前回の記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑥ 第ⅢB期(その2)ラガシュの歴史 前編」の続き。
ラガシュは前2500年頃からウル・ナンシェ王朝が治めていたが六代目のエンアンナトゥム2世で世襲が途切れて、七代目にあたるエンエンタルジは血縁でない人物のようだ。続く八代目ルガルアンダはエンエンタルジの息子のようだが、その次の九代目ウルイニムギナ(ウルカギナ)は先代父子と血縁がなく元は軍司令官だった*1。
九代目:ウルイニムギナ
クーデタを起こし王位を簒奪した約1年後、「改革」を行ったことについての碑文を書いた。この碑文もかなり有名なものらしく、「改革碑文」と呼びならわされている。
ウルイニムギナ王の改革碑文 2本の粘土製円錐に同一内容が記されている
(ルーブル美術館蔵)
この「改革碑文」は前任者たちが、神々の財産を横領し、役人は人民に重税を課して強者が弱者の財産を掠め取っていたと批判する。このような状況で、
「[ラガシュの都市神の]ニンギルス神が36000人の(ラガシュ市民の)なかからウルイニムギナ(を選びだし、彼)にラガシュの王権を与えた」。
ウルイニムギナは、税を軽減し、弱者を救済し、ラガシュに自由をもたらした。さらに債務奴隷を解放し、重罪人を牢屋から解放した(恩赦を施した)(『世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント』(p180)*2。
ただし、ウルイニムギナの后妃たちが以前よりも驕奢な生活をしていたという主張もある。「Urukagina<wikipedia英語版」によれば(ネタ元はKatherine I. Wright/Archaeology and Women/2007/p206とのこと)、后妃の所帯(宮殿とそれに所属する倉庫や、さらに広くは后妃が管理する所帯全体を指す)の総人員が以前の50人から1500人に増えている。さらに聖職者たちから押収した膨大な土地を王后ササ(Shasha)に与えた、としている*3。
この「改革」は結局のところ、『シュメル』(p158)によれば、治世3年目で挫折した。そして5年目にはウンマ氏のルガルザゲシの攻撃が激化し、7年目にはラガシュ市は敗北し、滅亡する。
年代
前川和也編著『図説メソポタミア文明』によれば、ウル・ナンシェ王朝は前2500年に建てられ、六代まで続く。
『世界の歴史1』(p179)によれば、ウル・ナンシェと血縁関係にない七~九代目は前24世紀前半の約20年間 治めた、とある。前24世紀半ばに滅亡。