歴史の世界

メソポタミア文明:アッカド王朝時代⑤ 五代目シャルカリシャリ

[四代目]ナラムシンの治世にアッカド王朝は最大版図になったが、ローマ帝国に例を採るまでもなく絶頂期が没落の始めであり、支配領域の縮小と滅亡に至る権力の弱体化が顕著になる時代である。

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p112

神にならなかった王

先代ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」の王号を使用し、自らを神格化したが、シャルカリシャリはその王号も神格化も拒否するように、先々代までの伝統的王権観に回帰した。

彼は、王権の伝統性を最高神エンリルに選ばれることに求め、自らを「エンリル神が愛する子、強き者、アッカドとエンリル神の統治下にある人々の王」(RIME 2,188)と名乗った。

出典:初期メソポタミア史の研究/p112

シャルカリシャリのあとアッカド王朝が没落することを考えれば、アッカド王朝はシュメールの伝統的王権観を受容した王朝であり、ナラムシンだけがその例外だった、と言えるようだ。*1

対外戦争

先代までは「外征」を行ったが、シャルカリシャリは「防戦」を行った。

アッカド王朝の領地を脅かしたのはグティ、マルトゥ(アムル)、エラムだった。

マルトゥ(アムル)はシリア方面の遊牧民だった*2。彼らは後世メソポタミアに浸透して政権に関わるようになるのだが、シャルカリシャリ治世においてはそれほどの脅威ではなかった。マルトゥとの戦場もシリア領域だった。

エラムとの戦場はアクシャクだった。アクシャクはティグリス川の上流部にあり、アッカド地方の入り口に当たる。ここを突破されたら王朝は滅亡の危機に晒されることになる。『初期メソポタミア史の研究』(p113)によると、エラムの侵攻はアッカド地方に甚大な影響を与えて王朝が滅亡する主要因になったと思われる、と書いてあるがその証拠は示されていない。

グティはシャルカリシャリ治世に初めて史料に登場したのだが、ザグロス山脈方面からメソポタミアに侵入したという以外、殆ど何も知られていない*3

グティのシュメールへの侵入の証拠はある。シャルカリシャリからラガシュ市にいるアッカドの高官に宛てた手紙だが、グティが家畜を略奪した場合の対処について書かれている。これより治世中にグティがシュメール地方を跋扈していることがわかる。また、この手紙より少なくともこの頃はラガシュ市はアッカド王朝の支配下にあったことが確認される。『初期メソポタミア史の研究』(p304)

内乱

二代目と四代目の治世にも内乱の記録が残されているが、シャルカリシャリ治世も内乱があったようだ。ただウルクとナグスが反乱を企て、鎮圧されたことしか分からない(『初期メソポタミア史の研究』(p113、p119)。

支配のほころびをもうひとつ。

ラガシュ出土の行政経済文書が支配者の言語アッカド語ではなく、再びシュメール語で書かれ始めた[以下略]。

出典:初期メソポタミア史の研究/p113


まとめ

五代目シャルカリシャリの時代は絶頂期のナラムシン治世とは真逆の防戦に明け暮れる日々だったようだ。しかし情勢悪化の中でシャルカリシャリは辛くも支配を維持した。混乱期に入るのはシャルカリシャリの後の時代か治世末期からになるだろう。



前田徹氏はナラムシン治世より統一国家形成期に入ると主張するが、シャルカリシャリが「四方世界の王」の王号も王の神格化も受け継がずに、先々代の伝統に戻したことを考えれば、この主張には納得できない。

*1:前田氏はナラムシンより後を統一国家形成期としているがこの王の王権観は受け継がれていない以上かれの治世を画期とは考えられない。

*2:アムル人<wikipedia

*3:グティ人<wikipedia

メソポタミア文明:アッカド王朝時代④ 四代目ナラムシン

遠征

四代目王ナラムシンは前三代を引き継いで頻繁に外征を行った。そして彼の時代にアッカド王朝の最大版図を築いた。北はスビル(スバルトゥ=アッシリア=北メソポタミア)、西はエブラ・杉森(=シリア)、東はバラフシ(スサよりの東方)、南はマガン(オマーン)までを影響下に置いた。これにより広域の交易ネットワークがナラムシン一人の影響下に置かれた。

