歴史の世界

先史:ネアンデルタール人の文化からホモ・サピエンスの文化へ

少し前にホモ・サピエンスの出アフリカの記事を書いた。「出アフリカ」の前後の西アジアとヨーロッパはネアンデルタール人が「支配」していた。彼らの文化はムスティエ文化(ムステリアン、Mousterian)と呼ばれ、中期旧石器時代に入る。

ホモ・サピエンスはアフリカから独自の文化を持って西アジアに進出し、ムスティエ文化と交わって新しい文化を作った。西アジアではアハマリアン、ヨーロッパではオーリニャック文化(オーリナシアン)がそれぞれ発展した。オーリニャック文化は後期旧石器時代になる。オーリニャック文化の初期、4万年前にネアンデルタール人は絶滅する(ホモ・サピエンスの「親戚」、絶滅する参照。

ルヴァロア技法と石刃技法

両方共打製石器をつくる技術。打製石器の変遷の簡単な説明は「打製石器<世界史の窓」でされている(スケッチ有り)。

ルヴァロア技法

ルヴァロア技法はムスティエ文化の石器をつくる代表的な方法。

「Levallois technique」でyoutube検索したらLevallois techniqueという動画が見つかった。一つの大きい石の端を別の石で砕いて鋭利な刃を作り、それでできた石器を割いた枝に差し込んで石斧を作るところまで「実演」している。おもしろい。

石斧に使われた石器を石核石器と言い、石核から剥ぎ落とされた石を石器として使う場合剥片石器と言う。「剥片石器<wikipedia」によれば、これらは「尖頭器・石槍、石鏃、石匙、石銛、石篦、石錐、石鋸など」として使われた。

石刃技法

石刃技法はブレード技法とも言う。

打製石器<世界史の窓」にある石刃技法に一番近い動画は「Blade Core Technique」だ。手を怪我しそうでこわい。それとこの動画には無いが石核を作るまでが大変そうだ。

ブログ『雑記帳』の紹介

雑記帳

先史関連の事項をネット検索する時、高確率で検索されるのがこのブログ。ブログタイトル通り雑記帳なのだが、Natureなどの最新の論文の情報を紹介して解説までしてくれる。私は先史関連の本を読み始めたのが数ヶ月前なのでこういうブログがあると本当に助かる。ただし私には理解できない部分も少なくない。

「出アフリカ」後の西アジア

西アジアの考古学 (世界の考古学)

西アジアの考古学 (世界の考古学)

上記の『雑記帳』で大津忠彦・常木晃・西秋良宏『世界の考古学5 西アジアの考古学』(同成社、1997年)が紹介されていた。記事タイトルは「旧石器時代の西アジア」。

詳細はリンク先参照。私には理解できない部分が多い。

同ブログの記事「現生人類の石器技術にネアンデルタール人が影響を与えた可能性 」も踏まえて、一番単純な流れを書こうとすると

ムステリアン+アフリカ由来の文化→エミラン→アハマリアン→ケバラン(ケバランはepipaleolithic続旧石器時代)。

ちなみに、wikipedia英語版だと

Mousterian(600,000–40,000BP)→Emireh culture(circa 30000BCE)→Antelian(c.30,000–c.18,000BCE)→ケバラン(c.18,000–c.12,500BC)

となっている。Antelianアンテリアンはアハマリアンの時期に相当するらしいがよく分からない。アンテリアンもしくはアハマリアンはヨーロッパにおけるオーリニャック文化(オーリナシアン)の時期の文化だが、西アジアにもオーリニャック文化が「外来種」として存在した。

現生人類の石器技術にネアンデルタール人が影響を与えた可能性 」のリンク先のナショナルジオグラフィックの記事から引用。

道具作りの観点では、古代から現代へ人類の行動が移り変わる過程は、約5万年前の「エミラン」と呼ばれる石器の様式にはっきりと現われている。だが、1951年にイスラエルガリラヤ湖付近の洞窟で、尖頭器や石刃、削器をはじめとするエミランが初めて発見されて以来、高度な道具作りがどこで始まったのか、考古学者らはずっと頭を悩ませてきた。 [中略]

ローズ氏とマークス氏のシナリオによると、7万5000年前、アラビア半島の気候が急激に変化し、干ばつに見舞われた結果、道具を作る人々が北部の中東地域へと押しやられた。

