歴史の世界

メソポタミア文明:初期王朝時代② 第Ⅰ期・Ⅱ期

前回、時代区分のところで書いたが、第Ⅰ期・Ⅱ期などの時代区分は考古学の研究成果によるもの(編年)で、政治史としてこの時代区分を使用するのは、便宜的に使用しているだけだ。言い換えれば、政治史としての区分でなく、考古学の区分に政治史を当てはめているだけだ。

上のことを留意しながら、第Ⅰ期・Ⅱ期について書いていこう。

第Ⅰ期・Ⅱ期は、まだ楔形文字の文字体系が確立しておらず文字史料がほとんどない。

考古学より

西アジアの考古学』によれば、考古学資料が少ないことを指摘した上で、以下のように書いてある。

そのような考古学資料の中で、たとえば円筒印章は闘争図柄の初出(EDⅡ)、銘文の出現(EDⅢ)など著しい様式の変遷をたどることができるといわれている。また、交易品と考えられるラピス・ラズリや石製容器のEDⅢ期における増大、あるいは金属器がEDⅡ期以後に著しい発達をみせることなどが指摘されている(Mallowan 1971)。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p148

また、ディヤラ川流域で出土した「ディヤラ式彩文土器」または「緋色土器(スカーレット・ウェア)」はEDⅠ期の指標となっている*1国士舘大学イラク古代文化研究所のハムリン地域を紹介するページで彩文土器を紹介している。写真あり)。

政治史的動向

小林登志子著『シュメル』から

前2900年頃に始まる初期王朝時代は、シュメルの都市国家間で覇権をめぐり、あるいは交易路や領土問題などから争いが絶えない戦国時代であった。

初期王朝時代は第Ⅰ期(前2900-2750年頃)には都市国家間の戦争が頻繁にあったことから城壁の内側に人々が住むようになり、第Ⅱ期(前2750-2600年頃)も戦争状態は変わらなかった。第ⅢA期(前2600-2500年頃)には、ラガシュ、ウンマ両市間の争いをキシュ市のメシリム王が調停するほどの勢力を示していた。第Ⅲ期(前2500-2335年頃)になると、ラガシュ、ウンマ両市の約100年にわたる戦争がラガシュの王碑文に詳細に書かれ、これは戦争についての最古の歴史的記録になる。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p113(文字修飾は引用者)


ウルク期のウルクに成立した都市国家は、ジェムデトナスル期と初期王朝時代第1期の期間にはその数があまり増えない。急速に規模と数を増し、両川下流域全体に拡大したのは第2期・第3期である。第2期からが都市国家が地域連携型の中小村落を圧倒して林立する時代であり、都市国家分立の名に相応しい時代の到来である。

出典:初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p39

  • 上の本で言うところの「地域連携型の中小村落」とは「運河や川に沿って分布し、街を結節点として地域的に連携する中小村落」のことで、ウルクのような都市国家と対比的な言葉として使っている。(p22)

記事「メソポタミア文明:ウルク期からジェムデト・ナスル期へ」の「シュメール文化圏の形成」で書いたが、ジェムデト・ナスル期には複数の都市とそれに準ずる集落(「地域連携型の中小村落」?)が形成され、一つの文化圏を形成していた。

初期王朝時代の第Ⅰ期はジェムデト・ナスル期とそれほど変化はなかった。*2

「第2期からが都市国家が地域連携型の中小村落を圧倒して林立する時代」と書いてあるが、これは『シュメル』が主張する戦争の結果だろう。点在していた都市国家や中小村落が統合されて一つの領域を形成していく過渡期の時代だ。

シュメールの「王名表」から

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出典:Sumerian King List<wikipedia*3

シュメール王名表は焼成粘土製の角柱形(高さ20cm)の古文書で*4、ウル第三王朝時代(前21世紀)に成立したらしい*5

テキストには、各時期に南部メソポタミアでもっとも力をもった諸王朝、諸王の年数が羅列されている。ひとつの時期にひとつの都市が南部メソポタミアを支配していたという前提があって、じっさいには並びたっていた複数の王朝も、あたかも継起したかのように叙述されているのである。いっぽうで、有力な都市王朝がすべて言及されてはいないし、王朝の順番も、テキストによって、ときにくいちがいがある。また初期の王たちには、異様に長い治世年数が与えられている。けれども、注意ぶかく用いるならば、この作品から初期メソポタミアの政治史について基礎的な情報を得ることができる。

出典:大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮著/世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/p165-166(前川氏の筆)

王名表は『日本書紀』のように神話と史実が入り混じっているようだ。『西アジアの考古学』(p146)によれば、シュメールを統一したサルゴン王より前の王名は「実際的」ではないらしい。それでも、考古学に照らし合わせると、実在性をうかがわせる名があるという。

初期王朝時代のものでは、キシュ第1王朝のエンメバラゲシ(Enmebaragesi)は「シュメール王名表に記載されている王の中で考古学的に実在が確認されている最古の王」*6として一番有名らしい。エンメバラゲシは物語『ギルガメシュとアッガ』に出てくるアッガ王(キシュ王)の父なのでギルガメシュウルク王)とアッガも実在したと考えられている。

エンメバラゲシがどの時代に生きていたのかは諸説あるが、ここでは「前27世紀」という後藤健氏の主張を採用しておこう。後藤氏によれば、王名表に「キシュのエンメバラゲスィ、エラムを撃つ」という文句があり、スーサ(エラム)の考古学研究の成果から前27世紀のメソポタミアの支配者(キシュ市の王エンメバラゲシ)によるスーサ侵略があり、その後スーサの繁栄は終わった、とする(後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p42-44)。

ギルガメシュとアッガは前27世紀か前26世紀となるだろう。

ほかにはウル第1王朝の創始者メスアンネパダが挙げられる。「メスアンネパダ<wikipedia」によれば、ギルガメシュと同時代の人物だとのこと。

(キシュ王エンメバラゲシとスーサについては、記事「シュメール文明の周辺① エラムまたはイラン(その1)原(プロト)エラム文明」第三節「エラムの考古学」も参照のこと。)