東方は主に前三代が征服し、ナラムシンはユーフラテス川の上流の西方と南方を主に征服した。特にナラムシンは西方の征服を前人未到の快挙として碑文で誇っている。

ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」の王号を使用した。

(前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p102-104)

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ナラムシンがザクロス山脈の勢力Lullubiに勝った時の記念碑。
ルーブル美術館所蔵

出典:Victory Stele of Naram-Sin<wikipedia英語版*1

反乱と統治

二代目王リムシュの即位直後にシュメール地方で反乱が起こったが、ナラムシンの即位直後にはキシュの王(lugal)を首謀者とする反乱が起こった。シュメール地方の都市国家もこれに呼応したというので、ナラムシンは国の大半を敵に回して戦わねばならなかった。

ナラムシンはこの反乱を鎮圧したが、統治方法は以前のものを継続したようだ。

ナラムシンの支配は、サルゴン以来の基本的な形態を変えることなく、領邦都市国家以来の文献的な都市国家的伝統を尊重して、アッカドの権威に従う在地勢力の有力者を支配者に据えて行われた。

出典:初期メソポタミア史の研究/p112

神になった王/神格化

ナラムシンは上述の反乱鎮圧の後、自らを神格化した。ウルクのイナンナ神を始めとする神々が、ナラムシンが神になることを要請した、と主張した。

しかしこの神格化は最高神エンリルと同等の地位でもパンテオンの大神と伍するものでもなく、「アッカド市の守護神」であった。これはアッカド市の都市神イラバ神の配下の将軍の地位にあたるらしい。

神格化と言っても控えめというか かなり中途半端な感じがするが、自らを神格化した王はメソポタミアではナラムシンが最初である。

(初期メソポタミア史の研究/p106-107)

王冠の授与

都市国家分立期からナラムシン治世より前までは王権の象徴と言えば王杖だったが、ナラムシン以後はこれが王冠になった。これ以降、王冠の授与=戴冠式が行われるようになる。(初期メソポタミア史の研究/p107)

アッカド地方」の成立

メソポタミアは北のアッカド地方と南のシュメール地方と区分できるが、アッカド地方と呼び習わされるのはナラムシン以降のことらしい。

サルゴンアッカド市の王であったにも関わらず、前々回の記事で書いたように、「アッカド市の王」の王号は使用せず、代わりに「全土の王(LUGAL KIS)」の中に「キシュ市の王」の意味を込めていた。サルゴンの時代にはまだ北メソポタミアの中心はキシュであり、彼の後の2代もこれに倣った。

ナラムシンは「全土の王」は使用せず、「アッカドの王、四方世界の王」と連称することによってアッカドがシュメール文明圏の中心であるという統合理念を示した。これよりアッカド王朝はようやくキシュの伝統的権威から抜け出して、名実ともにアッカドがこの地域の中心となった。「アッカド地方」の成立である。

ちなみに「シュメールとアッカドの王」という王号が使用されたのはアッカド王朝滅亡後のことである。

(初期メソポタミア史の研究/p109-110)



『初期メソポタミア史の研究』で前田氏はナラムシンの治世より「統一国家形成期」が始まるとしているが、いまのところ納得できていない。国内の統治体制は上述のようにサルゴンの統治方法を踏襲しているし、広い地域を影響下に置いたと言っても次代のシャルカリシャリの治世でそれは崩れてしまう。ナラムシンの治世により時代が大きく変わったとは思えない。

メソポタミア文明:アッカド王朝時代③ 二代目リムシュ/三代目マニシュトゥシュ

リムシュとマニシュトゥシュの外征

サルゴンを継いだリムシュも積極的にエラム遠征を行ない、勢力を維持していたバラフシの王を殺し、エラム全土の支配権を掌握した。リムシュはエラム征服の成功を祝って、支配化にある諸都市の都市神に戦利品を奉納した。現在知られるのは、シュメール都市のニップルアッカド地方のシッパル、ディヤラ川流域のトゥトゥブ(ハファジェ)、ハブル川上流域に位置するテル・ブラクである(RIME 2, 62-66)。そのほかに、アッシュルから「リムシュ、全土の王」という銘を刻んだ遺物が見つかっている(RIME 2,71)。リムシュ治世時にアッカド王朝が支配する領域の範囲は、ティグリス川をさかのぼってアッシュルに至り、さらに北上してハブル川の上流域に達する北メソポタミアに広がっていた。

