歴史の世界

エジプト文明:初期王朝時代⑦ 第1王朝・第2王朝/初期王朝時代のまとめ

これまで初期王朝時代について数記事書いてきたが、この記事で終わりにする。概要的なものも書いてなかったので、これも書いておこう。そして最後にまとめを書く。

初期王朝時代の年代

初期王朝時代は、第1王朝と第2王朝を含む。

高宮いづみ『古代エジプト文明社会の形成』(京都大学学術出版会/2006/p40)では、前3100/3000年-2680年頃と書いてある。

「前3100/3000年」の意味は以下の通り。

本書では、第1王朝開始年代を「前3100/3000年頃」と表記している。これより古い年代は主に放射性炭素年代測定法によって推定されているのに対して、王朝時代の年代は主に、文献資料から推定されており、両者の年代の間には約100年の隔たりがある。ここでは、王朝時代の年代については、日本オリエント学会編2004に順じた。

出典:高宮氏/p19

  • 第1王朝(前3100/3000-2830年頃)(p46)
  • 第2王朝(前2830-2680年頃)(p49)

ちなみにネット検索したら、以下のようなニュースがあった。

エジプト第1王朝の出現時期をより詳細に推定するため、英オックスフォード大学(Oxford University)のマイケル・ディー(Michael Dee)氏率いるチームは、埋葬地で見つかったり博物館に保管されていたりした毛髪や骨、植物のサンプル100点以上を対象に、放射性炭素年代測定を実施した。この測定結果と考古学的な証拠の双方から、エジプト第1王朝のファラオ、アハ(Aha)が即位した時期を68%の確率で紀元前3111~3045年の間と推定した。

出典:エジプト第1王朝出現の時期を詳細に特定、研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News/2013年9月4日

アハ王は第1王朝の2代目なので、ディー氏の提示した数字は、従来の放射性炭素年代測定法での第1王朝開始年代の前3100年という数字を補強していると言っていいかもしれない。

第1王朝・第2王朝について

初期王朝時代の細かい話は前回までに書いたので、ここでは第1王朝・第2王朝について簡単に引用しておこう。

第1王朝は「王墓が継続してウム・エル=カアブに造営されていることや、各王の治世に関する記録が比較的良好に同時代資料に残されていることなどから見て、比較的政治的に安定していたようである」(高宮氏/p47-49)。

第2王朝は「王墓地の移動、後世資料との食い違い、さらに同時代資料が稀である状況は、第2王朝が第1王朝に比べて政治的に不安定であったことを示すと思われる」(p49)。

以上。

個々の王については、西村洋子氏のHP『essays_古代エジプト研究』や岡沢秋氏のHP『古代王国 歴史之書-王権の記録-』などで見ることができる。

ペルイブセンとカセケムイ

上だけではつまらないので、以下に第2王朝の紛争で有名なものを書いておこう。ただし真相は分からないので、あくまでも仮説。

  *   *   *

第2王朝は7人の王が確認されているが、第6番目の王とされるペルイブセンの頃に紛争は起こった。

それまでのエジプト王は即位する時にホルス名という王名を名乗るのが通例だった。ペルイブセンも当初はホルス名のセケムイブを名乗った。しかし治世後半にセト名という王号を新たに作り、セト名のペルイブセンを名乗り、以前の名を捨てた。

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出典:大城道則/ピラミッド以前の古代エジプト文明/創元社/2009/p105

セト神はナカダⅠ期まで遡る古い神で、ペルイブセン治世では都市ナカダの守護神だった。ナカダは東方砂漠で採掘される金を含む好物の集積拠点であり有力な都市だった。勢力が増大したナカダは国家神をホルスからセトに変えさせた。実際何が起こったのかは分かっていないが、クーデターかもしれないし王の意図でそれまでの勢力を排除したのかもしれない。(大城氏/p104-108参照)。

ただし、これでは話は終わらない。

7番目の王(第2王朝最後の王)。

彼は当初ホルス名のカセケムを名乗っていた。

この時期の石壺に「ケネブの町で北(下エジプト)の敵と交戦した年」と記録が残されていたことにより、南エジプト(上エジプト)のカセケムイと北エジプトとの間で戦闘が行われたことが判明している。ケネブの町とは南エジプトの主要都市ヒエラコンポリスのナイル川対岸の土地であり、北エジプトの反乱の規模の大きさが伺える。しかし、カセケムイの王墓から出土したカセケムイ像の台座部分には北エジプト人の打ち倒された死体が描かれており、南エジプトの冠を被ってその上に腰掛けるカセケムイの姿は反乱の鎮圧を示す。

出典:カセケムイ - Wikipedia*1

一説によれば、カセケムイ像が白冠を冠っていることから、カセケム(のちのカセケムイ)は即位した当初は南エジプト(上エジプト)しか統治できておらず、北(下エジプト)の勢力(おそらくセト神を戴く勢力)を鎮圧して再統一を果たした、という。(History of Ancient Egypt 3_第2・3王朝<西村洋子/古代エジプト研究 参照)

これに対して、上述の大城氏の見立ては、ホルス神を守護神として戴くヒエラコンポリス勢(カセケムイ側)とセト神が守護神のナカダとの権力闘争の末、カセケムイが勝った、としている。

ヒエラコンポリスの対岸の町(あるいは都市)ケネブでの戦いは関ヶ原の戦いのような決戦だったかもしれない。ケネブ(エル・カブEl Kab遺跡)の守護神はネクベト女神は上エジプト全体の守護神でもある。

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出典:高宮氏/2006/p38

いずれにしろ、鎮圧あるいは再統一のあとに、カセケムは「ホルスとセト名」という王号を新たに作り「カセケムイ」と改名した。負けた側を根絶やしにしたのではなく取り込んだ形だ。

