歴史の世界

「メソポタミア文明①」カテゴリーの主要な参考図書

メソポタミア文明①」のカテゴリはウル第三王朝滅亡の前2000年頃までで終わり。この後は「メソポタミア文明②」で書いていこう。

以下はこのカテゴリーで利用した主な参考図書。

前川和也編著/図説メソポタミア文明/河出書房(ふくろうの本)/2011

図説 メソポタミア文明 (ふくろうの本/世界の歴史)

図説 メソポタミア文明 (ふくろうの本/世界の歴史)

  • 作者:前川 和也
  • 発売日: 2011/12/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

「ふくろうの本」シリーズは ある歴史をこれから学ぼう知ろうとしている人が手に取る本ではないのか?この本は前川氏の研究成果が前に出過ぎて、メソポタミア文明というのがどのような歴史なのか全体像が頭のなかに入らない。これからメソポタミア文明を探求しようとするヒトは別の本を読んだほうがいい。

ウルクの大杯」や「禿鷲碑文」などの個別の重要な遺物の知識は手に入った。

世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998

先史時代から古代の前半くらいまでを扱っている。分厚い本だがメソポタミア文明を扱っている部分は少ない。

通史がコンパクトに まとめられているので、入門者はこの本から読んだらいいのではないか。メソポタミア文明の執筆部分は前川氏の筆だ。

1998年出版と古いが、大枠は変わらない。新しい知識は他の本でカバーすればいいだけだ。

小林登志子/シュメル/中公新書/2005

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)

シュメール文明がどのようなものかを紹介する本だ。冒頭に書いてあるとおり、シュメール文明は現代社会の原点であり、この頃既に文明社会の諸制度がほぼ整理されていた、という。

ただしアッカド王初代サルゴンやウル第三王朝初代ウルナンムなど重要人物も押さえている。

この一冊でメソポタミアの全貌がわかるわけではないが、新書で読みやすい一冊に仕上がっていると思う。

ちなみに著者曰く、「シュメール」より「シュメル」という表記の方が原音に近いのでこちらを採用したとのこと。

小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016

メソポタミアで世界初の都市文明が形成される過程を書いた本。メソポタミアまたはシュメール文明について語る本は多いが、文明の誕生をクローズアップして詳しく語る本は少ないのではないか。貴重な本だと思う。

初めて造られた都市と言うものがどのようなものだったか、どうして造られたのかが分かる。

都市の定義はおそらく学者によって結構ちがうと思うがとりあえずこの本の都市のイメージ(?)を採用した。

前田徹/メソポタミアの王・神・世界観/山川出版/2003

王権というものを知りたくて手に取った本。どのように王権が誕生したかは分からなかったが、王権と神が強く結びついていることは理解した。結局のところ王権神授説だった。これはおそらく「首長権」は神より授かるものという考え方が先史時代からあったのだろう。

前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017

初期メソポタミア史の研究 (早稲田大学学術叢書)

初期メソポタミア史の研究 (早稲田大学学術叢書)

  • 作者:前田 徹
  • 発売日: 2017/05/25
  • メディア: 単行本

2017年に出版された本。上の本と同じ著者で、重なる部分は多いが、歴史の流れを詳細に書いてくれている分こちらのほうが読みやすい。

詳細に書かれている分、細かすぎて入門書とはならなそうだが多くの知識を得るにはこの本は欠かせないだろう。

碑文や手紙など著者の主張に対する論拠がちゃんと載っているので説得力がある。

後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩書房/2015

イラン(エラム)地方やペルシア湾岸地域の情報が載っている貴重な本。考古学からの視点。

大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997

農耕の誕生と文明の誕生のあいだに何があったのかを教えてくれる本が無い。この本が唯一わたしが発見できた本だが、不十分に感じている。

1997年出版名ので最新研究を盛り込んだ新版の出版を期待したい。



メソポタミア文明:シュメール文明の周辺⑧ マリ/その他の地域

ここでは前三千年紀の歴史だけを書く。それ以降はまた別の機会に書こう。

参考文献

以下は基本的に「Mari, Syria<wikipedia英語版」の記述のとおりに書く。

最初の居住者

f:id:rekisi2100:20170901052212p:plain

出典:図説メソポタミア文明/p52

マリは南メソポタミアとシリアを結ぶ交易ルートの中間にあった。

前2900年頃(初期王朝時代Ⅰ期)、最初の居住者はこの交易ルート(ユーフラテス川の船路)をコントロールするために移住してきた勢力だと考えられている*1前川和也氏はこの勢力アッカド地方のキシュの植民の結果だという仮説を紹介している*2。この最初の居住は前2550年頃(初期王朝時代Ⅱ期)に破棄された。原因は分かっていない。

マリ王国

初期王朝時代Ⅲ期(ただし前2500年より前)、マリは再建された。この年は綿密に計画され、中心部には神殿と王宮がある。王はルガルを名乗った。

メソポタミアとの関係は親密であったようで、有名なラガシュ王エアンナトゥムの碑文(禿鷲碑文)に、シュメールの諸都市国家とともにラガシュを攻めたことが書いてある。

マリ王 Iblul-Ilの治世(前2380年頃)には北方、西方に勢威をふるっていた。マリとエブラの関係は次の節で書こう。

f:id:rekisi2100:20170904043613p:plain
The second kingdom during the reign of Iblul-Il

出典:Mari, Syria<wikipedia英語版*3

マリ-エブラ戦争とその後の滅亡

マリは交易上のライバルであるエブラと抗争状態だった(「Ebla<wikipedia英語版」には “a hundred years' war” と書いてある)。マリ王 Iblul-Ilの治世にはマリはエブラから貢納(みかじめ料)を受け取っていた。

しかし前24世紀後半、エブラは貢納することを止めてマリに戦争を仕掛けた。最終的に、エブラがキシュとナガルと同盟を結んでマリに攻め、マリは敗北した。

Alfonso Archiによれば、マリ敗北の3年後、マリ王Isqi-Mariとアッカドサルゴンはエブラを攻め滅ぼした。その後10年以内にマリもサルゴンに攻め滅ぼされた。