ギルガメシュとアッガ」の物語は、『史記』を読んでいるようで面白い。「ギルガメシュ叙事詩wikipedia」に簡単に書いてある。前川和也氏によれば、この物語より、ウルクがキシュに臣従していた、としている。キシュ王アッガに勝利したウルクギルガメシュは、Ⅲ期には既に神格化されていたという*7

*1: 小口裕通「メソポタミア考古学研究の近年の歩み」(PDF )(西アジア考古学 第9号/2008/p19-25/©日本西アジア考古学会)

*2:『初期メソポタミア史の研究』p21では参考にしたアダムズ氏の主張に従ってジェムデト期と初期王朝時代第Ⅰ期を合わせて一時代としている。

*3:パブリック・ドメイン、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sumeriankinglist.jpg#/media/File:Sumeriankinglist.jpg

*4:西アジアの考古学/p142

*5:大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮著/世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/p165(前川氏の筆)

*6:エンメバラゲシ<wikipedia

*7:世界の歴史1/p171

メソポタミア文明:初期王朝時代① 時代区分/範囲/民族および言語

これから数個の記事に亘って初期王朝時代のことを書いていく。

初期王朝時代を簡単に言ってしまえば、「(都市)国家分立時代」となる。同様の時代は古代ギリシアや中国の春秋戦国時代などがある。

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Map showing the extent of the Early Dynastic Period (Mesopotamia)

出典:Early Dynastic Period<wikipedia英語版*1

時代区分

初期王朝時代(Early Dynastic Period、前2900-紀元前2350年)は考古学の時代区分で、シュメール文明の3番目の時代に当たる。

  • ウルク期(前3500-3100年)
  • ジェムデト・ナスル期(前3100-2900年)
  • 初期王朝時代(前2900-紀元前2335年)

初期王朝時代にはさらに以下のように分かれる

  • 第Ⅰ期(前2900-2750年)
  • 第Ⅱ期(前2750-2600年)
  • 第ⅢA期(前2600-2500年)
  • 第ⅢB期(前2500-2335年)

上の時代区分については小林登志子著『シュメル』*2による。

さて、上の時代区分は考古学の研究成果による区分であることは要注意だ。

この考古学における時代区分(編年)については、小口裕通「メソポタミア考古学研究の近年の歩み」(PDF)(西アジア考古学 第9号/2008/p19-25/©日本西アジア考古学会)に書いてあったので抜粋する。

《初期王朝時代についての編年は、バグダードの北東のディヤラ川流域にあるテル・アスマル(Tell Asmar)及びカファジェ(Khafaje)の発掘調査からの層位的証拠を基盤にして樹立されたものであることは周知のことがらであろう。》

《南メソポタミアでも、そのような時期細分を採用し、ディヤラ地域との遺物の比較によってそれぞれの遺跡の層位の時期決定を行うようになっていった。》

  • ディヤラ(Diyala)川は上の地図参照。

なぜディヤラ川流域の発掘調査に頼らなければならないのかというと、『西アジアの考古学』*3によれば、遺物による考古学的復元が比較的可能になるのがこの地帯に限定して頼らざるをえないとのことだ。

この編年を南メソポタミアに当てる問題として小口氏は、《第Ⅱ期の指標となる土器(2 タイプのみ)が出土しない》ということを挙げている。

さらに、《初期王朝時代第Ⅲb期の土器のタイプのほとんどが所謂アッカド王朝時代に入っても継続して製作され、使われ続けていたのではないか》という「疑問」を呈している。この「疑問」が正しければ、《史的観点からなされる政治史的区分と考古学的観点から行われる物の編年が》一致しないという。

考古学の編年は土器などの遺物から物質文化の変容によって算出されるのだから、考古学の編年と政治史における時代区分が一致しなくても全く不思議ではない。

考古学学界学会その他で使用されている編年は、だいたいが数十年前に提示され普及されたものが、その後の研究により実態に合わなくなったにも関わらず学界の多くが納得する新たな編年が生まれないために、昔の実態に合わない編年を「便宜的に」使用している場合が多い。

初期王朝時代はさらに考古学編年と政治史時代区分のズレがあるので、さらに実態に合っていない。そういうわけで上の時代区分も便宜的なものに過ぎない。

範囲(舞台)

上の地図で分かるように南メソポタミアに限定されている。

下は初期王朝時代最末期にルガルザゲシが南メソポタミアをほぼ統一した時の勢力図。この後に彼はアッカドサルゴンによって滅ぼされ、初期王朝時代は終わり、アッカド王国時代が始まる。

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Lugal-Zage-Si’s domains (red), c. 2350 BC

出典:Lugal-Zage-Si<wikipedia英語版*4

ちなみに、北メソポタミアではニネヴェ5期という考古学編年の時期。

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/巻頭ⅵページ

民族および言語

メソポタミアで発掘された文書により言語と民族の構成について分かることがある。

言語は主としてシュメール語であるが、南メソポタミアの北部(のちにアッカド地方と呼ばれる)ではOld Akkadianというセム語族の言語の人名が含まれていることから、セム系の人々(のちのアッカド人?)がいたことが分かる(南部つまりシュメール地方はシュメール人が住んでいた)。



*1:著作者:Zunkir/ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Early_Dynastic_Period_(Mesopotamia)#/media/File:Basse_Mesopotamie_DA.PNG

*2:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/巻頭の本書関連年表より

*3:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p148

*4:著作者:Zunkir、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Lugal-zage-si

メソポタミア文明:ウルク・ネットワークの広がり(物流網/文化の拡散/都市文明の拡散)

