歴史の世界

エジプト文明:古王国時代⑩ 政治・行政の歴史 前編

政治史+行政史+経済史を語れば、普通はその地域の歴史としてほぼ十分なのだが、古王国時代は逆にピラミッドの歴史が9割超を占め、その他はおまけになってしまっている。

この記事では、政治・行政・経済の歴史中心としたの話を書こう。ただしほとんどの歴史(考古学)資料はピラミッド関連なので、結局ピラミッド関連の話に見えてしまうだろう。

なぜピラミッド史が古王国時代の歴史の9割超も占めているのか

古代エジプトの舞台については「ナイル川下流域 -- エジプト文明の舞台 - 歴史の世界」で書いたが、人々が生活していた場所は沖積地と呼ばれる場所だ。ここはナイル川が増水すると冠水するが、人々は微高地に住んでいる。

そしてこの場所は度重なる堆積作用や現在の家屋により遺跡の検出例は乏しい。

それではどこから遺物が検出されるかと言うと、低位砂漠という沖積地の外側の、増水の時も川水が及ばない地域から検出される。ここには墓地や神殿が造られていてその中から遺物がたくさん検出される。古王国時代の遺物のほとんどがピラミッド関連のものとなる。よって、古王国時代を語ることはピラミッド史を語ることと ほぼイコールになってしまう。

もうひとつの理由を挙げるならば、それはピラミッド関連情報に高い需要があるからだ。

古代エジプト史に不案内な人は「古代エジプトと言えばピラミッド」と連想するくらいだから、古代エジプト史を知る中でピラミッド関連の知識を吸収・消化することは不可欠である。

古王国時代の中のピラミッド史(始まり・ピーク・衰退)を語るとともに、ピラミッド関連情報を書けば、この時代の歴史のほぼすべての紙幅が埋まってしまう(逆に言えば、その他の歴史は資料がほとんど無いため長く書けない)。

  *   *   *

前置きが長くなってしまった。歴史の流れを書いていこう。

第3王朝

「ピラミッドの時代」 - 歴史の世界』で引用したものを再び引用する。

第3王朝時代に後世まで継続する官僚組織の体裁が整い始めたことは、少ないながらも、当時の官僚たちの称号や銘文資料からうかがい知ることができる。初期王朝時代の間、王家の需要に応じて随時設けられてきたさまざまな部署と役職を、ピラミッドの建造開始にともなって、国家規模に再組織化することが必要になったのである。ピラミッド建造は、建材の調達や職人や労働者の組織化に始まり、それを経済的に支えるための全国からの徴税組織、関連物資や人員を管理するための組織、さらには王の葬祭を維持するための組織などなどの発達を余儀なくした。そして大型ピラミッドが築かれた第4王朝時代には、さらに大規模な官僚組織が必要になっていった。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p171

第3王朝から始まる古王国時代はピラミッド建造のために、官僚・行政組織の増大・整理・効率化が始められた。この行政改革は成功し、古王国時代のピラミッド建造ラッシュの基礎を築いた。ただし、第4王朝までは官僚のほとんどが王族で占められていたようだ。

また第3王朝末から第4王朝初期までにノモス(地方行政単位)の組織が整えられ始めた*1

しかし、ノモスの行政は地元の人間の自治に任せていたようだ(干渉できなかったのかもしれない)。複数のノモスの行政官の称号を持つ官僚の墓が王都メンフィスに居住していた*2

第4王朝

この時代の注目するべき資料は「メレルの日誌」と「ピラミッド・タウン」だ。

「メレルの日誌」については「ギザの三大ピラミッド 前編 - 歴史の世界」で書いた。これにより、ピラミッド建造の物資の流れが分かる。

たとえば、シナイ半島の銅が紅海経由で運搬されていたことが書かれている。紅海とナイル川の間の地域「東部砂漠」は古くから鉱物が採れる場所として開拓され、東部砂漠横断ルートが整備されていたのだろう。ただしメソポタミアとの交流の件については書かれていないか、まだ未発表のようだ。

もうひとつ、「ピラミッド・タウン」については「ギザの三大ピラミッド 後編 - 歴史の世界」で書いた。

ギザの発掘チームの代表者であるマーク・レーナー氏は三大ピラミッドの南東の居住地を「ピラミッド・タウン」と呼んでいる。発見当初は建設労働者の居住地と思われていたが、発掘を進めていくと王宮がある可能性が高いと考えられるようになった。「ピラミッド・タウン」は首都であったということだ。

この件について、高宮いづみ氏は以下のように書いている。

首都メンフィスを単純に固定的な都と考えることはできないかもしれない。第1王朝から第6王朝までの間に、メンフィスはその位置を現在のアブ・シール村から南サッカラ付近までの約5キロメートルの範囲の中で、少しずつ変えていた可能性があることが指摘されており、R.シュタデルマン等は、古王国時代にはピラミッドが建設された場所の近くにそれぞれの王が居住していたと考えている。すなわち、王や官僚たちはピラミッドの造営地の近くに王宮と首都機能を移動させていたわけで、メンフィスに長期間の固定的な首都を設けていたわけではなかったらしい。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p189-190

もうひとつ、マーク・レーナー氏は「ピラミッド・タウン」と「メレルの日誌」の情報から、ピラミッドおよび「ピラミッド・タウン」まで水路が造られ、しかもそれだけではなく、港まで造られたと考えている。このことも「ギザの三大ピラミッド 後編 - 歴史の世界」に書いた。

古代エジプト文明社会の形成―諸文明の起源〈2〉 (学術選書)

古代エジプト文明社会の形成―諸文明の起源〈2〉 (学術選書)



続きは次回。


*1:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p176

*2:高宮氏/p176-177。王都メンフィス近辺にそれらの官僚の墓が検出されている