アッカド王朝の統治時代から第三マリ王朝へ

マリはアッカド王朝三代目マニシュトゥシュ治世に再建された。マニシュトゥシュはマリに総督を派遣して軍政を敷いた。総督(Shakkanakku)は世襲だったが、アッカド王朝末期の混乱の中で独立して王朝になった。

この王朝はウル第三王朝と友好関係を結びウル王朝の降嫁政策の元で婚姻関係となった。形式上はウル王朝の宗主権を認めて総督を名乗ったが、独立は保たれ、マリ王は碑文には「ルガル」を使用した。

この王朝は19世紀のうちに消滅する。その原因は分かっていない。

経済

マリはシリア地方とメソポタミアをむすぶ交易の中継点として繁栄した。ユーフラテス川を利用する交易だけでなく、陸路のキャラバン輸送でも重要な役割をはたしていた。また羊、山羊を飼養する牧民にとっても、マリは交易、物品の調達の場であったろう。いっぽうで、はやくからユーフラテス川から水を得る運河が掘られて、市域を貫通していた。この運河が交易だけでなく、灌漑農業の水源としても利用されていたにちがいない。

出典:図解メソポタミア文明/p56

その他の地域

シュメール文明の周辺の勢力について書いてきたが、他には北メソポタミアのアッシュルや西方からメソポタミアに現れたアムル人(マルトゥ)勢力アッカド王朝の末期に現れたグティ等など。

前の二つはいつか別の記事で書こう。三つ目のグティ記事「メソポタミア文明:アッカド王朝時代⑥ 六代目以降の没落から滅亡まで/都市国家分立期」第三節「都市国家分立期」の第三項「グティ」で書いた。



*1:Mari, Syria<wikipedia英語版

*2:図説メソポタミア文明/p56

*3:諸作者:Sémhur、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Second_Mariote_kingdom.png

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺⑦ エブラ

参考文献

先史

f:id:rekisi2100:20170901052212p:plain

出典:図説メソポタミア文明/p52

エブラはシリア北部にあった都市国家。遅くとも前四千年紀末には居住(settlement)があった*1

居住の当初は従属の農村地域に支えられながら交易ネットワークの拠点の一つになっていた。おそらく南メソポタミアの羊毛の需要に応える形で交易が始められた。*2

前三千年紀

前3000年頃に王朝が興り*3、「国力は次第に増し、その絶頂を紀元前3千年紀後半、およそ紀元前2400年から紀元前2240年の間に迎えている」*4

エブラは交易ネットワークの重要な都市だった。交易相手は南メソポタミアだけでなく、エジプトもそうだった。古王国時代のファラオ(王)カフラー(前2570頃)やペピ1世(メリラー・ペピ、前2332–2287年)からの贈り物があったことから確認されている。キプロスとも繋がっていたようだ。*5

f:id:rekisi2100:20170901053018p:plain

出典:図説メソポタミア/p53

上の地図のように北メソポタミアの交易路の存在が明らかにされており、古代エジプトにおけるアフガニスタンラピスラズリはこのルートを通って輸入されたのだろう。

f:id:rekisi2100:20170901060646p:plain
ウマ科動物と車の小彫像
4頭(おそらく野ロバ)立ての車。宿駅をつなぐ遠距離交通に使われたと思われる。テル・アブラク出土。シカゴ大学オリエント博物館蔵

出典:図説メソポタミア/p53


[遺跡から出土した]粘土板には、民が様々な家畜(ヒツジ、ヤギ、ウシ)を合計20万頭所有していたと記録されている。エブラの主な商品はおそらく周囲の山地(レバノンなど)から伐採した材木、および織物(ラガシュから発掘されたシュメール語の記録にも言及されている)であった。手工芸品もおもな輸出品だったとみられ、真珠貝象眼した木製家具や色の異なる石を組み合わせて作った石像など、優美な加工品が遺跡から多く出土している。エブラの工芸技術は、後のアッカド帝国(紀元前2350年 - 紀元前2150年)に影響を与えた可能性もある。

出典:エブラ<wikipedia日本語版

前3000年頃から始まった王朝は前三千年紀後半に滅亡する。

アッカドの王サルゴンとその孫ナラム・シンはメソポタミアのほとんどを征服したが、二人とも自分がエブラを破壊したと書き記している。破壊された正確な時期についてはなお論争のさなかであるが、紀元前2240年は説の中でも可能性の高いものである。これ以後の3世紀の間、エブラは経済的な重要性を若干回復したが、以前の繁栄には及ばなかった。

出典:エブラ<wikipedia日本語版

エブラ文書

1974–76年の発掘シーズンにローマ大パオロ・マチエのチームによって発掘前24世紀のものとされる王宮文書庫で15000点を超える粘土板および断片群が発見された(実際の粘土板数は2500枚程度かもしれない)。*6

前24世紀の文書庫の発見は、シリア考古学者だけでなく、イラクの遺跡現場にいた考古学者や粘土板研究者を驚かせた。文書の多くは行政記録であったが、そのなかでじつに多くの「シュメール語彙」が使用されており、また用いられている文字サインじたい、ほぼ同時代の南部メソポタミア都市(とりわけシュルパク〔遺跡名ファラ〕やアブ・サラビク遺跡〔古代名ケシュ?〕)で発見された粘土板にみえるサインと酷似していたからである。またエブラ文書のなかには多くのシュメール語彙リストも含まれていて、それらは南部メソポタミア(おそらくアッカド地方のキシュと特定できるであろう)から直輸入されたテキストを教材として、シュメール語彙を学んでいたことが確証されたのである。それだけではなくエブラでは、シュメール語彙にエブラ語訳を与えた辞書テキストさえも編纂されている。[中略]行政文書にみえる人名や辞書文書内のセム語を手がかりとして、エブラ語の位置づけについての議論も行われてきた。発見当初とはちがって、しだいにエブラ語を東セム語と分類し、アッカド語にたいへんにちかいと考える研究者もふえてきてはいるが、西セム語とみなす説が消えたわけではない。

