歴史の世界

進化:進化にまつわる歴史④ ダーウィンの自然淘汰

自然淘汰は natural selection の訳語で、自然選択とも呼ばれる。

自然選択説とは、進化を説明するうえでの根幹をなす理論。厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる変異(突然変異)を選別し、進化に方向性を与えるという説。1859年にチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスによってはじめて体系化された。

出典:自然選択<wikipedia

自然淘汰の考えは有名なダーウィンだけの発案ではなく、ウォレスもその一人だった。

この記事ではダーウィンについて書き、次回はウォレスを書こう

学生生活と世界周航

チャールズ・ダーウィンは、医者を継ぐべく、エディンバラ大学医学部に入学しましたが、血と他人の苦痛を見るのに耐えられない人柄で、麻酔のなかった当時の医学にはとてもついていくことができず、医者になるのをあきらめました。

そこで、英国国教会の牧師になることにして、ケンブリッジ大学に入りなおします。ケンブリッジ大学では、当時の金持ち上流階級の学生の典型のように、狩猟やパーティーに明け暮れ、本業の学業には少しも熱心ではありませんでした。それでも、卒業時には178人中の10番だったので、ずいぶん付け焼き刃の猛勉強をしたに違いありません。

そして卒業した直後、恩師の紹介で、軍艦ビーグル号にのって世界一周の旅に出るという話が持ち上がりました。医者に離れず、牧師になると言ってケンブリッジを卒業したのに、またまた牧師にならずに世界一周のたびにでるというので、[父の]ロバート・ダーウィン氏は大反対しました。それでも、最期にはいろいろな人に説得されて、とうとう、チャールズのビーグル号乗船を許可しました。こうして、チャールズ・ダーウィンは、自然淘汰による進化の理論を考えつくきっかけになる機会を得たのです。[中略]

なにはともあれ、チャールズ・ダーウィンは、この5年間の世界周航によって、有名なガラパゴス諸島を初めとするさまざまな異国の地質、生物相、人種、文化を知り、その多様性を満喫して帰ってきました。ガラパゴス諸島で、異なる島に生息するフィンチのたぐいを見てから自然淘汰の理論を考えついたと言われることがありますが、ことは、そう簡単ではなかったようです。さまざまな土地に生息するさまざまな生物を実際に観察したこと、チャールズ・ライエルの著書『地質学原理』を読んだこと、ロバート・マルサスの著書『人口の原理』を読んだことなどいろいろ合わさって、彼の思考形成を助けたのでしょう。

出典:長谷川眞理子/進化とはなんだろうか/岩波ジュニア新書/1999/p199-202

ダーウィン自身、のちの回想録で「学問的にはケンブリッジ大学も(エディンバラ大学も)得る物は何もなかった」と述べている*1が、この大学生活の中で授業以外の場で博物学の興味と知識を広げていった*2

その大学生活の中で最も重要なことは聖職者にして植物学者のジョン・スティーブンス・ヘンズローだ。

ダーウィンが]ケンブリッジ大学で神学を専攻していたころ、彼の人生を大きく方向転換させた人物が、植物学者のジョン・ヘンズローだ。ヘンズローの学者としての評判を聞きつけたダーウィンは、彼が開催していた夜会に足しげく通うようになり、神学生にとって必須科目ではないヘンズローのフィールド・トリップにもほぼ毎日参加。「ヘンズローと歩く男」とのあだ名が付けられるほどになる。後にヘンズローはビーグル号による南米大陸探検航海の話を持ちかけられるが、彼は調査員としてのポジションを辞退し、代わりに自慢の生徒であったダーウィンを推薦する。かくして、ダーウィンのビーグル号航海が実現することになったのだ。

出典:もっと知りたいほんとのダーウィン<英国ニュースダイジェスト5 March 2009

ちなみにビーグル号におけるダーウィンの役目はどのようなものだったのか?