アッカド王朝第3代の王になったマニシュトゥシュは、安定したエラム支配のもと、イラン高原深く、アンシャン、シェリフムに遠征し、下の海(=ペルシア湾)を渡って都市を破った(RIME 2,75-76)。ただし、それを誇る碑文に、ペルシア湾交易に重要な役割を果たすマガン、ディルムンなどの地名は挙がっていない。

ティグリス川上流部のアッシュル地方が、アッカドの支配領域になっていたことは、マニシュトゥシュに捧げられたアッシュルの支配者の碑文やニネヴェから出土した古バビロニア時代のアッシリア王シャムシアダド1世の碑文からも知られる。

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p90

シュメール地方の支配状況

反乱

リムシュが第2代の王になるとすぐにシュメール諸都市の反乱が起こった。反乱を鎮圧したリムシュの碑文には、反乱軍にはウルの王(lugal)カクと、アダブ、ウンマ、ラガシュ、キアン、ザバラムの支配者(ensi)がいた。リムシュはこれらの王と支配者の都市の全ての城壁を破壊して住民を都市から退去させキャンプに送った。(『初期メソポタミア史の研究』(p92-93) )

『初期メソポタミア史の研究』(p60)によれば、領邦都市国家期(ウルク王エンシャクシュアンナより前の時代)はlugalとensiは同等の王号だったが、領域国家期(ウルク王エンシャクシュアンナ以降)はlugalは「シュメール全土を支配する王の称号」となり、ensiはこれに従属する都市国家の支配者の号となった。

リムシュの碑文にはサルゴンのシュメール統一以前にはウルクに従属していたウルがlugalを名乗る一方でルガルザゲシの故郷のウンマがensiだという。

93ページの説明では納得できなかったので、勝手に解釈すれば、ウルのカクがlugal(シュメール全土を支配する王)となり、他の支配者層がensiとなり、反乱を起こした(または暫定のシュメール地方統一国家を建ててアッカドに戦争を仕掛けた)。

支配

サルゴンの碑文に以下のような文がある。

下の海から(アッカドまで)アッカド市の市民に(シュメル諸都市の)エンシ権(=王権)を選び与えた。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p175

これに対し『初期メソポタミア史の研究』(p97)では「同時代史料によれば、アッカド王朝支配下のシュメール諸都市の支配者(エンシ)は、ほとんどがシュメール語名であり、アッカド人による直接支配は実証されない」としている。

直接統治(中央集権体制)の証拠は上の碑文の一文だけだが、前田氏は「アッカド市の市民」の訳し方が違っていると主張する。「アッカド市の市民」は「dumu-dumu a-ga-de」(正しい表記は著書参照)の訳だが、前田氏はこれを「アッカドの権威に従って奉仕する者」と訳した。この意味するところは「アッカド王権の要職にある者の子弟と支配に服する諸都市の親アッカド派の子弟」(p98)。

アッカド市の市民」が正しければ、秦の始皇帝が行ったような中央集権体制を敷いたと言えるが、前田氏が正しければ「外様」が存在したわけだ。

中央集権化は四代目ナラムシンによって指向されるが、五代目シャルカリシャリ以降、国が乱れると都市国家の自立化傾向が顕著になった(p99)。



(雑記1)

リムシュは反乱を起こした都市の住民を退去させた、とあるが、これは強制移住の最古の記録かもしれない。しかし、都市の城壁を破壊したと書いてある碑文はこれ以前にあるので強制移住はその前から行われていたかもしれない。


(雑記2)

ウル王のカクの反乱は中国史における楚漢戦争や呉楚七国の乱を想起させる。また、シュメール支配の話で言えば、前漢武帝より前の時代の郡国制と比較できるだろう。

メソポタミア文明:アッカド王朝時代② アッカド王初代 サルゴン

メソポタミアアッカドとシュメール)の統一

サルゴンという名前は『旧約聖書』に出てくるヘブライ語名であって、アッカド語ではシャル・キンという。この名前は「真の王」を意味しているが、生まれながらの王族であったならばこうした名前を名乗らないはずである。出世してから付けられた名前であり、端なくも成り上がりであることを示してしまったといえる。

