歴史の世界

人類の進化:サルとヒトを分けるもの ~直立二足歩行~

ゴリラ、チンパンジー、テナガザルなどの類人猿と人間との最大の違いは歩き方です。我々人類は直立二足歩行ですが、彼らは四足歩行です。チンパンジーは腕が長く、地面に前の拳を付くように半直立で歩行するナックルウォークを行います。

出典:篠田謙一 監修/ホモ・サピエンスの誕生と拡散/洋泉社 歴史新書/2017/p34

といったわけで今回は直立二足歩行について書く。

直立二足歩行のメリット

まず、直立二足歩行を考える上で前提になることを記す。

上の引用のように「半直立で歩行するナックルウォーク」をする。サルは樹上(森林の木々の枝の上)で生活しているので、前肢は枝や果実をつかむように発達した。その結果、前肢は「前足」ではなく「腕と手」になった。

①エネルギー消費を節約することができる。

前肢が腕・手となったサルが地面を歩く時、ナックルウォークで歩くことになるがこれがかなり非効率である。

そして直立二足歩行だが、ナックルウォークに比べてエネルギー消費が1/4に抑えることができる。食糧不足に縁遠い我々日本人からするとピンと来ないが、自然の中で生きる生物にとってエネルギー消費の増減は死活問題である。地面を歩く機会が増えれば増えるほど直立二足歩行が有利に働く。(ダニエル・E・リーバーマン/人体 600万年史/早川書房/2015、原著は2013年出版/p72)

問題はどうして地面を歩く必要性が増えたのかだが、それは別の機会に。

②多くの物をより、重いものを持って歩くことができる。

ナックルウォークだと、片方の手は地面につけ、もう片方で物を持たなければいけない。

面白い研究の話があるので貼り付けよう。

松沢哲郎 霊長類研究所教授らの研究グループの研究成果が、3月20日公表の米国学術誌カレント・バイオロジーに掲載されました。

研究の概要

一人のおとなの男性が、民家の軒先から三つのパパイヤを盗った。両手と口にもって持ち運んでいる。今回の研究から結論できるのだが、資源が限られていて他者との競合がきついとき、チンパンジーは立って二足で歩くことが多いことが分かった。そのほうが一度にたくさん運べるからである。

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今回の研究から結論できることは次のとおりである。限られた資源を独占するために、1回にできるだけ多くの資源を持ち運ぼうとして、われわれの祖先は四足ではなく立ち上がって二足で歩くようになった、と考えられる。

この研究は、食物資源が限られているときに、チンパンジーたちがどのようにふるまうかを分析したものである。これによって初期の人類ないし人類に近い祖先が、どのようにして二足歩行をするようになったかという過程が解明できる。

今回の観察事実にもとづくと、チンパンジーが四足歩行ではなくて、立ち上がって二足歩行するのは次のようなばあいである。つまり、ある資源を他のなかまにとられないように独占しようとするときである。とくにその資源に限りがあるときや、その貴重な資源にいつ再度でくわすかわからないようなときに、独占しようとして二足で立って持ち歩く。手が自由になる分だけたくさん持ち運べるからだ。[以下略]

出典:初期人類への最初の一歩:なぜわれわれの祖先は二足歩行になったのか、チンパンジー研究から解明されたこと/京都大学/2012年3月20日

チンパンジーの歩行は直立ではないが二足歩行ではある。

③直立して果実をより多く獲得することができる。

高所にぶら下がっているベリーなどの果実を細い枝やつるを掴みながら直立して獲得できる。前述のリーバーマン氏によれば*1「おそらく食料をめぐる競争が熾烈だったため、初期人類のなかでも上手に直立ができる個体ほど、食料の乏しい時期に多くの果実を集められただろう」としている。

ただしこれは歩行ではなく姿勢の問題。

人類の祖先のサルも直立二足歩行をしていた?

人類の進化について、私がいつも頼りにしているブログから一部引用しよう。

人類と大型類人猿を含むヒト上科において、2000万年以上前のモロトピテクス=ビショッピ以降、二足歩行はありふれたものであり、移動に関する形態について、人間が原始的な形態を保持しているのにたいして、ゴリラやチンパンジーのほうがむしろ特殊化したのだ、との見解もあります(関連記事)。この見解では、ゴリラとチンパンジーに見られるナックルウォークは相同ではなく相似であり、平行進化ということになります。

これはかなり特殊な見解とも言えそうですが、人類系統と考えられてきた中新世~鮮新世の二足歩行のヒト上科化石が多数発見されているのにたいして、チンパンジーの祖先と考えられるナックルウォークを行なっていた生物の化石が50万年前頃までくだらないと発見されないという謎を、より合理的に説明することができます。さらに、450万~430万年前頃のアルディピテクス=ラミダスに関する近年の詳細な研究(関連記事)からも、人類・チンパンジー・ゴリラの最終共通祖先の歩行形態はナックルウォークだっただろう、とする有力説には疑問が投げかけられています。

このラミダスに関する詳細な研究は、2009年の『サイエンス』の科学的ブレークスルートップ10の1位に選ばれるくらいの衝撃をもたらしました(関連記事)。ラミダスに関する詳細な研究では、ナックルウォークの痕跡が見当たりませんでした。このことから、最初期の人類の歩行形態としてナックルウォークを想定してきたじゅうらいの有力説の見直しが提言されています(関連記事)。そうすると、人類・チンパンジー・ゴリラの最終共通祖先の歩行形態は(後の人類ほど特化していないにしても)二足歩行で、チンパンジーとゴリラはそれぞれ独自にナックルウォークへと移行した、という可能性も考えられます。

