これまで初期王朝時代について数記事書いてきたが、この記事で終わりにする。概要的なものも書いてなかったので、これも書いておこう。そして最後にまとめを書く。
初期王朝時代の年代
初期王朝時代は、第1王朝と第2王朝を含む。
高宮いづみ『古代エジプト文明社会の形成』(京都大学学術出版会/2006/p40)では、前3100/3000年-2680年頃と書いてある。
「前3100/3000年」の意味は以下の通り。
本書では、第1王朝開始年代を「前3100/3000年頃」と表記している。これより古い年代は主に放射性炭素年代測定法によって推定されているのに対して、王朝時代の年代は主に、文献資料から推定されており、両者の年代の間には約100年の隔たりがある。ここでは、王朝時代の年代については、日本オリエント学会編2004に順じた。
出典:高宮氏/p19
- 第1王朝(前3100/3000-2830年頃)(p46)
- 第2王朝(前2830-2680年頃)(p49)
ちなみにネット検索したら、以下のようなニュースがあった。
エジプト第1王朝の出現時期をより詳細に推定するため、英オックスフォード大学(Oxford University)のマイケル・ディー(Michael Dee)氏率いるチームは、埋葬地で見つかったり博物館に保管されていたりした毛髪や骨、植物のサンプル100点以上を対象に、放射性炭素年代測定を実施した。この測定結果と考古学的な証拠の双方から、エジプト第1王朝のファラオ、アハ(Aha)が即位した時期を68%の確率で紀元前3111~3045年の間と推定した。
アハ王は第1王朝の2代目なので、ディー氏の提示した数字は、従来の放射性炭素年代測定法での第1王朝開始年代の前3100年という数字を補強していると言っていいかもしれない。
第1王朝・第2王朝について
初期王朝時代の細かい話は前回までに書いたので、ここでは第1王朝・第2王朝について簡単に引用しておこう。
第1王朝は「王墓が継続してウム・エル=カアブに造営されていることや、各王の治世に関する記録が比較的良好に同時代資料に残されていることなどから見て、比較的政治的に安定していたようである」(高宮氏/p47-49)。
第2王朝は「王墓地の移動、後世資料との食い違い、さらに同時代資料が稀である状況は、第2王朝が第1王朝に比べて政治的に不安定であったことを示すと思われる」(p49)。
以上。
個々の王については、西村洋子氏のHP『essays_古代エジプト研究』や岡沢秋氏のHP『古代王国 歴史之書-王権の記録-』などで見ることができる。
ペルイブセンとカセケムイ
上だけではつまらないので、以下に第2王朝の紛争で有名なものを書いておこう。ただし真相は分からないので、あくまでも仮説。
* * *
第2王朝は7人の王が確認されているが、第6番目の王とされるペルイブセンの頃に紛争は起こった。
それまでのエジプト王は即位する時にホルス名という王名を名乗るのが通例だった。ペルイブセンも当初はホルス名のセケムイブを名乗った。しかし治世後半にセト名という王号を新たに作り、セト名のペルイブセンを名乗り、以前の名を捨てた。
セト神はナカダⅠ期まで遡る古い神で、ペルイブセン治世では都市ナカダの守護神だった。ナカダは東方砂漠で採掘される金を含む好物の集積拠点であり有力な都市だった。勢力が増大したナカダは国家神をホルスからセトに変えさせた。実際何が起こったのかは分かっていないが、クーデターかもしれないし王の意図でそれまでの勢力を排除したのかもしれない。(大城氏/p104-108参照)。
ただし、これでは話は終わらない。
7番目の王(第2王朝最後の王)。
彼は当初ホルス名のカセケムを名乗っていた。
この時期の石壺に「ケネブの町で北(下エジプト)の敵と交戦した年」と記録が残されていたことにより、南エジプト(上エジプト)のカセケムイと北エジプトとの間で戦闘が行われたことが判明している。ケネブの町とは南エジプトの主要都市ヒエラコンポリスのナイル川対岸の土地であり、北エジプトの反乱の規模の大きさが伺える。しかし、カセケムイの王墓から出土したカセケムイ像の台座部分には北エジプト人の打ち倒された死体が描かれており、南エジプトの冠を被ってその上に腰掛けるカセケムイの姿は反乱の鎮圧を示す。
一説によれば、カセケムイ像が白冠を冠っていることから、カセケム(のちのカセケムイ)は即位した当初は南エジプト(上エジプト)しか統治できておらず、北(下エジプト)の勢力(おそらくセト神を戴く勢力)を鎮圧して再統一を果たした、という。(History of Ancient Egypt 3_第2・3王朝<西村洋子/古代エジプト研究 参照)
これに対して、上述の大城氏の見立ては、ホルス神を守護神として戴くヒエラコンポリス勢(カセケムイ側)とセト神が守護神のナカダとの権力闘争の末、カセケムイが勝った、としている。
ヒエラコンポリスの対岸の町(あるいは都市)ケネブでの戦いは関ヶ原の戦いのような決戦だったかもしれない。ケネブ(エル・カブEl Kab遺跡)の守護神はネクベト女神は上エジプト全体の守護神でもある。
出典:高宮氏/2006/p38
いずれにしろ、鎮圧あるいは再統一のあとに、カセケムは「ホルスとセト名」という王号を新たに作り「カセケムイ」と改名した。負けた側を根絶やしにしたのではなく取り込んだ形だ。
出典:大城氏/p107
しかし、次代はこの王号を受け継がずにホルス名を使用したので、「セト神」勢は結局のところ勢力を削がれたようだ。江戸時代初期を彷彿させる。
紛争の話はここで終わり。
* * *
カセケムイは第2王朝の最後の王だが、彼の権力が弱かったわけではない。彼の名は遠くシリアの沿岸ビブロスにまで及んでいた。
先程の西村氏の同ページによれば、《ビブロスの神殿からは「ハーセヘムウィ、生命を与えられる者」という銘文が記された角礫岩製の石製容器の断片が発見されています。王の治世に属する印章刻印にはimy-r xAzt「諸外国の長官」の称号が初めて登場します》とある。
王墓も他の王に勝るとも劣らない立派なものだ(西村氏の同ページ参照)。
初期王朝時代のまとめ
簡単にまとめを書いておこう。
* * *
初期王朝時代は世界初の領域国家であった。そのため前例がなく試行錯誤しながら広領域を統治する体制の構築しなければならなかった。
行政・官僚組織の起源は先王朝時代末期(第0王朝の時期)まで遡るが、初期王朝時代になっても官僚は王族中心であった。
また中央政府から各地方に役人を派遣していたので中央集権が発達したように見えるが、地方の政事に介入できる範囲は限られていた。中央政府は王領の収入以外に各地方から税を取っていたが、この量もおそらく微々たるものだったと思われる。高宮いづみ氏によれば(2006/p170)、「国家と言ってもその経済規模は王個人の財政でまかなえる程度であったらしい」とある。
文字の発達もあまり進展しなかった。これは官僚組織が小さいことが大きな原因だろう。この時期、彼ら以外に文字を必要とする者はいなかった。古王国時代に入って官僚・行政組織が充実して文字の使用頻度と使用する人数が増えた。コミュニケーション手段としての文字使用はその後に始まったが、それでも使用する人々は官僚に限られていた(高宮氏/p259)。
このように、初期王朝時代は発展の途上の段階であった。次の古王国時代になると中央集権体制が整い、「ピラミッドの時代」と言われるように、多くの大規模なピラミッドが造られた。初期王朝時代の試行錯誤が結実するのは古王国時代になってからのことだった。