サルゴン王伝説』に語られているところでは、サルゴン王の母は子供を産んではいけない女神官であったようだ。母はひどかにサルゴンを産み、籠に入れてユーフラテス河に流したという。[中略] アッキという名前の庭師に拾われ、その後キシュ市の王ウルザババ王の酒杯官となり、やがてサルゴンは王権を簒奪した。ウルザババはそうなることを見越していたようで、サルゴンを暗殺しようと企てたが失敗したことは第三章ですでに紹介した。

河に流されたサルゴンの話は、アケメネス朝ペルシアの初代王キュロス二世(前559-530年)、イスラエル人の「出エジプト」を指導したという伝説の人モーセ、そして「ローマ建国伝説」の双生児ロムルスとレムスなどにまつわる「捨て子伝説」の最古の例である。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p173-174

ウルザババ王はシュメール王名表に載っている。キシュ第4王朝の第2代。王名表にはサルゴンがウルザババ王の酒杯係だったことも載っているという。ただしウルザババが実在したことを確証する遺物はないらしい。

サルゴンがキシュ市の近くにあるアガデ市で王位を確立したということは確からしい。アガデ市がアッカド王朝の名の由来なのだが(Agade=Akkad)、アガデ市の正確な位置は今も不明だという。

アッカド王に即位してからのこともほとんど史料が無いので、前田徹氏の推測に頼ることにする。

サルゴンの治世年数は、同時代史料から確認できないので、『シュメールの王名表』に載る56年が採用されている。シュメール征服以後の治世が数年であった可能性が高いので、サルゴンは、シュメール征服以前にすでに50年近く在位していた計算になる。この期間は、ルガルザゲシの治世が25年とされるので、ルガルザゲシが即位してシュメールの統一を果たす全期間よりも長くなり、ルガルザゲシ以前に「国土の王」を名乗ったエンシャクシュアンナとも同時代を生きたと見ることもできる。

サルゴンは、長い治世中に、エンシャクシュアンナやルガルザゲシがウルクの王になり、シュメール地方の統一に邁進し、「国土の王」を名乗るのを見続けた。その間、有力都市キシュはアクシャクの台頭によって弱体化しており、サルゴンアッカド市で自立したのだろう。サルゴンが王になるのは、エンシャクシュアンナのキシュ遠征以後と考えるのが妥当であろうが、「エンシャクシュアンナが武器で打ち倒した年」と読むことができる年名があり、サルゴンは、アッカドの王として、エンシャクシュアンナがキシュを征服したのを見た可能性がある。

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p87

サルゴンはシュメール地方(南メソポタミア南部)の覇権争いの末期を外側から見ていたと思われる。しかしただ傍観していたわけではないだろう。

「国土の王」と「全土の王」

サルゴンは、キシュの衰退という事態を受けて、キシュに代わるべく上流地域(アッカド地方)を統一する行動を取った。南を統一するエンシャクシュアンナやルガルザゲシに、サルゴンは好敵手の姿を見たであろうし、下流地域(シュメール地方)で「国土の王」が生み出されれば、サルゴン都市国家を超える同等の王号を編み出したはずである。それが「全土の王」である。

出典:初期メソポタミア史の研究/p87-88

サルゴンセム系のアッカド人ではあるが、シュメール文明の中の王であった*1。ルガルザゲシが「下の海(ペルシア湾)から上の海(地中海)まで道を切り開いた」と豪語すれば、サルゴンは上の海(地中海)から下の海(ペルシア湾)までを征服した王」と書き残した。「上」「下」が逆なのはアッカド地方とシュメール地方の上下関係が関係していると思われる。

さらにエンシャクシュアンナ、ルガルザゲシが使用した「国土の王」を唱えれば、サルゴンは「国土の王」を唱えた。

前田氏によれば(p59)、「国土の王」には都市国家から領域国家への移動を指向する意味合いが込められているが、「全土の王」にはそれに加えてサルゴンの思惑も込められている。

サルゴンが採用する王号は、王都アッカドを示す「アッカドの王」を名乗らないことで変則的である。第2代リムシュ、第3代マニシュトゥシュも同様である。王都アッカドを明示しないで、「全土の王」のみを使用した理由は、[中略]新興都市アッカドをキシュの権威を継承する都市と認知させるためと考えられる。

