歴史の世界

エジプト文明:先王朝時代① バダリ文化

場所

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出典:Absolute Egyptology - Egypt before the Pharaohs

中部エジプトのバダリ遺跡(El Badari)を中心とする。

時期

馬場匡浩氏によれば*1、前4400-4000年頃。

生活様式

生活の基盤は農耕・牧畜で、漁撈と狩猟採集で補完していた。

農耕は六条オオムギ、エンマーコムギ、マメと亜麻の栽培、家畜はヤギ、ヒツジ、ウシを飼っていた。ウシ以外は西アジア由来のものだ。これらは下エジプトから流入されたものとされている。

農耕・牧畜が主体になっているのだが、恒久的な住居の址は見つかっていないという。

墓については、比較的手厚く埋葬するというのが特徴だ。低位砂漠の縁辺部に集団墓地を形成した。どのように手厚いのかと言うと、マットや獣皮に包んで、多数の副葬品と共に埋葬した。副葬品は、人間や動物の像や石製のパレットや獣骨製の櫛や腕輪などが発見されている。このような埋葬の仕方をしたのはこの文化が最古だと言う。

また、エジプトで初めて独立した墓地が造営された。これがこの時期から社会階層の分化が始まったと言われる証拠となっている。

土器

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出典:Absolute Egyptology - Egypt before the Pharaohs

土器はこの時期より前の文化に比べると、より精巧なものとなっている。

バダリ文化の土器は、しばしば器面が櫛状の工具を用いて削って整形されており、波状の凹凸が生じている点が顕著な特徴である。[中略]胎土にはナイル沖積土を用い、ときに藁が混和されているが、概して緻密である。器面には鉄分を含む赤褐色の化粧土がかけられ、平坦に仕上げられたり、ていねいに研磨された。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p59

貿易

富裕層が副葬していた遺物には、凍石製や銅製のビーズ、紅海産の二枚貝トルコ石などが含まれる。これらは、彼らの生活圏であるナイル川流域では手に入らないものだ。銅とトルコ石シナイ半島であり、バダリ文化ではすでに遠距離の交換・交流があったようだ。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p43

紅海産の二枚貝は東部砂漠を横切るワディ・ハンママートという涸れ谷(ワディは涸れ谷の意)を通って輸入されたのかもしれない。ワディ・ハンママートには散発的なバダリ文化の遺物が出土するという。

ナブタ・プラヤとの関係

このことについては、記事「エジプト文明:先史⑨ 「緑のサハラ」時代の終焉とエジプト文明のつながり」に書いた。

まとめ

バダリ文化は社会階層の文化と金属の登場により金石併用文化に移行した、エジプトで初めての文化である。

この文化は次のナカダ文化に受け継がれる。



*1:古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p42

エジプト文明:先王朝時代について

先王朝時代

先王朝時代(エジプト先王朝時代)とはエジプト文明の基層となる文化の形成期のこと。

エジプト文明の基層となる文化」とはナカダ文化のことで、この時代の中心はナカダ文化の発展と拡大となる。

ただし、ナカダ文化の先行文化とされるバダリ文化も先王朝時代に入る。

この時代の年代と登場する文化

ナカダ文化以外の文化だと同時代のマアディ・ブト文化、先行文化のバダリ文化。これは馬場氏の本による*1。各文化は別の記事で書く。

馬場氏以外の説だとバダリ文化を入れずナカダ文化から始める説と、農耕・牧畜がはじまる説つまりファイユーム文化から始める説がある。これ以外でもあるかもしれないが省略。

年代については、馬場氏の本によれば、前4400-前3000年。前4400年はバダリ文化の始まり。前3000年は王朝時代の始まり(第1王朝・初期王朝時代の始まり)。

時代区分

古代エジプト史の時代区分では以下のようになる。

  • 新石器時代(?~前4400年)
  • 先王朝時代(前4400~前3000)
  • 初期王朝時代(前3000年~)