出典:アウストラロピテクス属の出現より前の人類進化をめぐる研究動向<雑記帳[ブログ]<2014/09/09

上の引用で「ゴリラとチンパンジーに見られるナックルウォークは相同ではなく相似」が事実だったら衝撃は尋常ではない。魅力的な説だが、現在、主流になっていないようだ。


同じブログの記事「直立二足歩行は樹上で始まった? 」では2007年の論文「オランウータンに学ぶ:二足歩行の起源が樹上であった可能性(PDF)」*2

一部引用しよう。

樹上生活をしていた祖先は今日のオランウータンと同様、果物を食べて生活をしていたと思われるが、果物は木の先端部分の細くたわみやすい枝になることが多いため、体を支えるための何らかの策が必要になったと考えられる。二足歩行をしながらバランスを取るために2本の腕を使う「手を使った二足歩行」は、このような枝の上を移動するのに役立ったであろう。

Cromptonらは観察したオランウータンの動き約3000例を分析し、非常に細い枝の上にいるときは手を使って二足歩行をすることが多いことを発見した。オランウータンが二足歩行をしているときは、足の親指を使って複数の枝をつかむという傾向も認められた。

中程度の太さの枝上では、オランウータンは体重を支えるために腕を使うことが多く、ぶら下がるという動きを採り入れて移動スタイルを変化させていた。また、太い枝を渡るときに限り、四つ足で歩行する傾向があることも分かった。

このように、手を補助的に使用する二足歩行はおそらく、樹上生活をしていたわれわれの祖先が細い枝の上を思いきって移動するときに複数の利点があったのではないかと考えられる。二足歩行によって足の親指で一度にたくさんの枝をつかむことができ、体の重心を効果的に分散させることもできる。同時に、長い片腕もしくは両腕が自由になるため果物を取ったり体を支えたりすることもできたのであろう。

オランウータンが曲がった枝の上に立つときに、足を真っ直ぐに保っていると著者らは報告している。足を真っ直ぐにすることの正確な利点は明らかではないが、ヒトが弾力のある地面を走るとき、体重のかかる足を比較的真っ直ぐに保っていることから、これはおそらくエネルギーに関連した利点があるのではないかと考えられる。

「今回の結果から二足歩行は、最も美味しい果物がなる非常に細い枝の上を移動するときや、木の間を渡っていくときにより遠くまで到達できるよう、使われていたと考えられる」とThorpeは述べている。

出典:オランウータンに学ぶ:二足歩行の起源が樹上であった可能性(PDF)/2007

  • 上の論文はリーバーマン氏も参考にしている。直立二足歩行のメリットの③はこの論文に依っている。

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Orangutans can walk on branches with their feet (Credit: dbimages/Alamy)

出典:The real reasons why we walk on two legs, and not fourBBC - Earth - /2016

上のようにサルが二足歩行することは珍しくないことは分かった。ただし、サルが日常的に直立二足歩行をしていない。いっぽう、人類は日常的にしている。逆に言うと日常的に直立二足歩行することで初めて人類とみなされる(ただしこれは定説にはなっていない)。サルとヒトを分けるものは直立姿勢かどうかにあると言ったほうがいいかもしれない。

最古の人類と見なされているサヘラントロプス・チャデンシス(定説ではない)はその化石から直立していたと推定されている(サヘラントロプス<wikipedia 参照)。

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出典:尾<wikipedia*3

人類の進化:「ヒト」「ホモ・サピエンス」について

「ヒト」とカタカナで表記する意味

生物に命名するときはラテン語を使用して名付けることが国際規約で定められている。そしてこのラテン語名に対応する和名(標準和名)が定められている。ただし、和名を名付けるときの規約は無い。(学名<wikipedia学名<世界大百科事典 第2版<株式会社日立ソリューションズ・クリエイト<コトバンク

「ヒト」は学名「ホモ・サピエンス」の標準和名である。生物としての「人間」を表す時、一般的に、「ヒト」とカタカナで表記する。

「サルからヒトへ」の意味

「サル」とは霊長類(霊長目=サル目=Primates)からヒトを除いた総称(サル目<wikipedia)。

「ヒト」は本来はホモ・サピエンスを指すが、「サルからヒトへ」の中の「ヒト」は「ホモ・サピエンス+化石人類」を指す。化石人類とはアウストラロピテクス北京原人など絶滅した人類のこと。つまりここでは「ヒト」は人類全体の総称。

ちなみに化石人類に対応してホモ・サピエンスを現生人類ということもある。

参考:類人猿

類人猿(るいじんえん、ape)は、ヒトに似た形態を持つ大型と中型の霊長類を指す通称名。ヒトの類縁であり、高度な知能を有し、社会的生活を営んでいる。類人猿は生物学的な分類名称ではないが、便利なので霊長類学などで使われている。一般的には、人類以外のヒト上科に属する種を指すが、分岐分類学を受け入れている生物学者が類人猿(エイプ)と言った場合、ヒトを含める場合がある。ヒトを含める場合、類人猿はヒト上科(ホミノイド)に相当する。

出典:類人猿<wikipedia

ホモ・サピエンス」と「ホモ・サピエンス・サピエンス」

ホモ・サピエンス」は国際規約で定められている学名。ラテン語で「知恵のある(サピエンス)人間(ホモ)」という意味。

ホモ・サピエンスの直径の祖先と考えられている化石人類に「ホモ・サピエンス・イダルトゥ」がある。この人類はホモ・サピエンスと種を分けるほどの違いがないため、「亜種」の関係とされる。

ホモ・サピエンス・イダルトゥ」と「ホモ・サピエンス(現生人類)」の混乱を避けるため「ホモ・サピエンス・サピエンス」と表記する場合がある。(記事《「種」「属」について/生物の分類について》第四節「学名」参照)

進化:進化にまつわる歴史⑦ 総合説 ~進化論論争の決着~

ラマルクの進化論はその中心にある「獲得形質の遺伝」の間違いを当初より指摘され、天地創造説(あるいは種は変化しないという考え)を覆すことはできなかった。

さて、ダーウィンの『種の起源』発刊からの状況。

ダーウィンやウォレスの書物はおおいに売れ、古い世代の学者たちの反発は依然として強く残ってはいたものの、進化が起こったという事実は、やがて、誰にも受け入れられるようになりました。しかし、進化が起こる肝心のメカニズムである自然淘汰の理論は、それほどすんなりと受け入れられたわけではありません。