出典:図説メソポタミア文明/p53



*1:図説メソポタミア文明/p52、エブラ<wikipedia日本語版、Ebla<wikipedia英語版

*2:Ebla<wikipedia英語版

*3:Ebla<wikipedia英語版

*4:エブラ<wikipedia日本語版

*5:エブラ<wikipedia日本語版

*6:図説メソポタミア文明/p52

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺⑥ ペルシア湾岸文明(その3)バールバール文明

前回書いたウンム・ン=ナール文明からバールバール文明に移る。

バールバール文明

ウンム・ン=ナール文明があったオマーン(マガン)には銅鉱山と湾岸交易の中枢(首都機能)があったが、やがて、前三千年紀末または前2000年頃、首都機能は銅鉱山と切り離され、湾岸交易の支配者たちはバーレーン島に移った。あるいは支配者の交代が起こったのかもしれない。これがバールバール文明だ。(後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩書房/2015/p146-152)

オマーンのウンム・ン・ナール文明がマガンと呼ばれるのに対して、バーレーン島のバールバール文明はディルムンと呼ばれた。むかしに湾岸地域の代名詞『ディルムン』が復活したようだ。

f:id:rekisi2100:20170831070026p:plain

出典:メソポタミアとインダスのあいだ/p165

さらなる植民、ファイラカ島へ

湾岸における古代文明は、常にメソポタミアの要求を満たすために存在した。そうするためにはいかなる努力も惜しまなかった。もちろん湾岸文明側にも莫大な利益があったからだ。バールバール文明が、成立直後の前2000年頃に行なった重要なイノベーションは、より湾奥に位置するクウェイト沖のファイラカ島に、対メソポタミア貿易の拠点を設置したことである。そしてメソポタミア人のディルムン観はすべてここから作られた。

出典:p155-156

ファイラカ島は上の地図にあるようにメソポタミアの湾岸のすぐ南の小島だ。ここはディルムン国(バールバール文明)の出先機関ショールーム付きの「海外営業本部」だった(p200)。

ウル第三王朝時代滅亡後のイシン・ラルサ時代のメソポタミアにとってディルムンはファライカ島のことだった(p118)。

経済的目的でそこを訪れるメソポタミアの商人は、その地はディルムン国の出先で、本土はより遠方にあるバハレーン諸島であるという情報を、ファイラカで得ていたであろうが、ビジネス上そこを訪問する必要はなかった。

出典:p188

政治上は、ウル第三王朝時代以前とは違い、イシン・ラルサ時代のメソポタミア諸勢力は湾岸地域に影響力を発揮することはできなかったようだ。

ファライカ島には銅加工の工房もあった。オマーンにあった工房が消費地メソポタミアに近いファライカに移転した。「地域ごとの役割・機能の分化は都市文明の大きな特徴である」(p152)。

ちなみに、ウンム・ン=ナール文明衰亡後のオマーンは、ディルムン人の支配下で銅鉱石の採掘・精錬が行われる場所として機能した。

衰退

ディルムン国(バールバール文明)は、その前身であるマガン国(ウンム・ン=ナール文明)の役割を引き継ぎ、メソポタミアとインダスにおける二つの大農耕文明の間で、イランの陸上交易文明とリンクしつつ、商業的利益を上げることを最大任務とする海上交易文明であった。前二千年紀初頭におけるメソポタミア南部の衰退、インダス文明の衰亡が、ディルムンの衰退を引き起こす契機となったのである。

緩やかに進行する衰退の中で、[中略]ディルムンの首都と交易活動の中心はファイラカ島に移っていたであろう。この頃でも、バハレーンとスーサとの交易関係は以前続いていた。バハレーンがファイラカの支配下にあり、インダス文明が消滅し、メソポタミア南部が政情不安となった時期のディルムンは、エラムのスーサを最大の交易相手としたであろう。

出典:p255

その後、ファライカ島にはメソポタミア南部の勢力「海国」からの移民の急増し、「海国」の滅亡(前1475年)の後、カッシートの影響下に入って一時期繁栄するが、その後衰亡したようだ。

前回の記事にもすこし書いたが、銅の供給地としての役割も、アナトリア、東地中海地域に取って代わられ、ディルムンとの交易の記憶すら薄れていった。(前川和也・森若葉/初期メソポタミア史のなかのディルムン、マガン、メルハ/インダス・プロジェクト年報/2007<pdf>)

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺⑤ ペルシア湾岸文明(その2)ウンム・ン=ナール文明

前回は湾岸文明の先史までを書いたが、今回は文明の時代に入る。

前回の記事でハフィート期(ハフィート文化)を紹介した。 ここにヒーリー8遺跡が出てくる。

この遺跡は次の時代すなわちウンム・ン=ナール文明の遺物も出土するので、ハフィート期を第Ⅰ期(前3100-2800年)、第Ⅱ期をウンム・ン=ナール期(前2800-2000年)としている。

ウンム・ン=ナール期の文化は、ハフィート期の文化が経年変化したもので、前2500年頃になると、湾岸で最初の国際性の高い都市文明が成立する。アブー・ダビーのウンム・ン=ナール島にはその首都と首都住民のための墓地が作られた。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩書房/2015/p107

ハフィート期にはイラン(テペ・ヤヒヤ)からの人々が現在のアル・アインに移住してきた。彼らは故郷の黒色彩文土器(BOR)をアル・アインの土で作った。ヒーリー遺跡ではハフィート期(第Ⅰ期)を通してBORが出土し、ウンム・ン=ナール期の第Ⅱa~c1期までその傾向が続く。

[しかし]第Ⅱc2期〔前2500年〕になると、地元で作られた砂質の「ブライミー式」土器が出現し、以後のかく時期では全体の95%以上を占めるほどに増加する。第Ⅱc2期におけるこの画期は、生活文化の大きな変化、すなわちこの土地において独自の都市文明が成立したことを反映している。そして以後BORは副葬用に限られることとなり、集落遺跡からは姿を消す。

出典:メソポタミアとインダスのあいだ/p108

「ウンム・アン=ナール<wikipedia」によれば、この地名の意味はアラビア語で『火の母』を意味する。アブダビ島の東南に位置する小さな島である。

f:id:rekisi2100:20170824104704p:plain

出典:ウンム・アン=ナール<wikipedia

ウンム・ン=ナール島の居住期間は前2700-2200年だが、この島は前2500年頃に特別の人々が住む特別の場所になった(ソポタミアとインダスのあいだ/p111)。前述のヒーリー遺跡にも「立派な家系」の存在を示す立派な墓が発見されて、この文明の二大拠点の一つであった(p120)。

