歴史の世界

メソポタミア文明:文明誕生直後の神殿の役割

時代は変わっても神殿は都市の中心部に在リ続け、幾つもの重要な役割を果たした。

都市文明が誕生したばかりの時期は行政と宗教の運営が未分化だったが、時を経て分化していった。おそらく人口の増加や交易の多様化、インフラ事業の増大など業務が増えるにしたがって祭司または神官たちでは賄っていけなくなったのだろう。

ウバイド期の神殿の役割

記事「メソポタミア文明:先史② ウバイド文化」でも紹介したが、ウバイド4期(終盤)に、ウバイド文化を代表する集落遺跡エリドゥで小さな祠堂が発掘された。祭壇と供献台がありなんらかの祭祀儀礼が行われていたとされている。

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p102-104

神殿での祭祀儀礼は祭司たちによって行われていたが、祭司たちは葬儀儀礼もやっていた*1。ウバイド期の祭司は専門職ではなくパートタイム的に役割を果たしていた。身分も一般庶民とは変わらなかった。ウバイド期の神殿の役割は以下のようだった。

祭祀儀礼の場としての神殿が人々の「心の拠り所」となり、平等主義的な社会が展開していた。ウバイド期の祭祀統合社会では、神殿を軸にした祭祀儀礼が各地に浸透していた[以下略]。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p67

文明誕生直後(ウルク期後期)の神殿の役割

ウバイド期の集落(共同体)は「血縁的なつながりの親族集団を単位」*2としていたが、末期になると気候変動の影響で「よそ者」が流入してくると、それまでの慣習はくずれ、神殿の役割も変化せざるを得なくなった*3

このような過程の中で祭司たちの役割の重要性が増していった。先住の庶民とよそ者は祭司に仲裁を必要としたが、重要性を増した祭司はパートタイム的な役割から専業者へと変わった。都市が誕生すると彼らは行政にも たずさわるようになり、それからは神官と呼ばれるようになる。

神殿経済論

メソポタミアは常に外界との物資のやり取りをおこなっていなければ生活そのものが成り立ちえない世界であった。しかしながらまさにこのような制約こそが、南メソポタミアに都市文明を興隆させた最大の要因であったのである。南メソポタミア世界に生きる人々は、自らの生存のために大規模な物資集散と再分配システムの構築に取り組み、異文化間を貫徹するひとつの経済システムをつくりあげていった。その中枢的役割を担っていたのが、神殿であった。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p110

上述のように、祭司の役割が重要性を帯びて神官へと変わり、神殿の中から集落あるいは都市へ影響力を行使するようになった。記事「文明の誕生、都市の誕生」に書いたように祭司(あるいは神官)たちは大規模な倉庫の鍵の管理を託されていた。これは交易または市(いち)を管理することも意味した。

神殿あるいは神官が経済に関わっていたことは考古学的上でも裏付けられている。ウルクの神殿跡から経済に関わる絵文字粘土板や数字粘土板が大量に出土しているからだ。*4

したがって、ウルク後期に確立する神殿は、素朴な祖先崇拝にもとづく以前の「神殿」とは隔絶性、定形性、機能といったあらゆる面で明確に区別される存在であり、集落の中核として機能していたことは疑いようがない。現在までウルク後期の王宮址(あと)と確実にいえるものが発見されていないことを考え合わせると、神殿がウルク後期社会の都市活動の根本を具現する存在であった、と結論付けることもできよう。

出典:西アジアの考古学/p117

経済に関連する役割を神殿あるいは神官が担っているという仮説を「神殿経済論」というらしい(上の引用先には「神殿経済」という言葉は出てこないのでこれとは違うかもしれない)。以下の文章はこれに批判的なもの。

神殿経済論とは、シュメール地方周辺で都市国家の分立する段階に、ほとんどの耕地は神殿の所領であり、神に仕える神官たちが経済を取り仕切っていたという仮説である。都市や都市国家は神の領地であり、施政者の権威は、神の家である神殿を管理することで示された。この説は、初期王朝時代(約4900~4300年前)のメソポタミア社会に関する研究を方向づけることになった。

しかし、神殿経済論の基礎史料は、約4600年前のギルスの街に限定された記述にある。また、歴史時代の都市国家の経済状況が、そのまま先史時代の社会経済にもあてはまるかは未検証である。こうした「旧説」の呪縛からの脱却が課題となっている。[中略]