進化と自然淘汰は、なんといっても、遺伝についてはまったく何も知られていませんでした。ダーウィン自身も、遺伝の仕組みがわからないことには難点を感じていましたし、誤った遺伝の概念によって惑わされていたところもあります。

遺伝の仕組みについては、実は、ダーウィンと同時代に、チェコのブルノの修道院にいたグレゴール・メンデルが、ちゃんと答えを発見していたのです(1859年)。あの有名なメンデルの法則です。彼は、地元の雑誌に論文を書き、それをイギリスの学舎にも送りましたが、誰も読んではもらえませんでした。つまり、ダーウィンの目と鼻の先に、彼があれほど困って悩んだ遺伝のしくみに関する答えがあったのに、ダーウィンを始めとする当時の学者たちは、ついにそれを知らずに終わったことになります。

メンデルの法則が再発見されたのは、1900年になってからでした。これで、遺伝に関する謎は大きく解決しましたが、それに続いて、進化のメカニズムに関する様々な別の考えが提出され、自然淘汰の働きは、一時、影が薄くなってしまいます。

それらを乗り越えて、動物学、植物学、遺伝学、集団遺伝学、小さい物学などの分野の研究者たちが、進化のメカニズムに関する理論を統一的に再構成し、自然淘汰による進化の理論がしっかりと出来上がったのは、1930年代から1950年代にかけての間でした。この新しい理論の枠組みを、進化の総合説と呼びます。現代の進化学は、この総合説の上に発展してきたものです。

出典:長谷川眞理子/進化とはなんだろうか/岩波ジュニア新書/1999/p204-205

ダーウィンの進化論は認められて現在の生物学の土台となり、修正されながら現在にいたる。

進化:進化にまつわる歴史⑥ 19世紀にしぶとく残る天地創造説 ~ジョルジュ・キュヴィエの天変地異説~

進化論が登場した時代背景

19世紀前半の科学は まだキリスト教の影響が非常に強く天地創造説が強く信じられていた。記事「進化にまつわる歴史① ダーウィン以前」で紹介した天地創造説を支持するウィリアム・ペイリーの『自然神学』(1809)も広く読まれていた。このような考えの下では種(生物)は不変であると考えられていた。つまり生物は進化などしないと考えられていた。

しかし、この頃には化石の研究(のちの古生物学)をする人々もいて、古い地層には現在とは違う動物相があることが知られるようになった。これは天地創造説に反していた。

この問題に「答え」を出したのがジョルジュ・キュヴィエ(Georges Cuvier、キュビエと表記されることも多い)だった。

ジョルジュ・キュヴィエの生涯

キュヴィエはフランスの南部ヴュルテンベルクで生まれた。10歳の頃にコンラート・ゲスナーの『動物誌』 Historiae animalium (1551-1558、全5巻)に出会い、自然史の世界に目覚めた。さらに親戚の家に通いながらビュフォンの『博物誌』 Histoire naturelle(1749-から1778年、全36巻)を繰り返し読んで記憶し、四肢動物と鳥類に関しては一流の博物学者に匹敵するほど通じていた。

シュトゥットガルトのカルルスシューレ(当時設立された軍人養成校)卒業後、教鞭をとることを希望していたが、お声がかかるまでの余裕(カネ)がなかった。家庭教師をやりながら古生物学の集会に足繁く通い、そこで名を隠して集会に来ていた著名な農学者アンリ=アレクサンドル・テシエの知遇を得た。

テシエがパリに住む友人たち宛に紹介状を書いてくれた結果、キュヴィエは著名な博物学者であるエティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールと文通した後、1795年に国立自然史博物館の比較解剖学教授の助手に採用されることになった。

またキュヴィエは同年に設立されたフランス学士院の会員に選出された。1796年からパンテオン中央学校(École Centrale du Pantheon)で教鞭をとりはじめ、4月に学士院の集会が開催されると彼の最初の古生物学の論文となる文章を発表した。これが後に1800年に『現存および化石のゾウ種についての覚書』Mémoires sur les espèces d'éléphants vivants et fossiles の名で出版されることになるものである。[中略]

1802年パリ植物園の正規の教授となった。同年、学士院の代表として、公教育の視学監督官に任命された。この後者の立場で彼は南フランスを視察していたが、1803年初頭に学士院の物理学および自然科学部門の終身書記に選出された結果、視学監督官の職を辞任し、パリへ戻った。

出典:ジョルジュ・キュヴィエ<wikipedia

キュビエは学者としての才能のほか、学界内の役職の手腕も高評価された。研究・調査・著作活動、教鞭、役職の仕事をやりこなし、その評価は学界の外まで及び信頼と名声と学者としての高い地位を獲得していった。

ナポレオン・ボナパルトがフランスの実権を握っていた時にも重用されていたが、ナポレオン失脚の後もその地位と名声は衰えなかった。

ナポレオンの没落(1814年)に先立ってキュヴィエは国務省の議会に認められ、その地位はブルボン家の復古にも影響を受けなかった。彼は学長に選ばれ、その地位で公教育評議会の仮の会長として活動し、その一方でルター派としてプロテスタント神学部を監督していた。1819年内政委員会の会長に任命され、死ぬまでその職に就いていた。

出典:ジョルジュ・キュヴィエ<wikipedia

業績については「比較解剖学の大立て者であり、古生物学にも大きな足跡を残した」(ジョルジュ・キュヴィエ<wikipedia)。詳細は「ジョルジュ・キュヴィエ<wikipedia」参照。

天変地異説

天変地異説

激変説とも。局部的な天変地異が太古に何度か繰り返され,生き残った生物が次代に繁栄したという説。G.L.C.F.D.キュビエが提唱。弟子のL.アガシーなどはさらに極端化して,天変地異のたびごとに全生物は死滅し,新しく生物の創造が行われたとした。

