歴史の世界

前漢・文帝の治世

意図せずして皇帝になった文帝。 臣下の意見をよく聞き慎重に行動した賢帝だった。
彼の治世は前代までのように蕭何の法(九章律)を順守しているだけでは社会の平和を得られない状況になってた。後世讃えられた「文景の治」はこのような状況の中で彼の賢明な判断によって成し遂げられたものだった。約3500文字。


前180年 文帝即位
前178年 陳平死去
前177年 済北王興居、反乱を起こし、撃滅される
前174年 淮南王長、謀反の罪によって廃絶、流罪の途上で自殺
前169年 周勃死去
前157年 文帝死去


文帝即位の過程

呂氏一族を一掃した後、皇帝を誰にするかが当面の問題だった。この問題の決定権は高祖劉邦の遺臣でもある丞相陳平や大尉(軍事長官)周勃らにあったらしい。

まず候補に挙がるのは、呂氏一族討滅で活躍した斉王襄であったが、斉王の外戚に悪人がいるとの理由で候補から外された。

代わって検討されたのが高祖の実子である代王恒。彼は仁孝寛厚の人で外戚も申し分ないとのことで、彼を迎え入れることを決定した。

[代王恒が]長安に到着すると、丞相陳平・太尉周勃以下の群臣が代王を渭橋(長安の北の渭水の橋)まで出迎え、太尉周勃が天子の璽符を奉呈した。しかし、代王はこれを受取ることなく、都内の代王の王邸にはいり、ここであらためて諸群臣から帝位に即くことを要請される。代王は自分がその重任に適格するものでないことを述べ、西に向かって三たび、南に向かって二たび辞退し、再度要請せれて承諾した。

高祖劉邦が帝位に即いたときもそうであったように、皇帝の位に即くには、このような推戴と辞退との繰り返しがつねであり、やがてそれは漢代以降の皇帝即位儀礼として定着する。

出典:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年(同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p139

以上のような状況描写はすべて西嶋氏を参照。

休民政策の継承

「文帝(漢)<wikipedia」によれば、文帝の生年は前203年で即位の年が前180年だから23歳ということになる。以上のような状況を見れば、文帝の政治は、少なくとも当初は、陳平・周勃らの意見を聴くというより彼らに従ってハンコを押すようなものだったろう。

ただし、文帝はこれまでの「休民政策」を継承し、高祖の遺臣らがいなくなった後でも宮廷だけでなく、劉一族にも遠慮をしながらも安定した社会を築くことに成功した。

具体的なことを言えば、まず田租(農作物に対する税)を30分の1に引き下げ、算賦・口銭(人頭税)や徭役(労役)を軽減して民の生活の安定を図った。

これに加え、秦律(秦の法律)より継承された苛酷な刑の軽減も為された。

黥(入れ墨)、劓(ぎ、鼻削ぎ)、刖(げつ、足切り)といった身体刑(肉刑)を鞭打ち(笞刑、ちけい)に替えるなど、恫喝によって人びとを治める方式を改めることに努力した。

出典:尾形勇・ひらせたかお/世界の歴史2 中華文明の誕生/中央公論社/1998年/p309(引用部分は尾形氏の筆)

前漢の法律は秦の法律を継承したことは以前に述べたが*1、その中で苛酷なものは段階的に廃止・軽減されていった。

格差社会に対する対応

戦乱・紛争が終わりひとまず平和が訪れると今度は格差社会中央政府の課題となってに現れてきた。これに対して提言を行った一人に賈誼(かぎ)がいる。文帝の治世とともに朝廷に召されて*2、文帝のお気に入りになった人だ。

彼の提言は、対匈奴・経済・対諸侯の3つに分けられるが、経済の提言は以下引用。

賈誼は文帝時代の社会に貧富の差が極めて大きいことを指摘し、富者とは奴隷所有者と大商人であること、とくに物を生産しないで巨利を得る大商人の存在が社会秩序を破壊する元凶であることを強調して、商鞅以来の国家政策である重農抑商政策を進めることを提言している。