出典:p84

テキストで表せない文字があったので、別のところでコピーした文字を貼り付ける。

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出典:Tohru MAEDA/ROYAL INSCRIPTIONS OF LUGALZAGESI AND SARGON (PDF)

  • 前田氏によれば(p85)、上の左がキシュ王メシリムが名乗った「キシュの王」。すなわち都市国家キシュの王としての称号。「ki」は限定詞。

  • 上の右がシュメール諸都市の王が名乗る「キシュの王」。武勇を示すために使用した称号(これに関しては記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)初期王朝時代末の画期」の第2節「「キシュの王」と「国土の王」」を参照)。

  • 下はサルゴンが名乗った「全土の王」。限定詞「ki」をつけないと「全土」の意味になる。

前田氏の解釈によれば、「全土の王」の「KIS」にキシュの王の継承者としての意味も込められている。そして、あえて「アッカド(アガデ市)の王」とは名乗らなかった。

サルゴン常備軍と遠征と支配領域

『シュメル』より。

サルゴン王はなぜシュメル地方の諸都市を破ることができたのだろうか。強さの秘密は常備軍を持っていたことであった。次に引用する王碑文にもそのことが書かれている。この王碑文もシュメル語とアッカド語の二カ国語で書かれ、後世の写本である。

キシュ市の王、サルゴンは34回の戦闘で勝利を得た。彼は諸都市の城壁を海の岸まで破壊した。彼はアッカド市の岸壁にメルッハの船、マガンの船そしてティルムンの船を停泊させた。

王、サルゴンはトゥトゥリ市でダガン神に礼拝した。

ダガン神はサルゴンに森(アマヌス山脈)と銀の山(タウロス山脈)までの上の国、つまりマリ市、イアルムティ市そしてエブラ市を与えた。

5400人が、エンリル神が敵対者を与えない王、サルゴンの前で毎日食事をした。(略)

サルゴン王が毎日の食事を提供した5400人の兵士がいたことが書かれていて、王に忠誠を誓う戦士集団を育成していたことがわかる。

メルッハはインダス河流域地方(エチオピア説もある)、マガンはアラビア半島オマーン、ティルムン(シュメル語ではディルムン)はペルシア湾のバハレーンおよびファイラカ島にあたるといわれている。三カ所ともに銅の交易拠点であった。また、マガンからは閃緑岩、ディルムンからは玉葱が輸入されていた。

サルゴン王は常備軍の力によって、ラガシュ市やウル市に替わってペルシア湾を中心とした交易を掌握し、富を得た。

出典:シュメル/p175-176

『初期メソポタミア史の研究』より。

サルゴンが実施した周辺地域への軍事遠征は、多くの王碑文で顕彰され、年名にもあるように、エラムと、エラムに隣接するシムルムと、それに西北のマリに向かっていた。シムルムは下ザブ川南方域にあって中心地域を脅かす勢力であり、脅威を除くための遠征であった。

マリについては、マリ征服を記す年名のほかに、サルゴン碑文に「マリとエラムサルゴンの前に立った」(RIME 1,12)とあり、サルゴンが自認する支配領域は西方のマリと東方のエラムを両端とする範囲である。マリからエラムまでの地域は、都市国家分立期最後の時期に領邦都市国家が覇権を巡って相争う地域であった。これがサルゴンが現実に勢力範囲とした領域であり、マリからエラムの間の領域を強調することは、支配すべきはユールラテス川流域の中心文明地域であるという理念に沿うものである。

シュメールとエラムの敵対関係は古くからあったが、アッカド王朝の諸王は、新しい動きとしてエラムの政治支配を目指した。サルゴンが遠征したとき、エラム地方には王を名乗るアワンを中心としたエラム(=スサ)勢力と、上流域のバラフシに本拠を置く勢力があり、サルゴンはこの二大勢力を撃破した(RIME 2,23-24)。

出典:初期メソポタミア史の研究/p88-89

前田氏(上の本/p88)によれば、『シュメル』で引用されている「ダガン神はサルゴンに森(アマヌス山脈)と銀の山(タウロス山脈)までの上の国、つまりマリ市、イアルムティ市そしてエブラ市を与えた」は、サルゴンがトゥトゥリ市まで行き、ダガン神に懇願しただけで支配したわけではない、とする。