先王朝時代は考古学では金石併用時代から初期青銅時代。金石併用時代chalcolithicとは「人類が初めて金属として銅を発見し,石器とともにこれを利器として使用していた時期」*2

この時代に起こったこと

  • 金属加工(冶金)の出現
  • 社会階層の分化
  • 西アジアやヌビアなどとの交流

特に重要なことは2番目の社会階層の分化だ。新石器時代は巨石建造物などが出始めて共同作業とそれを監督するリーダーシップの登場が指摘されているが副葬品がなく、階層化もされていなかった。これが先王朝時代に階層ができて急速に発展し、末期に王が出現し、エジプトがとういつされて初期王朝時代になる。

最後に

先王朝時代より前も含めて、前五千年紀はゆっくりとしたペースで文化が変化していたが、前四千年紀は農耕・牧畜の定着を皮切りに急速に変化していった。そして千年弱の時間の中で原始時代と言われる社会から文明社会へと変わった。

次回から先王朝時代の文化を書いていこう。

エジプト文明:先史⑭ メリムデ文化

場所

メリムデ遺跡はナイル・デルタの西端、低位砂漠との境界にある現在名ワルダーンという村の近くにある。耕地拡張のため大半が破壊されてしまったと言う。

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出典:Merimde Beni Salama site in Delta is larger than was thought \Ahram Online 9 Apr 2015

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出典:Absolute Egyptology - Egypt before the Pharaohs

時期

馬場匡浩氏によれば*1、前5000-4100年頃。ファイユーム文化とほぼ並行して存在した。

文化

発掘の結果、5層の文化堆積が確認された。

第Ⅰ層はファイユーム文化と極めて似ており、西アジアとの接触があったことを示している。

第Ⅱ層は、骨製の銛、貝製の釣針、石斧などの存在から、アフリカ起源が推測されている。第Ⅰ層と違い、土器が複雑な器形など手の込(こ)んだものになってきた。石器も石刃・剥片の頻度が低くなり、両面加工石器が普及する。その中には鋸歯状の刃部を持つ穀物の刈り取りに使用したと思われる大型の鎌刃が現れた。

第Ⅲ-Ⅴ層では遺跡が拡張されている。地面を浅く掘り窪める家屋(竪穴式住居)が現れる。土器は器面がやや研磨されたものが現れるようになり、わずかだが彩文装飾も認められる。石器は大型の両面加工石器が主流になり、基部に抉(えぐ)りの入った(かえしのある)石鏃も発掘されている。

メリムデ文化の生業はファイユーム文化と基本的に同じ。ただし、次第に貯蔵穴が大きくなるため農耕の重要性が増していったと考えられる。ファイユーム文化は農耕・牧畜は狩猟・採集・漁撈を補完するほどのものだったが、メリムデ文化は、こちらが生活の基盤となった。

メリムデはナイル河の増水システムを利用した農耕が行われた最古の遺跡であるが、生業は農耕と牧畜を基盤としながらも、野生植物の採集、野生動物の狩猟および漁撈にも大きく依存していたと推測される。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p51

ファイユーム文化との違いは上述した家屋の他には墓と人物像がある。

多くの墓が発見されている。特徴としては、墓は住居からさほど離れていない場所に作られ、頭を南東に置き、顔を東に向けた屈葬。副葬品はほとんどない。

人物像は下の写真のようなものが発掘されている。どのような意味を持っているのかは分からない。

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出典:Absolute Egyptology - Egypt before the Pharaohs

(この節は高宮氏の本を参照。p47-51)

*1:古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p62

エジプト文明:先史⑬ ファイユーム文化

エジプトにおける農耕・牧畜を有する最古の文化はファイユーム文化だ。この文化は西アジア由来のものとされている。

ファイユーム文化は「ファイユームA文化、Faiyum A culture」と表されることがあるが同義だ。

現在のファイユーム低地

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出典:Nile River and delta from orbit - ナイル川デルタ - Wikipedia

