歴史の世界

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前漢・武帝②: 中央集権化の完成

前漢はその初期から諸侯王の勢力を抑制する方針を採ってきた。当初の郡国制は時代が下るにつれ秦の郡県制に近づいていった。つまり諸侯王の勢力が段階的に削減されて中央集権化が進んだ。これが完成するのが武帝の代だった。これが完成するには以下のような幾つかの事件と幾つかの法律が必要だった。 約2200字。


前127年 推恩の令
前122年 淮南王劉安、衝山王劉賜の反乱計画発覚。両王自決。
前112年 「酎金律」事件


推恩の令

この王国分封の方針[呉楚七国の乱後に景帝が行った王国分割政策]を制度化したものが、景帝のつぎに即位した武帝の推恩の令である。これは元朔二年(前127)に郎中主父偃(しゅほえん)の献策によって実施されてもので、その内容は、皇帝の恩徳を諸侯王の子弟にひとしく推しおよぼすという名目のもとに、諸侯王はかならずその封地を子弟に分割し、それによって子弟を列侯にする、というものである。つまり、その名目は皇帝の恩徳の普及であるが、実質的な効果は、諸侯王の封地が一代ごとに分割縮小されることにほかならない。この推恩の令によって、賈誼や晁錯の主張した諸侯王抑制策は完成したといえよう。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p178

淮南王、衝山王の反乱計画発覚

景帝の即位後、紀元前154年に呉楚七国の乱が発生するとこれに同調しようとしたが、景帝が派遣した丞相の張釈之に「私が王の軍勢を率いて、指揮を執りとうございます」と述べて、自身が淮南王の軍勢を指揮して反乱軍に加担しないように手配をしたため、劉安は呉楚七国の乱に巻き込まれずに未遂に終わった。

しかし、劉安は以後も数千の兵を雇い、武備をかため、しばしば反乱を企図する。劉安は景帝を継いだ武帝匈奴討伐に反対で、武帝の徴兵策に消極的にしか応じていなかった[1]。これが武帝の政策に逆らうものとして2県の所領を削減されたことで、劉安は臣下の伍被らと計らい反乱の計画を練ったが、伍被の密告により露顕し、劉安は自害。一族はことごとく処刑された。

出典:劉安<wikipedia

この計画には衝山(当時は廬江・ろこう)王劉賜が加わっていた。劉賜も劉安と同じく自決した。淮南国、衝山国は郡になった。

この事件の鎮圧を契機に3つの法律が作られ、1つの事件が起きた。

左官の律 附益の律 阿党の律

[劉安の反乱計画が]鎮圧されたのを契機に、対諸侯王抑圧はさらにいちだんと強まった。すなわち、左官の律、附益(ふえき)の律、阿党の律が施行されたのである。左官の律とは、諸侯王の臣下として任官した者は中央政府の官吏になれないことを規定し、附益の律は中央の官吏が、諸侯王の増税や新たな農民への負担の設立を手助けすることを禁じたもの、阿党の律は中央政府から派遣された官吏が、諸侯王の不正を知りながら中央に報告しなかった時の処罰を規定したものである。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p405/引用部分は太田幸男氏の筆

諸侯王の抑圧は諸侯王自身のみならず、彼らに関係する官吏の行動を法で縛ることで諸侯王の行動を制限した。

「酎金律」事件

酎金律 ちゅうきんりつ

中国,前漢時代の法令で,諸侯の抑圧策の一つ。酎とは天子が宗廟の祭りに供える新酒で,その祭りのときに,諸侯は資格に応じて黄金を献上したので酎金という。その量が少く品質が悪い場合には,侯王は領地を削られ,列侯は国を免じられた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典<コトバンク

これも諸侯王抑制策の一つ。ブログ『てぃーえすのワードパッド』によれば*1、この制度は文帝の治世に作られた制度らしい。

そして武帝はこれを使って事件を起こした。

前112年には、酎金の律が大規模に適用されて、爵位を奪われた者が109人となったという事件が発生した。酎金とは、漢の宗廟の祭祀に用いる酒の費用として、各諸侯王に封国の人口に応じて毎年醵出(きょしゅつ)[金品を出しあうこと]させる黄金のことである。酎金の律は文帝の時に定められ、各王侯ごとにその量や黄金の純度が定められている。この規定に違反したという理由で大量の処分者がでたことは、諸侯王に対する厳しい弾圧を意味するものであった。

出典:上記同著/p405/引用部分は太田幸男氏の筆

上記のように二重三重に諸侯王の謀反・反乱を防ぐ法律を施行した結果、中央集権化を完成させた。諸侯王は権力を奪われた挙句に厳重な監視の元で生きていくことになった。ただこの時代の諸侯王の一人中山王劉勝の墓を見るかぎり、彼らの生活は庶民には想像もつかないほど豪奢だったようだ(劉勝<]wikipedia)。



*1:丁孚の『漢官』によると