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出典:大城氏/p107

しかし、次代はこの王号を受け継がずにホルス名を使用したので、「セト神」勢は結局のところ勢力を削がれたようだ。江戸時代初期を彷彿させる。

紛争の話はここで終わり。

  *   *   *

カセケムイは第2王朝の最後の王だが、彼の権力が弱かったわけではない。彼の名は遠くシリアの沿岸ビブロスにまで及んでいた。

先程の西村氏の同ページによれば、《ビブロスの神殿からは「ハーセヘムウィ、生命を与えられる者」という銘文が記された角礫岩製の石製容器の断片が発見されています。王の治世に属する印章刻印にはimy-r xAzt「諸外国の長官」の称号が初めて登場します》とある。

王墓も他の王に勝るとも劣らない立派なものだ(西村氏の同ページ参照)。

初期王朝時代のまとめ

簡単にまとめを書いておこう。

  *   *   *

初期王朝時代は世界初の領域国家であった。そのため前例がなく試行錯誤しながら広領域を統治する体制の構築しなければならなかった。

行政・官僚組織の起源は先王朝時代末期(第0王朝の時期)まで遡るが、初期王朝時代になっても官僚は王族中心であった。

また中央政府から各地方に役人を派遣していたので中央集権が発達したように見えるが、地方の政事に介入できる範囲は限られていた。中央政府は王領の収入以外に各地方から税を取っていたが、この量もおそらく微々たるものだったと思われる。高宮いづみ氏によれば(2006/p170)、「国家と言ってもその経済規模は王個人の財政でまかなえる程度であったらしい」とある。

文字の発達もあまり進展しなかった。これは官僚組織が小さいことが大きな原因だろう。この時期、彼ら以外に文字を必要とする者はいなかった。古王国時代に入って官僚・行政組織が充実して文字の使用頻度と使用する人数が増えた。コミュニケーション手段としての文字使用はその後に始まったが、それでも使用する人々は官僚に限られていた(高宮氏/p259)。

このように、初期王朝時代は発展の途上の段階であった。次の古王国時代になると中央集権体制が整い、「ピラミッドの時代」と言われるように、多くの大規模なピラミッドが造られた。初期王朝時代の試行錯誤が結実するのは古王国時代になってからのことだった。



*1:この記事の参考文献はピーター・クレイトン『ファラオ歴代誌』吉村作治監修、藤沢邦子訳、創元社(1999年) 

エジプト文明:初期王朝時代⑥ 王都メンフィス/ノモス/民族意識の形成

国家と国内の人口

F.A.ハッサンによれば(Hassan 1993)、古王国時代のエジプトの総人口は120万人程度であり、農村人口は114万人程度、平均的な集落の人口は450人くらいであったという。つまり都市の数と人口は少なかったわけであるが、その少数の都市こそが文明の重要な牽引役になっていた。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学出版会/2006/p181

初期王朝時代の人口が分からなかったので、とりあえず古王国時代の数字を載せておこう。高宮氏は都市の人口も他地域・他時代と比べて少なかったとしている。

以下は、古代エジプト都市国家を持つ地域(メソポタミアなど)との比較の説を紹介している。

こうした文明による都市と国家の関係の違いを、B.G.トリッガーは「都市国家」と「領域国家」という二つの政治システムの違いとして記述しており(トリッガー 2001)、異なるシステムが生じた原因の一端を、国家形成期の状況に求めた。先王朝時代のエジプトはいまだ人口が比較的少なくて、各地の都市が未発達のうちに統一国家ができあがったことが、ナイル河河流域に広い地域を支配する領域国家が早期に出現した要因であるという。

出典:高宮氏/p182

先王朝時代末に王を戴く都市(アビュドス、ヒエラコンポリスなど)が出現したが、古代エジプト研究者(エジプト学者)はこれらを「都市国家」と言わないのは*1未発達のうちに領域国家になってしまったからだろう。

王都メンフィス

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出典:大城道則/ピラミッド以前の古代文明創元社/2009/p19

古代エジプトの歴史家マネトによって伝えられた伝説によると、この都市はメネス王によって建設された。古王国時代、エジプトの首都であり、古代の地中海の歴史を通じて重要な都市であり続けた。メンフィスはナイル川河口付近のデルタ地帯という戦略的要衝に形成された都市であり、各種の社会生活の拠点として栄えていた。メンフィスの主たる港であるペル・ネフェル(Peru-nefer)には数多くの工房、工場、倉庫が存在し、王国全体に食料や商品を流通させていた。その黄金時代の間、メンフィスは商業、貿易、宗教の地域的中心地として繁栄した。

出典:メンフィス (エジプト) - Wikipedia

「メンフィス」という地名は新王国時代のペピ1世のピラミッドの名前《メン・ネフィル(Men-nefer 「確立され良き者」の意)》のギリシア語訛りが語源とされる。*2

ちなみに、「エジプト」の語源もメンフィスに関連する。メンフィスの主神プタハの神殿域はフウト・カ・プタハ(Hut-ka-Ptah 「プタハ神の魂の館」の意)と呼ばれていたが、このギリシア語がAigyptosで、これが英語でEgyptとなった*3

さて、メンフィスはエジプト統一の第1王朝当時はどのように呼ばれていたかと言うと、イネブ・ヘジュ(Aneb-Hetch、Ineb-Hedj)であり、「白い壁」という意味である。王宮が石灰岩の壁で囲まれていたからだとされる。