・縦の緑の線の左にある横になったハート形の緑がファイユーム低地。ナイル川からおよそ30km。

上の航空写真は現在の様子。現在も緑に覆われている。エジプトのデルタ地帯に次ぐ穀倉地帯。低地(盆地)の北部にはカルーン湖があるが、現在は塩湖になっている。

エジプト中部のアシュート(Asyut)堰でナイル川からユースフ水路(Bahr Yussef)で水を引いている。ユースフ水路はナイル川のすぐ西隣を平行して走り、上エジプトの用水路として利用され、ファイユーム低地の手前で分岐した水路はカイロまでつながっている。

先史時代のファイユーム低地

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出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p16

  • 「ハトヌブ」という地点から分岐した支流がファイユーム低地そしてカルーン(Qarun)湖に流れ込んでいる。現在のユースフ水路は昔は当時は支流だった。

  • 古代の鉱物の話は別の機会にやる。

遺跡は現在の湖水面よりはるかに高い場所にあるのだ。その理由は、カルーン湖の水位変動という古環境にある。湖はナイル川とつながっているため、降雨量の増減による川の水位と地下水位に大きく影響を受け、これまで水位変動を繰り返してきた。現在のカルーン湖の水位は海抜-45mときわめて低いが、ファイユーム文化の時期は海抜+15mと水位がとても高く、その湖畔で人々は生活していたため、標高の高い場所に形成されたのだ。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p60

以下は、カルーン湖の水位の変遷

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the lake level during the Neolithic

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in Dynastic times

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in 1925

出典:Ancient Egyptian Mummies, Statues, Burial Practices and Artefacts 1*1

ファイユーム文化の生活様式

終末期旧石器時代にカルーニアン(カルーン)文化と呼ばれる文化があったが、ファイユーム文化との間に1000年以上もの断絶があり、2つの文化に継続性は無いとされている。*2

ファイユーム文化は下エジプトにおける最初期の新石器文化ということで本格的なものではなかったようだ。

ファイユーム文化の生業は、家畜動物と栽培植物が新たにレパートリーに加わったものの、そのほかは終末期旧石器時代のカルーン文化と大きく変わらないようである。したがって、ファイユーム文化は、狩猟・採集・漁撈に農耕・牧畜が付加され、生業が多様化したことが特徴であるが、本格的な生産経済に基盤を置く文化ではなかったかもしれない。ファイユームは地理的には、砂漠内のオアシスあるいは水たまりに近いとはいえ、カルーン湖の水位はナイル河と連動して変化していたらしく、この頃に王朝時代のような晩秋から冬にかけて麦類の栽培を行う農耕パターンが定着した蓋然性が高いであろう。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p45

上の本によれば(p41-45)、エンマー小麦六条大麦二条大麦および亜麻が栽培されていた。

所蔵穴は合計150基を超え*3、鎌刃・石斧・石臼・石皿などの農具や調理器具の石器が数多く発見され、織物のための紡錘車・骨製の針や土器も発見されている。磨製石器もあり、新石器文化の道具は一通り揃っているようだ。ただし、新石器文化の要素の一つの巨大建造物は発見されていない。

その一方で石器は剥片石器群(剥片インダストリー)が道具の90%以上を占めている。磨製石器は少ないということらしい。

食料に関して。野生動物(ガゼル、ハーテビースト(ウシ科)、カバ、ワニ、カメなど)や魚類(ナマズ、ナイル・パーチなど)が検出されている。あとは野生か家畜か判断できないウシとブタの骨も検出されている。

集落について。集落址は3つのタイプが発見されている。

  1. 標高の高い場所、絶対に冠水しない場所に貯蔵穴のある大型の集落。
  2. 狩猟や漁猟のための湖の近くの大型の集落。季節的に冠水する場所。
  3. 一人が数日程度滞在するキャンプ。

これは初期の新石器文化ではよくある生活様式だ。

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出典:Absolute Egyptology - Egypt before the Pharaohs