出典:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p378-379/引用部分は太田幸男氏の筆

上で商鞅の名が出ているように賈誼の提言は法家の思想から出てきているものである。これは注目に値する。これまでの休民政策から民を統制する動きへ代わる端緒がここに見られる。ただし本格的に統制が始まるのは景帝の治世の後半になってからだ。

文帝は賈誼の提言をすべて受け入れたわけではないようだが、勧農の詔を発布したと言われている(ただしこれがどのような結果を出したのかよく分からない)。

もうひとり、提言の徒として有名なのが晁錯(ちょうそ)。賈誼と同様に朝廷に召されて提言をした。

この時期の晁錯の政策として有名なものが、納粟受爵制度である。当時は商業が活発となって貧富の差が激しくなり、農民の没落が目立つようになっていた。その原因の一つが、納税が全て銭納であったことで、これにより納税期になると農民が一斉に農作物を銭に替えるため、非常な買い手市場となり、商人によって安く買い叩かれがちだったことがある。晁錯はこの問題の解決策として、穀物をある一定以上の量を納めた者に爵位を与えるという制度を提案した。この納粟受爵制度により、商人が爵位を求めて穀物の買い付けに走り、農民たちの売り手市場となって農民の手元に多くの金銭が入るようになった。

出典:晁錯<wikipedia

周辺の諸民族に対する対応

周辺の諸民族に対する政策もまた「和親」を旨とする穏当なものであった。匈奴はいくども侵攻してきたが、文帝は太尉の灌嬰らに命じて派遣した。しかし人びとの労苦を考えて、必要以上の深追いを避けさせた。

出典:尾形氏、前掲書/p308

華南には南越国という国があった。秦末に華南の一県令だった趙佗が自立して建てた国だが漢帝国が成立した後も帝国の中央政府は華南にかまっている暇はなかった。文帝の治世になってようやくその余裕ができたが文帝は兵を派遣しようとはせず、趙佗を説得し臣従させることにとどめた。

諸侯王に対する対応

高祖の治世に韓信ら「異姓」諸侯王は粛清され、呉氏長沙国以外すべて劉氏一族が諸侯王になったのだが、これで平和が約束されたわけではなかった。皇帝が代替わりするにつれて、中央政府と諸侯王の間の関係が密でなくなったため、「同姓」諸侯王が中央政府に牙をむく事態が現実味を帯びるようになってきた。さらに言えば、「異姓」諸侯王がいたときもそうだったが、これら諸侯王は自らの朝廷と軍隊を持ち、実質的には独立国であった。

済北王興居の反乱*3、淮南王長の謀反*4とたて続けに起こった。これを見た賈誼が諸侯王抑制の必要を訴えた。具体的には王国を分割相続させて細分化し個々の勢力を弱めようとするものだ。

文帝はこの提言を一部取り入れて二つの行動を起こした。

  • 前164年、淮南国は、上記の事件から10年経った年に三分割されて淮南王長の遺子3人に与えられた。淮南国は一度郡とされ、その後皇帝の恩徳を与えるという名のもとに改めて分封した形をとっている。*5

  • 同年、斉文王則(呂氏一族討滅クーデタで活躍した斉王劉襄の子)に後継ぎが無かったため、斉王を7分割し、劉襄の兄弟と劉章(劉襄の弟)の子、あわせて7人に分封した*6。これも当時の封建相続法によって絶国になるところを皇帝の恩徳によって分封する形をとった*7

文帝は、前述したように諸侯王らに遠慮していたので、諸侯王抑制策も不十分だった。これを積極的に行ったのが後継の恵帝だった。そしてそれが呉楚七国の乱につながる。



重農抑商政策は日本では松平定信寛政の改革で有名だ。その時代まで(たぶんこれ以降も)ずっと同様の提言がなされ続けている。

*1:法三章/蕭何の九章律と秦律参照

*2:賈誼>wikipedia参照

*3:劉興居<wikipedia参照

*4:劉長<wikipedia参照

*5:西嶋定生/秦漢帝国講談社学術文庫/1997年((同氏著/中国の歴史2 秦漢帝国講談社/1974年の文庫版)/p167

*6:冨谷至、森田憲司 編/概説中国史(上)古代‐中世/昭和堂/2016/p79/上記は鷹取祐司の筆

*7:西嶋氏、同著/p167

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