現在のミート・ラヒーナにあるメンフィスの遺跡は新王国時代のもので*4、初期王朝時代の王都はその西にあるサッカラ北部にある可能性が高いという*5

ノモス

ノモスとは行政区画の単位で、現代日本の「県」に相当する。ノモスはギリシア語で、エジプト語で「セパト」と言う。

初期王朝時代には、ノモスのシステムはある程度整備されていたようであり、これにより、租税と再配分をスムーズに行うことができたのだ。ノモスは、こうした政治・経済的機能だけでなく、宗教においても重要な役割を演じていた。中心地にはそれぞれの地域で信仰する神を祀る神殿があり、その神はノモスの名前として採用押されることが多く、またシンボルとして旗竿の上に標章される。

出典:馬場氏/p80

高宮氏によれば、明確なノモスに関する言及は第3王朝初期から現れるが、組織が整えられたのは第3王朝末から第4王朝初期の頃の可能性が高い(p176)。その範囲が明確に定められたのは中王国時代になってからだ(p175)。

また、中央政府から各ノモスへ役人が派遣されたのだが、初期王朝時代の「王家の直接支配や管理が及んだ範囲は少数の特別な場所や施設に限られていたらしい」(高宮氏/p176)。

外国と城壁

先王朝時代の他地域との交流は、時が経つにつれて密になっていった。しかし、初期王朝時代は状況が変わった。

[第1王朝初代]ナルメル王治世頃をピークとして、第1王朝前半ジェル王治世頃にパレスチナにおけるエジプトの影響は急速に下火になり、ほぼ同時にパレスチナの人口の一部が遊動化して、社会構造に大きな変化期が訪れた。その理由はわかっていない。一方、下ヌビアでエジプトと緊密な関係を保ちながら生活していたAグループ文化の人々は、ほぼ同じ頃にナイル河流域からほとんど姿を消した。下ヌビアの人々とエジプト人との関係について、第1王朝開闢前後から両者が敵対的になり、戦闘が起こったことが、ゲベル・シェイク・スレイマンの岩壁画やアハ王のラベルの記述から知られている。第1王朝初期に両者の国境地帯に位置するエレファンティネに城塞が築かれたことも、ヌビア人との敵対的関係を示唆するであろう。[中略]

第1王朝前半に起こった対外政策の変化の原因について、従来いくつもの見解が提示されてきた。従来の見解を大ざっぱにまとめると、いずれもエジプトの国家形成が端緒であるが、対外政策の変化の要因として、①交易および資源調達の再組織化、②エジプトの国家(民族)概念形成と国境の明確化、③隣接地域における民族意識の形成、の3つが挙げられることになる。いずれについてもそれなりの証拠があるので、詳述を控えて結論から言えば、おそらくいずれの要因も関連して初期王朝時代の対外政策に変化が起こったように思われる。

出典:高宮氏/p209-211

領域国家形成のため、境界を明確化は徴税と安全保障に関わる問題で、守るべき人々(と同時に徴税できる人々)とそうでない人々を明確に分けなければならない。そのために、外国の人々は排除または無許可の入国を拒絶するようになった。

この一方的な体制の変化に外国の人々は反発したのだろう。想像すると、ヌビア人は力ずくで抵抗し、これをエジプト王が追っ払うというのが、「ナルメルのパレット」から始まる王がヌビア人(あるいはリビア人、アジア人)を棍棒で打ちつけるという描写になったのかもしれない。

ちなみに、先王朝時代には敵を防ぐ周壁を持つ集落は今のところ見つかっておらず、初期王朝に入ってから初めてエレファンティネに作られた(高宮氏/p194)。

メソポタミアの初期王朝時代は複数の都市国家がそれぞれの民族意識を形成したのだが、エジプトの初期王朝時代は領域国家になってから形成されたようだ。



*1:言う学者はいるかも知れないが

*2:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p238

*3:馬場氏/p238

*4:高宮氏/p190

*5:馬場氏/p239

エジプト文明:初期王朝時代⑤ 王号「ファラオ」について/世界初の領域国家/行政組織/文字の進展

エジプト統一からの政治・行政の進展はかなりスローペースだったようだ。行政組織は王族を中心に構成され、王家の家政と国家の区別が曖昧だった。

行政の進展と歩調を合わせるように文字の進展も遅かった。

王号「ファラオ」について

ファラオは古代エジプトの王を表す呼称(称号)。元々はエジプト語で「大きな家=宮廷、王宮」を意味する言葉で、「ペル・アア」(ペル=家、アア=大きい)。

これが、ヘブライ語旧約聖書では「パロ」、ギリシア語新約聖書では「ファラオ」となった。日本ではギリシア語の発音を採用しているようだ。

ただし、「ファラオ」がエジプト王の正式な称号として採用されたのは第18王朝のトトメス3世(前1479年頃 -前1425年頃)が最初で、それ以来習慣化されたらしい。

トトメス3世より前の王の称号はこのブログで何度か紹介した「ホルス名」を含む5種類の王号を使用している(ファラオの称号(五重名)/古代王国 歴史之書-王権の記録-参照)。

世界初の領域国家

領域国家とは?

領域国家という用語は都市国家を念頭に置いて使用される。

都市国家は一つの都市とその周辺にしか支配が及ばないのに対して、領域国家は複数の都市や集落の政治勢力を一つに併合して、支配が領域(領土)全体まで及ぶ状態を言う。

世界初の領域国家

古代エジプトの歴史(エジプト学)では、都市国家という用語は使用しないが、アビュドスやヒエラコンポリスなど都市国家と呼べる(あるいは都市国家に近いといえる)状態はあった。

これらの都市国家あるいは他の政治勢力を併合し、世界初の領域国家を作り上げたのが第1王朝初代ナルメルだ(前3000年頃)。

ちなみにメソポタミアの最初の領域国家はアッカド王国(前2300年頃)(当ブログでは、前田徹氏が主張する《「国土の王」エンシャクシュアンナ(前26世紀頃)の時代が最初の領域国家だ》という説を紹介している《メソポタミア文明:初期王朝時代⑧ 第ⅢB期(その4)初期王朝時代末の画期》)。