メソポタミアは、このブログで何度も触れているように、資源というものがほとんど無い。都市と市民の生活の維持に必要な物資は他の地域から輸入しなければならない。

ウルク期の前の時代、ウバイド期の後半に南メソポタミアと他の地域をつなぐ物流網は既に出来上がっていた(記事「メソポタミア文明:先史② ウバイド文化」参照)。ウルク期はこれを引き継ぎ、さらに拡大していった。

ウルクの文化・文明はこの物流網に乗って拡散したが、場所によって濃淡がある。この記事ではこの濃淡の部分も焦点の一つだ。

物流網

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p131

ウバイド文化の広がりよりも拡大している(ウバイド文化の広がりは「ウバイド文化の拡大」参照)。

物流拠点への移民

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Map of the Middle East during the last centuries of the 4th millennium BC: archaeological sites of the “urukean expansion”

出典:Uruk expansion<wikipedia英語版*1

移民でいちばん有名な場所は、シリアのハブーバ・カビーラ南(Habuba Kabira)で、ここはウルクに次ぐ二番目の都市だ。

「Uruk expansion<wikipedia英語版」によれば、ハブーバ・カビーラ南のほか、アナトリア(トルコ)のArslantepe、西イランのGodin Tepe、北西イランのTepe Gawraなどが挙げられている。上の地図には出ていないが、およそ前3600年には、コーカサス山脈黒海カスピ海のあいだを走る山脈)の北にまでウルクのネットワークは伸びている。

物流網の範囲

物流網はウルクの人びとだけが動いていたという意味ではなく、ウルク流入してくる主要な資源が通る経路くらいを意味している。

北方:上にあるように、北コーカサスにまで伸びている。

西方:シリア・トルコまで。『メソポタミアとインダスのあいだ』(後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p36)によればエジプトにもウルク文化が流入していたようなので、ウルクとは地中海経由で間接的に繋がっていたかもしれない。

南方:ウバイド期はウバイド人がアラビア半島の北東の海岸沿いにおそらく真珠の最終を目的に訪れていたが、ウルク期はこのネットワークが途絶えた。真珠の需要がなくなったのかもしれない。

東方:ウバイド期に比べて、飛躍的に拡大した。ネットワークはアフガニスタンを越えてインダス川にまで達したが、このネットワークはインダス文明誕生に関わっている(カテゴリー「インダス文明」参照)。

イランより東はおそらくエラム人たちが担っていただろう(エラムはいらん西南の山地部)*2。スーサ(Suse)を集積拠点として東方の物資を南メソポタミアに運んだ。

ロバの家畜化と車輪の発明

ウルク期中期(前3400-3300年)まではネットワークは主に河川(船)を利用していたが、この時期以降、荷車を使用した運搬も加わるようになった。

[車輪と荷車の開発と]同時に、野生ロバが家畜化され、橇(そり)や荷車の牽引に利用されはじめる。中部メソポタミアのテル・ルベイデ(ウルク中期)や、ハブーバ・カビーラ南(ウルク後期)などでは、家畜化されたロバの骨が検出されている。また、パレスティナ地方の墓からは、籠を背中に積んだロバ形模型が出土して、ロバが荷物の運搬に利用されていたことを示す。さらに、ロバの引く荷車の車輪らしき土製品がウルでも見つかり、荷車はロバの家畜化とともにウルク期後半の発明とされる。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p158

文化の拡散

物流もに比べると文化の広がりはそれほど大きくない。

文化の広がりは遺物によって証明される。『西アジアの考古学』(p127-132)によれば、ベベルト・リム・ボウル(碗)というウルク文化を代表する土器セットの一部が西アジア各地で出土している。日常的に使われた食器のたぐいのようだ。

もう一つは、物流に伴う遺物だ。記事「文字の誕生 前編(ウルク古拙文字)」で触れたブッラや粘土板は、取引の伝票や簿記の役割を果たしていたが、これらもまた広範囲に渡って出土している(ユーフラテス河中流域からイラン高原中央部まで)。

ただし、上に書いた2つの証拠はウルク後期のもので、さらに言うならば、この範囲の人々が、それまで持ち続けていた文化を投げ捨ててウルク文化を受け入れたわけではもちろん無い。そんなことは日本史を振り返れば分かることだろう。ハブーバ・カビーラ南のようにウルク文化の土器セットがそろっているところもあれば、独自の文化を保ちつつウルク文化を受容したところもある。

都市文明の拡散

都市文明の広がりはもっと狭い。都市文明は南メソポタミアにしか広がらなかった。これは初期王朝時代は、南メソポタミアだけで展開していたことを考えれば分かることだろう。

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Map showing the extent of the Early Dynastic Period (Mesopotamia)

出典:Early Dynastic Period<wikipedia英語版*3

ウルクワールドシステム」

メソポタミア南部に発したウルク期の文化は、メソポタミア全域とその周辺諸地域に急速に広がり、南メソポタミア型の都市、・集落群が広範囲に形成された。これは「ウルク文化の大拡張」として知られる。ギレルモ・アルガセの「ウルク・ワールド・システム論」は、メソポタミア文明の起源論に刺激的な一石を投じだ。同論では、ウルクが遠隔地産物資獲得のための水陸のルートを支配するために、自らの拠点を各地に設置(植民)し、これをネットワーク化したというのだ。ウルク・ワールド・システムは以下の四つの段階を経て完成したとされる。

最初ウルクは (A)メソポタミアの東に隣接するエラム地方に植民を行ない、東方に広がるイラン高原からの物資輸送ルートの確保を図った。次の段階で、ウルクは (B)ティグリス、ユーフラテス両河の上流に植民を開始し、小規模な拠点を設置した。さらにウルクは (C)特にユーフラテス河上流の開発を続け、シリア、アナトリアにおいて、ウルク文化をもつ大規模植民都市を設置した。最後の段階で、ウルクは (D)北メソポタミアや西南イランに拠点を設置し、そこを経由する輸送ルートの確保を図った。

ウルク文化がアルガゼの主張の通りに展開したかどうかについては議論があるが、それが急速に広がったという事実は、各地の都市集落で出土する同文化に特有の土器群によって跡づけられている。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p33