出典:天変地異説<百科事典マイペディア<株式会社日立ソリューションズ・クリエイト<コトバンク

18世紀の序盤にはすでに地層によって生物相に違いがあることはよく知られていた。現代から見れば明らかにこれは進化の事実を表しているのだが、キュヴィエは、反進化の立場にいたからかもしれないが、そのように考えなかった。そして出した答えが天変地異説だった。

彼の天変地異説は上のように曲解された形で天地創造説の延命に利用された。



進化:進化にまつわる歴史⑤ もう一人の自然淘汰説論者、アルフレッド・ラッセル・ウォレス

前回からの続き。

自然淘汰説が初めて世に出たのは、1858年のチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ラッセル・ウォレスの共同論文だ。

共同論文と言ってもダーウィンとウォレスが共同研究をしたわけではなく、両者は独立して自然淘汰説を思いついた*1

今回はウォレスについて書く。

natgeo.nikkeibp.co.jp

ウォレスの生い立ち

ウォレスの生涯をたどるとき、まず注目すべきは、その生い立ちだ。「窮乏は発明の母」という言葉は、ダーウィンにはそぐわないが、ウォレスにはぴったりあてはまる。貧しい家に生まれた好奇心旺盛なウォレス少年は、1837年、14歳のときに家計を助けるために働きに出た。かたやダーウィンは、当時すでに28歳の若き紳士。裕福な父親の出資でビーグル号の航海に出て、英国に帰ってきたばかりだった。

ウォレスは、10年ほど土地の測量士や大工、小学校の教師などの職を転々とする。その間、町の図書館や組合の施設へ通っては、ほぼ独学で知識を身につけた。測量の仕事をしていた時期は、ウェールズの田舎の野山を歩き回り、安い普及版の図鑑を頼りに植物の種類を見分ける訓練を積んだ。

教職に就いて余暇がもてるようになると、ドイツの地理学者アレクサンダー・フォン・フンボルトの旅行記や、経済学者マルサスの『人口論』など、手当たりしだいに本を読みあさった。

出典:ダーウィンになれなかった男/p3

ダーウィンとまさに好対照の生い立ち。前回で書いたが、ダーウィンは初期の進化論者エラズマス・ダーウィンを祖父に持つ裕福な家庭に生まれ、大学生活では生物学の基礎を学び、博物学者になる道筋を作ってくれた恩師にも出会えた。かたやウォレスは全くの独学で博物学者と認められるまでになった。これがドラマや小説だったらウォレスが主人公になるだろう。

ウォレスを自然淘汰説に導いた本

生涯を通じて本から多くを学んだウォレスだが、なかでもその後の方向性を決定づけた2冊の本がある。一つは、ダーウィンの『ビーグル号航海記』。まだ進化論につながるような考えはほとんど述べられていないが、生き生きとした筆致でつづられた壮大な旅行記だ。

もう1冊は、もっと大胆な内容で物議をかもした本。1844年刊行で、当時は著者不詳だったベストセラー『創造の自然史の痕跡』である。そこには、進化論に通ずる考え方が書かれていた。ヨーロッパでは長年、天地創造のときに神が万物を創造し、そのときから生物は基本的に変わっていないという「創造説」が主流を占めていた。当時、科学哲学者のウィリアム・ヒューウェルはこんな見解を発表したばかりだった。いわく、「種は自然界に厳然として存在するまとまりであり、ある種が別の種に変異するなどということはあり得ない」

『創造の自然史の痕跡』はこうした見方に反旗を掲げ、生物の「発展の法則」という仮説を論じていた。ある種は周囲の環境しだいで別の種へと変化し、単純な生物から複雑な生物へ、最終的には人間にいたるまで、地球上の生き物は段階的に変化してきたという考え方である。その結果が環境への適応だ。この本も神の働きを否定していないが、神は変化のプロセスを最終的に操るだけで、その役割はより間接的なものにとどまるとしていた。

ダーウィンは根拠が十分ではないとして、この本をあまり重視しなかったが、より若く、感化されやすかったウォレスは、この「独創的な仮説」に駆り立てられ、友人のベイツとともにアマゾンへ標本採集に行く計画を立てる。

出典:ダーウィンになれなかった男/p3

『創造の自然史の痕跡』はスコットランドの出版業者ロバート・チェンバースが匿名で書いたものだ。趣味で集め続けた天地創造説に反する博物学の論文を元にして一つの本にして出版した。地動説のコペルニクスの時代よりは科学に寛容になったヨーロッパだったが、それでも聖書に楯突く主張をした人々はあらゆる攻撃に耐えなければならなかった。チェンバースはそのような攻撃を恐れて匿名で出版した。

ダーウィンは既に自然淘汰説を思いついていたので根拠が十分でない素人の本に興味を示さなかったのだろう。しかしウォレスはおそらく進化論に初めて触れて探求する衝動に駆られた。

上のように探求の旅に出たウォレスはその後も研究活動を続けた。その活動費は膨大な量の標本を売りさばくことで賄った。収集は彼の趣味でもあった。

この収集癖のおかげで、ウォレスはある現象に気づく。同種でも個体によってかなり違いがあることだ。同じアゲハチョウでも、尾羽の長さや白さにばらつきがある。大型のフウチョウであっても、比較的小さな個体もいる。つまり、それぞれの個体には遺伝的な差異があり、その違いがときには見かけの美しさや体の大きさの違いとして、目に見える形で現れるのだ。

こうした現象に気づいたことは、自然選択による進化という理論に行き着くうえできわめて重要だった。ダーウィンは、家畜化された種に個体差があることに気づいていたが、自然界でも広くそのような現象が見られることを知ったのは、8年がかりでフジツボの分類にとりくんでいたときだった。このように遠回りをしていたことも、ダーウィンが自身の理論を発表するまでに長い年月がかかった一因である。

出典:ダーウィンになれなかった男/p5

種の変化の発見

個体の差異に注目したウォレスはフィールドワークとこれまで読んできた書物とを照らし合わせ種の変化の可能性について考えていた。

ウォレスはまた、英国の地質学者チャールズ・ライエルの地質と化石に関する著書についても思い起こした。ある時代に生息した種と、似たような種が次の時代にも続く現象を論じた本である。この二つの証拠、つまり似た種が地理的にも時間的にも近いところに分布するという事実から、ウォレスは種の起源に関する「法則」を導き出した。