行政組織

T.A.H.ウィルキンソンによれば、当時の行政組織は、頂点にファラオとそれを取り巻く王族グループが君臨し、その直下に「宰相」が位置する(図6-3)。

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p79

古代エジプトの行政組織あるいは官僚組織は、おそらくナカダⅢ期末(第0王朝)に王家の家政として発生したが、初期王朝時代に入っても家政と国家の区別がはっきりとしていなかった。その規模も小さく、官僚組織は王族中心であった可能性が高い(高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p164, p170)。

行政組織が大規模になって、かつ、整備されるようになったのは古王国時代に入ってからだ。ピラミッド建設という大規模事業が関係していると考えられている(高宮氏/p170)。

初期王朝時代の文字の進展

古代エジプトにおける文字の誕生については記事「先王朝時代⑥ ナカダ文化Ⅲ期 その2」で書いた。

初期王朝時代に、ヒエログリフの崩し字書体である「ヒエラティック(神官文字)」が出現した。

またパピルスが使われていた痕跡は第1王朝まで遡る。

先に述べたヒエログリフヒエラティックという早くから用いられていた二つの書体は、王朝時代に書材や使用目的も異なっていた。ヒエログリフは、文字一つ一つが物の形をほぼそのまま表している象形文字で、通常石造建造物の壁面や石碑に公式あるいは宗教的な文書を刻んで記す際に用いられた。一方のヒエラティックは、ヒエログリフの崩し字体であり、パピルスオストラコン(土器や石灰岩の断片)に、葦の筆とインクを用いて、物語や取引記録などの実用的文書を書くために用いられた。

出典:高宮氏/p246

ただし初期王朝時代の文字の使用については「その記述は概して短く、王名、称号、物品名、地名などの単語が記述の中心」で、連続的なテキストや文章が出現するのは第2王朝末期になってからだった(p255)。

初期王朝時代の文字は、内容的にも出土地域的にも使用が限定されていて、王の周囲にいるごく少数の人々だけがそれを使うことができた。[J.]カールによれば、初期のヒエログリフはコミュニケーションのためよりも、むしろ当時のエリートたちが占有を確保したり、既存の社会秩序を保持するために使用された。

出典:高宮氏/p256

コミュニケーションとしての文字使用は上記の第2王朝末期にようやく始まったばかりだった。(p256)。

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(Kaplony 1963 Ⅲ abb. 368)

出典:高宮氏/p257

  • 上記は第2王朝末のペルイブセン王の印影。これまで知られる限り最古の完全な文章で意味は「彼(神)は、彼の息子(ペルイブセン王)に2つの国土(エジプト)を与えた」。

  • abb. はAbbildungの略。ドイツ語で図・絵の意味。



エジプト文明:初期王朝時代④ 王権の維持

王権について

まずは権力とは何か。

一番簡潔な定義は「他人を支配し従わせる力。特に国家や政府が国民に対して持っている強制力」(権力とは - コトバンク/三省堂 大辞林第三版 )。

上をふまえて、王権を王の権力と言ってしまえばいいのだが、少しネット検索で見つけた興味深いところを貼っておこう。

王権【おうけん】
ある程度規模の大きな社会で,政治権力が一人の世襲制リーダーに集中し,継続的な行政司法制度とその執行機関とを有する場合,これを王権と呼ぶ。王権は政治的力だけでなく宗教的力も持つとされることが多い。こうした神聖王権における王は,作物や家畜など自然の豊饒を司り人間に秩序と安寧をもたらす一方,人間には制御困難な破壊的で危険な力を帯びているとされる。それゆえ王の身体に触れてはならないなどの禁忌がある。王の生命は共同体全体の運命と同一視されるので,老化したり病んだ王がそのまま死を迎える前に息の根を止め,元気な王を新たに即位させる〈王殺し〉の伝承も各地にある。フレーザーの《金枝篇》はその研究で有名。初代の王は共同体外部から来た〈異人〉であったという伝承を持つ王権も多く,王権はそれによって共同体内部の拮抗(きっこう)からの超越を主張するといえる。

出典:王権とは - コトバンク/株式会社平凡社 百科事典マイペディア

初期国家の主権者は多くの場合「王」であり、王は、ほとんどすべての民族社会において、国家の成立とともにその最高権力を保持する者として出現する。この「王」のもつ権力が王権であり、王権の起源は、神に出自するという信仰や伝承に由来することが多い。ここから「王は神の子」というような王の神聖性の観念が生まれ、王は宗教的に神格化されることとなる。太陽神と同一視される古代エジプトの王ファラオはその典型であり、日本においても天武天皇の時代には「大君は神にしませば」で始まる和歌が盛んに作られた。古代の王はまた、司祭者的性格を有することも多く、メソポタミア文明におけるシュメールの諸王[2]や古代イスラエルの王にその典型が認められる[3]。

出典:王権 - Wikipedia

上の2つの引用にあるように、王は「臣民とは全く別の目に見えない力を持ち、神格化された存在」である。このような抽象的な考えを(少なくとも形だけでも)臣民に受け入れさせることができれば、抽象的な力は具体的な強制力に変換できる。

このような権力・王権は、武力と経済力に支えられている。武力には警察が、経済力には臣民を富ます政策能力が含まれている。

王の役割

王権を認めることに対する対価として、初期王朝時代の王は何を求められたのか。

神々との仲介者

古代エジプトの王に科せられた最も重要な役割は、神々と人間との仲介であった。[中略] 古代エジプトの王は、人間としてやがて死すべきこの世の存在であると十分認識されながらも、神々の化身あるいは子孫として神聖性を帯び、他の人間とは明確に異なる特別な存在であった(畑守 2003; 尾形 1980)。またそれゆえに、公式に神々と交流できるこの世で唯一の仲介者=司祭であると考えられた。この司祭的な性格においては、古代エジプト王は、日本の天皇に近いであろう。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p115-116

