歴史の世界

進化:進化にまつわる歴史⑦ 総合説 ~進化論論争の決着~

ラマルクの進化論はその中心にある「獲得形質の遺伝」の間違いを当初より指摘され、天地創造説(あるいは種は変化しないという考え)を覆すことはできなかった。

さて、ダーウィンの『種の起源』発刊からの状況。

ダーウィンやウォレスの書物はおおいに売れ、古い世代の学者たちの反発は依然として強く残ってはいたものの、進化が起こったという事実は、やがて、誰にも受け入れられるようになりました。しかし、進化が起こる肝心のメカニズムである自然淘汰の理論は、それほどすんなりと受け入れられたわけではありません。

進化と自然淘汰は、なんといっても、遺伝についてはまったく何も知られていませんでした。ダーウィン自身も、遺伝の仕組みがわからないことには難点を感じていましたし、誤った遺伝の概念によって惑わされていたところもあります。

遺伝の仕組みについては、実は、ダーウィンと同時代に、チェコのブルノの修道院にいたグレゴール・メンデルが、ちゃんと答えを発見していたのです(1859年)。あの有名なメンデルの法則です。彼は、地元の雑誌に論文を書き、それをイギリスの学舎にも送りましたが、誰も読んではもらえませんでした。つまり、ダーウィンの目と鼻の先に、彼があれほど困って悩んだ遺伝のしくみに関する答えがあったのに、ダーウィンを始めとする当時の学者たちは、ついにそれを知らずに終わったことになります。

メンデルの法則が再発見されたのは、1900年になってからでした。これで、遺伝に関する謎は大きく解決しましたが、それに続いて、進化のメカニズムに関する様々な別の考えが提出され、自然淘汰の働きは、一時、影が薄くなってしまいます。

それらを乗り越えて、動物学、植物学、遺伝学、集団遺伝学、小さい物学などの分野の研究者たちが、進化のメカニズムに関する理論を統一的に再構成し、自然淘汰による進化の理論がしっかりと出来上がったのは、1930年代から1950年代にかけての間でした。この新しい理論の枠組みを、進化の総合説と呼びます。現代の進化学は、この総合説の上に発展してきたものです。

出典:長谷川眞理子/進化とはなんだろうか/岩波ジュニア新書/1999/p204-205

ダーウィンの進化論は認められて現在の生物学の土台となり、修正されながら現在にいたる。