ウンム・ン=ナール文明 誕生の背景

f:id:rekisi2100:20170807062457p:plain

出典:後藤氏/p66

ウンム・ン=ナール文明はインダス文明とイランのトランス・エラム文明と同じ時期(前三千年紀中頃)に誕生している。

f:id:rekisi2100:20170810174216p:plain

出典:後藤氏/p113

イラン地方の人々はメソポタミア文明誕生以前からメソポタミアとの交易を行なっていたが、メソポタミアの文明が大きくなるに従って、イランの交易ネットワークも拡大した。

全体図を考えてみよう。イラン高原には、原エラム文明以来、ラピスラズリの産地であるアフガニスタン北東部、バダクシャン地方にあるショルトゥガイから東南部のムンディガク、セイスターンのシャハル=イ・ソフタ、ケルマーン地方のシャハダード、テペ・ヤヒヤというルートがあった。ヤヒヤからはファールス地方を経てエラム地方のスーサに至る南回りの路があった。もう一つはシャハル=イ・ソフタからイラン北部のテペ・ヒッサールに至り、テペ・シアルク経由でスーサに至る北回りの路である。南北の路は、世界有数の乾燥地帯であるルート砂漠を迂回している。これに海路がリンクするとどうなるのか?テペ・ヤヒヤから海岸(ホルムズ海峡)に至る路があったに違いない。ここから海の世界が始まった。ハリージー〔アラビア海(ペルシア海)の運搬に携わる海洋民〕たちは、イラン側とアラビア側を普通に往来していた。そしてマクラーン海岸に沿ってインダス河口に至るルートを開発した。[中略]

インターネットがそうであるように、「網」というものは、ルートの変更が容易に可能である。たとえ途中に通行不可の箇所が生じても、それに次ぐ別ルートが使用できる。陸海のネットワークがリンクすることで、人とモノはどこへでも移動することができるようになった。

出典:p113-114

このようにウンム・ン=ナール文明は巨大化した物流ネットワークの一部として誕生した。ウンム・ン=ナール島に「立派な家系」と首都機能と独自の文化が現れたが、基本的にはトランス・エラム文明を動かしている人々に従属的だったろう。ちなみに、アラビア海内のタールート島(上の地図参照)には古式クロライト製品の「第二工房」が設置されている(主工房はテペ・ヤヒヤにあり、その周辺(現在のケルマーン州)から原石と工人が島に運ばれた。古式クロライト製品については記事「エラムまたはイラン(その2)トランス・エラム文明」第二節「主力輸出品、ラピスラズリと「古式」クロライト製品」参照)。

銅山開発、銅製品、「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」

ウンム・ン=ナール文明は前の時代(ハフィート期)に引き継ぎ銅山開発が行われていた。

バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群

前回の記事でアラブ首長国連邦の「アル・アインの文化的遺跡群」を紹介したが、この遺跡の国境を挟んだ隣にオマーンの「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」がある。どちらの遺跡群も世界遺産登録されている。

「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」は、世界遺産の公式のページ「Archaeological Sites of Bat, Al-Khutm and Al-Ayn」によれば、その始まりは前三千年紀だということだ。アフダル山地の銅鉱脈からの採掘、精錬、銅製品作成を行ない、メソポタミアへ輸入した。

発掘された遺物群によれば、ウンム・ン=ナール文明圏の銅製品は釣り針、縫い針、剣、斧がある。後藤氏は「ウンム・ン=ナール文明はオマーン半島の銅を採掘し、初期の加工を行なった後に、製品を遠隔地へ個繰り出すという目的でオマーン半島に作られた文明である」と主張する(p139)。

前三千年紀には青銅器時代が到来していたが、この文明圏では青銅器の出土品はほとんど無い。

ウンム・ン=ナール文明と「ディルムン」と「マガン」、「メルッハ」

アッカド王朝初代王サルゴン治世

サルゴン王はなぜシュメル地方の諸都市を破ることができたのだろうか。強さの秘密は常備軍を持っていたことであった。次に引用する王碑文にもそのことが書かれている。この王碑文もシュメル語とアッカド語の二カ国語で書かれ、後世の写本である。

キシュ市の王、サルゴンは34回の戦闘で勝利を得た。彼は諸都市の城壁を海の岸まで破壊した。彼はアッカド市の岸壁にメルッハの船、マガンの船そしてティルムンの船を停泊させた。

王、サルゴンはトゥトゥリ市でダガン神に礼拝した。

ダガン神はサルゴンに森(アマヌス山脈)と銀の山(タウロス山脈)までの上の国、つまりマリ市、イアルムティ市そしてエブラ市を与えた。

5400人が、エンリル神が敵対者を与えない王、サルゴンの前で毎日食事をした。(略)

サルゴン王が毎日の食事を提供した5400人の兵士がいたことが書かれていて、王に忠誠を誓う戦士集団を育成していたことがわかる。

メルッハはインダス河流域地方(エチオピア説もある)、マガンはアラビア半島オマーン、ティルムン(シュメル語ではディルムン)はペルシア湾のバハレーンおよびファイラカ島にあたるといわれている。三カ所ともに銅の交易拠点であった。また、マガンからは閃緑岩、ディルムンからは玉葱が輸入されていた。

サルゴン王は常備軍の力によって、ラガシュ市やウル市に替わってペルシア湾を中心とした交易を掌握し、富を得た。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p175-176

初期王朝時代までは、メソポタミア人には「マガン」や「メルッハ」の地名は知られていなかった*1が、アッカド王朝初代サルゴン王の頃には知られるようになった。

上の「マガンはアラビア半島オマーン」というのがウンム・ン=ナール文明のことである。

アッカド王朝四代目ナラムシン治世

アッカド王朝四代目ナラムシンの治世になるとペルシア湾はマガンの海(または下の海)と解されるようになる。これは交易の海路の中継地がディルムン(バーレーン)からマガン(オマーン)に代わったことを示すのだろう。ウンム・ン=ナール文明の人々がペルシア湾の海(とその交易)を牛耳っていた。