「(近代)世界システム論」といえばウォーラステイン氏を思い浮かべるが、この理論は1970年代からあったようで*4、アルガゼ氏はこの理論をウルク期に当てはめようとした(ウォーラステイン氏の理論をそのまま当てはめようとしたのかどうかは分からない)。

しかし「(近代)世界システム論」が批判にさらされているように、上の理論も批判されている。

ウルクワールドシステムの提唱後、南東アナトリアや北シリアなどにおけるさらなる調査結果の蓄積により、南メソポタミアウルク文化が北方へ拡大していった様子が次第に明らかにされていった。結論として、北方諸地域におけるウルク文化の拡大は、ウルク中期後半に初現していて、すでに北方の在地社会の一部は複雑化していたことが明らかにされてきている。

こうした新資料に立脚して、南方の「中心」に対して北方の「周辺」社会は、けっして後進地域ではなく、独自の交易網を整備していたことも指摘されている。つまり、ウルクワールドシステムの根幹を成していた、先進の南メソポタミアウルク文化と後進の北方の在地諸文化という構図、あるいは「中心」が「周辺」を支配しつづけていたという不平等な関係だけでは説明しきれなくなっている。それほどまでに、ウルク期のメソポタミア周辺地域は複雑化していたのである。

ウルクワールドシステムへの反動として、同じ考古学的な事象が異なる視点で再検討されていった。「中心」と「周辺」の関係は、南方ウルク文化と在地文化に置き換えられて、両地域間の非対称な経済的関係は多様性の一つとして再解釈されていった。南方ウルク文化の一元的な支配に代わって、在地文化の地域的な機能や役割が注目されて、南方ウルク文化と在地諸文化の関係が競合や模倣などの対等な関係で捕らえ直されていった。かつて、周辺地域がウルク文化の植民地と呼ばれることもあったが、今ではほぼ死語になっている。

出典:都市の起源/p161

「世界システム論」のような近代ヨーロッパ中心主義的な歴史観は、特に21世紀に入ってから現在まで批判され、再検討されている。ウルクワールドシステムも同類に批判されているようだ。ただし、このような理論がまるまる捨て去られているわけではなく、取捨選択して利用しようとしているようにみえる。

ウルクネットワークの崩壊

ウルク期は前3100年に終わるが、ウルクの植民地群のネットワークもこの頃に崩壊した*5。それまで「メソポタミア化」していたイランのスーサは、崩壊後にはイランの文化に帰っていった*6

ウルクネットワークの崩壊については分からない。「Uruk period<wikipedia英語版」の節 End of the Uruk period に2つの説が書いてあるが、通説にはなっていないようだ。



*1:著作者:Zunkir /ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Uruk_period#/media/File:Uruk_expansion.svg

*2:メソポタミアとインダスのあいだ』(p37~)参照

*3:著作者:Zunkir/ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Early_Dynastic_Period_(Mesopotamia)#/media/File:Basse_Mesopotamie_DA.PNG

*4:World-systems theory<wikipedia英語版

*5:メソポタミアとインダスのあいだ/p34

*6:同/p39-40

メソポタミア文明:戦争のはじまり/「国家」の誕生

戦争
現在では,国家を含む政治的権力集団間で,軍事・政治・経済・思想等の総合力を手段として行われる抗争(内乱も含む)をいう。従来は,狭く国家間において,主として武力を行使して行われる闘争のみが戦争と定義されていた。

出典:百科事典マイペディア<株式会社日立ソリューションズ・クリエイト<コトバンク

「戦争」と言えば、国家どうしの戦いのことを指すのが普通だが、この記事では、国家形成以前に戦争がはじまった、としている。

しかし、「戦争」が本格化していくのは、複数の有力な都市国家が現れて覇権争いを繰り返す初期王朝時代に入ってからになるだろう。

実は この「戦争」と《「国家」の誕生》は関係がある。

戦争のはじまり

さかのぼれば新石器時代にはすでに戦争は北部メソポタミアで起こっていた。ハッスーナ文化期(前6000-5000年頃)後期にテル・エス・サワン遺跡は全体が周濠に囲まれ、後期になると城壁で囲まれていた。チョガ・マミ遺跡では城壁と灌漑用水路らしき溝がともに発見されている。周濠や城壁は敵の来週に備えた防備のための設備であって、当時すでに灌漑農耕社会における土地争いが起きていたことを示している。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p112


6000年前ころから、社会的緊張の高まりがメソポタミアとその近隣地域に波及して、あちこちで防衛用の壁や施設が構築されていった。それに併せて自衛のための武器も開発されていく。ウル胃液では、ウバイド終末期の段階で、銅製の槍先や磨斧、棍棒頭などが副葬されていて、集落を護る軍人の職能が生じていた。武器類の出現は先行期には見られなかった新しい一面である。「ならず者」が特定の集落に侵入してきた際、自衛のために使われたと推定される。

ただ、いずれも小型の規格であり、これだけでは当時の社会に戦争が起きていたことにはならない。その[(戦争が起きていたことの)]証明には、戦闘用の各種武器をはじめ、戦争を起こす国家的な権力、戦時に街を護る堅固な城壁、戦後処理としての捕虜・奴隷の収容施設など、さまざまな事象がそろってこなければならない。[中略]

ウルク中期後半になると、交易や市場の活性化により、良からぬ「ならず者」との接触がいっそう増えて、簡易な防衛施設だけで都市敵集落を護ることが難しくなる。自衛対策だけでは集落の防御施設だけで都市的集落*1を護ることが難しくなる。自衛対策だけでは集落の防御は不足となり、長距離の交易ルートも必要となって、本格的な城壁の建造とともに武器の開発が進行していく。城壁や武器によって護るのは住民や余剰食糧だけでなく、遠隔地から運んできた貴重な資源や、それを原料として生産された製品も含む。