自説は[以下の通り]。[中略]約5300年前の年誕生段階(ウルク後期)、西アジアの中心にあるメソポタミアではすでに世俗的な支配の仕組みが整い、施政者はあくまで神殿を前面に出して、自らは控えめにいた。政治的な支配化が進む過程で、意思決定は特定の個人に集中していく。施政者は神殿を主役に見せかけながら、街を政治的に支配していった。祭司たちはあくまで表向きの役者であり、最終意思決定は世俗的な支配者の掌中にあったと私は考えている。

出典:都市の起源/p179-180

小泉氏は上の自説の根拠のひとつとして、市(いち)が開かれる広場と商品が納められている巨大な倉庫が、神殿に面した中央の広場から(ウルク中期)、城壁に接した場所に移ったことを挙げている。このことは『都市の起源」のp119-120に北シリアの都市ハブーバ・カビーラ南を例として書いてある(記事「文明の誕生、都市の誕生」に引用した)。

そしてこの支配者が王になってあらわれるのだが、王ついては別の記事で書こう。

祭祀・お祭り・宴

都市国家の分立段階になると、南メソポタミアのラガシュ遺跡では、約4600年前の都市神を祀った聖域にビール工房が設けられ、メソポタミア最古級のビール醸造所であると推定されている。メソポタミアの神殿には、たいてい厨房が付設されている。神は人と同じように食事をとると信じられていたため、神々の身の回りをお世話する神官たちが必要となる。神の召し上がる食事を毎度準備するために、調理場がもれなく併設されている。美味しい酒と食事を神々に堪能していただいた後、そのお下がりは神官たちだけではなく、下々にまでおすそ分けされる。美酒や馳走にありつけるという噂をききつけて、よそから人々が都市に殺到したにちがいない。

出典:都市の起源/p132

もう一つ。

古代西アジアレスリングは、裸の男性が腰にベルトやふんどしのような布をつけて1対1で競い、互いのそれをつかんだりして、どちらかの体が地面につけば勝負ありとされた。[中略]

裸体で格闘するレスリングは、主要都市の神殿の前庭や宮殿の中庭で神聖な儀式として行われ、主要都市以外では、見物できなかったと想像される。

出典:都市の起源/p136

神に捧げられた犠牲を祭祀の後で、皆に分け与える風習は大昔からあったと思う。小さな集団(集会)の祭祀の後のおすそ分けなら宴(うたげ)になるが、神殿で行われた祭祀の後ならお祭りになるだろう。「美味しい酒と食事」のおすそ分けを都市の庶民が食べながら神殿の前の広場や目抜き通りで騒いでいる光景は想像に難くない。

おすそ分けにレスリング、パンとサーカス。神殿の役割は支配者に受け継がれたと思われる。

食事をとる

*1:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/64

*2:都市の起源/p97-98

*3:記事「メソポタミア文明:文明の誕生、都市の誕生」も参照

*4:西アジアの考古学/p121

メソポタミア文明:文字の誕生 後編(楔形文字)

世界最古の文字「ウルク古拙文字」は数詞と物を表す絵文字だけで記録をつけるために使われていた。

これからまた時が経つと、物と数字の記録だけでなく、「物と数字」の関係者たちの名前も書かれるようになっていった。例えば物の貸し借りの債権者と債務者、物を納入の時の納入者と受領者といったように。そして絵文字と数詞しか無い文字から物語も書ける文字「楔形文字」が出現した。

楔形文字が「完全な文字体系に整えられるのは前2500年頃である。」*1

表音文字と助辞の誕生

絵文字と数詞しか無い文字しか無い状態でどのように人名を表したかというと、その名前の一部に似た音の文字や、似た意味の文字を利用して表した。

次に、表音文字が現れた。絵文字は一字で意味と音を表す文字だが(表語文字という)、絵文字から特定の音(音素)を表す文字が現れた。つまり、漢字からひらがなが産まれたことと同じことが起こった。これが表音文字だ。

シュメール人の言語は膠着語と言われるカテゴリの中にあり、日本語の「てにをは」のような助詞を使う。これを表す必要性から表音文字が産まれた。

こうして、表語文字表音文字を使うことにより、かなり自由に記録することができるようになった。*2

線画文字(ウルク古拙文字)から楔形文字

いったいなぜ、線画から楔形になったのか。私の手元にある参考文献には詳しく書かれていないので想像を加えて書いてみよう。

ウルク古拙文字から楔形文字への変遷の図がある。

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出典:シュメール文字<世界の文字<地球ことば村

ここでまず、数詞に注目する。

葦の丸い端をそのまま押し付けると円形が、斜めに押し付けると爪形が押捺される。重要なのは円と爪形の印であり、後の楔形文字の粘土板で表現されている数字と全く同じ形で、爪形が1を円形が10をというように、数字を表現していると考えられる。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p119