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Map of the Akkadian Empire (brown) and the directions in which military campaigns were conducted (yellow arrows)

出典:Akkadian Empire<wikipedia英語版*2

  • この地図が誰の治世の頃の版図なのかわからないが、都市・地域の位置の確認のため載せておく。



サルゴンはシュメール地方を征服したが、完全に支配できたわけではなかった。中央集権国家というより連邦国家といったほうが良いかもしれない。次回に書こう。

*1:前回の記事「メソポタミア文明アッカド王朝時代① 時代区分/セム人とアッカド人」の第3節「シュメール人とアッカド人」参照

*2:著作者:Zunkir、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Empire_akkad.svg#/media/File:Empire_akkad.svg

メソポタミア文明:アッカド王朝時代① 時代区分/セム人とアッカド人

シュメールを統一しかけたウルク王ルガルザゲシを打倒して、アッカドサルゴンがシュメール統一を果たす。サルゴンより始まる王朝をアッカド王朝と呼び、この時代をアッカド王朝時代と呼ぶ。

時代区分

前2900-2335年 初期王朝時代
前2335-2154年 アッカド王朝時代
前2112-2004年 ウル第3王朝時代

アッカド王朝時代は初期王朝時代とウル第3王朝時代の間というのが一般的だ。しかし、アッカド王朝第5代シャル・カリ・シャリの治世、前2200年頃に異民族勢力グティがシュメールへ侵入してシュメールの統一王朝アッカド王国は崩壊した。アッカドは王朝自体は存続したものの、その勢力範囲はシュメールのごく一部に過ぎなかった。 グティはシュメールを統一する術(すべ)は持たず、シュメールは分裂し、かつてのシュメール諸都市は独立した。

このシュメールの諸国分立の時代は一般的にアッカド王朝時代に含まれる。ウル王ウル・ナンムがシュメールを統一してウル第3王朝を建てた時、アッカド王朝時代は終わる。

セム人とアッカド

アッカド人はセム系の民族で、セム人とはセム語族の言語を話す諸民族の総称(俗称?)である。セム語族の原郷(原産地、homeland)は諸説あり定まっていないが、小林登志子著『シュメル』(p171)*1によれば、アラビア半島南端の地、現在のイエメン共和国と言われている。

さらに『シュメル』(p171)によれば、半島から南シュメールに入っていったのが東方セム語族に属するアッカド人だ。

アッカド人がいつ頃南シュメールに移住したかは分からないが「Kish(Sumer)<wikipedia英語版」によれば、前3100年頃(ジェムデト・ナスル期)には南シュメール北部のキシュで大きな勢力を持っていた。ただし、「アッカド人」と呼ばれるのはアッカド王朝が成立した以降のことだ。南シュメール北部の地域がアッカドと呼ばれるのも同じ。

シュメール人アッカド

バビロニア[南メソポタミアのこと。引用者注]においては、シュメル人は南方、アッカド人は北方に住み分けていたようだが、両者は二分されていたのではなく、混在もしていた。

シュメル人とアッカド人の間には民族対立はなかったのであろうか。この観点からの研究もかなりこれまでされてきたが、どうやら深刻な民族対立はなかったようだ。シュメルの都市国家アッカドサルゴン王に切りしたがえられたが、これも民族対立に起因するものではなかった。

シュメル人とアッカド人はともに都市生活をし、神を崇拝し、文化を持つ民であって、共存していた。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p183

シュメール人アッカド人は言語が違い、おそらく顔立ちもちがったが、共通の神話を持って信じていたことは間違いない。シュメール人が作った文明・文化をアッカド人がそのまま受け入れたといったほうがいいかもしれない。

さらに言えば、シュメール人アッカド人は自分たちの住む場所(南メソポタミア)を「文明・文化の領域カラム(kalam)」として、その周辺地域を「クル(kur)」と呼んで野蛮視していた。*2

・・・ただサルゴンを、セム人によるシュメール人との争いの勝利者と理解すべきではない。サルゴンに支配権を与えるのは、シュメール人最高神であるエンリルである。サルゴンは捕らえたルガルザゲシをニップルのエンリル神殿まで連行しているし、彼の王碑文はエンリル神殿に奉献されている。彼はシュメール文化の庇護者でもあった。彼は娘をウルの月神ナンナの女官とし、彼女はシュメール語で多くの作品を書きのこしたという。これ以後、約2000年にわたって、メソポタミアの王はサルゴンにならって、娘をウルのナンナ神殿に送りこむであろう。