ナルメルのパレット(前回参照)にあるように、初代王ナルメルから初期王朝時代の国家神はホルス。ホルスは元々先王朝時代のヒエラコンポリスの守護神でハヤブサあるいはタカの神。アビュドス出身のナルメルがヒエラコンポリスの守護神を なぜ国家神にしたのかは私には分からない。

初期王朝時代の王たちは「ホルスの化身」とされ、上のように神々の仲介者となった。

ただし、地方には地方の古来からの守護神の神殿があり各地方の宗教上の中心だった。これらの神殿の建設には、中王国時代以降になるまで、王や国家はあまり関わらなかった(高宮氏/p227)。その代わり、神話体系を作って国家神の優位性を演出したようだ(p217)。

秩序を守る

神々との仲介者である王が行うべきことは、宇宙の秩序(エジプト語で「マアト」)をこの世において維持することであった。神々が創造した宇宙の外側には無秩序が存在しており、それはこの世においてもしばしば現れる。そこで王の役割は、天候不順、外敵の侵入あるいは社会的混乱等の形でこの世に現れるさまざまな無秩序を排することであった。したがって王には、外敵(無秩序)からエジプト(秩序)を守るための肉体的・軍事的能力や、社会において正義(エジプト語でやはり「マアト」)を行って国を安定させるための政治的・経済的能力を期待された。

出典:高宮氏/p116-117

「宇宙の秩序=マアト」 は臣民の安定した生活だけでなく、自然や神々など、考えられるもの全てが安定している状態のこと。

王の本質的な役割はこの「マアト」を維持することであった。

ここで、初期王朝時代の王が「マアト」を維持していることを示す行動を3つ挙げよう。

神殿での儀式

王は神との仲介者として、日々神殿で儀式を行うことになっていた。これも秩序を支持する活動の一環(馬場匡浩/古代エジプトに学ぶ/六一書房/2017/p202)。

この儀式とは簡単に言えば神(守護神)のご機嫌取りだった。供物を供えるだけでなく神像の衣服を交換したりする作業を毎日朝晩2回行うので、実際は神官が代行していたとのこと(p194)。

新王国時代になると専従の神官が多数いたが、古王国時代までは神官は世俗の行政職が兼任していた。つまり神官はパートタイムの仕事であった(高宮氏/p227)。

カバ狩り

ナカダⅠ期からカバ狩りの図像があり、王朝時代には王がカバ狩りをしている図像資料が遺されている。

カバは自然界の脅威の象徴だった。しかしなぜカバなのか?それは当時のエジプトはナイル川の両岸が砂漠と断崖に囲まれた環境なのでカバが一番の脅威となったわけだ。またナカダ文化から王朝時代まで発掘される「象牙」製品のうちのほとんどが実はカバの牙であった。王朝時代にはカバは脅威の対象であると同時に豊穣の象徴としての崇拝の対象になっていた。

王のカバ狩りは、自然の無秩序を除去すると同時に、肉体的あるいは呪術的力を表現する高位であった可能性が高い(高宮氏/p119)。

伝承では、第一王朝の初代メネス(ナルメル)がカバに踏み潰されて死んだと言われ、2代目のアハもカバに殺されたという。カバ狩りと関係があるかもしれない。

セド祭

セド祭は第1王朝にはすでに挙行されており、その後王朝時代の終わりまで絶えることなく継続された。セド祭の詳細には不明な部分が多く、時代によって内容も移り変わったらしいが、資料が豊富に残された新王朝時代以降には、王が即位してから30年目に初回の祭が行われ、基本的に王が統治能力を維持していることを改めてします機会であったらしい。

出典:高宮氏/p130

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King Djoser running for the Heb-Sed celebration (relief from the underground galleries)

出典:Djoser - Wikipedia英語版

ジェセルは第3王朝第2代の王。

この図像は「走行儀礼」を表しているとされる。「走行儀礼」とは「王が走ることにより、自己の肉体・精神の強靭さを示し、それと同時に支配力を復活させ、王位を更新させる」というもの(馬場氏/p202)。

神性さの発現

王の神性さは、生まれながらにしてもっているわけではなく、即位してはじめて獲得できる。即位するには、王家の血統をもつ女性と婚姻すること、そして亡き先王の葬儀を形式通りに行うことが求められる。

出典:馬場氏/p201



エジプト文明:初期王朝時代③ ナルメルのパレット

ナルメルのパレットは「エジプト文明の始まり」を話題にするときに常に登場するモノ。とても有名な遺物の一つ。

しかしこれが重要なモノであることは分かるが、その中身や何が重要なのかについては語られない。なのでここで書いていこう。

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出典:ナルメル - Wikipedia

重要性

このパレットの何が重要なのか。3つだけ挙げておこう。他にもあるだろうがとりあえずこれだけ。

  • ナルメルが第一王朝の初代王であること、つまり、王朝時代の最初の王、上下エジプトを統一した王であることを証明する遺物の一つ。

  • 統一時に武力を使ったことを証明している。

  • 王朝時代の図像表現の確立

それではこのパレットがそもそもどういったものかを書いた上で中身の話に移ろう。

概要

  • 1898年、イギリスの考古学者 James E. Quibell と Frederick W. Green によって、ヒエラコンポリスのホルス神殿で発見された。
  • 材質はシルト岩、長辺(縦)63cm。パレットとは化粧用のパレットのことだが、神殿への奉納用のため、大きく作られている。
  • 二匹の首の長い獣が円を描いている所のくぼみが化粧用の顔料を磨りつぶす所なので、こちらがオモテ面ということになっている。