ウルク古拙文字の時代の筆記具は葦だった。「葦といっても日本の河川で生えているような細いものではなく、直径2.5cmもある太いもの」だ*3。それでも粘土に細いペン先で線画を書こうとなると簡単にオレてしまうことは想像に難くない。

そこで思いついたのが、始めに太い先端を粘土に押し付けて、その後にペンを横に倒して直線の痕をつける、という方法だ。線の痕をより明確にするためにペンの形を細長い三角錐にすれば、楔形文字の筆跡が出来上がる。(この部分は文献になかったので私の想像)。

下の写真は楔形文字の実物、

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イラク,ドレヘム遺跡より出土した手紙。紀元前 20 世紀頃(ウル第三王朝時代)。

シュメール文字<世界の文字<地球ことば村 *4

楔形文字の普及

楔形文字表音文字としても使用できるようになると、楔形文字が持つ音価を利用して、シュメール語とは全く異なる言葉を表記することが可能になります。

初期王朝時代のメソポタミア南部には、シュメール人の他に、セム語族に属するアッカド語を話すアッカド人も住んでいました。アッカド人は自分たちの言葉を表記する文字を持っていませんでしたが、シュメール人楔形文字をもっぱら表音文字として利用して、自分たちの言葉であるアッカド語を表記しました。このアッカド語は、後で述べるように、古代オリエント世界の最初の共通語となりました。

出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p74-75

こうして文字は単なる業務の備忘の道具としてだけでななく、手紙のやり取りをしたり ギルガメシュ叙事詩のような物語を書いたりできるようになった。




*1:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p40

*2:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p74

*3:シュメル/p41

*4:リンク先には「手紙」の内容を知ることができる

メソポタミア文明:文字の誕生 前編(ウルク古拙文字)

世界最古の文字はメソポタミアで誕生した「ウルク古拙文字」だ。

「拙」の字があるように、産まれたばかりの文字は絵文字もしくは記号のようなものだった。これが時を経て使いやすいように変わり、文字大系(現代でいうところのアフファベットや五十音)が出来上がるようになる。そして形を変えながら世界へ伝播していく。

この記事では、文字の誕生までの過程を中心に書く。


前8000年頃 プレイン・トークンの使用、始まる。
前3500年頃 コンプレックス・トークン、ブッラ登場。
前3200年頃 コンプレックストークンからウルク古拙文字へ


文字誕生のきっかけ――トークンとブッラ

文字誕生のきっかけはトークンとブッラというものから始まる。

トークン(token)は「しるし」「代用貨幣」を意味する。これが何かというと計算具だった。文字が無い時代に記録をつけなくてはならない時にこれを使った。

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p68

初めのうちのトークンは球形、円錐形、円盤形、円筒形など様々な形を成し、それぞれの形に意味を持たせていた。時が経つと形が多様化してさらに線や模様が彫られるようになった。前者をプレイン・トークン(単純トークン)、後者をコンプレックス・トークン(複合トークン)と呼ぶ。

最初に登場したのはプレイン・トークンで、最も古いものは紀元前8000年頃の半定住農耕村落や定住農耕村落の遺跡で発見されました。そして、文字による財の出納管理が、トークンによる財の出納管理に取って代わる紀元前3000年頃まで継続して使われました。プレイン・トークンは、主に穀物の貸し借りや家畜の飼養委託の管理に使われたと思われます。

たとえば、収穫前に主食のオオムギの蓄えがなくなってしまった人は、収穫までの食糧として蓄えにゆとりのある人から大麦を、たとえば3単位量借りることになります。今ならば借用書を書くことになるでしょうが、当時は文字がありませんので、債務者(借りた人)は債権者(貸した人)に大麦1単位量を意味したと思われる円錐形のトークンを3個渡します。債権者はこれら3個のトークンを大事に保管しておき、収穫時に債権者からかした大麦を返済してもらい、代わりにトークンを廃棄処分するのです。[中略]

実際には、富を蓄えた村の有力者は、複数の人に大麦を貸したり、羊の飼養を委託していた可能性があります。また、債務者にとっては、債権者がトークンの数をごまかすのを防ぐ必要もあります。

そこで、それまではたぶん債務者ごとにツボに入れて保管していたトークンを、中空のボールの形をした粘土製封球に入れて封印し、保管するようになりました。紀元前3500年頃のことと思われます。しかし、いったんトークンを封球に入れてしまうと、封球を壊さないかぎり中身が確かめられないという欠陥がありました。この欠陥を解決するために考え出されたのが、生乾きの粘土製封球の表面に、中に保管しているトークンと同じものを同じ数だけくっつけておくことでした。ところが、くっつけたトークンは何かの拍子にはずれてしまうことがあります。