時期

高宮氏(2003/p41)によれば、前5230年頃から約1千年、馬場氏によれば、前5500-4300年。

馬場氏はp62で「ヤギとヒツジはファイユーム文化が最古」としているが、p35では、前6000年に家畜されたヒツジとヤギがナブタ・プラヤで飼われていたとしている。食い違いだと思うのだが、これに対する説明は見当たらない。

ネットでエジプトおよび北アフリカにおける最古のヒツジ・ヤギの家畜の年代は多くの説があるらしい。馬場氏はナブタ・プラヤとファイユーム文化で全く違う文献を参考にしているのでこのような食い違いが発生したのだろう(ただそうだとしても読者が混乱しないように出版前に処置してほしかった)。

*1:著作者:Caton-Thompson E., Gardner E.(The Desert Fayum, Royal Anthropological Institute of Great Britain and Ireland, London, 1934) 

*2:近藤二郎/エジプトの考古学/同成社/1997/p43

*3:馬場氏(2017)によれば、300基ほど発見されている

エジプト文明:先史⑫ ナイル川流域がサハラ・サヘルより文化的に遅れていた

エジプト文明が誕生したのはナイル川河流域だが、北アフリカでこの地が常時文化的にリードしてきたわけではなかった。

最終的には、サハラ・サヘルから流入した遊牧中心の文化と西アジアからの農耕・牧畜=定住文化が統合されて文明が誕生することになる。

この記事で、文明誕生以前のナイル川流域の状況を中心に書いてみよう。

エジプト国内の新石器文化は、最初にナイル川西方のオアシスおよび低地において開花し、後にナイル川流域地方に伝播していったことだけは動かしがたい事実である。

現在までのところ、ナイル川流域の終末期旧石器文化の遺跡で、ナブタを除くと新石器分化段階への連続的な移行を示す遺跡は残念ながら発見されていない。

出典:近藤二郎/エジプトの考古学/同成社/1997/p43

サハラ・サヘルではウシの家畜化や土器の発明、穀物の集約的(集中的、選択的)採取など新石器化が進んだが、ナイル川流域が新石器化したのは農耕・牧畜の技術が西アジアから流入してきてからのことだ。

つまり、元々ナイル川流域に住んでいた人々の文化は停滞していた。言い方を変えれば、それまでの文化で安定した生活を遅れていたので変える必要はなかった。このような状況下での文化の発展は激動のサハラ・サヘルのそれに比べて遅れたのだろう。

最終氷期が終わり(12000年前)、湿潤化が始まった後でもサハラ・サヘルは比較的小さな乾燥期があって、その地域の人々はその天候の変化の対応に追われていたが、ナイル川流域の人々はあまり影響を受けなかったのだろう。

ナイル河畔の遺跡では、砂漠地帯よりももっと水産資源に依存した生活が営まれていた。たとえば、カルトゥーム中石器文化の遺跡ザッガイでは、動物遺存体が比較的よく残っており、そのなかでも魚類、ほ乳類および貝殻の骨が優勢で、鳥類とは虫類が少数含まれていたという。植物遺存体はほとんど残っていなかったが、人骨に含まれるストロンチウム含有量の分析と、植物食糧の処理に用いられたと思われる粉砕具の存在から、貝類と植物が重要な食糧であったことが推測されている。

ナイル河流域における豊富な水産資源は、終末期旧石器時代の狩猟・採集を基盤とする生業の人々にも、ある程度定住的な生活を可能にしたようである。ナイル河流域のザッガイ遺跡では、各季節ごとに利用できる資源が存在すること、遺跡の規模が大きいこと、用具が豊富であること、および埋葬の存在にもとづいて、安定した集落の存在が指摘されており、おそらくカルトゥーム遺跡においても定住的な生活が営まれていたであろう。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p26

高宮氏によれば、終末期石器時代(湿潤期)のナイル川流域の遺跡は中流(現在のスーダン中部)に多数の遺跡が形成されていたが、下流は散発的にしか発見されていない(同著p26)。下流に遺跡が少ない理由は書かれていないが、デルタの沖積土の下に未発見の遺跡があるかもしれない、としている(p37)。