ダーウィンが依頼された任務は、表向きは地質学者、実際には船長の「話し相手」というものでした。当時、船長は立場上、船員たちとの個人的な会話が禁じられていたので、孤独を癒すための話し相手となる紳士がどうしても必要だったのです。

出典:おちこぼれのドラ息子だったダーウィン<NHKテキストビュー<BOOKSUTAND(長谷川眞理子氏の筆)

ヘンズローはダーウィンを「博物学者の道へ導き、科学的探求の方法を教え、友人となった」*3。ヘンズローがダーウィンを推薦したことを考えれば、その当時のダーウィンは落ちこぼれなどではなく船上で博物学者の代役が務まるほどの資質を持っていたのだろう。

ヘンズローはダーウィンの公開先から送られる手紙と標本などの資料を受け取り、手紙の返信には激励の言葉を贈った。さらにヘンズローはダーウィンの手紙と資料を科学界に披露しダーウィンを帰国前に有名にした。帰国後もアドバイスをして著書のための資金集めをするなどダーウィンのために奔走した。

[1836年に]ダーウィンが帰国したとき、ヘンズローが手紙をパンフレットとして博物学者たちに見せていたので科学界ですでに有名人だった。ダーウィンシュールズベリーの家に帰り家族と再会すると急いでケンブリッジへ行きヘンズローと会った。ヘンズローは博物学者がコレクションを利用できるようカタログ作りをアドバイスし、植物の分類を引き受けた。息子が科学者になれると知った父は息子のために投資の準備を始めた。ダーウィンは興奮しコレクションを調査できる専門家を探してロンドン中を駆け回った。特に保管されたままの標本を放置することはできなかった。

12月中旬にコレクションを整理し航海記を書き直すためにケンブリッジに移った。最初の論文は南アメリカ大陸がゆっくりと隆起したと述べており、ライエルの強い支持のもと1837年1月にロンドン地質学会で読み上げた。同日、哺乳類と鳥類の標本をロンドン動物学会に寄贈した。鳥類学者ジョン・グールドはすぐに、ダーウィンクロツグミ、アトリ、フィンチの混ぜあわせだと考えていたガラパゴスの鳥たちを12種のフィンチ類だと発表した。2月にはロンドン地理学会の会員に選ばれた。ライエルは会長演説でダーウィンの化石に関するリチャード・オーウェンの発見を発表し、斉一説を支持する種の地理的連続性を強調した。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

当時の学問は現在のように分化する前で、動物学、植物学、鉱物学などは博物学の一分野だった。ダーウィンは世界周航で多岐にわたる分野の知識を得ただけではなく、多様な標本も収集した。膨大なコレクションの中から上のように新しい知見も生まれた。

帰国後

世界周航以前はダーウィンの社会的身分は無いに等しかったが、帰国後は博物学者として迎えられたようだ。

1837年、ダーウィンは世界周航に関する著作の執筆することと並行して進化論関連の研究もしていた。1837年に記されたノートには共通祖先から分岐した複数の種を表すスケッチが描かれている。この頃すでにラマルクと違う進化説を思いついていた*4

[1837年]7月中旬に始まる「B」ノートでは変化について新しい考えを記している。彼はラマルクの「一つの系統がより高次な形態へと前進する」という考えを捨てた。そして生命を一つの進化樹から分岐する系統だと見なし始めた。「一つの動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理である」と考えた。

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考察ノートのスケッチ (1837)。生命の樹 (Tree of life) と呼ばれる。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia*5

しかしこの頃の時代は今だに天地創造説が(つまり種は変化しないと)信じられており、ラマルクの進化論は全く浸透していなかった。そのような時にダーウィンは軽々に進化論をおおやけにするわけにはいかなかった。

ダーウィンが数十年間も持論の発表にをためらったのは天地創造説以外にも理由があった。

6月末にはスコットランドに地質調査のために出かけた。平行な「道」が山の中腹に三本走っていることで有名なグレン・ロイを観察した。後に、これは海岸線の痕だ、と発表したが、氷河期にせき止められてできた湖の痕だと指摘され自説を撤回することになった。この出来事は性急に結論に走ることへの戒めとなった。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

