歴史の世界

エジプト文明:先王朝時代③ ナカダ文化Ⅱ期後半(前3650-3300年) 前編

前回、Ⅰ期~Ⅱ期前半のあいだで、各集落で内部の発展と階層の分化が起こったことをやった。

今回はⅡ期後半。この時期は各集落間の格差が生じ、大型集落が中小の規模の集落をコントロールするまでになった。

集落間の格差

農耕・牧畜の安定的な生業基盤に支えられたナカダ文化は、この時期に文化・社会のさらなる発展を遂げる。まず集落では、長方形の家屋が新たに出現する。また建材として日乾レンガが使用されはじめる。さらに大きな変化として挙げられるのが、大型集落の出現である。つまりナカダⅡ期後半から、集落の規模に格差が生まれ、これまでと同様な小規模集落の他に、それをはるかに凌ぐ大型集落が誕生する。大型集落は、その規模や想定される人口から、ナカダⅡ期後半には都市ともよべる集落であったとされる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p48

ということで、Ⅱ期後半のメインイベントは、集落間の格差と大型集落の出現。Ⅰ期~Ⅱ期前半(前4000-3650年)では、集落の中で、集落の規模に関わりなく、社会階層の分化が起こった。これがⅡ期後半になると集落間の格差が起こるようになる、ということだ。

しかし、この本のヒエラコンポリス遺跡の説明を読むとこの集落は、すでにⅠ期末には大型化をしていた。ナカダもⅡ期後半より前に大型化していたかもしれない。

さて、集落の規模は、各集落内の墓地の個数が参考になる。

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出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p108

上の図はⅠ期からⅢ期までの墓地の検出個数。

超大型集落はヒエラコンポリスとナカダに限られる(ただし、Ⅲ期になるとアビドス(アビュドス)がこれに加わる)。高宮の本(p113)によると、これに次ぐ大型集落はアムラー、アッバディーヤ、バッラース。

これらの集落はすべてナカダ(集落)の周辺の上エジプト南部の集落で、北部およびデルタ地区が発展するのはⅢ期以降となる。

大型集落にはエリート層が出現する。エリート層は、支配者層とか特権階級、エスタブリッシュメントと言い換えられるかもしれない。血統によって、つまり一部の家系によって独占される。彼らがエジプト独自の政治・行政の基盤を作り上げていった。

彼らは地元の集落だけでなく、周辺の中小集落もコントロールするようになる。

地域統合の始まり

この時期はまだ文字が無いので、考古学的証拠つまり遺物から推測しなければならない。

その証拠となる遺物は波状把手土器(波状把手付土器、Wavy handled jar)だ。

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Naqada II–III 3650–2960 B.C.

出典:Wavy ledge handled jar/Museum of Fine Arts, Boston

この波状把手土器が「中小規模の集落」のステイタス・シンボルになる。

[ナカダⅡ期半ば]以降、王朝時代まで支配者のシンボルとして継続する棍棒象牙製品の副葬が、分析対象となった中・小規模の墓地ではほとんど途絶し、地域的なヴァリエーションも消失して、ステイタス・シンボルが波状取っ手土器に一律化してしまう。波状把手土器は、元来パレスチナ産の土器の模倣品であり、ナカダⅡ期中葉頃からエジプトで模倣生産が行われるようになるが、王朝時代に明瞭なシンボルとしての意味はしられていない。したがって、この時期に、各集落で自由に選択したわけではなく、かつ王朝時代に明瞭な支配者としての意味をもたないステイタス・シンボルが、中・小集落の支配者たちに普及したと考えられる。[中略]

中・小集落において支配者のステイタス・シンボルが一律化した一方、大型集落では伝統的なステイタスシンボルも継続していたことは、この頃進行した集落間の階層化と密接な関係がある。葬制における分家機から、この頃、大型集落でのみエリート層が発達したことが明らかになっており、それには大型集落が小型集落を政治的な支配下に置き、集落間に階層が生じた事情がともなっていた。そして、おそらく大型集落を中心とする政体の地域的な統合にともなって、ステイタス・シンボルがエリートたちにコントロールされるようになったのではないだろうか。当時のエジプトでは、波状把手土器の原型となったパレスチナ土器について知識をもつ人物は限られており、ラピスラズリの分布は、上エジプト南部の大型集落に居住するエリートたちが、北方からの交易品にアクセスする機会が多かったことを示している。パレスチナ土器を入手する機会がある大型集落のエリートたちが波状把手土器の生産をコントロールすれば、容易にステイタス・シンボルを支配できたであろうし、この頃から顕著になった従属の専門家組織は、それを可能にしたであろう。ここに、舶来品の模造品分配を通じて、地域における社会階層を制御しようとする、当時のエリートたちの戦略を見ることができるように思われる。

出典:高宮氏/p213-214

「従属の専門家組織」とは土器を作る職人集団のこと(後述)。

各地の墓地を調査すると大型集落の支配者層の墓地は安定的に一部の家系が連続していたが、中小規模の集落はそうではなかった(高宮氏/p139-141)。大型集落のコントロールの結果かもしれない。

職業集団の出現と大量消費社会の到来

上記のように土器をつくる従属の専門家組織が存在した。彼らはエリート層に庇護を受けていた。通年、食糧生産に従事せずに専ら土器などの製品をつくる専業職人は、エリート層の求めるモノをつくりその見返りに食料を得なければならなかった。エジプトの職業集団の出現はこのように始まったが、他地域に同じような減少があったのかもしれない。近代の音楽家や経済学者などが貴族の庇護の下に活動をしていたことが思い起こされる。

土器に関して言えば上述の波状把手土器以外に、工芸品としての装飾土器の発達や粗製土器の規格化が見られる。粗製土器は地域性が消失して規格化される。大型集落の職業集団の製品が各地に供給されたようだ。

また石製容器についても、材質の硬・軟を問わず、多様な石材を用いて様々な器形が数多く制作されるようになる。銅製品はそれまでのたたき技法に鋳造技法が新たに加わり、斧や短剣などの道具や装身具などが生産され、銅製品の使用がより一般的になる。

出典:馬場氏/p48

馬場氏は「エジプトではこの時期に大量先産大量消費社会が到来したのであり、それは経済活動が大きく変容したことを物語っている」と書いている(p49)。

交易

Ⅰ期~Ⅱ期前半までの交易はあまり活発とは言えなかったが、Ⅱ期後半になると活発化してくる。とりわけ境界を接しているヌビア勢力(ヌビアAグループ)とは活発化し、ヌビアでは多くのエジプト産の製品が出土する。地中海東岸からはパレスチナの土器とレバノンの木材が輸入された。しかし、それより遠方の西アジアアフガニスタンラピスラズリ以外はほとんど無い。

この頃は中距離交易ができる貿易組織はあったが、遠距離は中継交易をしていたらしい。そして交易組織は上エジプト南部の大型集落のエリートの支配下にあった。(高宮氏/p173)

家屋と墓

家屋は長方形のつくりで、建材は日乾レンガを使うようになった。

墓にも支配者層のものは日乾レンガが使われた。厚葬はバダリ文化(あるいはそれ以前)からの上エジプトの伝統だが、以前よりも墓の面積が広がり、土器などの威信材の数も増えた。

この厚葬の伝統がエリート層が職業集団をかかえた原因のひとつであった。



次回=後編に続く