農耕・牧畜が始まらなかった理由

ナイル川河流域の農耕・牧畜の出現はファイユーム文化の前5500年以降である。そしてそれらは西アジアから流入してきた。農耕・牧畜は西アジアでは前8000年頃には開始されていた。

そもそもナイル川河流域は豊富な水と耕作地(沖積地)に恵まれ、潜在的に農耕・牧畜にきわめて適した場所であるが、なぜその導入が2,000年以上も遅れたのだろうか。これについて、K.A.バードが、いくつかの理由を指摘している。まず、後に栽培・家畜化されるようになる野生の植、動物がエジプトにはもともと存在しないこと。次に、エジプトと西アジアの接点であるレヴァントでも、農耕・牧畜の出現は紀元前6000年紀以降であり、また農耕に適さない乾燥地帯であるシナイ半島が自然の障壁となって、その流入を拒んだこと。そして、水と沖積地が豊かなナイル川下流域は、狩猟・採集民にとって恵まれた環境であったため、農耕・牧畜を取り入れる必要性に迫られなかったこと、などである。

出典:馬場匡浩/古代エジプトに学ぶ/六一書房/2017/p61

エジプト文明:先史⑪ ナイル川下流域 -- エジプト文明の舞台

北東アフリカの砂漠を貫くナイル川。アフリカ大陸の乾燥期に他の川や湖が干上がってもナイル川は干上がることはなかった。

ナイル川下流

ナイル川については「ナイル川wikipedia」に詳しく書いてある。

このページによれば、ナイル川の源流はヴィクトリア湖ではなく、その湖の源流のブルンジ共和国にあるという。ブルンジから河口までは直線で3800km。

ナイル川下流域と呼ばれる地域は、エジプト南部のアスワン(アスワンハイダムがある所)から河口まで、直線で約800km(東京から下関が直線でそのくらい)。

ナイル川下流域はナイル河谷とナイルデルタに分けることができる。これらをそれぞれ上エジプト、下エジプトという。

ナイル河谷(上エジプト)

ナイル河谷(ナイル渓谷 Nile Valley)はその名のとおり、ナイル川が長い年月をかけて台地の断層を侵食して形成した谷、河川侵食谷だ。両岸には高く聳える崖があり、高いところでは300mを越える*1。ただし東岸は絶壁である所が多い*2

断面図

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上エジプト、エジプト河谷の断面図(Butzer 1976:fig 1)

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p11

地形模式図

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p16

上記2つの本に頼って、上エジプトの地理を見ていこう。

ナイル河谷は高校地理で習う河岸段丘になってる。

ナイル川:数千年の間で川筋が変わり、川の水量(流量)が変わっているため、河岸段丘や自然堤防ができている。

②沖積地:農耕の場。肥沃な土はエジプト文明を支え続けた。1年に定期的に増水→冠水する。冠水は不必要なものは流し、新しい沃土をもたらした。断面図にあるように襞(ひだ)状の隆起(自然堤防、高さ1~3m)がナイル川に平行してあり、増水時にも冠水しない微高地に人々は集落をつくった(しかし、度重なる堆積作用や現在の家屋により遺跡の検出例は乏しい)。

③低位砂漠:沖積地の外側の河岸段丘。2~3m高いため、冠水することは稀。幅は平均1~2kmだが、場所によって大きく異なる。沖積地との境界に墓地や神殿など数多くの遺跡が発見されている。人々はこの低位砂漠を利用しつつも沖積地に生活基盤を置いていた。

④涸れ谷:高位砂漠の雨水の侵食によってできた谷。大型の涸れ谷の河口付近は土砂が堆積して舌状地が形成されている。このような場所にも大規模な遺跡が見つかっている。

⑤高位砂漠:低位砂漠との境界は急崖になっていて、ナイル河谷の住人の視界を制限している。高位砂漠では主だった遺跡は検出されていない。

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上エジプトの景観
テーベ西岸からナイル河方向を望む。砂漠の緑にあるのは、ラメセウム(ラメセスⅡ世の葬祭殿。筆者撮影)