そして、ウルク後期には社会的緊張が極度に高まり、都市的集落の人や資源などの富を護るために、「ならず者」やその予備軍的な存在を先に叩く攻撃的な側面も付加されていく。権力をもつ支配者によって、武器の開発とともに攻撃力を備えた軍隊組織が形成されていき、敵の攻撃を想定した堅固な城壁が建設されていく。戦争により生じる捕虜は連行され、勝者の奴隷となる。戦争を示唆する一連の証拠はウルク後期にそろってきていることから、西アジアでは約5300年前に本格的な戦争が起き始めたといえる。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p119-204(太字強調は引用者による)

ウルク後期はウルク市で都市が誕生したばかりの時期で、ほかの都市は、小泉氏によれば、北シリアのハブーバ・カビーラ南だけだがこの都市はウルクが鉱物などの資源を調達するための植民都市だった。

このように考えれば、戦争のはじまりは、「都市ウルク」vs「ならず者」ということになるのだろう。ここでいうところの「ならず者」は都市ウルクからの視点によるもので、ウルク周辺の発展途上の集落も含むのだろう。

そして小泉氏のいう「都市的集落」(都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落)の幾つかが、都市としてウルクに対抗できる存在になった時、初期王朝時代へと向かっていくことになる。

捕虜奴隷

戦争に敗北したために奴隷にされた「捕虜奴隷」がいた。現代は、戦争があっても捕虜の人権に一定の配慮がなされている。だが、近代以前の社会にあっては戦争で負ければ、過酷な運命が待っていた。戦争捕虜の男性は反乱を起こすことを恐れて殺され、女性たちは捕虜として敵国に連れて行かれたが、彼女たちに男の子がいた場合には問題であったことを「アマルク(ド)」という言葉が表している。

第二章でも話したようにシュメルでは農民も家畜を飼い、また周辺の荒野には遊牧民がいて、家畜の去勢は古くからおこなわれていた。その技術が人間の去勢へと展開したようだ。アマルク(ド)という語は本来「去勢された若い牛(若い大型動物)を意味したが、ウル第三王朝時代のラガシュ市から出土した文書では、若い成人男性や少年にもアマルク(ド)の語が使用されていて、「去勢された若者」を意味した。戦争捕虜として連れて来られ、羊毛紡ぎ(つむぎ)などをさせられた女性たちの息子が将来反乱を起こしたり、逃亡したりすることを前もって防ぐために去勢されたようだ。

出典:シュメル/p151-152

上のような話は、オリエント世界や古代ローマの歴史の本にも出てきた。中国・明帝国鄭和は たしか「アマルク(ド)」だったはずだ。著者は「現代は、戦争があっても捕虜の人権に一定の配慮がなされている」と書いてるが、国際社会を気にも留めない勢力は現代にもいると思うがどうだろう。

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ウルク遺跡で見つかった円筒印章の陰影

出典:都市の起源/p203

《「国家」の誕生》あるいは《「国家」の形成》

小泉龍人著『都市の起源』では《「都市」の誕生》と《「国家」の誕生》を区別している。

自説として、古代西アジアでは都市と国家は同時に登場しなかった。都市が誕生した後、その都市を軸として国家的な仕組みが構築されていき、実効支配領域をともなう都市国家が出現することになる。

つまり、国家とは、複雑に発展していった都市社会がたどり着いた到達点であり、国家なしに都市は存在しうるが、都市の存在しない国家は西アジアでは考えにくい。

ウルク後期、シュメール地方にはウルクの街しかなかったため、ひとり勝ち状態の「都市」には国家的な権力は未熟な状態であった。まもなくして、ライバルの都市が多数出現することで、互いに競合するようになり、本格的な権力をともなう「都市国家」へと発展したのである。

出典:都市の起源/p197

「国家的な仕組み」=「国家」とすれば、まず「戦争」がはじまる前に未熟な状態の「国家」が形成され、複数の国家が「戦争」を含む「競合」をするようになり、より合理的な政治・行政の構築を迫られ、その結果、《本格的な権力をともなう「都市国家」》が完成した。



*1:「都市的集落」とは都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落のことを指している。著者の造語。――引用者注

メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ④(聖婚儀礼・王)

前回の記事「メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ③(神)」から引き続いて書く。

今回も前回同様に小林登志子著『シュメル――人類最古の文明』と前川和也編著『図説メソポタミア文明』に頼って書く。

前回に引き続き、今回も上段のシーンに焦点を当てながら「ウルクの大杯」全体の図像の意味について書く。

聖婚儀礼

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出典:図説メソポタミア文明/p9


「大杯」の図像をゆっくり眺めてきたが、それでは図像全体でなにを表しているのだろうか。[中略]

下段と中段に表された場面を踏まえると、上段は都市国家の王が豊穣を祈願あるいは感謝する場面であることは間違いないが、さらに踏み込んで王と女神官による「聖婚儀礼」が表されているとも解釈され、「大杯」の図像はその最古の例になると考えられる。

「聖婚儀礼」は男女の交合により、混沌から秩序を回復し、不毛を豊穣に変えることなどを意味する。シュメルだけの特異な儀礼ではなく、世界中で広く見られる。シュメルでは女神官と王が「聖婚儀礼」をおこない、豊穣がもたらされると考えられていた。

「聖婚儀礼」は元旦におこなわれていた。元日の持つ意味は現代日本では薄れてしまい、単に一年の最初の休日となってしまっているが、シュメルのみならず古代社会では元日は宇宙のはじまりに重ね合わされる日、つまり新しい生の循環が始まる日であった。

出典:シュメル/p75-76


ウルクの大杯」はなにを示しているのか。「聖婚」儀礼が描かれているとする研究者もいる。前三千年紀はじめには、イナンナ女神とドゥムジ神のあいだの「聖婚」儀礼が国家祭儀にまで高められていたらしい。当時の文献テキストによれば、ドゥムジの役割を演じる支配者がイナンナ神殿をおとずれて、カップルはおそらく性的合一をとげる。