彼(ナラムシン)はマガンを征服し、マガンの支配者(EN)マニウムを捕虜にした。その(マガンの)山で彼は閃緑岩を掘り出し、彼の市アッカドに運んだ。(その石で)彼の像を造り、[―神に奉納した]

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p103

ナラムシンはマガンに遠征して支配者を捕虜にしたが、マガンを直接支配することはなかった。ウンム・ン=ナール文明は続いたことは考古学の遺物から明らかだ。

もうひとつ、マガンからは閃緑岩は採れない。これはメソポタミアへの輸出用のイラン地方の石材(閃緑岩)をマガンが保管していたものをナラムシンが奪ったのだろう。『メソポタミアとインダスのあいだ』(p141)には、これを「国家によるきわめて積極的な経済活動の一つ」と解している。つまりマガンが閃緑岩その他の交易品の値段を高く設定していることに対して武力で対抗した結果だということ。

後藤氏は上のナラムシンの碑文(?)を次のように解している。

こうした記事のもつ支配者の「業績表」という性格から、もし相手国の出先も本土もことごとく攻略に成功したのであれば、彼の祖父サルゴンがそうしているように、個別の地方名をことごとく、時には必要以上に列挙して誇るのが普通であり、単に「マガンを征服した」などとはかかないのである。このように単一の征服地名を記していることは、マガン国の一部、おそらくメソポタミアから地理的に最も近い一拠点を攻撃し、政治的および経済的目的を達成したことを示しているのである。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/p142-143

ウル第三王朝時代

ウル第三王朝時代になってもウンム・ン=ナール文明は健在だった。

この時代になるとメソポタミアとメルッハの直接交流が無くなる。さらにディルムンの言及が激減し、マガンの地名は頻繁に言及される。つまりマガンがペルシア湾交易をほぼ全部を担っていた。いっぽうメソポタミアからも頻繁にマガンに出向くようになり、メソポタミア―マガン間の交易は国家としても かなり重要なものになっていた。この交易を管理する最高責任者は王族も就くことがあった高い地位にあり、中央政府と直結していた。*2

マガンの方の動きを見ると、彼らはメソポタミアに より近いバーレーン島に積極的に移民をしていた。上にある年表(考古学の編年表)のバハレーン(バーレーン)島のⅠa,b期の遺物は土着のバールバール式の土器が大多数だが、少量ながらマガンの土器も出土する。ウンム・ン=ナール文明は前2000年頃に衰亡するが、上の移民行動は文明の移転つまり中継地の移転の前段階だった、と後藤氏は主張する(メソポタミアとインダスのあいだ/p146-152)。

ウンム・ン=ナール文明の滅亡

すぐ上で既に書いてしまったが、この文明はオマーンからバーレーン島に移転した。オマーンの「銅鉱山プラス中継地拠点」という利点を捨てて、よりメソポタミアに近いバーレーンを中継地拠点に選んだ。

イシン・ラルサ時代以降のことになるが、マガンの銅供給地としての役割も無くなってしまった。

こののち銅はアナトリア、東地中海地域からメソポタミアにもたらされるようになる。ほぼ時期をおなじくして、東方ではインダス文明が姿を消す。もはやメソポタミアの人々は、メルハをインダス河地域と認識できなくなるであろう。

出典:前川和也・森若葉/2007



オマーン半島」というのは正式な地名ではないようだ。

*1:前川和也・森若葉/初期メソポタミア史のなかのディルムン、マガン、メルハ/インダス・プロジェクト年報/2007<pdf>

*2:前川和也・森若葉/2007

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺④ ペルシア湾岸文明(その1)文明の先史

この記事のペルシア湾岸文明とはアラビア半島側の文明のことを指す。反対側のイラン(またはエラム)の文明は前回までの記事で書いた。

湾岸文明の先史から時系列を追うように書いていこう。

農耕文明と非農耕文明

人間の歴史は、多くの場合、農耕民の手によって、彼らの世界を中心に書かれてきた。「農耕社会こそ正しい社会だ」という自身に満ちた価値観は、近代の歴史学歴史教育においても継承されている。多くの時代において、農耕民は数において圧倒的であり、物質文化の豊富さに加え、文字による記録を多数遺してきたが、だからといって、彼らの歴史・文明だけが人類の歴史・文明であるということにはならない。そもそも農耕民だけで作られた文明などあるのだろうか?彼らの歴史と接する非農耕民の歴史・文明をも包括することで、はじめて人類の歴史・文明が偏りなく理解される。このことが理解され始めたのはそれほど昔のことではない。日本では江上波夫の「騎馬民族征服説」(1948年)に代表される歴史観が、非農耕文明の意義を一般人に広める最初の契機となった。他方湾岸では、1950年代以降、同地における近代考古学の研究が本格的に始められてから、もう一つの非農耕文明である海洋民の文明が、明らかになってきた。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015

ペルシア湾

f:id:rekisi2100:20170821082407p:plain

出典:ペルシア湾wikipedia

ウバイド文化とペルシア湾岸:ウバイド系文化

記事「先史② ウバイド文化」第三節「ウバイド文化の拡大」で少し書いたが、ペルシア湾岸は南メソポタミアの交易相手の一つだった。ウバイド文化が栄えて四方に文化と交易ネットワークが拡大するのはウバイド文化Ⅲ期になってからだが、ペルシア湾岸の遺跡にはウバイド文化Ⅱ期の土器も発見されている。

f:id:rekisi2100:20170413160348p:plain

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p25


アラビア湾岸におけるウバイド系遺跡の分布は当時の海岸(湖岸)付近に限定されるので、その担い手は海産物、特に真珠貝の採集集団であったと考えられている。アブー・ハーミスでは、クウェイトのH3遺跡と同様に、大量の真珠貝殻のほか、穿孔用の石錐も多数出土しているので、真珠や真珠母(貝殻内面の平面真珠。漆器螺鈿に使われるものと同じ)の工房があったものと思われる。現在もそうであるように、利用可能な真珠棚はアラビア湾内に限られていたものとみえ、それを求めた人々が遺したウバイド系遺跡の分布は、オマーン湾アラビア海には広がらないのである。[中略]