「あらゆる種は、その前に存在した、それと密接に結びついた種と、同じ地域に、年代的に続いて出現する」というものだ。

ウォレスはこの考えを中心に論文をまとめ、ロンドンに送った。進化という言葉を使っていなくても、この論文の根底にあるテーマが進化であることは一読すれば明らかだ。「密接に結びついた」、つまりよく似た種同士が、同じ地理的な場所に、年代的に続いて出現するのは、それらの種が共通の祖先の血を引くからにほかならない。ただし、ウォレスがこの時点で確信をもてたのはここまでだ。進化が起きる仕組みについては、まだ解明できていなかった。

出典:ダーウィンになれなかった男/p6

1855年に「新種の導入を調節する法則について」という論文を発表した。この時ウォレスはボルネオ島のサラワクで調査をしていたため「サラワク論文」と呼ばれている。そして上の引用の法則をサワラクの法則として知られるようになった。

ライエルが「ある時代に生息した種と、似たような種が次の時代にも続く現象を論じ」ていることでも分かるように種が変化することが事実だということが「発見」されることは時間の問題だっただろう。ただひとつ宗教がこれを邪魔していたことは前にも触れた。

なにはともあれ、ウォレスは種の変化についての論文を発表した。そしてこのことがダーウィンを進化論の著作を書く方向へ進ませたことは前回書いた。

1854年までにはウォレスとダーウィンは文通をする間柄になっていた。

自然淘汰説にたどり着く

ウォレスは進化論の確立に向けて二つの手がかりを手にしていた。

一つは「種のなかで個体差が生じる」こと、二つ目は「類似した種が同じ場所に年代的に続いて出現する」こと。

種のなかでの個体差が気の遠くなるほどの年月をかけて種の分化につながることまで、ウォレスは到達していた。

ウォレスが第三の重要な手がかりに気がついたのは1858年。テルナテ島近くにいた彼は、それまでに得た二つの手がかりに、経済学者マルサスの『人口論』を突き合わせてみたのだ。繁殖率は変わらなくても食料と生息地には限りがある。そのため、生まれてくる子どもの大半は生き延びられないという考え方だ。

「つまり膨大な破壊が、絶え間なく続いているということ。ぼんやりとそう考えていたとき、ふと疑問がわき起こった。なぜ死ぬものがいる一方で、生き残るものがいるのだろう、と」

ウォレスが行き着いた答えはこうだ。「周りの状況に最もよく適応した個体が生き残る」。この仕組みが働けば、世代を重ねるうちに種全体が周囲の環境に適応する方向に変化していくはずだ。キリンの首はなぜ長いのか。首の短いキリンは環境に適応できずに死んでしまい、子孫を残せなかったからにほかならない。

出典:ダーウィンになれなかった男/p7

ついに自然淘汰説にたどり着いた。1858年6月、ウォレスは原稿を書きダーウィンに送った。これがいわゆるテルナテ論文で、同年7月にダーウィンの論文と合わせて共同論文として発表されてものだ。その後の経緯は前回書いた。

ウォレスはこのような形で発表されることを全く知らされていなかったが、後日この報告を聞くと彼は喜び公営に思ったという。翌年に出版された『種の起源』を読んだ時、ウォレスはダーウィンに尊敬の念を深くした。*2

功名心とは無縁な男

1859年『種の起源』が出版され大反響が巻き起こっていた頃、ウォレスはまだマレー諸島を探検していた。1862年帰国後にダーウィンとすぐに会い、ダーウィンの死まで友人であり続けた。

帰国後のウォレスは生活に困窮するなど多難な人生をおくったが、どこまでも好奇心を満たすことに明け暮れることが出来たのは幸せな人生だったかもしれない。

1889年に自然選択に関する論文をすべて集めて出版したとき、ウォレスは謙虚にも、そのタイトルを『ダーウィニズムダーウィン主義)』とした。自分の名前が残ることなど、彼にとってはどうでもよく、大事なのは理論そのものだった。生涯を通じて、功名心とは無縁な男だった。

大した教育も受けず、経済的にも恵まれなかったが、ウォレスは豊かな人生を送った。地理的にも、知的活動の場でも、まさに好奇心のおもむくままにどこにでも分け入り、迷うことなく自分の道を突き進んだ。科学史に異彩を放つ人物として、その名は後世に伝えられていい。

出典:ダーウィンになれなかった男/p9

*1:それ故に少なからぬ差異はある

*2:ダーウィンになれなかった男/p8

進化:進化にまつわる歴史④ ダーウィンの自然淘汰

自然淘汰は natural selection の訳語で、自然選択とも呼ばれる。

自然選択説とは、進化を説明するうえでの根幹をなす理論。厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる変異(突然変異)を選別し、進化に方向性を与えるという説。1859年にチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスによってはじめて体系化された。

出典:自然選択<wikipedia

自然淘汰の考えは有名なダーウィンだけの発案ではなく、ウォレスもその一人だった。

この記事ではダーウィンについて書き、次回はウォレスを書こう

学生生活と世界周航

チャールズ・ダーウィンは、医者を継ぐべく、エディンバラ大学医学部に入学しましたが、血と他人の苦痛を見るのに耐えられない人柄で、麻酔のなかった当時の医学にはとてもついていくことができず、医者になるのをあきらめました。

そこで、英国国教会の牧師になることにして、ケンブリッジ大学に入りなおします。ケンブリッジ大学では、当時の金持ち上流階級の学生の典型のように、狩猟やパーティーに明け暮れ、本業の学業には少しも熱心ではありませんでした。それでも、卒業時には178人中の10番だったので、ずいぶん付け焼き刃の猛勉強をしたに違いありません。

