歴史の世界

メソポタミア文明:アッカド王朝時代⑤ 五代目シャルカリシャリ

[四代目]ナラムシンの治世にアッカド王朝は最大版図になったが、ローマ帝国に例を採るまでもなく絶頂期が没落の始めであり、支配領域の縮小と滅亡に至る権力の弱体化が顕著になる時代である。

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p112

神にならなかった王

先代ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」の王号を使用し、自らを神格化したが、シャルカリシャリはその王号も神格化も拒否するように、先々代までの伝統的王権観に回帰した。

彼は、王権の伝統性を最高神エンリルに選ばれることに求め、自らを「エンリル神が愛する子、強き者、アッカドとエンリル神の統治下にある人々の王」(RIME 2,188)と名乗った。

出典:初期メソポタミア史の研究/p112

シャルカリシャリのあとアッカド王朝が没落することを考えれば、アッカド王朝はシュメールの伝統的王権観を受容した王朝であり、ナラムシンだけがその例外だった、と言えるようだ。*1

対外戦争

先代までは「外征」を行ったが、シャルカリシャリは「防戦」を行った。

アッカド王朝の領地を脅かしたのはグティ、マルトゥ(アムル)、エラムだった。

マルトゥ(アムル)はシリア方面の遊牧民だった*2。彼らは後世メソポタミアに浸透して政権に関わるようになるのだが、シャルカリシャリ治世においてはそれほどの脅威ではなかった。マルトゥとの戦場もシリア領域だった。

エラムとの戦場はアクシャクだった。アクシャクはティグリス川の上流部にあり、アッカド地方の入り口に当たる。ここを突破されたら王朝は滅亡の危機に晒されることになる。『初期メソポタミア史の研究』(p113)によると、エラムの侵攻はアッカド地方に甚大な影響を与えて王朝が滅亡する主要因になったと思われる、と書いてあるがその証拠は示されていない。

グティはシャルカリシャリ治世に初めて史料に登場したのだが、ザグロス山脈方面からメソポタミアに侵入したという以外、殆ど何も知られていない*3

グティのシュメールへの侵入の証拠はある。シャルカリシャリからラガシュ市にいるアッカドの高官に宛てた手紙だが、グティが家畜を略奪した場合の対処について書かれている。これより治世中にグティがシュメール地方を跋扈していることがわかる。また、この手紙より少なくともこの頃はラガシュ市はアッカド王朝の支配下にあったことが確認される。『初期メソポタミア史の研究』(p304)

内乱

二代目と四代目の治世にも内乱の記録が残されているが、シャルカリシャリ治世も内乱があったようだ。ただウルクとナグスが反乱を企て、鎮圧されたことしか分からない(『初期メソポタミア史の研究』(p113、p119)。

支配のほころびをもうひとつ。

ラガシュ出土の行政経済文書が支配者の言語アッカド語ではなく、再びシュメール語で書かれ始めた[以下略]。

出典:初期メソポタミア史の研究/p113


まとめ

五代目シャルカリシャリの時代は絶頂期のナラムシン治世とは真逆の防戦に明け暮れる日々だったようだ。しかし情勢悪化の中でシャルカリシャリは辛くも支配を維持した。混乱期に入るのはシャルカリシャリの後の時代か治世末期からになるだろう。



前田徹氏はナラムシン治世より統一国家形成期に入ると主張するが、シャルカリシャリが「四方世界の王」の王号も王の神格化も受け継がずに、先々代の伝統に戻したことを考えれば、この主張には納得できない。

*1:前田氏はナラムシンより後を統一国家形成期としているがこの王の王権観は受け継がれていない以上かれの治世を画期とは考えられない。

*2:アムル人<wikipedia

*3:グティ人<wikipedia

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