出典:古代エジプト文明社会の形成/口絵i

ナイルデルタ(Nile Delta・下エジプト)

ナイルデルタは巨大な三角州。カイロを少し下ったところから始まる。長い年月の中で堆積と侵食を繰り返してきた。その結果、大小の支流とゲジラ(島)と呼ばれる高地が形成された。高地の頂部には墓地が置かれ、集落は低い場所に形成された。遺跡は後世の堆積によって埋もれ、現在の地表の下4~6mで発見される。

ナイル河谷は砂漠気候だが、デルタ地帯は地中海性気候に属する(エジプトで砂漠気候でないのはデルタ地帯だけ)。

非常に肥沃な土地で、河川だけではなく豊富な沼沢地も存在する。現在もエジプト第一の穀倉地帯でウシの放牧も見られる。エジプト総人口8千万人の半数がここに住む。デルタ地帯の中から見えるのは緑で覆われた景観で砂漠は見えず、ナイル河谷とは全く違う。

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出典:Nile Delta Facts | Sciencing

ナイル川とデルタ地帯

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出典:Nile River and delta from orbit - ナイル川デルタ - Wikipedia

中央辺りのハート型の緑の部分はファイユーム低地。ファイユーム低地はファイユーム文化のところで書く。

緑の部分の陸地以外は砂漠。

ナイル川は生命線

ナイル川は、水量の増減はあるものの一年中涸れることなくエジプトに豊かな水をもたらし、同時に肥沃な土壌を運んでくれる。エジプト人の生活圏は、砂漠のオアシスを除いてはナイル渓谷とデルタに限られ、まさにナイルが生命線であり、唯一の恵みなのだ。

また、毎年おこるナイル川の増水もエジプトに大きな恩恵を与えた。水源地域ではモンスーンの影響で雨期に大量の雨が振り、それによりエジプトでは夏から秋にかけて川の水位が上昇し、ナイル渓谷とデルタの沖積地を冠水させた。この増水は「氾濫」や「洪水」などともよばれるが、だが実際は、それからイメージされる激しく危険な水位の変化ではない。7月頃からじわじわと水位が上がって川幅が広がり、9月をピークに徐々に水が退いていき、11月頃に元の水位に戻るという数ヶ月をかけたゆったりとした変化なのである。エジプト人にとってはまさに自然の恩恵であり、増水後にもたらされた水分と養分をたっぷり含んだ沃土(沖積土)を利用して容易に農耕ができ、滞留してできた湿地で漁猟や狩猟も行なうことができた。また、増水は土地を洗い流してくれるので、塩害や疫病を防いでくれたのだ。

出典:古代エジプトを学ぶ/p13-14

上の説明に加えて、ナイル川は交通としても利用されていた。砂漠と冠水した陸路は利用できず、交通の面においても生命線だった。

河口からアスワンの第一急流までの間は古来より交通路として非常に重要な地位を占めてきた。古代エジプト文明の時代より、エジプト人はナイル河畔に居住していた。特に第一急流までの間は河川交通によって密接に結ばれており、河口からここまでが「エジプト」として認識される部分であった。[中略]

冬季においては季節風を利用し、帆掛舟により、川を遡行することができた。

出典:ナイル川wikipedia



エジプト文明:先史⑩ 「緑のサハラ」時代/まとめ

この記事で「緑のサハラ」は終わりなので、まとめることにしよう。

「緑のサハラ」の始まり

およそ12000年前に最終氷期が終わり、サハラ・サヘルは湿潤化した。より正確に言えば、砂漠が縮小してサバンナが拡大した。

サバンナには湖ができ、狩猟採集民や遊牧民(非定住の牧畜民)がオアシスとして活用した。湖の中には乾季になると干上がるか極度に水の量が減るものもあった。また地表の近くに地下水が流れる場所も井戸を掘るなどして活用された。