ともあれ、自説を証明するための情報収集は続けられた。

プロの博物学者からはもちろん、習慣にとらわれずに農民やハトの育種家などからも実際の経験談を聞く機会を逃さなかった。親戚や使用人、隣人、入植者、元船員仲間などからも情報を引き出した。最初から人類を推論の中に含めており、1838年3月に動物園でオランウータンが初めて公開されたとき、その子どもに似た振る舞いに注目した。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

彼に影響を与えた学者で有名な人物は進化論者のエラズマス・ダーウィン(チャールズの祖父)やラマルク、地質学者のチャールズ・ライエル、経済学者のトマス・マルサス

ライエルからは斉一説(自然において、過去に作用した過程は現在観察されている過程と同じだろう、と想定する考え方)を学び、マルサスからは『人口論』を学んだ。特に『人口論』は新しい理論を産み出した。

1838年11月、つまり私が体系的に研究を始めた15ヶ月後に、私はたまたま人口に関するマルサスを気晴らしに読んでいた。動植物の長く継続的な観察から至る所で続く生存のための努力を理解できた。そしてその状況下では好ましい変異は保存され、好ましからぬものは破壊される傾向があることがすぐに私の心に浮かんだ。この結果、新しい種が形成されるだろう。ここで、そして私は機能する理論をついに得た...(C.R.ダーウィン 『自伝』)

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

種の起源」は1859年に出版されたが、自然淘汰説は1838年には思いついていた。

ダーウィンはようやく持論を友人に打ち明けることにした。1842年にチャールズ・ライエルに、1844年にジョセフ・ダルトン・フッカー(恩師ヘンズローの義理の息子)に。フッカーに宛てた手紙には以下のような文章があった。

私はガラパゴスの生物分布やアメリカの化石哺乳類の形質に大変心を打たれたので、種とはなにか、という問題に関わるものならば何でも集めてみようと決心しました。……そしてついに一条の光が差し込んだのです。その結果、当初の私の考えとはまったく逆に、種は変わり得ないものではないことを(これは殺人を告白するようなものですが)ほぼ確信するに至りました。

出典:長谷川政美/科学バー>進化の歴史>ー時間と空間が織りなす生き物のタペストリー>第4話 「自然の階段」から「生命の樹」へ(その4)

しかし彼らを納得させるのには数年の月日がかかったらしい。

進化論の研究を影で行っている一方で、「表」の博物学者としての名声は高まっていった。あらゆる方面の研究発表が評価され、幾つかの公的な役職にも就き、1853年には王立協会からロイヤル・メダルを受賞している。

ルフレッド・ウォレスのサラワク論文とテルナテ論文

1855年ダーウィンと同じような考えを示す論文が発表された。無名の博物学者アルフレッド・ウォレスによるいわゆるサラワク論文だ。この内容は共通祖先から分化して新しい種が誕生するという説が書いてあった*6

この論文にはまだ自然淘汰説は論じられていなかったこともあり、ダーウィンは関心を示さなかったが、友人のライエルはダーウィンとの類似性に注目し、ダーウィンを急かした。

ライエルが種の始まりに関するアルフレッド・ウォレスの論文を読んだとき、ダーウィンの理論との類似に気付き、先取権を確保するためにすぐに発表するよう促した。ダーウィンは脅威と感じなかったが、促されて短い論文の執筆を開始した。困難な疑問への回答をみつけるたびに論文は拡張され、計画は『自然選択』と名付けられた「巨大な本」へと拡大した。ダーウィンはボルネオにいたウォレスを始め世界中の博物学者から情報と標本を手に入れていた。アメリカの植物学者エイサ・グレイは類似した関心を抱き、ダーウィンはグレイに1857年9月に『自然選択』の要約を含むアイディアの詳細を書き送った。12月にダーウィンは本が人間の起源について触れているかどうか尋ねるウォレスからの手紙を受け取った。ダーウィンは「偏見に囲まれています」とウォレスが理論を育てることを励まし、「私はあなたよりも遥かに先に進んでいます」と付け加えた。