ちなみに現在のところ、ウバイド系文化の痕跡はイラン側では知られていないが、なぜだろうか?それはたぶん湾の両側の海底の地形に原因がある。一般的にだが、アラビア側は極端な遠浅であるのに対して、イラン側はその逆であることが多く、最重要な海産物である真珠の生育に違いがあったのだろう。

出典:メソポタミアとインダスのあいだ/p30-31

湾岸に遺る初期の遺跡は、基本的にウバイド人のものだった。ウバイド人は真珠漁期である5月半ばから9月半ばにかけて湾岸に住みついた。彼らはウバイド文化の最も普通の方法で家を建て、持ってきた土器が足りなければ地元の土でウバイド文化の土器を作った。

これらの遺跡に遺る文化を筆者の後藤氏はウバイド系文化と名づけた。この文化は南メソポタミアでウバイド文化からシュメール文明に代わった後、消滅した。ウバイド系文化は湾岸に影響を残すことは無かった。(p30-31)

ハフィート文化とディルムン

メソポタミアはウバイド期からウルク期(シュメール文明の初期。前3500-3100年)に代わる。

ウルク期のシュメール人はウバイド人のようにペルシア湾に赴かなかったようだ。つまりこの頃の遺跡が湾岸には無い。

メソポタミアとインダスのあいだ』ではウルクの人々が海上の往来に不慣れだった可能性を書いている(p48-49)。もっと単純な考えとしてウルク人が真珠に興味を持たなかったか、もしくは別のルートで入手できた、というのはどうだろうか。

ウルク期より後のことになるが、シュメール人ラピスラズリ(青い貴石)を好んで、紅玉髄(カーネリアン、赤い貴石)は不人気だったことを思えば、真珠が漁をするほどの価値を持たなかったと仮定することは無理のないことだと思う(仮定に過ぎないが)。

ジェムデト・ナスル期(前3100-2900年)になると湾岸とメソポタミアの関係が復活した。アラブ首長国連邦(UAE)のオマーンとの国境に位置する都市アル・アインに古代遺跡群があるが、その中の一つ積石塚墳墓群の墓室内からメソポタミア製のジェムデト・ナスル式彩文土器が出土した。

この遺跡群の一つ、ヒーリー8遺跡では、ハフィート期以降の全ての時期で銅製品が存在し、加工も行われていた。ハフィート期の採鉱の場所はまだ特定されていない(p56)が、オマーン半島における銅山の開発事業はハフィート期にすでに始まっていたというのが、多くの研究者の考えである(p107)。

ハフィート文化の銅製品はメソポタミアへ輸出されたが、アル・アインメソポタミアのあいだのバハレーン(バーレーン)島の古代遺跡からはジェムデト・ナスル期の土器や印章が出土する。

ハフィート文化の担い手

次にハフィート文化の担い手の話に移る。

ハフィート期の人々とは何者だったのだ。彼らは採掘した銅鉱石を加工し、また製品を使用してもいた。それまで土器作りの伝統もなく、農耕も満足に行なった形跡のない、オマーン半島の石器時代人が、突然銅山の開発を始め、製品を輸出するというのは、いくらなんでも無理がある。それならば、ハフィート人はどこから到来した人々ではなかったか。

出典:p57

著者後藤氏の主張によれば、それはイラン東南部のテペ・ヤヒヤの人々だった。言い換えれば、テペ・ヤヒヤがオマーン半島を銅山開発のために植民地にした。

f:id:rekisi2100:20170807061918p:plain
エラム文明の物流ネットーワーク

出典:後藤氏/p43

  • 「ハフィート山」「ヒーリー8」と書いてあるのが、アル・アインの遺跡群。
  • 「?(原ディルムン)」となっているところがバハレーン(バーレーン)島。

この主張の根拠となる物はヒーリー8遺跡で出土した黒色彩文土器(Black-on-Red Ware、BOR)だ。この土器はテペ・ヤヒヤから出土する土器と酷似しているのだが、胎土の理化学分析の結果、オマーン半島製だった(p52-53)。テペ・ヤヒヤの人々は銅山開発のためにオマーン半島に植民して、その地の土で故郷と同じ様式の土器を作成した。これはウバイド人が真珠漁のために湾岸に一時季移民して移民先の土で土器を作成したのと同じだ。そして銅山開発が真珠漁と違うところは、真珠漁が一時季に限ることに対して銅山開発と銅製品作成は年中続けられた。文化が根づいたか根付かなかったかの違いはここにある。

これが上のような原エラム文明のネットワークの一部に組み込まれていた(記事「シュメール文明の周辺① エラムまたはイラン(その1)原(プロト)エラム文明」参照)。

ディルムン

ヒーリー8遺跡ではメソポタミア製土器も出土した。どうしてハフィート期の人々の出自がメソポタミアではないといい切れるのか?それは当時のメソポタミアの人々は河口より南のことはほとんど何も知らなかったである。彼らは湾岸地域を漠然と「ディルムン」と呼んで湾岸地域については銅製品を含む舶来品が来る地域くらいのイメージしか持っていなかった(p55)。楔形文字の前身である古拙ウルク文字の粘土板にはDILMUNと読める語彙が見られるという(p54)。ディルムンは上述したようにメソポタミア人に舶来品の来る地域と思われていたが基本的には良いイメージを持っていたようだ。