そして卒業した直後、恩師の紹介で、軍艦ビーグル号にのって世界一周の旅に出るという話が持ち上がりました。医者に離れず、牧師になると言ってケンブリッジを卒業したのに、またまた牧師にならずに世界一周のたびにでるというので、[父の]ロバート・ダーウィン氏は大反対しました。それでも、最期にはいろいろな人に説得されて、とうとう、チャールズのビーグル号乗船を許可しました。こうして、チャールズ・ダーウィンは、自然淘汰による進化の理論を考えつくきっかけになる機会を得たのです。[中略]

なにはともあれ、チャールズ・ダーウィンは、この5年間の世界周航によって、有名なガラパゴス諸島を初めとするさまざまな異国の地質、生物相、人種、文化を知り、その多様性を満喫して帰ってきました。ガラパゴス諸島で、異なる島に生息するフィンチのたぐいを見てから自然淘汰の理論を考えついたと言われることがありますが、ことは、そう簡単ではなかったようです。さまざまな土地に生息するさまざまな生物を実際に観察したこと、チャールズ・ライエルの著書『地質学原理』を読んだこと、ロバート・マルサスの著書『人口の原理』を読んだことなどいろいろ合わさって、彼の思考形成を助けたのでしょう。

出典:長谷川眞理子/進化とはなんだろうか/岩波ジュニア新書/1999/p199-202

ダーウィン自身、のちの回想録で「学問的にはケンブリッジ大学も(エディンバラ大学も)得る物は何もなかった」と述べている*1が、この大学生活の中で授業以外の場で博物学の興味と知識を広げていった*2

その大学生活の中で最も重要なことは聖職者にして植物学者のジョン・スティーブンス・ヘンズローだ。

ダーウィンが]ケンブリッジ大学で神学を専攻していたころ、彼の人生を大きく方向転換させた人物が、植物学者のジョン・ヘンズローだ。ヘンズローの学者としての評判を聞きつけたダーウィンは、彼が開催していた夜会に足しげく通うようになり、神学生にとって必須科目ではないヘンズローのフィールド・トリップにもほぼ毎日参加。「ヘンズローと歩く男」とのあだ名が付けられるほどになる。後にヘンズローはビーグル号による南米大陸探検航海の話を持ちかけられるが、彼は調査員としてのポジションを辞退し、代わりに自慢の生徒であったダーウィンを推薦する。かくして、ダーウィンのビーグル号航海が実現することになったのだ。

出典:もっと知りたいほんとのダーウィン<英国ニュースダイジェスト5 March 2009

ちなみにビーグル号におけるダーウィンの役目はどのようなものだったのか?

ダーウィンが依頼された任務は、表向きは地質学者、実際には船長の「話し相手」というものでした。当時、船長は立場上、船員たちとの個人的な会話が禁じられていたので、孤独を癒すための話し相手となる紳士がどうしても必要だったのです。

出典:おちこぼれのドラ息子だったダーウィン<NHKテキストビュー<BOOKSUTAND(長谷川眞理子氏の筆)

ヘンズローはダーウィンを「博物学者の道へ導き、科学的探求の方法を教え、友人となった」*3。ヘンズローがダーウィンを推薦したことを考えれば、その当時のダーウィンは落ちこぼれなどではなく船上で博物学者の代役が務まるほどの資質を持っていたのだろう。

ヘンズローはダーウィンの公開先から送られる手紙と標本などの資料を受け取り、手紙の返信には激励の言葉を贈った。さらにヘンズローはダーウィンの手紙と資料を科学界に披露しダーウィンを帰国前に有名にした。帰国後もアドバイスをして著書のための資金集めをするなどダーウィンのために奔走した。

[1836年に]ダーウィンが帰国したとき、ヘンズローが手紙をパンフレットとして博物学者たちに見せていたので科学界ですでに有名人だった。ダーウィンシュールズベリーの家に帰り家族と再会すると急いでケンブリッジへ行きヘンズローと会った。ヘンズローは博物学者がコレクションを利用できるようカタログ作りをアドバイスし、植物の分類を引き受けた。息子が科学者になれると知った父は息子のために投資の準備を始めた。ダーウィンは興奮しコレクションを調査できる専門家を探してロンドン中を駆け回った。特に保管されたままの標本を放置することはできなかった。

12月中旬にコレクションを整理し航海記を書き直すためにケンブリッジに移った。最初の論文は南アメリカ大陸がゆっくりと隆起したと述べており、ライエルの強い支持のもと1837年1月にロンドン地質学会で読み上げた。同日、哺乳類と鳥類の標本をロンドン動物学会に寄贈した。鳥類学者ジョン・グールドはすぐに、ダーウィンクロツグミ、アトリ、フィンチの混ぜあわせだと考えていたガラパゴスの鳥たちを12種のフィンチ類だと発表した。2月にはロンドン地理学会の会員に選ばれた。ライエルは会長演説でダーウィンの化石に関するリチャード・オーウェンの発見を発表し、斉一説を支持する種の地理的連続性を強調した。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

当時の学問は現在のように分化する前で、動物学、植物学、鉱物学などは博物学の一分野だった。ダーウィンは世界周航で多岐にわたる分野の知識を得ただけではなく、多様な標本も収集した。膨大なコレクションの中から上のように新しい知見も生まれた。

帰国後

世界周航以前はダーウィンの社会的身分は無いに等しかったが、帰国後は博物学者として迎えられたようだ。

1837年、ダーウィンは世界周航に関する著作の執筆することと並行して進化論関連の研究もしていた。1837年に記されたノートには共通祖先から分岐した複数の種を表すスケッチが描かれている。この頃すでにラマルクと違う進化説を思いついていた*4

[1837年]7月中旬に始まる「B」ノートでは変化について新しい考えを記している。彼はラマルクの「一つの系統がより高次な形態へと前進する」という考えを捨てた。そして生命を一つの進化樹から分岐する系統だと見なし始めた。「一つの動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理である」と考えた。

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考察ノートのスケッチ (1837)。生命の樹 (Tree of life) と呼ばれる。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia*5