ウラ面

上段

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上の左右の出張っている箇所の図像。角が生えた人面はバト神かハトホル神だと考えられている(両者とも先史時代から崇められていた雌牛の神)。

この間にある四角の図像は王名を表す。四角い囲いはセレクと呼ばれ(王宮を表している)、この中に書かれているのが王名となる。
この中に書かれている変な図像は、実はヒエログリフ(聖刻文字)上がナマズ、下が大工道具のノミを表している。これらはそれぞれ「ナル」「メル」と読めるため、この王はナルメルと呼ばれる。

中段

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中央に大きく描かれている人物がナルメル王。

王がかぶっているボーリングのピンのようなものは白冠と呼ばれ、上エジプトを象徴するもの。

右手に持っているのがメイス(棍棒)。メイスの先の部分が棍棒頭(メイスヘッド)。着用している短い腰巻きと「雄牛の尾」と呼ばれるアクセサリーは王の儀礼用の装いで、これらは のちに王の象徴になる。付け髭も同様に王の象徴になる。

ナルメルに髪を鷲掴みにされている人物は下エジプトの支配者(デルタかファイユーム地方か)であったという説がある。外国人という説もあるが、右上の、これまた異様な図像が下エジプト説を補強している。

右上の図像の鳥はハヤブサの神ホルスで(おそらく上エジプトの)王を表し、その下の6つのえのき茸のようなものはパピルスで、パピルスが育つ湿地帯つまり下エジプトを表している。これに鼻フックをされた頭部を表す図像は、全体として、(上エジプトの)王が下エジプトを武力によって征服したことを表していると考えられている。

ナルメルに神を鷲掴みにされている人物の右にあるヒエログリフは「銛」と「池」を表すのだが、何を表しているかは分かっていないようだ。

ナルメルの後ろの人物は王のサンダルと水差しを持っている。サンダルも高貴な人物の象徴を表す。

水差しについて。大城道則氏は「聖水あるいは儀式用のワインがいれられていたであろう」と書いている*1。素人の私にはサンダルを履く前に砂を洗い落とすための水差しじゃないかと思うのだが、違うか。いちおう書き残しておこう。

この人物が首からぶら下げているモノは円筒印章(円筒印章 - Wikipedia参照)と考えられている。このことからかなり重要な人物であることが分かる。

さらに、頭上に書かれているロゼット文様は王権を象徴する図像の1つなので、この人物は王太子か王子のような王に近い存在だと考えられている。

下段

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逃げ惑う二人の人物が描かれている。髪型からアジア人と考えられているが、それぞれの顔の左側に異なる絵文字が書かれている。左はパレスチナの都市の周壁、右はトランスヨルダン(ヨルダン川の東側)のカイトと呼ばれる(放牧した羊などを追い込む)施設を表すという説があるが、この説はそれほど通用していないらしい。

とりあえずナルメルはパレスチナまで影響力を及ぼしていたことはこの地域で発掘されるナルメルの名前が刻まれた土器などの遺物から確認されている、とだけ書いておうこう。

オモテ面

最上部

ウラ面と同じなので省略。

二段目

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学芸会舞台のような場面。

一番大きく描かれているのがナルメル。顔の前にナルメルのヒエログリフがある。着用している腰巻きと尻尾のようなアクセサリーはウラ面と同様に儀礼用の装い。しかし冠が違う。これは赤冠と呼ばれ下エジプトの象徴。下エジプトの王として描かれているということ。

右端の2列の横になっている10体は、ナルメルが倒した敵の死体。それぞれの股の間に斬られた首が置かれている。

左端にはウラ面でも描かれているサンダルを持つ人物。説明は省く。この人物の上に書かれているマークについては分からない。

ナルメルの前にいる豹柄の服を着た人物。首からぶら下げているものは筆記用具。頭上のヒエログリフはチェトあるいはチャティと読むらしい。これは宰相を表す*2

宰相の前に描かれている小さな4人が持っているのは旗竿で、この旗竿は王朝に属する町または部族の旗で、つまりはナルメルは従属する集団がこの場面にいたことを表す。

三段目

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首の長い豹の顔を持つ獣が首を交差させる図像。西アジアによく見られる図像らしい。よって、この図像表現は西アジアの影響を受けていると言われる。

国家の統一を表しているのかもしれないが、ただ単にパレットの窪みにちょうどいいからこの図像を使っただけかもしれない。他の部分の図像と違いすぎるし。

四段目

王の化身である雄牛外国人であるアジア人あるいはリビア人を踏みつけ、角で町の周壁を壊している。

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  *   *   *

以上、図像の説明(?)の主な参考文献は、大城道則『ピラミッド以前の古代エジプト文明』*3(p68-74)。かなり省略して書いた。私の理解が間違っているところがあるかもしれないので、詳しくは同書を参照。

美術史的な説明

第1王朝初代の王に比定される「ナルメル王のパレット」は、王朝時代の美術様式がほぼ完成されたことを表す例として名高い。[中略]

このパレットの図像は、後世まで続く王朝時代の美術の主要な特徴をすでにほぼまんべんなく取り入れていた。描写は水平のセインで区切られた段に配置されており、人物像を上述のような横からと正面から見た像の組み合わせとして描写する方法も用いられている。また、王を他の人物よりも大きく描くという、王朝時代に特徴的な図像の大小の規則も現れている。さらに、棍棒を手にして敵を打ち据える王の姿は、その後3000年にわたって繰り返し神殿等の王の描写の中で用いられることになった。[以下略]

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p269

このパレットの図像表現はナカダ文化の半ばから使われていたものが散りばめられているので、高宮氏の「完成」とはナカダ文化期の図像表現の「集大成」を意味する。



*1:ピラミッド以前の古代エジプト文明/創元社/2009/p70

*2:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p164

*3:創元社/2009

エジプト文明:初期王朝時代② 王朝時代の王名表/誰がエジプトを統一したのか?