出典:前川和也編著/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p37

アッカド語

前 3000年頃から紀元頃まで,メソポタミアで用いられていた言語。アフロ=アジア語族のセム語派に属し,単独で北東セム語をなす。前 2000年頃からアッシリア語とバビロニア語の二大方言に分れたため,アッシリアバビロニア語ともいわれる。セム語のうち年代的に最古のものであるが,セム祖語の面影はあまりとどめていない。これはセム祖語から最初に分れ,しかも系統関係の不明なシュメール語の影響を受けたためと考えられている。シュメール人から受継ぎ発展させた楔形文字で書かれ,最古の文献は前 2800年頃。前7~6世紀に徐々にアラム語に圧倒された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典<コトバンク

アッカド語wikipedia」によれば、アッカド語の語順はシュメール語と同じSVO。セム語の大半はVSO。

アッカド王朝がメソポタミアを支配するに及んで、アッカド語がシュメル語に取って代わる。アッカド王朝が滅亡した後も、前2000年紀になるとこの傾向は本格化して、シュメル語はラテン語と同じように教養としては学ばれても、日常語としては死語になる。

アッカド人は自らの言語アッカド語を表記するために、シュメル人が発明した楔形文字を借用した。中国語を表記するために発明された漢字を、日本語を表記するために日本人が借用したのと同様である。日本人は仮名文字を作ったが、アッカド人はこうした工夫はせずに楔形文字表音文字として使用した。

前14世紀前半の「アマルナ時代」になると、アッカド語古代オリエント世界の共通語として使用されていた [以下略]

出典:シュメル/p176-177

アッカド語wikipedia」によれば、主にアッシリア人カルデア人バビロニア人)やミタンニ人に話されていた。

*1:中公新書/2005

*2:前川徹/メソポタミアの王・神・世界観/山川出版/2003/p109-110

メソポタミア文明:初期王朝時代⑪ 青銅器時代の幕開け

西アジアでは、後期銅石器時代(約6000~5100年前)に銅製錬の技術が発展していき、砒素銅やエレクトラム(金と銀の合金)などが鋳造されてくる。後期銅石器時代の工房では、メソポタミアの近場で算出される銅鉱石から高品質の銅を得るために、別の鉱物を意図的に混ぜ合わせたと推察される。[中略]

約5000年前になると、ついに銅と錫の合金である錫青銅が開発される。手近に産出されていた銅と、さまざまな鉱石の組み合わせが試みられていった結果、もっとも効果的なのが錫であることがわかった。西アジアで最古級の錫青銅は、アッカド地方のキシュ遺跡(現代名ウハイミル)で、初期王朝時代ⅢB期(約4400年前)のA墓地に副葬された斧である。この青銅斧には、錫が15.5%含まれていることから、錫青銅の精錬技術においてまだ初歩的な段階にあったと推定されている。こうした銅と錫の出会いによって青銅器時代の幕開けとなる。

錫青銅の原料となる錫は、比較的メソポタミアの近場で採掘できた銅とちがい、かなり遠方に行かないと手に入らない。良質な錫の産地は、イラン東部からアフガニスタンにかけての地域に限定される。したがって、メソポタミアの支配者たちが東方の資源を開発するには、陸上交易網の整備を待たねばならなかったのである。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p154-155

上の同ページにおよそ5500年前にはロバが荷車を牽いている光景が西アジアで見られた、としている。つまりこの頃以前にロバの家畜化と車輪の発明は為されていた。

下はメソポタミア文明インダス文明のあいだの交易ネットワーク。

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出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p113



青銅器が登場したのは初期王朝時代ⅢB期の時代だが、青銅器がシュメール統一にどの程度 関係していたのかは分からなかった。

初期王朝時代はとりあえずこれで終わり。

メソポタミア文明:初期王朝時代⑩ 第ⅢB期(その5)初期王朝時代の終わり

記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)初期王朝時代末の画期」からの続き。

初期王朝時代はアッカドサルゴンウンマ王(ウルク王)ルガルザゲシを倒してシュメールを統一する時に終わる。ルガルザゲシが活躍した数十年間は目まぐるしく情勢が変わったようだが、詳細な情報はなく断片的で、いろいろな説がある。(サルゴンについては別の記事で書く。)