そこで考えついたのが、トークンを封球の中に入れる前に、まず一つ一つのトークンの押印痕を封球の表面に残し、そのあとでトークンを封球の中に入れ、封球を封印することでした。そうすれば、封球を割らなくても中身が何であるかを知ることができる上、トークンの保管も完璧です。

メソポタミア文明入門/p68-70

上にある「粘土製封球」を「ブッラ(bulla)」という。ブッラはラテン語で「球」を意味する。

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A Bulla (or clay envelope) and its contents on display at the Louvre. Uruk period (4000 BC–3100 BC).

出典:Bulla (seal)<wikipedia英語版*1

上の泥粘土で作られた球(ブッラ)の中にトークンを入れて閉じて粘土を乾かす。一度乾かしたら叩き割らないかぎり、中を見ることはできない。当事者(たとえば債務者と債権者)両方が粘土を閉じて乾かしたり叩き割ったりする場面に立ち会えば、不正が起こる可能性が無くなる。

他方、コンプレックス・トークンが出現したのは紀元前3500年頃でした。ちょうどメソポタミア南部で都市文明が成立する時代です。プレイン・トークンが村落遺跡から見つかっているのに対し、コンプレックス・トークンは、神殿など、大きな公的建造物のある都市遺跡――たとえば、イラクのスーサ、シリアのハブバ・カビーラなど――から見つかっている点が注目されます。

シュマント=ベッセラによると、これらコンプレックス・トークンは、それぞれ都市で作られた製品の1単位を表しました。コンプレックス・トークンの多くは孔に細ひもを通し、ひもの結び目を封泥(ブッラ)で封印して保管したものと考えられます(図3-5)。

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メソポタミア文明入門/p71-72

  • 上にあるシュマント=ベッセラ氏は、「トークンとブッラ=文字の起源」という仮説の主唱者の一人(後述)。

小泉龍人『都市の起源』*2によれば、ウルク中期に現れた車輪と家畜化されたロバによる陸上輸送手段の確立が、トークンの利用の複雑化を引き起こした。つまり交易が活発になり西アジアで取引される都市と商品の数が増えたので上のような複雑化が起こった。

トークンから文字へ

先述のシュマント=ベッセラ氏はプレイン・トークンのブッラへの押捺から数詞が、コンプレックス・トークンの複雑な模様/形態から絵文字が誕生したと主張する。

上にプレイン・トークンを封球(ブッラ)に押捺して補助的な記録として利用したことを述べたが、時が経つと、記録の本体であるはずのトークンが消え去り、補助的記録であったトークンの押捺が本体に変わった。記録をする媒体のブッラも消え去り、媒体は粘土板(タブレット)に変わった。これが数詞の誕生である。*3

しかしコンプレックス・トークンは形状・模様が多様なため、上記のように押捺しても間違いなく認識できるような押捺痕を残すことが難しかった。そこで押捺痕の代用として、先の尖った筆記具でコンプレックス・トークンの形状・模様を線画して代用とした。これが線画絵文字つまりウルク古拙文字の起源となった*4

ウルク古拙文字の最も古い証拠はウルクで出土した。前3200年頃のもの*5

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ウルク第4層出土の粘土書板

出典:シュメール文字<世界の文字<地球ことば村 *6

  • 上の粘土板が前3200年頃のものではない(と思う)。

上のような手のひらサイズの粘土板が備忘録として使われていたようだ。手間のかかる「トークン・システム」と比べるとかなり簡略化された。これが行政の記録としても利用されるようになった。ウルク後期から次のジェムデット・ナスル(ジェムデト・ナスル Jemdet Nasr)期(約5300~4900年前)に「ウルク古拙文書」と呼ばれる5000枚以上の粘土板が見つかった。*7

ウルク文字の粘土板の写真は上の地球ことば村のリンク先にある。

アミエ氏とシュマント=ベッセラ氏

以上の「トークンから文字へ」の過程を主張しているのは、シュマント=ベッセラ(Denise Schmandt-Besserat)氏だ。1992年に「Before Writing*8」という本を出版している。邦訳本は「文字はこうして生まれた*9」という題名で2008年に出版されている(私は読んでいない)。