一方、中東は6万年前からより湿潤な気候へと変化し、動物や狩猟民は北部に集まっていった。そこで現生人類は大きなブレイクスルーを成し遂げる。祖先のヌビア人がしていたように石を上から下へ一方向に砕いて1つの石から1つの道具を作る代わりに、上下両方向に砕いて1つの石から複数の細長い石刃を続けて作る方法を編み出したのだ。それは、エミランとそれに続く上部旧石器時代における決定的な特徴である。

出典:ネアンデルタール人と人類の出会いに新説<ニュース2015.03.02<ナショナルジオグラフィック日本語版

上は数ある仮説の中の一つ。通説ではない。

アハマリアン(アンテリアン)の時期については詳しいことは分からない。関連資料が少ない。

ヨーロッパの文化の変遷

欧州におけるホモ・サピエンスの初期の文化といえばオーリニャック文化(オーリナシアン)が有名だが、ムステリアンとオーリナシアンの間に「移行期文化」というものがあり、これらのうち幾つかがホモ・サピエンスの最初期の(ヨーロッパ進出の最初の)文化とされる。

別のシナリオとしては西アジアの前期アハマリアン文化がヨーロッパに伝播してプロト・オーリナシアン文化になった*1

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出典:Aurignacian<wikipedia英語版*2

  • 「26」のレヴァントの辺りに飛び地のようにオーリナシアンがある。

ブログ『雑記帳』の記事「7000年前頃までのヨーロッパの現生人類の遺伝史(追記有)」に「47000~7000年前頃の51人のユーラシアの現生人類(Homo sapiens)のゲノムを解析したゲノムした研究」とその報道が紹介されていて、それによると、

オーリナシアン(~34000-26000年前)→グラヴェティアン(Gravettian、グラヴェット文化)(34000-26000~19000年前)→マグダレニアン(Magdalenian、マドレーヌ文化)(19000~14000年前)

14000年前になると、「現代の中東の人々と遺伝的により密接に関連した集団がヨーロッパに広範に進出する」とのこと。この研究結果はゲノムの解析によるものだということを注意しておこう。

気候変動と文化の変容

最終氷期というと長い間続いたと一般には思われているが、実際は短い周期(氷床コアの研究において発見され、ダンスガード・オシュガーサイクルと呼ばれる)で気候が激しく変動していたことがわかってきた。最寒冷期の状態が続いたのは実際は非常に短い間、おそらく2000年ほどであったと専門家の間では考えられている。最寒冷期の直前は多くの地域では砂漠も存在せず、現在よりも湿潤であったようである。特に南オーストラリアでは、4万年前から6万年前の間の湿潤な時期にアボリジニが移住したと思われる。

出典:最終氷期wikipedia

「Dansgaard–Oeschger event<wikipedia英語版」によれば、この現象は北半球において顕著だった。ネアンデルタール人はこの気候変動の激変に翻弄され、ホモ・サピエンスのヨーロッパ進出によりとどめを刺されて滅亡した(4万年前)。

ホモ・サピエンスももちろん影響を受けた。この激変の中で新しい文化を創出していった。

オーリナシアン期にはすでに石器の他に骨角器*3が使用されるようになった*4

グラヴェティアン期に入ると以前より小さくて鋭い石器が使われるようになった*5。さらにこのころは、季節で移動するアカシカが通る 峡谷にキャンプを張って大量の獲物を狩猟したり、小動物を狩るために網を利用した*6

さらにグラヴェティアン期の話だが、毛皮のためにホッキョクギツネやノウサギを狩り*7、大量の食料を得るためにマンモスを狩った。特にマンモスは非常に効率的で新しい狩猟法を編み出し大量に狩猟することができた*8。この頃にはすでに針があり裁縫技術があった。

こうして寒冷期でも人口を増やす傾向にあったようだ。

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出典:パット・シップマン/ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた/原書房/2015(原著も2015年に出版)/p101

もう一つ貼り付け。

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出典:シップマン氏/p183

中緯度まで広がるステップ・ツンドラ

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最終氷期の最寒冷期(LGM)における植生。灰色は氷床に覆われた地域

出典:最終氷期wikipedia*9

上のように北半分のヨーロッパは「ステップ・ツンドラ」だった。

steppe-tundra
A very cold dry-climate vegetation type consisting of mostly treeless open herbaceous vegetation, widespread during Pleistocene times at mid-latitudes of Eurasia and during some phases in North America.