前3000年頃のウルクにおいて、のちのテキストにみえるような「聖婚」儀礼がすでに成立していたかどうか、はっきりしない。けれども、「ウルクの大杯」に豊穣を祝う儀礼が描かれていることを、疑うことはできない。支配者は、耕地や牧地の生産物をイナンナに届け、イナンナはこれを祝福し、また次農業サイクルにおける支配者の役割を保護する。

古代メソポタミアとりわけ前二千年紀までの宗教イデオロギーでは、支配者は上によって選ばれる。彼は、この世を管理、支配するためのさまざまの手立てを、神から与えられる。そのことが、「ウルクの大杯」によって図像化されたのである。「ウルクの大杯」において、神の命令のもと、生産、消費体制を管理するために、王が生まれ、国家組織が確立されたことが、はじめてあざやかに語られた。

出典:図説メソポタミア文明/p10

「大杯」が表すものは諸説あるらしいが、「聖婚儀礼」だということで話をすすめる。

まず、豊穣を祈願あるいは感謝するために農作物を都市神イナンナに献上するという宗教的意味がある。

もう一つ、こちらのほうが重要だと思うが、女神官が都市神イナンナ、王がドゥムジ(牧神)の役割を果たして、神と王が一体であるというデモンストレーションをおこなうという政治的意味がある。

支配者・王

ウルクの大杯」がいつ制作されたかについては、『シュメル』と『図説メソポタミア文明』では意見が分かれる。

『図説メソポタミア文明』では、「考古学編年でいうジェムデト・ナスル期(紀元前3000年頃)に制作されたらしい。」としている。(p6)

『シュメル』では、ジェムデト・ナスル期の宝物庫から発見された「大杯」は「かつては大切に使用されていたらしく、補修の痕跡があったことから、前の時代であるウルク文化期(前3500-3100年頃)後期に作られたようだ」としている。(p54-55)

このブログで何度も紹介している参考図書の『都市の起源』*1では「ウルク後期に帰属する」としている(p145)。

ウルク期の支配層の形成については、別の記事「メソポタミア文明:文明誕生直後の神殿の役割」の節「文明誕生直後(ウルク期後期)の神殿の役割」で触れたが、簡単に言うと、支配化はウバイド期末期よりはじまり、初めは神殿の祭司あるいは神官に権力が集中したが、ウルク期後期になると、世俗の支配者が登場するようになった。

やがて、ウルク後期末には、ウルク遺跡の祭祀儀礼に関連した建物に、銅と銀の合金で鋳造された鏃(やじり)が奉納される。この合金鏃は威信財あるいは儀器(祭具)として特別に扱われている。おそらく、ウルク後期には軍事の職能を有する人物の社会的地位がもっとも高くなり、最終意思決定者としてコミュニティを支配するようになっていたのであろう。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p177

言うまでもなく、この最終意思決定者が王だ。

ウルク期には、公益活動の活発化にともない、祭司とはことなる世俗的な立場の指導者が登場して、余剰財を集中管理するようになる。都市的な性格の強まるウルク後期までに、交易ネットワークにより集積していく富に支えられながら、世俗的な指導者はコミュニティを統治する合理的な仕組みを思いついた。施政者は、乾燥気候と洪水という厳しい環境で都市的集落を存続させるために、自然現象は神意によるものとして神を頂点に据えた秩序を創り出し、神殿を主役に見せかけて経済を動かすという着想を得た。

つまり、古代西アジアにおいて、ウルク後期ごろに、世俗的な指導者は神と人の間に厳然たる線を引いて、抗うことのできない新たな秩序をつくりあげることで、神の代理として君臨する「勝ち組」になったのである。おそらく施政者は、有り余る富で神に仕える祭司たちを上手く取り込んだり、もしくは自らが祭司の長を兼ねたりして、コミュニティの支配者になったと推測される。

出典:都市の起源/p178-179

  • 「都市的集落」とは都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落のことを指している。著者の造語。



*1:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016

メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ③(神)

前回の記事「メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ②(牧畜・家畜)」から引き続いて書く。

今回も前回同様に小林登志子著『シュメル――人類最古の文明』と前川和也編著『図説メソポタミア文明』に頼って書く。

中段:剃髪した裸の神官

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出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p55

中段では、羊と逆方向に裸の男の行列が二種類の容器と注口付き壺をもって歩いている。『シュメル』によれば、この剃髪した裸の男は神官だとする。「剃髪、裸体の意味はよくわからない」(p71)。二種類の容器には下段の農地から作られたパン類と羊乳が入っているのだと思われる*1

上段:神への献上

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図説メソポタミア文明/p9

上段の図はウルクの都市神である女神イナンナにウルクで育った作物で作られたものを献上しているシーン。

欠損している部分は当時のウルクの支配者と考えられている。これは残存している部分に格子状の長いスカートの裾と素足、それと後ろの従者が持っている長い房飾りより判断できる。ほかの円筒印章にこれと同じような図像があるからだ。この支配者はおそらく「エン」の称号を持っていた。「エン」とはすなわち王である。*2

下は円筒印章の例。

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出典:三笠宮崇仁監修、岡田朋子・小林登志子共著/古代メソポタミアの神々/集英社/2000/p44

支配者については別の記事で書こう。

「エン」の前で容器を持っているのは中段と同じ裸の神官で、献上品をまさに献上しようとしている。これに対面しているのは女神官とする。これを女神イナンナとする説もあるが、『シュメル』(p74-75)によれば、鼻の前に手を置く姿を祈りを捧げているポーズとみて女神官としている。

女神官の後ろに奇妙な形のポールが2本ある。これは葦束で女神イナンナを表す。「イナンナ神をあらわす楔形文字は、もともとはこのポールを形象した文字サインだった」(図説メソポタミア文明/p8)。

