歴史の世界

メソポタミア文明:戦争のはじまり/「国家」の誕生

戦争
現在では,国家を含む政治的権力集団間で,軍事・政治・経済・思想等の総合力を手段として行われる抗争(内乱も含む)をいう。従来は,狭く国家間において,主として武力を行使して行われる闘争のみが戦争と定義されていた。

出典:百科事典マイペディア<株式会社日立ソリューションズ・クリエイト<コトバンク

「戦争」と言えば、国家どうしの戦いのことを指すのが普通だが、この記事では、国家形成以前に戦争がはじまった、としている。

しかし、「戦争」が本格化していくのは、複数の有力な都市国家が現れて覇権争いを繰り返す初期王朝時代に入ってからになるだろう。

実は この「戦争」と《「国家」の誕生》は関係がある。

戦争のはじまり

さかのぼれば新石器時代にはすでに戦争は北部メソポタミアで起こっていた。ハッスーナ文化期(前6000-5000年頃)後期にテル・エス・サワン遺跡は全体が周濠に囲まれ、後期になると城壁で囲まれていた。チョガ・マミ遺跡では城壁と灌漑用水路らしき溝がともに発見されている。周濠や城壁は敵の来週に備えた防備のための設備であって、当時すでに灌漑農耕社会における土地争いが起きていたことを示している。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p112


6000年前ころから、社会的緊張の高まりがメソポタミアとその近隣地域に波及して、あちこちで防衛用の壁や施設が構築されていった。それに併せて自衛のための武器も開発されていく。ウル胃液では、ウバイド終末期の段階で、銅製の槍先や磨斧、棍棒頭などが副葬されていて、集落を護る軍人の職能が生じていた。武器類の出現は先行期には見られなかった新しい一面である。「ならず者」が特定の集落に侵入してきた際、自衛のために使われたと推定される。

ただ、いずれも小型の規格であり、これだけでは当時の社会に戦争が起きていたことにはならない。その[(戦争が起きていたことの)]証明には、戦闘用の各種武器をはじめ、戦争を起こす国家的な権力、戦時に街を護る堅固な城壁、戦後処理としての捕虜・奴隷の収容施設など、さまざまな事象がそろってこなければならない。[中略]

ウルク中期後半になると、交易や市場の活性化により、良からぬ「ならず者」との接触がいっそう増えて、簡易な防衛施設だけで都市敵集落を護ることが難しくなる。自衛対策だけでは集落の防御施設だけで都市的集落*1を護ることが難しくなる。自衛対策だけでは集落の防御は不足となり、長距離の交易ルートも必要となって、本格的な城壁の建造とともに武器の開発が進行していく。城壁や武器によって護るのは住民や余剰食糧だけでなく、遠隔地から運んできた貴重な資源や、それを原料として生産された製品も含む。

そして、ウルク後期には社会的緊張が極度に高まり、都市的集落の人や資源などの富を護るために、「ならず者」やその予備軍的な存在を先に叩く攻撃的な側面も付加されていく。権力をもつ支配者によって、武器の開発とともに攻撃力を備えた軍隊組織が形成されていき、敵の攻撃を想定した堅固な城壁が建設されていく。戦争により生じる捕虜は連行され、勝者の奴隷となる。戦争を示唆する一連の証拠はウルク後期にそろってきていることから、西アジアでは約5300年前に本格的な戦争が起き始めたといえる。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p119-204(太字強調は引用者による)

ウルク後期はウルク市で都市が誕生したばかりの時期で、ほかの都市は、小泉氏によれば、北シリアのハブーバ・カビーラ南だけだがこの都市はウルクが鉱物などの資源を調達するための植民都市だった。

このように考えれば、戦争のはじまりは、「都市ウルク」vs「ならず者」ということになるのだろう。ここでいうところの「ならず者」は都市ウルクからの視点によるもので、ウルク周辺の発展途上の集落も含むのだろう。

そして小泉氏のいう「都市的集落」(都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落)の幾つかが、都市としてウルクに対抗できる存在になった時、初期王朝時代へと向かっていくことになる。

捕虜奴隷

戦争に敗北したために奴隷にされた「捕虜奴隷」がいた。現代は、戦争があっても捕虜の人権に一定の配慮がなされている。だが、近代以前の社会にあっては戦争で負ければ、過酷な運命が待っていた。戦争捕虜の男性は反乱を起こすことを恐れて殺され、女性たちは捕虜として敵国に連れて行かれたが、彼女たちに男の子がいた場合には問題であったことを「アマルク(ド)」という言葉が表している。

第二章でも話したようにシュメルでは農民も家畜を飼い、また周辺の荒野には遊牧民がいて、家畜の去勢は古くからおこなわれていた。その技術が人間の去勢へと展開したようだ。アマルク(ド)という語は本来「去勢された若い牛(若い大型動物)を意味したが、ウル第三王朝時代のラガシュ市から出土した文書では、若い成人男性や少年にもアマルク(ド)の語が使用されていて、「去勢された若者」を意味した。戦争捕虜として連れて来られ、羊毛紡ぎ(つむぎ)などをさせられた女性たちの息子が将来反乱を起こしたり、逃亡したりすることを前もって防ぐために去勢されたようだ。

出典:シュメル/p151-152

上のような話は、オリエント世界や古代ローマの歴史の本にも出てきた。中国・明帝国鄭和は たしか「アマルク(ド)」だったはずだ。著者は「現代は、戦争があっても捕虜の人権に一定の配慮がなされている」と書いてるが、国際社会を気にも留めない勢力は現代にもいると思うがどうだろう。

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ウルク遺跡で見つかった円筒印章の陰影

出典:都市の起源/p203

《「国家」の誕生》あるいは《「国家」の形成》

小泉龍人著『都市の起源』では《「都市」の誕生》と《「国家」の誕生》を区別している。

自説として、古代西アジアでは都市と国家は同時に登場しなかった。都市が誕生した後、その都市を軸として国家的な仕組みが構築されていき、実効支配領域をともなう都市国家が出現することになる。

つまり、国家とは、複雑に発展していった都市社会がたどり着いた到達点であり、国家なしに都市は存在しうるが、都市の存在しない国家は西アジアでは考えにくい。

ウルク後期、シュメール地方にはウルクの街しかなかったため、ひとり勝ち状態の「都市」には国家的な権力は未熟な状態であった。まもなくして、ライバルの都市が多数出現することで、互いに競合するようになり、本格的な権力をともなう「都市国家」へと発展したのである。

出典:都市の起源/p197

「国家的な仕組み」=「国家」とすれば、まず「戦争」がはじまる前に未熟な状態の「国家」が形成され、複数の国家が「戦争」を含む「競合」をするようになり、より合理的な政治・行政の構築を迫られ、その結果、《本格的な権力をともなう「都市国家」》が完成した。



*1:「都市的集落」とは都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落のことを指している。著者の造語。――引用者注