土器の始まり

現段階での最古の土器は西アフリカ・マリ中部にあるオウンジョウゴウ ( Ounjougou ) のもの。1万1400年前(前9400年)という「緑のサハラ」が始まって間もない時期に早くも土器が登場した。

オウンジョウゴウ では土器と共に矢じり(鏃)も発掘された。発掘者(かつ研究者)によれば、新しい時代に対応するためにこの2つが発明された。

ウシの家畜化

遅くとも前5500年にはウシは家畜化されていた。ナブタ・プラヤでは野生牛オーロックスの骨が大量に発掘されているが、これらの骨は、おそらく家畜種になる前の馴化された野生種の骨なのだろう。生物学的(?)に野生種から家畜種に変わるには長い時間がかかったのだろう。

ウシは主に血や乳を調理に利用するために飼われた。食肉は犠牲にするときなどに限られた。

可食植物の集約的採取と栽培について

ナブタ・プラヤの家屋の周りには穀物ソルガム・ミレット)が貯蔵されている大きな穴がいくつもあった。

古代の人たちは野生の穀物を集約的に(集中して、選別して)採取していた。しかし不純物(?)を全く混入させずに選別することは難しいので栽培の可能性も主張されている。

サハラ・サヘルにおける経済

どうして集約的採取が必要だったのか?

まず第一の目的は、食物の狩猟・採集が難しい乾季を乗り切るためだが、その次の目的として物々交換の商品としてだ。物々交換における穀物は「商品貨幣」と呼ばれる。

「Ounjougou<wikipedia英語版」によれば、前9500-6750年の間にこのような「経済」が行われていたという。

ナブタ・プラヤでは年に一度、多くの集団が集まったようだが、これは経済活動の一環でもあったのだろう。

社会の高度化

ナブタ・プラヤにおける後期新石器時代に巨大な石の建築物が造られるようになった。このようなものを造るには協業が不可欠である。また、それを監督するリーダーがいたと言われている。この巨石建造物もリーダーの権力の誇示の現れなのかもしれない。

大人数が集まるところではまとめ役が必要であり、経済活動が行われれば争いごとの調停役が必要となる。秩序を構築するために、まとめ役・調停役に権威・権力が集中しリーダーの資格が与えられる。

ナブタ・プラヤで強いリーダーが生まれたのは、サハラ・サヘルの乾燥化が強まる過程で食糧資源が豊富なナイル川流域に近い場所だからかもしれない。つまりこの場所がナイル川とサハラ・サヘルの経済をつなぐ取引所であった可能性がある。

ちなみに、新石器時代においては比較的 平等な社会で、階級ができるのは後のことになる。

社会発達はナイル川流域より早かった

エジプト国内の新石器文化は、最初にナイル川西方のオアシスおよび低地において開花し、後にナイル川流域地方に伝播していったことだけは動かしがたい事実である。

現在までのところ、ナイル川流域の終末期旧石器文化の遺跡で、ナブタを除くと新石器分化段階への連続的な移行を示す遺跡は残念ながら発見されていない。

出典:近藤二郎/エジプトの考古学/同成社/1997/p43

まとめ

エジプト文明の食糧事情はその誕生以降、西アジア由来の穀物と家畜が支えた。このことから、文化文明も全て西アジア由来だと思われるかもしれない。私はそうだった。

しかし、旧石器時代から新石器時代に変わったのはナイル川流域よりもサハラ・サヘルの方が先で、「緑のサハラ」時代が終わってその文化はナイル川流入した。

ファラオは両手に穀竿(ネケク)と笏杖(ヘカ)を持つ姿で表現されるが、前者は脱穀用の竿、後者は牧畜の杖である。つまりそれぞれ、ナイル川流域に住む農耕民と、砂漠を往き来する遊牧民を象徴しており、両者の融合がエジプト人のルーツであることを示しているように思われる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p39-40

エジプト文明ではウシは最も重要な家畜とされ、ウシ信仰もあり神話でも多く登場する。王家ではウシを飼う施設があった。