歴史の世界

メソポタミア文明:ウル第三王朝② 初代ウルナンム

即位まで

アッカド王朝末期については 記事「アッカド王朝時代⑥ 六代目以降の没落から滅亡まで/都市国家分立期」で書いた。

  • 王朝が滅亡する過程の中でラガシュ、ウルクグティの勢力が台頭した。ウルナンムはウルク王ウトゥヘガル配下の将軍だった。

  • 将軍ウルナンムはウトゥヘガル王にウルに派遣されたが、そこで独立して「ウルの王」となった。これが いちおうウル第三王朝誕生の瞬間。

  • その後、「ウルの王、シュメールとアッカドの王」を名乗った。

支配状況

私が入手した参考文献の中で、ウルナンムがどのようにシュメール・アッカド地方を攻略したか について書かれているものはほとんど無い。

小林登志子著『シュメル』*1(p252)によれば、「ウルナンムはグティ人の侵入で混乱したシュメル・アッカドの地を再統一すると・・・」とさらっと書くのみである。

「ウル・ナンム<wikipedia」には「彼は独立状態にあった他のシュメール都市国家を次々と打ち破り統合していったが、その具体的な過程は殆ど知られていない」とある。

入手できたものので唯一詳細にかかれている図書は前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*2だけだ。以下はこの本に頼って書く。

シュメール地方

『初期メソポタミア史の研究』(p126-128)によれば、「ウルの王、シュメールとアッカドの王」を名乗った後、ウルナンムは勢力拡大のための活動を開始した。諸都市に各都市の都市神の神殿を建設し、ニップルに城壁を築き運河を開削した。こうしてウルナンムは都市国家の上級支配権を獲得した。上級支配権という言葉がよく分からないが、おそらく江戸幕府における外様大名に対する中央政府の命令権(支配権)のようなものだと思われる。

上記の本では「ラガシュを例外として、ほぼシュメール地方を掌中した」(p128)とあるが、ウルナンムはラガシュの権益であるペルシア湾の交易とグエディンナの一部を奪取し、且つ、ラガシュ王ナムハニ(ナンマハニ。ラガシュの王名表では第2王朝の最後の王)を破ったので、ウルナンムの治世中にラガシュを陥落出来なかった(または安定した支配が出来なかった)としても、それは時間の問題だったと思われる。

ちなみに「Lagash<wikipedia英語版」によれば、ウル第三王朝以降、古バビロニア時代に言及される文書が少し遺っている以外に見当たらなくなる。ラガシュが初期王朝時代およびアッカド王朝末期に持っていた重要な地位はその後 回復することはなかった。

アッカド地方

ウルナンムがシュメール地方を掌握しようとしていた頃、アッカド地方はエラムの王プズルインシュシナクが支配していた(前掲書/p128/p216-218)。

アッカド地方をエラムが支配したことについては、『ウルナンム法典』に「そのとき、ウンマ(=アクシャク)、マラダ、ギリカル、カザルとその村落、そしてウザルムがアンシャンの故に奴隷状態にあったが、私(ウルナンム)の主ナンナ神の力によって、その自由を回復した」(RIME 3/2、48)とあり、プズルインシュシナクは、スサを本拠に、アンシャンまでのイラン高原全域を支配下においていた。

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出典:初期メソポタミア史の研究/p218(地図はp217)

ウルナンムはエラム勢力をアッカド地方から奪取した。

開放されたカザル、アパアク、マラダは、ウル第三王朝時代を通じて、ほかの都市とは異なる支配形態を取るようになる。ウル支配下の有力都市は、通常、在地勢力の有力者がなるエンシの支配であるが、カザルなどは、将軍がエンシを兼ね、軍民両政を担った。ウルナンム以後も、ウルの王はこの地域が軍事な要地であるという認識を持っていたのである。

出典:初期メソポタミア史の研究/p129

上のような地域が「軍政地域」となることは記事「ウル第三王朝① 概要」第2節「文書行政システムと二元支配体制」で触れた(地図も参照)。この軍政地域はエラムまたは東方の勢力がディアラ川流域から中心地域(アッカド・シュメール地方)への侵入を防ぐために必要だと考えたからだろう。

『初期メソポタミア史の研究』では小林氏の『シュメル』に書いてある「グティ人の侵入」に触れないのは、著者前田氏がグティ人がシュメール・アッカド地方を支配したという(以前の?)通説を否定しているからだろう。

ウルナンム法典と社会正義

ウルナンム法典は現存するもので最古の法典と言われている。これとともに重要なのは、社会正義が王の責務に加わったことだ。

『シュメル』(p160-162)では法典の幾つかの条文を載せているが、どのような内容かは「ウルナンム法典<wikipedia」に書いてある。

ここでは見出しのとおり、ウルナンム法典と社会正義を合わせて書いてみよう。

 アッカド時代までの王の責務

「正義」は、シュメール語で「ニグシサ」、アッカド語で「ミーシャルム」と言いますが、どちらも文献上に最初に現れるのは、アッカド時代の終わりころです。そして、次のウル第三王朝時代になると、前田徹氏が指摘するように、「正義」を維持することが王の重要な責務の一つになります。