ルガルザゲシ、ラガシュを滅ぼす

ルガルザゲシがラガシュを滅ぼした史実は、滅ぼされた側のラガシュの王碑文に残されている。

ウンマの人はラガシュ市を破壊してしまい、ニンギルス神に対して罪を犯した。その勝利に呪いあれ。罪はギルスのルガル(=王)、ウルイニムギナにはない。ウンマ市のエンシ(=王)、ルガルザゲシ、彼の(個人)神ニサバ女神はまさにその罪を彼女の首にかけるように。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p142

ウルクの王」

ルガルザゲシはウンマの王だったが、シュメール王名表にはウルク第3王朝の唯一の王として載っている。アッカドサルゴンの碑文にも「ウルクの王」として語られているから間違いないだろう。

支配領域について

王朝表〔王名表。引用者注〕は、ルガルザゲシはウルクの王であり、25年治世したと述べている。彼はウンマの支配者として出発して、のちウルクやウル、ラルサなどを征服したのである。彼の碑文には、全土の神たるエンリルの神の委任によって広大な領域を支配するというイデオロギーが明確に表現されている。ウルク王であり、「国土の王」であるルガルザゲシは、「下の海(=ペルシア湾)から、ティグリス・ユーフラテス河(にそって)上の海(=地中海)までの交通ネットワーク」を保護した。彼に全土の王権を与えた「エンリル神は、太陽が昇るところ(=東)から沈むところ(=西)まで彼に敵を許さなかった。彼のもとで国土(の人びと)は(安心して)やわらかい(?)草のうえで休んだ」。

出典:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998/p181(前川和也氏の筆)

王名表にはルガルザゲシは25年(または34年)治世したことと、アッカド王(サルゴン)に王権を奪われたことしか書いていない*1

ルガルザゲシの碑文から彼が「下の海から上の海まで平定した」と主張する学者がいるが(前川氏もその一人)、これは「エンリル神は東から西まで与えた」と同様にお告げの一部で事実ではないだろう。

「国土の王」は「全土の神たるエンリルの神の委任によって広大な領域を」与えられた、という意味が込められている。ちなみにこの称号を最初に使用したのはウルク王エンシャクシュアンナである(記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)初期王朝時代末の画期<「キシュの王」と「国土の王」<国土の王」参照)。

「Lugal-zage-si<wikipedia英語版」には、キシュもルガルザゲシに滅ぼされたとなっているが、ソースは書いていなかった。

前田徹氏の論文『ROYAL INSCRIPTIONS OF LUGALZAGESI AND SARGON』(PDF)では、ルガルザゲシの支配領域は、ウンマの周辺(Umma,Zabala,Kian)とウルクの周辺(Uruk,Ur,Larsa)を中心とする属国の寄せ集め(patchwork)に近い、としている(上にある6都市は碑文に名がある)。

ルガルザゲシは「シュメールを統一した」とか「下の海から上の海まで平定した」とか言われているが、その主張の根拠がどこにあるのか知りたい。

サルゴンに滅ぼされる

サルゴンニップル市の神殿に残した碑文にルガルザゲシの敗北が書いてある。

シュメル統一を目指し、ウンマ市の王にあきたりずウルク市の王位を得ていたルガルザゲシ王をサルゴン王は急襲して捕虜とし、彼に代わってシュメル統一の覇業を成し遂げたことを次のように書いている。

サルゴンウルク市を征服し、その城壁を破壊した。彼は戦闘でウルク市に勝利した。ウルク市の王ルガルザゲシを戦闘で捕らえ、軛(くびき)にかけエンリル神の門まで連行した。

さらにウル市、ラガシュ市そしてウンマ市に勝利し、その城壁を破壊したと書き、次のように続ける。

国土の王サルゴンにエンリル神は敵対者を与えない。エンリル神はサルゴンに上の海(=地中海)から下の海(=ペルシア湾)まで与えた。[以下略]

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p174-175

ルガルザゲシを倒したサルゴン王はシュメールを統一するわけだが、これより先はアッカド王朝時代に入る。別の記事で書こう。