ポール(女神イナンナ)の右側は神殿(の倉庫)を表している(ポールは神殿の入り口も表している)。

「大杯」の葦束の後方は神殿内部の様子である。二重の線で、二頭の羊が表されている。羊の背に置かれた台上に二人の人物が刻まれている。葦束を背後にした後方の人物は合掌している。前方の人物はなにかを手に持っているが、一説によれば古い時代の文字、エン(「主人」の意味)を持ているともいう。また、後代には神は動物の上に乗って表現されることから、二人の人物は神あるいは神像を表すとも考えられている。

一対の大杯の背後に、ガゼルとライオンの形をした容器がある。その下には一対のパンを盛った高坏(たかつき)、一対の供物籠が置かれ、犠牲として奉献された牡牛の首もある。詳細な部分では意味がわからないものもあるが、全体としては神殿内の供物を表しているようだ。

出典:シュメル/p74

神(最高神アン・女神イナンナ)

古くはウルク市の都市神、つまり都市の最高神はアンであったが、アンはデウス・オティーオースス(「暇な神」)となり、代わってアンの娘、妻あるいは「聖娼」といわれるイナンナが都市神となったと考えられている。ただし、その時期や理由はわからない。イナンナはのちにアッカド語でイシュタルと呼ばれ、豊穣と性愛、戦争の女神としてメソポタミアで広く、長く信仰された最大の女神である。

出典:シュメル/p73

最高神アンについて

アンはシュメールの神話で「太陽の頂き」あるいは「天」という意味の名前を持つ神である。アンはシュメール神話の神々の中では、大地の神エンリルや深淵の水の神エンキと並んで最も古い神である。エンリルが、シュメールとアッカドの事実上の最高神となるまでは、アンが最高神であった。アンはアッカド神話ではアヌと呼ばれる。

出典:アヌ (メソポタミア神話)<wikipedia

最高神アンはシュメールの天地創造に関係している。

最も古いシュメール人が考えていた宇宙観によれば、宇宙はアン(天)とキ(地下世界を含む大地)の二層構造からなっていた。アンとキとは本来は一つの世界であった。原初、そこには神々だけしか住んでいなかった。その後、人間の住まう場所が必要となったために、ある時点で分離してしまったという。

出典:アンソニー・グリーン監修/メソポタミアの神々と空想動物/山川出版社/2012/p13/上記は稲垣肇氏の筆

アンは最高神であり、かつ、創造神でもある。男神

ウルクの都市神イナンナについて

その名は「天の女主人」を意味するとされている。アッカド帝国期には「イシュタル」と呼ばれた。イシュタルは南アラビアの女神アスタルテやシリアの女神アナトと関連し、古代ギリシアではアプロディーテーと呼ばれ、ローマのヴィーナス(ウェヌス)女神と同一視されている。

出典:イナンナ<wikipedia

イナンナはあらゆる土着の女神と同一視された。イシュタルは「新アッシリア語名で、古くバビロニアの「星」の意味に由来」するとあるから*3、本来はイナンナとは別の神で のちに同一視(習合)されたのだろう。

シュメルの最高女神イナンナは元来はニン・アンナ「天の女主人」という意味だが、イナンナを表す絵文字は豊穣の「葦束」から発達したものである。

出典:古代メソポタミアの神々/p38

イナンナはもともと土着の豊穣女神だったが、ニン・アンナ「天の女主人」という名前を、おそらく後からつけられたのだろう。もともとは豊穣の神であり、「戦いの神」などの神性も習合した神々たちのものだったのだろう。



*1:図説メソポタミア文明/p8

*2:シュメル/p70、図説メソポタミア文明/p6

*3:イシュタル<wikipedia

メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ②(牧畜・家畜)

前回の記事「メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ①(農耕・栽培)」から引き続いて書く。

今回も前回同様に小林登志子著『シュメル――人類最古の文明』と前川和也編著『図説メソポタミア文明』に頼って書く。

下段:農耕と牧畜の風景

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出典:前川和也(編著)/図説メソポタミア文明/ふくろうの本/2011/p11

ヒツジ

「大杯」下段、大麦となつめやしの上には羊の図像が彫られている。

西アジア世界は、シュメル人が活躍していた時代から今にいたるまで穀物といえば麦、家畜といえば羊の世界である。遊牧民だけでなく、有畜農耕社会であったから農民の身辺にも羊がいた。

シュメルの彫刻師は事物を正確に描写していて、その図像は貴重な資料となりうる。「大杯」には二種類の羊が彫られている。一説によれば牡牝を表現しているという。別の説では羊の種類を表現しているとする。一種類は尾が長くて胸に房毛があって、角が螺旋状に水平に伸びた毛羊であり、もう一種類は角のない羊である。[中略]

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シュメル人は羊を頭部や角では表現せずに、古拙文字の「羊」は肛門の形でした。「牡牛」を表す古拙文字も一見して頭部の形とも見えるが、実際は陰部の形ともいわれている。こうした文字を生み出したシュメル人が特に変わった趣味だったということではない。周囲の荒野には遊牧民がいて有畜農耕社会であったシュメルには、家畜の群れを管理するための去勢や「先頭の山羊」などの技術もあった。シュメル人にとって、麦が豊作になることと同じように、羊が多産であることも大切なことであった。発情を知るためには家畜の生殖器に注目せざるをえず、こうした必要が文字を生み出すさいにも反映したのではないだろうか。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p65-66

『図説メソポタミア文明』には 「のちの時代の図像にみえる山羊・羊群のように、フリース状の毛が描かれていない。このペア飼育の主目的は、搾乳であったのかもしれない」 と書いている。家畜用のヒツジはいろいろな種類がいて、乳用種、毛用種、肉用種などに分化しているらしい。

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山羊1頭と羊2頭(ウルのスタンダード)
2頭の羊と先導山羊。山羊・羊の体毛が強調されていて、飼育の目的が羊毛獲得にあることはあきらかであるが、現在の羊とちがって大きな角をもっている。
左は外国人に連れられた羊。
前3千年紀中葉。
大英博物館
画像提供:DNP

