歴史の世界

エジプト文明:先史② 「緑のサハラ」の先史

前回は地理方面の話をしたが、今回は考古学方面の話を書こう。

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第8章で言及した地名を含むサハラ砂漠とエジプトの地図

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p209

考古学の時代区分のおさらい

後期旧石器時代、Epipaleolithic(=亜旧石器時代=終末期旧石器時代=続旧石器時代)、中石器時代

前回の記事で「緑のサハラ」は12000年前に湿潤化が始まったと書いたが、この12000年前(紀元前10000年)頃がエジプトの考古学の区分の後期旧石器時代とEpipaleolithicの境界となる(エジプトから見て西方の地域は中石器時代Mesolithicの用語を使っているようだ→Prehistoric North Africa - Wikipedia )。

12000年前は また更新世完新世の境界、つまり最終氷期の終わった時代だ。氷期間氷期の境界とも言える。

後期旧石器時代、Epipaleolithic、中石器時代については以前の記事「旧石器時代/中石器時代/Epipaleolithic 」に書いた。

Epipaleolithicと中石器時代の違いについては私は理解していないのでこのブログでは同じものとして扱っている(理解できたら書き直そう)。

後期旧石器時代に入ってから石器の種類が増え、文化(またはライフスタイル)も、以前の人類と比べるとより複雑になっていった。この流れはEpipaleolithic(中石器時代)、そして新石器時代でも進行して、今もその流れの中にいると言っていいと思う。

後期旧石器時代

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最古の後期旧石器時代の遺跡は(図6)、エジプト中部ナイル河西岸に位置するナズレット・カダル遺跡であり、今から33000年前に年代づけられる。この頃、大型獣の主流に生業の主体があった。

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その後今から21000年前頃から、小型化した石器が使用されるようになるとともに、さまざまな石器文化(industry)をもつ遺跡が、とくにエジプト南部ナイル河大屈曲部から第2急湍(きゅうたん)付近にかけてのナイル河流域に集中して出現する。[中略]。当時の遺跡の集中や集団墓地の存在からは、人びとが水の豊かなナイル河の流域で、比較的安定した生活を営んでいたことがうかがわれる。[中略]。これらの遺跡の多くからは、ナマズを主体とする多量の魚骨のほかに、水鳥の骨や貝類が出土する。そして、湿地に生える植物の種子や根茎が重要な食料源になっていた。したがって、ナイル河に近い水辺の環境のなかで、多様な資源を利用した複合的な生業が、比較的安定した生活を可能にしていたわけである。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生(世界の考古学⑭)/同成社/2003/p23-24

上の図5にあるように12000年前以前はずっと乾燥していたわけではない。

引用にあるように21000年前頃はサハラは乾燥が激しい時代だった。ブライアン・フェイガン著『古代文明と気候大変動』*1によれば、20000年から15000年前までの乾燥が激しい時代にはサハラには「人類はほとんど誰も住んでいなかった」とある。

おそらく、乾燥が厳しくない時代にサハラの南縁(つまりサヘル)に住んでいた人々がナイル河に移り住んだのだろう。ナイル河は激しい乾燥の時代でも絶えず枯れることなく流れていた。

上の引用では「比較的安定した生活」をしていたと書いてあるが、その比較対象は他の地域に住んでいる同時代の人々で、他の時代の人々と比較すれば楽な生活をしていたとは言えないだろう。

21000年前頃の彼らがナマズなどを食べ始めたのは大型獣が捕れなくなったからだと考えられる。

また感染症を絶えず気にしなければならなかったアフリカの人々は、大人数の集落を形成することを好まなかった。それにもかかわらず集落が形成されたのは、住める場所が限られてしまったからだろう。

そのように考えれば、新しい文化に対する乾燥化の影響は少なくない。



次回は「緑のサハラ」の時代の話をしよう。

*1:河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p210