シュメール都市国家時代以来、都市国家の防衛、および豊饒と平安の確立の確保が、王にとっての2つの重要な責務であると考えられてきました。

都市国家の防衛とは、都市に周壁を築いて外からの攻撃に備え、万一攻められたときには、軍隊を率いて外敵と戦うことです。豊饒と平安とは豊かな収穫と不安のない生活の確保のことで、それらを保障してくれる神々の神殿の建設や修復、また農耕に欠かせない運河の開削や浚渫を意味しました。

 ウル第三王朝以降の王の責務

ウル第三王朝時代になると、バビロニア全土とその周辺地域を支配する統一国家が完成します。

この時期に、国家の防衛と豊饒・平安の確保に加えて、新に「正義」の維持が王の責務に加わりました。[中略]

ここでいう「正義」とは社会正義のことです。孤児や寡婦に代表される社会的に弱い立場にある人たちを、強い立場にある人たちの搾取や抑圧から守り、弱い立場にある人たちの正義が蹂躙されたときには、その正義を回復することが、王の責務となったのです。

 ウルナンム法典

正義の維持者としての王の責務が具体的な形をとったのが、王による「法典」の作成です。最も有名なのはハンムラビ法典ですが、メソポタミア最古の法典は、ウル第三王朝初代の王ウルナンム(在位前2112-2095年)が作らせたウルナンム法典です。ウルナンム法典はシュメール語で書かれています。現在残っているのは、粘土板に書き写された断片的な写本数点のみですが、その前書きの最後に、「わたしは、憎しみ、暴虐、そして正義を求める叫び声(の原因)を取り除いた。わたしは、国土に正義を確立した」と述べており、ウルナンムが正義の維持に強い関心を持っていたことをよく示しています。

出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p106-108

前書き(前文)にはウルナンムが最高神エンリルより王権を賦与されたことが書かれ(初期メソポタミア史の研究/p137)、そして前文の最後にあるように王としての役割である社会正義の実現を高らかに宣誓している。

正義(ニグシサ)が用語として確定する以前の初期王朝時代では、社会の不公正や社会階層の分解による不安定さを是正するために、「寡婦、孤児を力有る者のもとに置かない」と宣言する弱者救済や、債務奴隷から自由民に戻す「自由を与える」ことを、都市支配者は宣言した。社会正義とは、個々の施策である債務奴隷からの解放や弱者救済を包含し総称する概念と捉えることができる。ただし、社会の公正さと平安を意図することは同じであっても、「自由を与える」ことと、法典における「社会正義」の擁護とは相違するところがある。

出典:初期メソポタミア史の研究/p132

まず「自由を与える」という言葉は、初期王朝時代ⅢB期のラガシュ王エンメテナとウルイニムギナ(ウルカギナ)が使用している*3。彼らは債務奴隷などを解放して「自由を与えた」。

『シュメル』(p152)によれば、「自由」のシュメール語は「アマギ」と言い、《アマギは字義通りには「母」アマに子を「戻す」ギであることから、本来あるべき姿に戻すことを意味するので、「自由」と翻訳されている》。

ただし、債務奴隷などの解放を何度も行ったら逆に社会が乱れるだろう。債務奴隷は非合法に奴隷に落とされたわけではないのだから。王は即位や神殿の落成などの慶事の機会を用いて「勅令」と言う形で奴隷解放を命じた。いわば恩赦だ。

それに対して、法典に示された条文は、「正義の定め」としての普遍的な規則、神が定めた守るべき秩序や準則を例示するものであって、ときに言われるような立法権を行使して王が定めた方ではない。ウルナンム以下の3法典は、あくまでもその条文に示された社会正義を実行するように人びとを導くことにあった。王は決して立法者ではない。

出典:初期メソポタミア史の研究/p132

ウルナンム法典は「正義の定め」を知らしめるために作られたが、その条文の罰則はかなり具体的なものだ(シュメル/p160-162)。これらが実際の裁判で適応された証拠は無く、裁判と法典は無関係だと見ることが多いということだが、著者の前田氏は「筆者もそのように捉えてきたが、ウル第三王朝時代に、「法典」の編纂と裁判制度の整備が同時並行的に行われているので、無関係と切り捨てることはできないと考えるようになった」と言って、「法典」が裁判において定期王された例を示している(p135)。



*1:中公新書/2005

*2:早稲田大学出版部/2017

*3:初期メソポタミア史の研究/p131