後藤氏は以下のような例えを書いている。

「ディルムン」とは、シュメル語の世界では、ちょうど日本語の「漢」や「唐」のように使われていたことがわかる。漢や唐は本来は良き地名(国号)であり、そこからもたらされた漢詩や漢方、唐三彩や唐物のような良きものを指していたが、唐辛子のように、必ずしも中国起原ではないものや、唐紙のように自国製の高級品に冠された例もある。

p55

このような環境の中で、オマーン半島の銅や銅製品も「ディルムン産」というブランド商品としてメソポタミアに運ばれた(p63)。

別の文献の引用をしよう。

私たちが知りうるかぎり、この時期〔初期王朝時代Ⅲ期〕のメソポタミア楔形文字文献にはディルムン〔バーレーン〕のみが言及される。マガン〔オマーン〕やメルッハ〔インダス文明地域〕はあらわれない。じっさい当時、ディルムンは、シュメールの人々が海路で物産を輸入するさいの唯一の中継地であったらしい。人々は船でディルムンまで出向き、そこでさらに遠方から(たとえばメルッハやマガンから)到来していた商人たちと交易交渉をおこなっていたのであろう。なおこの時代やそれ以降に書かれた楔形文字テキストで「ディルムンの船」がしばしば言及されるが、おおくのばあい、この語は「ディルムン人の船」の意味ではなく、ディルムンまでの航海に耐えられるように、南部メソポタミアで建造された船を指している。前24 世紀中葉のラガシュでは、人々はしばしば「ディルムン船」の形状をした青銅容器を神殿に奉納していた。

この時期のラガシュ王朝の創始者ウル・ナンシェは、ディルムンから船で木材をラガシュまで運んだとくりかえし語っている。また王朝の末期に記された行政記録には、「商人(damgar3)」が王室のためにディルムンの銅を輸入したとある。いうまでもなくディルムン(バーレ-ン)は銅の産出地ではない。銅はマガン(オマーン)から、あるいはさらに遠方からディルムンに送られてきていたにちがいない。

出典:前川和也・森若葉/初期メソポタミア史のなかのディルムン、マガン、メルハ/インダス・プロジェクト年報2007(pdf

メソポタミア人が実感できる湾岸地域の南端はバーレーン島であり、それ南のオマーンも、あるいは海を渡って東方のインダスも、「ディルムン」と一緒くたにしていた。

ハフィート文化は原エラム文明の一部

以上のようにハフィート文化はテペ・ヤヒヤからの植民によってできたもので、大きな枠から見れば原エラム文明もしくはその物流ネットワークの一部であり、独自の文化とは言えないようだ。独自の文化が出現するのは、この後の時代、ウンム・ン=ナール文明期のことになる。



関連記事

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺③ エラムまたはイラン(その3)「原(プロト)エラム文明」後のエラム

「原エラム文明」の交易ネットワークは「トランス・エラム文明」が引き継いだが、その頃、エラムはどうなっていたか?

この記事ではその頃のエラムの話を書く。

「原エラム文明」の終わり(おさらい)

前回の記事の第三節「スーサの考古学」に引用したが、後藤健著『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書/2015/p68)によれば、原エラム文明は遅くとも前27世紀に終わりの日を迎えた。後藤氏によれば南メソポタミアの有力都市キシュ市の王エンメバラゲシがスーサに侵攻した、としている。

ただし、これはシュメール王名表に書いてある「キシュのエンメバラゲスィ、エラムを撃つ」という文句と、スーサ(エラム)の考古学研究の成果から推測した後藤氏の主張である(記事「初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期」第三節「シュメールの「王名表」から」参照)。

初期王朝時代ⅢB期のエラム

初期王朝時代ⅢB期(前2500-2335年)はシュメール文明の時代区分。シュメールは前2500年頃に文字体系が整い、この頃から碑文やその他の文書が出土する。

こうした中でエラムが最初に文書に登場したのは、南メソポタミアの有力都市ラガシュの王エアンナトゥムの碑文である(エアンナトゥム王の戦勝碑(禿鷹碑文/禿鷲碑文) )。前田徹著『初期メソポタミア史の研究』*1(p202-203)によれば、この碑文はエアンナトゥムはウンマ、ウル、ウルク、キシュ、アクシャク、マリ、そしてエラムと東方の勢力を相手に戦勝したことが書いてある。

もうひとつ、エアンナトゥムの3代後のエンアンナトゥム2世治世にもラガシュ-エラムの戦争があった記録が遺っている。

前田氏は「シュメールとエラムの都市/国家の間に、恒常的な敵対関係があったことは確かである」(p206)と主張するが、上記2つの文書以外は記録がないようだ。初期王朝時代末期の覇者であるウルク王エンシャクシュアンナやウンマ王ルガルゲザシはエラムに関する記録を遺していない(p206)。

アッカド王朝時代のエラム

前田氏は、アッカド王朝時代のエラムを「エラム=スーサ」と「エラムエラム地方(スシアナ、スーサと周辺地域)」という二つの意味で使用している。(p206~)

初代王サルゴン治世にはエラム地方にはスーサ(エラムと呼ばれていた)だけでなく、パラフシという有力国家(勢力)が存在していた。スーサとパラフシの支配者は「ルガル(王)」を名乗り、これらに従属する勢力の支配者は「エンシ」を名乗った。つまりメソポタミアの初期王朝時代末期の上下関係がエラム地方にも存在した。(p207)

(このパラフシは後世ではマルハシと呼ばれ、おそらくテペ・ヤヒヤを含む地域を表す。メソポタミア人が珍重したクロライト=マルハシ石の産地として有名だった。現在のジーロフト遺跡。ケルマーン州に当たる。*2

サルゴンから三代目のマニシュトゥシュまで遠征を繰り返し、マニシュトゥシュの治世には当時のイラン地方の第二の中心都市と言われる(メソポタミアから見て)スーサよりも東方の都市アンシャンまで支配下に置いた。四代目のナラムシン治世はイラン地方の支配は安定していた(ナラムシンは東方ではなく西方の遠征に注力した)。

しかし五代目シャルカリシャリの時代になると、エラム勢力アッカド地方の北辺アクシャクまで及ぶ事態になっていた。シャルカリシャリはエラム勢力アッカド地方への侵攻を撃退したが、その後もエラム勢力の勢いは衰えなかったようだ。(p206-210)

エラム」という地名の範囲の変遷

エラムという地名は長く、スーサを指す言葉だったり、あるいはスーサの周辺を意味する「スシアナ」と同じ言葉だった。これが変化する時期はシャルカリシャリ治世以降のことだった。

アッカド王朝が崩壊した後の有力都市ラガシュのグデア王の記録によると

エラムであるアンシャンの町を武器で打った。その戦利品を、ニンギルス神のために(主神殿である)エニンヌ神殿に運び入れた。

とあり、この「エラムであるアンシャンの町」というのが、エラムがスーサからアンシャンに亘るイラン高原一帯を指す言葉に変わる 初めの記録だった。(p210-214)