出典:steppe-tundra<wikitionary

拙訳:ほとんどが木が育たず草原が開けた植生の地域。過半の更新世のユーラシアの中緯度、または北米の幾つかの時期に見られた。

  • 上述のシップマン氏の本には「ステップ・ツンドラ」ではなく「マンモス・ツンドラ」と書かれている。この地域はマンモスが生息する地域だからこう言われているらしい。そしてこの地域に住んでいたホモ・サピエンスは生活のかなりの部分をマンモスに負っていた。

ミズン氏の『氷河期以後 (上)』(p28)やフェイガン氏の『古代文明と気候大変動』(p42、p53-57)でもその地域の厳しさを叙述していたが、以下の引用だと少し異なる。

最終氷期の頂点だった約二万年前に、大河の水は涸れた。氷河は水分を凍らせ、地面は奥深くまで凍りついた。こうしたことは、恐ろしいように思える。しかし、最近の研究では驚くような好ましいイメージが示されている。ヨーロッパでは人類の生活条件は非常に快適ですらあったのである。気候はきわめて安定していた。天気は今日に比べ、はるかに変わりにくかった。夏には穏やかな好天が続いていた。冬は一貫して厳しい寒気が居座っていたが、最低気温でも極寒にはならず、乾燥した気候だった。氷期の冬は、冬のさなかでも日光浴ができる今日のアルプスの晴れ上がった冬にたとえられよう。平均気温は今日より4~6℃低かったが、乾燥していたため、不快ではなかった。春の訪れは遅かったが、夏には気温はおよそ20℃に達した。

気温が低かったため、植生は著しく制限されていたが、氷期の中部ヨーロッパのツンドラは、極圏のツンドラとは全く異なる。この緯度では日光の照射は常に変わることなく強く、夏は暖かく、雪解け水に育まれて植生は豊かで、それが動物に豊富な植物を提供していた。氷期ツンドラは、大型獣が豊富という点では東アフリカのサバンナに引けを取らなかった。そこでは大型動物相を形成することができたが、それには装飾のお大型哺乳類のマンモス、毛サイにとどまらず、オーロクス、ヘラジカ、シカ、ホラアナグマ、そして大型肉食獣のライオンやハイエナも含まれていた。肉食獣と同じように初期の人類も屍肉を食べて生きることができた。そのうえ「天然の冷蔵庫」の中で、それは簡単に冷凍保存されていたのだ。さらに初期の人類は新しい能力を発達させた。大型動物の狩猟である。

出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p50

上の記述が本当かどうか分からないが載せておく。

ちなみにミズン氏・フェイガン氏の記述だと、寒い時はマイナス30℃に達し、9ヶ月の寒気に耐えなければならない、とのこと。ちなみにミズン氏の記述は1985年の参考文献を用いている。

とにかく、ホモ・サピエンスは「奥深くまで凍りついた」地面つまり永久凍土層の上で暮らしていた。こんなに寒い場所で暮らせたのはホモ・サピエンスが「針」を使うことができたからだとフェイガン氏は主張していた。*10



*1:人類進化史を更新―石器に見る「技術革新」にヒント―/名古屋大学学術研究・産学官連携推進本部/2015/06/10

*2:著作者:Hughcharlesparker ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Aurignacian#/media/File:Aurignacian_culture_map-en.svg

*3:骨角器<wikipedia

*4:オーリニャック文化<wikipedia

*5:Gravettian<wikipedia英語版

*6:Use of animals during the Gravettian period<wikipedia英語版

*7:パット・シップマン/ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた/原書房/2015(原著も2015年に出版)/p170-171

*8:シップマン氏/p179/ただし狩猟法の中身には触れていない。p174では「マンモスの狩りが高い頻度で成功するようになったのは現生人類の出現による」と書いてある。

*9:ダウンロード先はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%B0%B7%E6%9C%9F#/media/File:Last_glacial_vegetation_map.pnghttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Last_glacial_vegetation_map.png#/media/File:Last_glacial_vegetation_map.png、改変

*10:フェイガン氏/p54