出典:図説メソポタミア文明/p79

wikipediaのヒツジのページは以下のとおり。

ヒツジを家畜化するにあたって最も重要だったのは、脂肪と毛であったと考えられている。肉や乳、皮の利用はヤギが優れ、家畜化は1000-2000年程度先行していた。しかし山岳や砂漠、ステップなど乾燥地帯に暮らす遊牧民にとって、重要な栄養素である脂肪はヤギからは充分に得ることができず、現代でもヒツジの脂肪が最良の栄養源である。他の地域で脂肪摂取の主流となっているブタは、こうした厳しい環境下での飼育に適さず、宗教的にも忌避されている。こうした乾燥と酷寒の地域では尾や臀部に脂肪を蓄える品種が重視されている。それぞれ、脂尾羊、脂臀羊と分類される。

出典:ヒツジ<wikipedia

ヤギ

家畜としてのヤギ
ヤギは家畜として古くから飼育され、用途により乳用種、毛用種、肉用種、乳肉兼用種などに分化し、その品種は数百種類に及ぶ。ヤギは粗食によく耐え、険しい地形も苦としない。そのような強靭な性質から、山岳部や乾燥地帯で生活する人々にとって貴重な家畜となっている。ユーラシア内陸部の遊牧民にとっては、ヒツジ、ウシ、ウマ、ラクダとともに5種の家畜(五畜)のひとつであり、特にヒツジと比べると乾燥に強いため、西アジアの乾燥地帯では重要な家畜であり、その毛がテントの布地などに使われる。ヤギの乳質はウシに近く、乳量はヒツジよりも多い。

出典:ヤギ<wikipedia

先ほどの小林氏の引用の続き。

「先頭の山羊」とは、羊の群を制御するさいに混ぜる山羊のことである。羊はおとなしいので、性格の激しい山羊を混ぜてやると、山羊が先頭に立ち、羊はその後について行く。牧人は山羊を制御すれば、羊の群れ全体を制御できることになる。第四章で話す「ウルのスタンダード」の「共編の場面」中断に見える一頭の山羊と二頭の羊は「先頭の山羊」とそれにしたがう羊の群れを象徴しているようだ。

出典:小林氏/p66-67

『シュメル』にも『図説 メソポタミア文明』にも「先頭の山羊」以外のヤギの利用はほとんど書いていなかった。ヤギに求められていたものはヒツジ、ウシ、ブタにシェアをとられてしまった。性格の激しさが祟ったのかもしれない。

ウシ

ウルクの大杯」にはウシは描かれていないが、『シュメル』ではウシ、ブタ、魚について触れられているので順に書いていこう。

ウシは食肉として利用されたのではなく、牡牛は犂を牽引させるための役畜、雌牛は乳をとるために利用された。

シュメル社会では力強い牡牛は犂を牽かせる大切な動物であった。シュメルのみならず古代オリエント世界では先史時代以来、この牡牛の力に畏敬の念を抱き、牛の角や頭部は力の象徴として崇められた。これが男神の根源的な姿であるが、やがて、男神は人間の男性の姿で表わされるようになっていった。シュメルでは図像で神であることを表すさいには、角の付いた冠をかぶっている姿が決まりとなっていることもある。この角は牛の角を模している。[中略]

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ウバイド遺跡のニンフルザク女神の神殿からは石製装飾壁(フリーズ)が出土している。この図像では、左側では四人の男が乳製品を作っており、真ん中には牛舎があって、仔牛の頭が見える。

右側は搾乳の場面であり、母牛の前に行使が連れて来られている。これは今日の搾乳とはかなりちがっている。現在の代表的な乳牛、ホルスタイン種のような乳牛は人間が改良して作り出した牛である。あたり前のことながら本来、母牛は人間のために乳を出すのではなく、仔のために出すのであり、この母牛が仔牛の匂いをかぐことで乳を出すことを表している。また、現在は牛の横から搾乳するが、ここでは牛の後ろに搾乳する人がいて、シュメルにおける酪農の様子を伝えている。

出典:シュメル/p68

ブタ

シュメル人は豚肉を食べたが、一般に羊肉の方が上等と考えられ、好まれたらしい。豚肉は女どれの食べ物と考えていたようで、次のようなことわざが残っている。

脂身はおいしい。
羊の脂身はおいしい。
女奴隷にはなにを与えようかしら。
彼女(=女奴隷)には豚のハム(あるいは臀(しり)の肉)を食べさせておけ。

そうはいっても、食べ物のこの実は一概にはいえず、犬の餌にもされている豚肉を后妃が食用とした記録もある。

また、豚の飼育は女性の仕事であったようで、こうした例は羊や牛には見られない。豚は肉だけでなく、皮や油も利用し、ことに豚の脂は皮膚に塗られていた。日本のように湿度の高い土地では身体に油を塗ることはあまりしないが、シュメルでは、直射日光から肌を守る民に胡亥で働くさいに豚の脂を塗っていたようだ。

出典:シュメル/p70-71

現代の豚肉はおいしいが、シュメール人は豚肉をあまり改良していなかったのだろう。

シュメール地方ではティグリス・ユーフラテス両川とペルシア湾で魚がとれた。ただシュメル語で魚の名前・種類を特定することは難しいらしい*1

ロバ

ここでは小泉龍人著『都市の起源』から。

[車輪と荷車の開発と]同時に、野生ロバが家畜化され、橇(そり)や荷車の牽引に利用されはじめる。中部メソポタミアのテル・ルベイデ(ウルク中期)や、ハブーバ・カビーラ南(ウルク後期)などでは、家畜化されたロバの骨が検出されている。また、パレスティナ地方の墓からは、籠を背中に積んだロバ形模型が出土して、ロバが荷物の運搬に利用されていたことを示す。さらに、ロバの引く荷車の車輪らしき土製品がウルでも見つかり、荷車はロバの家畜化とともにウルク期後半の発明とされる。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p158



*1:シュメル/p71