する官)にすることにした(孝廉科)。衛綰の上奏で間接的に儒家登用の確率が上がった。そして孝廉は儒教の徳目でありこれも政界における儒教の重要性をあげた。さらに察挙科目に秀才が加えられた。これは儒学をよく修めた者を対象にするものだ。*4

概して、儒家の思想を中央集権的統一国家の現実に合わせて支配イデオロギーの大系に構成し、法家思想に変わりうる君主の統治思想としたところにその歴史的意義があるといえる。前漢後半に儒家官僚に代わって進出してくることの思想的準備は董仲舒によるこの新しい理論によってなしえたのであり、さらには以後2000年も続く中国の王朝の支配イデオロギーの根幹がこれによって基礎づけられたともいえるものである。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p447-448/引用部分は太田幸男氏の筆

五経博士

五経博士(ごきょうはかせ、ごきょうはくし)は、中国古代の官職の一つ。前漢時代、太常の属官に置かれた。儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学官であった。

博士は秦からの官吏であり、古今に通じ、意見を求められた。漢初には儒家の経典のみならず他の諸子百家の経典も学官に立てられていたと考えられる。文帝・景帝期、『詩経』『易』『春秋』はすでに学官に立てられていた。

紀元前136年、武帝董仲舒の献策(天人三策)を聞き入れて五経博士を置いた。

儒教では従来、これを他の諸子百家を退けて儒家のみを採用した(いわゆる儒教の国教化)と考えているが、最近では博士官に単に五経博士を増員しただけだと考えられている。最初は5人だけであり、宣帝期に12人に増員された。五経博士のもとには博士弟子員が置かれている。後漢では十四博士が置かれた。

出典:五経博士wikipedia

太学とは簡単に言えば官吏養成学校。当時のあらゆる学問(諸子百家)を学ばせてインテリをつくる場。

一般に、董仲舒の建言によって五経博士が設置され、儒家思想が正統化され、されに儒家思想がこの段階で儒教として完成し、そして国家の庇護を受けた<国教>になった―といわれる。しかし後漢儒家、班固の『漢書』が説明するこの事情については、これをそのまま史実として認めるには問題が多い。近年の学説では、少なくとも儒教が体制化(国教化)されたと評価できる時代は、例えば、武帝の三代後の元帝期、または王莽の「新」の時期に求められている。

出典:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p323/上記は尾形氏の筆

ネット検索すればこの頃に「国教化した」と書いてあるサイトが多く見られるが、以上のようにその説はかなり昔のもののようだ。西嶋定生氏は『秦漢帝国』を1974年に出版されたが、この本には武帝代の国教化説を否定していた。

国教化と似たような用語で「官学化」というものがあるがこれは間違いではない。国費で太学を設置して五経博士という役職の人が国策として官吏候補に教授したのだから。



*1:wikipedia焚書坑儒儒教参照

*2:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p91/上記は鷹取祐司の筆

*3:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p406/引用部分は太田幸男氏の筆

*4:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p406-407/引用部分は太田幸男氏の筆

広告を非表示にする