しかしこの頃の時代は今だに天地創造説が(つまり種は変化しないと)信じられており、ラマルクの進化論は全く浸透していなかった。そのような時にダーウィンは軽々に進化論をおおやけにするわけにはいかなかった。

ダーウィンが数十年間も持論の発表にをためらったのは天地創造説以外にも理由があった。

6月末にはスコットランドに地質調査のために出かけた。平行な「道」が山の中腹に三本走っていることで有名なグレン・ロイを観察した。後に、これは海岸線の痕だ、と発表したが、氷河期にせき止められてできた湖の痕だと指摘され自説を撤回することになった。この出来事は性急に結論に走ることへの戒めとなった。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

ともあれ、自説を証明するための情報収集は続けられた。

プロの博物学者からはもちろん、習慣にとらわれずに農民やハトの育種家などからも実際の経験談を聞く機会を逃さなかった。親戚や使用人、隣人、入植者、元船員仲間などからも情報を引き出した。最初から人類を推論の中に含めており、1838年3月に動物園でオランウータンが初めて公開されたとき、その子どもに似た振る舞いに注目した。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

彼に影響を与えた学者で有名な人物は進化論者のエラズマス・ダーウィン(チャールズの祖父)やラマルク、地質学者のチャールズ・ライエル、経済学者のトマス・マルサス

ライエルからは斉一説(自然において、過去に作用した過程は現在観察されている過程と同じだろう、と想定する考え方)を学び、マルサスからは『人口論』を学んだ。特に『人口論』は新しい理論を産み出した。

1838年11月、つまり私が体系的に研究を始めた15ヶ月後に、私はたまたま人口に関するマルサスを気晴らしに読んでいた。動植物の長く継続的な観察から至る所で続く生存のための努力を理解できた。そしてその状況下では好ましい変異は保存され、好ましからぬものは破壊される傾向があることがすぐに私の心に浮かんだ。この結果、新しい種が形成されるだろう。ここで、そして私は機能する理論をついに得た...(C.R.ダーウィン 『自伝』)

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

種の起源」は1859年に出版されたが、自然淘汰説は1838年には思いついていた。

ダーウィンはようやく持論を友人に打ち明けることにした。1842年にチャールズ・ライエルに、1844年にジョセフ・ダルトン・フッカー(恩師ヘンズローの義理の息子)に。フッカーに宛てた手紙には以下のような文章があった。

私はガラパゴスの生物分布やアメリカの化石哺乳類の形質に大変心を打たれたので、種とはなにか、という問題に関わるものならば何でも集めてみようと決心しました。……そしてついに一条の光が差し込んだのです。その結果、当初の私の考えとはまったく逆に、種は変わり得ないものではないことを(これは殺人を告白するようなものですが)ほぼ確信するに至りました。

出典:長谷川政美/科学バー>進化の歴史>ー時間と空間が織りなす生き物のタペストリー>第4話 「自然の階段」から「生命の樹」へ(その4)

しかし彼らを納得させるのには数年の月日がかかったらしい。

進化論の研究を影で行っている一方で、「表」の博物学者としての名声は高まっていった。あらゆる方面の研究発表が評価され、幾つかの公的な役職にも就き、1853年には王立協会からロイヤル・メダルを受賞している。

ルフレッド・ウォレスのサラワク論文とテルナテ論文

1855年ダーウィンと同じような考えを示す論文が発表された。無名の博物学者アルフレッド・ウォレスによるいわゆるサラワク論文だ。この内容は共通祖先から分化して新しい種が誕生するという説が書いてあった*6

この論文にはまだ自然淘汰説は論じられていなかったこともあり、ダーウィンは関心を示さなかったが、友人のライエルはダーウィンとの類似性に注目し、ダーウィンを急かした。

ライエルが種の始まりに関するアルフレッド・ウォレスの論文を読んだとき、ダーウィンの理論との類似に気付き、先取権を確保するためにすぐに発表するよう促した。ダーウィンは脅威と感じなかったが、促されて短い論文の執筆を開始した。困難な疑問への回答をみつけるたびに論文は拡張され、計画は『自然選択』と名付けられた「巨大な本」へと拡大した。ダーウィンはボルネオにいたウォレスを始め世界中の博物学者から情報と標本を手に入れていた。アメリカの植物学者エイサ・グレイは類似した関心を抱き、ダーウィンはグレイに1857年9月に『自然選択』の要約を含むアイディアの詳細を書き送った。12月にダーウィンは本が人間の起源について触れているかどうか尋ねるウォレスからの手紙を受け取った。ダーウィンは「偏見に囲まれています」とウォレスが理論を育てることを励まし、「私はあなたよりも遥かに先に進んでいます」と付け加えた。

1858年6月18日に「変異がもとの型から無限に離れていく傾向について」と題して自然選択を解説するウォレスからの小論を受け取ったとき、まだ『自然選択』は半分しか進んでいなかった。「出鼻をくじかれた」と衝撃を受けたダーウィンは、求められたとおり小論をライエルに送り、ライエルには出版するよう頼まれてはいないがウォレスが望むどんな雑誌にでも発表すると答えるつもりですと言い添えた。その時ダーウィンの家族は猩紅熱で倒れており問題に対処する余裕はなかった。結局幼い子どもチャールズ・ウォーリングは死に、ダーウィンは取り乱していた。この問題はライエルとフッカーの手に委ねられた。二人はダーウィンの記述を第一部(1844年の「エッセー」からの抜粋)と第二部(1857年9月の植物学者グレイへの手紙)とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成の共同論文として1858年7月1日のロンドン・リンネ学会で代読した[12]。

ダーウィンは息子が死亡したため欠席せざるをえず、ウォレスは協会員ではなく[13]かつマレー諸島への採集旅行中だった。この共同発表は、ウォレスの了解を得たものではなかったが、ウォレスを共著者として重んじると同時に、ウォレスの論文より古いダーウィンの記述を発表することによって、ダーウィンの先取権を確保することとなった。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia

  • 「変異がもとの型から無限に離れていく傾向について」が通称テルナテ論文。

素人としてはなんだかきな臭い感じがするが、とりあえずウォレスは抗議などはせず、むしろ光栄に思った*7。著名なダーウィン都の共同論文という形でなければウォレスの論文は無視されていたかもしれない。しかしこの共同論文はほとんど関心を示されなかった。

種の起源

ダーウィンは13ヶ月間、「巨大な本」の要約に取り組んだ。不健康に苦しんだが科学上の友人たちは彼を励ました。ライエルはジョン・マレー社から出版できるよう手配した。1859年11月22日に発売された『種の起源』は予想外の人気を博した。初版1250冊以上の申し込みがあった。

もっともこれは自然選択説がすぐに受け入れられたからではない。当時、すでに生物の進化に関する著作はいくつも発表されており、受け入れられる素地はあった。この本は『創造の自然史の痕跡』よりも少ない論争と大きな歓迎とともに国際的な関心を引いた。病気のために一般的な論争には加わらなかったが、ダーウィンと家族は熱心に科学的な反応、報道のコメント、レビュー、記事、風刺漫画をチェックし、世界中の同僚と意見を交換した。ダーウィン人間については「人類の起源にも光が投げかけられる」としか言わなかったが、最初の批評は『痕跡』の「サルに由来する人間」の信条を真似して書かれたと主張した。初期の好ましい反応のひとつであるハクスリーの書評はリチャード・オーウェンを痛打し、以後オーウェンダーウィンを攻撃する側に加わった。オーウェンの反発は学問的な嫉妬が動機だったとも言われ、私的な交流も途絶えることになった。ケンブリッジ大学の恩師セジウィッグも道徳を破壊する物だとして批判した(が、セジウィッグとは生涯友好的な関係を保った)。ヘンズローも穏やかにこれを退けた。進化論の構築に協力していたライエルはすぐには態度を明らかにせず、最終的には理論としてはすばらしいと評価したが、やはり道徳的、倫理的に受け入れることはできないと言ってダーウィンを落胆させた。『昆虫記』で知られるファーブルも反対者の一人で、ダーウィンとは手紙で意見の交換をしあったが意見の合致には至らなかった。

出典:チャールズ・ダーウィンwikipedia(詳細は引用先参照)

ライエルやヘンズローの態度を見るとこの著書の重大さがわかる。『種の起源』は「道徳を破壊する物」つまり道徳・秩序であるキリスト教世界を壊すものと受け止められた。



進化:進化にまつわる歴史③ ダーウィン以前の進化論 ~ラマルクの獲得形質の遺伝~


1623 スイスのギャスパール・ボアン、『植物対照図表』の一部で二名法を採用。
1686 イングランドのジョン・レイ、『植物誌』で種の概念を発表する。
1694 フランスのジョゼフ・ツルヌフォール、『基礎植物学』で種の上に属、目、網を立てる。
1735-59 スウェーデンのカール・リンネ、『自然の体系』で生物の分類を体系化した。二名法を本格的に採用し、分類学の祖と言われるようになる。
1802 イギリスのウィリアム・ペイリー、『自然神学』でデザイン論を発表。
1809 フランスのジャン=バティスト・ラマルク、『動物の哲学』で獲得形質の遺伝による進化論を発表。
1844 スコットランドのロバート・チェンバース、匿名で『創造の自然史の痕跡』を出版。進化論が注目を集める。
1858 イングランドのアルフレッド・ラッセル・ウォレスとチャールズ・ダーウィンの共同論文を発表。自然選択による進化論を世に出すが、あまり注目されなかった。
1859 ダーウィンの『種の起源』が出版される。注目を集める。
1861 フランスのルイ・パスツール、『自然発生説の検討』を著し、従来の「生命の自然発生説」を否定。
1865 オーストリア帝国のグレゴール・ヨハン・メンデル、『植物雑種に関する研究』を発表。発表当時は反響がなかったが、後世に「メンデルの(遺伝の)法則」として有名になる。
1940年代 ネオダーウィニズム(総合説)が成立。
1968 遺伝子の「分子進化の中立説」をNatureに発表。


進化論を初めてはっきりと提唱したのはジャン=バティスト・ラマルク(1744-1829)だった。彼は上のような「生物を含む万物全ては上によって作られた」という考えを否定し、自然発生説(前回の記事参照)に立ち、『動物の哲学』(1809)を世に出し、生物は進化していくことを提唱した。

彼は、生物は常に単純なものから高等なものへ変化していくと考えており、現在複雑な構造をもつ生物はより昔に生じ、単純な生物はごく最近生じたため、まだ複雑なものに変化していないのだととらえていた。言い換えれば、彼は生物は一つの共通の祖先から進化したのではなく、絶えず別々の種類のものが自然発生していると考えたのだ。(図7)

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この他ラマルクは、生物は常に発展し、また変動する環境に適応する機構をもっているために、みずから絶滅するものとは考えなかった。そのため彼は、環境に適応する機構として「獲得形質の遺伝」をもとにした「用・不用説」を提唱したのである。

環境が変化すると、動物が生きるために必要とするものも変化する。キリンの祖先は首が短かったが、ある時点で樹上の食物をとらなければならないようになり、キリンは首を伸ばして食物をとろうとする。その結果、必要によってよく使われる首が発達し、子孫に伝えられ、次第にキリンの首が長くなったという話は、「用・不用説」の例としてよくあげられている。この機構は、生物が自発的な活動を通じて環境に適応していくという、「生物自身の努力による前進的な進化観」が基盤になっているのである。

出典:河田雅圭/はじめての進化論/p4(1990年に講談社現代新書から出版されたもの)

用不用説・獲得形質の遺伝は共に現代では否定されている。

簡単に言うと用不用説は「生物の器官で、生活の中でよく使うものは世代を通じて発達し、使わないものは退化する」というもの。獲得形質とは「生物個体が一生の間に、環境の影響や鍛錬によって獲得した形質」のことでラマルクはこれが遺伝すると考えていた。