「誰がエジプトを統一したのか?」「王朝時代の最初の王は誰か?」という疑問は当然興味が湧く問題だろう。この問題については、異論はあるものの、いちおう決着がついているようだ。

これに関連して王名表の話も書いておこう。

王朝時代の王名表

初期王朝時代の王統を記録している資料は限られているが、複数存在する。

これらを簡単に調べて書こうと思ったらすでに完成品が存在していたので、そちらを紹介する。

王名表と時代区分資料/古代王国 歴史之書 -王権の記録-

これらの資料の中で最も有名なのがマネトーの『エジプト史』だ。

マネトーはプトレマイオス王朝に、王家のために”エジプトの偉大な歴史を纏めて世間に公表しますよ”という意味で歴史書を書いた人で、いわば政府の雇われ知識人。マネトーはギリシャ語で本を書いていたので、ヒエログリフなどの古代エジプト語の読み方が忘れられてしまっていた時代でも資料として使うことが出来ました。

出典:上記のページ

また上記のページによれば、マネトーは「プルタルコスによれば」*1

マネトーが書いた『エジプト史』が「何のために書かれたか」は上記のように「王家のため」なのだが、さらに突っ込むと以下のようになるらしい。

プトレマイオス王家は、いわば突然エジプトで王になった、ぽっと出の一族。
しかも首都アレクサンドリアは、もともと町も何もなかった場所でその土地には歴史も何も無い。

となると、王家としては知識人を雇ってウチは歴史ある正当な王家ですという雰囲気を演出しないといけない。そこで雇われた一人がマネトー… というわけである。あるいは逆にマネトーが、プトレマイオス王家に対して「エジプトで王やるからには、こーしたほうがいいですよ」と上梓したともとれる。[中略]

たとえポッと出の王家であっても、何千年にも及ぶエジプトの歴史につなげられれば、即座に立派な伝統と格式を持つことが出来た。

出典:マネトーと「エジプト誌」の時代 ~その1~/現在位置を確認します。

プトレマイオス朝に箔をつけるために書いた、というわけだ。古代エジプトは最後のプトレマイオス朝を含めて全32王朝あるが、『エジプト史』は第31王朝まで書いている。

『エジプト史』自体は現存していないが、後世によく引用されたため、これらをつなぎ合わせたものが現在利用されているとのこと。

引用、孫引きで内容が違っていることもあるらしいが、『エジプト史』自体も他の資料によれば間違いがあるらしい。

現在、「第□王朝」のように書かれているのは『エジプト史』に倣った書き方。

誰がエジプトを統一したのか?

マネトーの『エジプト史』によれば、上下エジプト統一を果たした王、つまり第1王朝の初代はティニス出身のメネス。第1王朝はメネスを含めた8人の王から成るという。

他の王名表はどのように書いているのか。

現在われわれにしられている「トリノ王名表」、「アビドス王名表」、そして「サッカラ王名表」には、いずれも古代エジプト初代の王としてメニという人物の名前が挙げられている。[中略] このことから、ギリシア・ローマの古典資料の1千年ほど前に造られていたこれらの王名表の中で表された、エジプト初代の王とされるメニ王の名前が後世に伝わりミン、メネス、メナスとして伝えられたと考えることができる。[中略] これらの文字史料から、メニ、ミン、メナス、メネスという人物が同一人物であり、最初のエジプト王と考えられているのである。

出典:大城道則/ピラミッド以前の古代エジプト文明/創元社/2009/p65

これにより、「メネスは誰か?」というのがエジプト学者(古代エジプト研究者)たちの研究や議論の対象の一つだった。

この議論が大きく進展したのは20世紀初頭のことだった。ピートリー(イギリスの考古学者)によってアビュドス遺跡が発掘調査された結果、同遺跡のウム・アル=カーブ(ウム・エル・カアブ)において第1王朝の王墓群が確認された。

アビュドス遺跡はティニス(現在のギルガ近傍)に近接している。

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p84

  • U-j墓はナカダⅢ基の南西に王墓(第0王朝の墓)がある。
  • これに連続するように第1王朝の歴代王が連なっている。

多くの王墓の近くには2基1対の石碑が建てられていて、そこに所有者である王の名前が「ホルス号」の枠の中に記されていた。いずれの王墓もすでに著しい盗掘を被っていたものの、ラベル、印章を押捺した封泥(以下、「印影」と呼ぶ)などに記された文字・図像資料や、土器、石製容器、家具などをはじめとする考古学的資料を豊富に提供した。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p46

しかしこれで解決にはならなかった。

当時の王たちが自らの記念物に用いた王名は、「ホルス名」とよばれる王の即位名であった。一方、後の時代につくられた王名表に記された王名は、おそらくは誕生したときにつけられたと思われる別の名前であったため、同時代の記念物に両者を併記するようになった第5代デン(ウディム)王以前の王について、王名表との対比は容易ではない。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p9

こうしてナルメル以外にアハなども「メネス」の候補とされていた。

これが、ようやくナルメルに絞られるようになるのは20世紀末になってのことだった。ギュンター・ドライヤー氏を含むドイツの調査隊がウム・アル=カーブを再調査した時に、デン王の印影とカア王の印影を発見した。

「デン王の印影には5人の、カア王の印影には8人の第1王朝の王名が、統治順に記されていた」(高宮氏/2006/p47)。この最初の王がナルメルであることからナルメルが第1王朝の初代であることが確認された。残りの7王の実在・順序も確定した。