高原一帯ということは東へだけでなく、エラム勢力アッカド地方の周辺にまで及ぶことにより、エラムは北方へも伸長した。

ただし、イラン高原の北東は砂漠だったため、勢力は存在しなかったようだ。

プズルインシュシナクの登場

シャルカリシャリ以降のアッカドの衰退の中、イラン地方(≒エラムイラン高原)を統一したプズルインシュシナクという傑物が現れ、エラム地方を統一した。

f:id:rekisi2100:20170724095946p:plain

出典:初期メソポタミア史の研究/p217

プズルインシュシナクはアッカド王朝時代末期からウル第三王朝時代草創期の人物で、エラム地方を統一し、アッカド地方も占拠していたが、ウル第三王朝の初代王ウルナンムにより、アッカド地方より外に追い出された。プズルインシュシナクの治世は長かったが、上の地図のような支配領域は彼一代限りのようで、ウル第三王朝二代目シュルギの治世中にエラム地方はウル王朝の支配下に組み込まれた。*3

(プズルインシュシナクはwikipediaでは「クティク・インシュシナク(英語版ではKutik-Inshushinak)」の名前で登録されている。

ウル第三王朝時代のエラム

上に少し書いてしまったが、ウルナンムによりエラム勢力アッカド地方から追い出され、シュルギの治世でエラム地方が支配下に組み込まれた。

ウル王朝は基本的にエラム勢力に対して「降嫁政策」を用いて支配した。ただし、重要都市のスーサには王朝から派遣した官僚を支配者(エンシ)にして、エラム地方の監視の任務を兼務させた。このスーサの支配者は将軍が就く職だったが、四代目シュシンの治世では王の酒杯人が就いた。エラム地方の監視の任務はスッカルマフという職に移譲された。

スッカルマフは、「伝令(sukkal)の長(mah)」の意味である。スッカルマフが、ウルの王宮における最高官職の一つであることに間違いなく、ウルの王の軍事や外交を輔佐し、難問が続出するエラム政策において重要な役割を果たした。スッカルマフのイルナンナが主導することで、ウルのエラム政策が一つの転機をむかえた。

出典:初期メソポタミア史の研究/p237

このイルナンナはスッカルマフの職を三代目アマルシン治世から就いており、シュシン治世に権力を増し、エラム地方全体を管理する任務を担うこととなった。イルナンナは従来の降嫁政策などによる間接統治から直接統治への切り替えを目指していたが、以下に示すようにシマシュキなどの反乱・支配からの離脱が相次ぎ、イルナンナの政策の失敗とともに王朝は滅亡へと向かった。(p222-242)

シマシュキの台頭とシマシュキ王朝成立

f:id:rekisi2100:20170818064532p:plain

出典:初期メソポタミア史の研究/p227

シマシュキは上の図のスサの北方に位置する。

スーサのエバラト

ウル第三王朝は五代目イッビシンの即位早々から王朝滅亡の危機に直面していた。王朝がスーサを支配していたのはイッビシンの3年までだった。それまでイッビシンの年名が使用されていた。その後「エバラトが王(になった)年」「エバラトが王(になった)次の年」のようにスーサはエバラトの支配下に入った。

このエバラトはシマシュキの支配者だった。彼の名は二代目シュルギの晩年(46年)に記録されており、それから頻繁に王朝に貢納したことが記録されている。貢納するシマシュキの支配者が複数記録されていることからエバラトがシマシュキを統一してそれからスーサを支配したと考えられる。エバラトは四代目シュシンの治世に反乱を起こし破れたが、イッビシン治世にスーサの王になりエラム地方の支配を拡張していった。イッビシン治世にはシマシュキ以外のエラム勢力は王朝からの離脱または反乱を起こしていたが、このような勢力を飲み込んでいったのがシマシュキの勢力だった。(p242-245)

アンシャンのダジテ

ややこしいことにもう一つのシマシュキ勢力が登場する。

アルマシン8年の1文書、シュシン2年の2文書において、シマシュキのエバラトの使節とともに、アンシャンのダジテの使節が記録される。ダジテは常にアンシャンの人と記録される。

出典:p245

ダジテはシマシュキ出身の人物だったが、ラバラトがスーサを支配するよりも先に、アンシャンの支配者になっていた。ダジテはウル王朝に友好的または従属していたが、その後継者インダトゥはそうではなかった。

ウル王イッビシンの9年にキンダトゥはウル王朝に反抗した。この時、スーサのシマシュキ勢力(エバラトもしくはその後継者フトランテムティ)はウルの王に恭順した。

しかしその5年後のイッビシン14年にはスーサはキンダトゥの支配下に入り、ともにウル王朝と戦った。

イッビシン24年、イッビシンは破れてアンシャンに連れ去られたが、この連れ去った勢力の支配者がキンダトゥだった。

シマシュキ王朝の成立

既にウル王朝は滅亡し、キンダトゥはイシン第一王朝のイシビエラと外交交渉を行っていた。

前田氏の主張によれば、キンダトゥはエバラトの娘と結婚し、その息子のイダドゥが後継者となった(p253)。スーサとアンシャンを支配下に置いたシマシュキ勢力の支配者イダドゥは、統一王朝に相応しい体裁を整えるために王都をスーサに移し、王号を名乗った。これでシマシュキ王朝の成立となる(エバラトの後継者だったフトランテムティはその地位を奪われた)。

シマシュキ王朝が成立し、強大な勢力となって以後、エラムは、イシン・ラルサ王朝時代を通して、メソポタミアに政治的影響力を有し、前2千年紀後半には、チョガ・ザンビルに自らの名を採った新都を建設したウンタシュナピルシャや、メソポタミアに侵攻しハンムラビ法典などの戦利品をスサに持ち帰ったシュトゥルクナフンテなどが活躍する最盛期を迎える。こうしたエラムの動向を可能にした土台は、メソポタミア都市国家から統一国家へと反転したと同様に、アッカド王朝末期のプズルインシュシナクと、ウル第三王朝滅亡時のキンダトゥによって達成された全エラムの統合があった。

出典:p255