1858年6月18日に「変異がもとの型から無限に離れていく傾向について」と題して自然選択を解説するウォレスからの小論を受け取ったとき、まだ『自然選択』は半分しか進んでいなかった。「出鼻をくじかれた」と衝撃を受けたダーウィンは、求められたとおり小論をライエルに送り、ライエルには出版するよう頼まれてはいないがウォレスが望むどんな雑誌にでも発表すると答えるつもりですと言い添えた。その時ダーウィンの家族は猩紅熱で倒れており問題に対処する余裕はなかった。結局幼い子どもチャールズ・ウォーリングは死に、ダーウィンは取り乱していた。この問題はライエルとフッカーの手に委ねられた。二人はダーウィンの記述を第一部(1844年の「エッセー」からの抜粋)と第二部(1857年9月の植物学者グレイへの手紙)とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成の共同論文として1858年7月1日のロンドン・リンネ学会で代読した[12]。

ダーウィンは息子が死亡したため欠席せざるをえず、ウォレスは協会員ではなく[13]かつマレー諸島への採集旅行中だった。この共同発表は、ウォレスの了解を得たものではなかったが、ウォレスを共著者として重んじると同時に、ウォレスの論文より古いダーウィンの記述を発表することによって、ダーウィンの先取権を確保することとなった。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

  • 「変異がもとの型から無限に離れていく傾向について」が通称テルナテ論文。

素人としてはなんだかきな臭い感じがするが、とりあえずウォレスは抗議などはせず、むしろ光栄に思った*7。著名なダーウィン都の共同論文という形でなければウォレスの論文は無視されていたかもしれない。しかしこの共同論文はほとんど関心を示されなかった。

種の起源

ダーウィンは13ヶ月間、「巨大な本」の要約に取り組んだ。不健康に苦しんだが科学上の友人たちは彼を励ました。ライエルはジョン・マレー社から出版できるよう手配した。1859年11月22日に発売された『種の起源』は予想外の人気を博した。初版1250冊以上の申し込みがあった。

もっともこれは自然選択説がすぐに受け入れられたからではない。当時、すでに生物の進化に関する著作はいくつも発表されており、受け入れられる素地はあった。この本は『創造の自然史の痕跡』よりも少ない論争と大きな歓迎とともに国際的な関心を引いた。病気のために一般的な論争には加わらなかったが、ダーウィンと家族は熱心に科学的な反応、報道のコメント、レビュー、記事、風刺漫画をチェックし、世界中の同僚と意見を交換した。ダーウィン人間については「人類の起源にも光が投げかけられる」としか言わなかったが、最初の批評は『痕跡』の「サルに由来する人間」の信条を真似して書かれたと主張した。初期の好ましい反応のひとつであるハクスリーの書評はリチャード・オーウェンを痛打し、以後オーウェンダーウィンを攻撃する側に加わった。オーウェンの反発は学問的な嫉妬が動機だったとも言われ、私的な交流も途絶えることになった。ケンブリッジ大学の恩師セジウィッグも道徳を破壊する物だとして批判した(が、セジウィッグとは生涯友好的な関係を保った)。ヘンズローも穏やかにこれを退けた。進化論の構築に協力していたライエルはすぐには態度を明らかにせず、最終的には理論としてはすばらしいと評価したが、やはり道徳的、倫理的に受け入れることはできないと言ってダーウィンを落胆させた。『昆虫記』で知られるファーブルも反対者の一人で、ダーウィンとは手紙で意見の交換をしあったが意見の合致には至らなかった。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia(詳細は引用先参照)

ライエルやヘンズローの態度を見るとこの著書の重大さがわかる。『種の起源』は「道徳を破壊する物」つまり道徳・秩序であるキリスト教世界を壊すものと受け止められた。