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出典:高宮氏/2006/p48

第1王朝の順序は以下のとおり。

  1. ナルメル
  2. アハ
  3. ジェル
  4. ジェト
  5. デン
  6. アネジイブ
  7. セメルケト
  8. カア*2

これに対する異論や後世の人々が考えたメネスとナルメルが本当に一致しているのかと言う問題はあるものの、ナルメルの名を記した資料が「南はヒエラコンポリスから北はデルタやパレスチナまで多数出土しているのでナルメルが全土を掌握した可能性は高い(高宮氏/2006/p47)。



*1:帝政ローマギリシア人著述家

*2:高宮氏/2006/p20 より

エジプト文明:初期王朝時代① 統一王朝の誕生の過程

古代エジプト史、あるいはエジプト学では、先王朝時代の後に初期王朝時代が来る。初期王朝時代は王朝時代の最初の時期で第1王朝と第2王朝を含む。

この記事では、統一王朝の誕生の過程について書いていこう。

簡単な流れ

上エジプトでナカダ文化が現れたときは、まだ農耕牧畜文化の中で比較的平等に生活が営まれていた。しかしⅠ期~Ⅱ期前半までに階層化が進んで分化していった。

Ⅱ期後半よりこの流れが加速するその一方で、今度は集落間でも階層化が始まった。つまり大集落が中小集落を支配するようになった。

そしてⅢ期になると大集落の都市化と地域統合が始まり、王が誕生した。Ⅲ期終盤になると地域がヒエラコンポリスとアビュドス(アビドス)の2大都市に統合される(2つとも上エジプト)。

いっぽう、下エジプトにはマアディ・ブト文化という、ナカダ文化と時期的に並行した文化が存在していたが、ナカダ文化と比べると階層化が進まず平等社会のままだった。この文化はナカダⅡ期の終わり頃に消滅し、ナカダ文化に呑み込まれた。

最終的にアビュドスの王ナルメルが初代の統一王朝の王になる。

ナカダⅡ期後半から統一までの流れ

上記のようにⅡ期後半から階層化が加速した。エリート層は中小集落を支配するために舶来品やその模倣品を使ったが、Ⅲ期になると西アジアへの交易ルートを独占するために下エジプトに拠点を作った。

下エジプトの交易ルートの拠点からナカダ文化が周囲に広がったと思われるが、上エジプトからの植民もあったらしい。Ⅱ期の終わり頃に下エジプトはナカダ文化に呑み込まれた。

Ⅲ期の後半にはヒエラコンポリスとアビュドス(アビドス)の2大都市が地域統合を行い、エジプトの2大勢力になる。この時期に下エジプトにも独立した政治勢力があったようだが、詳細はわかっていないらしい。

最終的にアビュドスの王ナルメルが初代の統一王朝の王になる。

アビュドスがヒエラコンポリスをどのように併合したかはわかっていない

参考文献にはアビュドスがどのように冷えら今ポリスを併合したのかは書いていなかった。そもそもこの時期は文字システムの黎明期で行政文書を作れるところまで発達していなかった。遺物からも読み解く手がかりになるものは無いようだ。

ここで、私の仮説を書き留めておこう。

まずは以下の図。

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出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p38

この本の同ページには「ただし、ヒエラコンポリスとクストゥールが同じ王国に属するという見解は、あまり一般的ではない」とある。

ヒエラコンポリスとサヤラの間に第1急湍があり、ここがエジプトと北ヌビア(下ヌビア)の境界になっている。

仮にヒエラコンポリスが下ヌビアの集落を支配したとしても、文化の違う集落なのでそれなりにコストが増大したかもしれない。

いっぽう、ヒエラコンポリスの北の勢力の中心はアビュドスだ。この図ではティニスと書いてある都市。アビュドスは北に拡張していった。

Ⅲ期の初頭に下エジプトはナカダ文化を受容していたため、アビュドスの拡張(征服・侵略活動?)も容易だったかもしれない。

下エジプトと下ヌビアのことについては記事「エジプト文明:先王朝時代⑨ マアディ・ブト文化/下ヌビア/南パレスチナ」で書いたが、下エジプトの方が下ヌビアよりも収入が多かったようだ。

このように見ていくと、アビュドスの方がヒエラコンポリスよりも利益が多かっただろう。

アビュドスがヒエラコンポリスを併合できた理由は利益の多寡にあるのではないだろうか。

以上、とりあえず、アビュドスがエジプトを統一したということを前提として書いてみた。

統一の時期に戦争があったかどうか

未解決の問題の一つとして、統一事業に武力が使われたかどうか、という問題がある。

他地域を併合する時に武力を使わないというのは、世界史をふり返ればあまり考えられないことだが、戦争を証明できる明瞭な証拠は発見されていない。

しかし、「やはり武力は使われただろう」という主張が多いようだ。この主張の拠り所になっているのが、「ナルメル王のパレット」だ。

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出典:ナルメル<wikipedia

歴史的記述と解釈するG. ドライヤーは、アビドスで出土した豊富な文字史料から、当時の日付は年の名前で示され、その年の最も重要な出来事にちなんで名前が付されていたことを突き止めた。つまり、ナルメル王のパレットも彼が北の統合を果たした年を示しており、それは軍事的統合の歴史的事実を描いているとする。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p71

これに対して反論もある。ケーラーという学者がいうには、このパレットに描かれているような図像表現は、ナカダⅠ期後半にすでにある、だからこのパレットも先王朝時代から王朝時代まで続く定式化された図像表現の一つに過ぎない、としている。(p71-72)

現在、両者の主張のどちらが優勢なのかは分からないが、このブログではドライヤー氏の主張すなわち「武力制圧はあった→ナルメル王のパレットは史実を表している」を前提に話を進める。