文字はこうして生まれた

文字はこうして生まれた

コンプレックス・トークンから絵文字への転換になる証拠が出土していないため、批判もあるそうだ*10

これに先駆けて、「トークン・システム」を思いついたのはフランスのP.アミエ(Pierre Amiet)氏だ。イランのスーサ遺跡から出土したブッラを見て思いついたそうだ。どうやらこの研究者が上の仮説の起源らしい*11




次回は楔形文字について書こう。

*1:ダウンドード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Bulla_(seal)#/media/File:Accountancy_clay_envelope_Louvre_Sb1932.jpg

*2:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p168

*3:都市の起源/p167-168

*4:メソポタミア文明入門/p72

*5:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p40

*6:『都市の起源』のp169に同じ写真があった。ウルク第4層はウルク期の最末期(前3100-3000年)。

*7:都市の起源/p169

*8:University of Texas Press

*9:岩波書店

*10:都市の起源/p168 またはシュメル/p37

*11:都市の起源/p167

メソポタミア文明:文明の誕生、都市の誕生

文明はcivilizationの訳語だ。「civilizeすること=都市化すること」が文明の意味となる。

「文明」という言葉がついたものが全て都市を持っているかというとそうでもない。長江文明トロイア文明も都市は持っていない。文明という言葉は曖昧なのだ。

今回のメソポタミア文明は「都市化」から文明が始まった。

メソポタミアペルシャ湾岸で始まった(シュメール文明)。都市化は時を経てメソポタミアに広がった(メソポタミア文明。シュメール文明はメソポタミア文明の一部)。


前4300-3900年 ウバイド3期。この時期メソポタミア南部で村落数が飛躍的に増大。またウバイド文化がメソポタミア北部などに伝播。
前3500-3400年 ウルク期初期。メソポタミア最南部(のちのシュメール地方)の都市化開始。
前3400-3300年 ウルク期中期。シュメールの都市化がさらにすすむ。またこのころからシリア・ユーフラテス流域ハブバ・カビラ、イラン・スサなどで南部メソポタミアの人びと(おそらくシュメール人)が活発に植民活動。
前3300-3100年 ウルク期後期。シュメール南部ウルクで大公共建設物が盛んに作られる。ウルク後期最末期(エアンナⅣa層時代)のウルクで粘土板文字記録システムが成立。シュメール都市国家時代の開始
前3100-2900年 ジャムダド・ナスル期(ジェムデト・ナスル期 Jemdet Nasr period)。シュメール都市文化が各地に伝播。 *1


都市の誕生の前段階

なんでもそうだが、都市は一日で突然できるわけではない。前段階(できるまでの過程)がある。

前段階はウバイド期の後期から始められる。ウバイド3期に南メソポタミアでは灌漑農耕による農産物の大量生産が実現した。家畜については従来のヒツジ・ヤギの他にブタ・ウシが導入された。これを背景に他の地方と交易が活発化して必要物資を得るルートが確保された。これに加えて重要なのが神殿だ。都市の中央部に建設される神殿の型やそこで行われる宗教儀礼はウバイド期に起源が求められる。(前記事「メソポタミア文明:先史② ウバイド文化」参照)

以下は小泉龍人著『都市の起源』(講談社選書メチエ/2016)に頼って書く。

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る (講談社選書メチエ)

  • 作者:小泉 龍人
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

人口流入と都市化

気候変動と人口の変化

最初に参考となる地図を貼り付けておこう。

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p3

河口部の点線がシュメール文明誕生の時期の海岸線となる。

都市化が進行しはじめたころ、ちょうど西アジア地方は気候最適期に入っていた。[中略]

おもにグリーンランドやペルー・アンデス産地における氷床コアの酸素同位体比の分析により、約8000~5000年前に、地球規模でもっとも気候の温暖な時期があったことがわかっている。[中略]

西アジアの中心にあるメソポタミアでは、とくにシュメール地方(南メソポタミア南部)が気候最適期の影響を強く受けた。海水面の上昇により海岸線が陸へ入り込んできたのである。もともと、シュメール地方の南にあるペルシア湾は、約18000~14000年前までは海退により海底が露頭していた。約12500年前から内湾部へ海水が入りはじめて、およそ6000年前には現在の海水面とだいたい同じ高さにまで達したとされる。ペルシア湾の海水面は、地球規模の気候温暖化に同調してさらに上昇をつづけて、現在とくらべて2メートルも高いレベルにまで達して、約5500年前のペルシア湾の海岸線は200キロメートルも内陸に入り込んでいたと推定されている。[中略]

メソポタミアにおける気候最適期は、だいたいウバイド期からウルク期にかけて(約7500~5000年前)に相当する。とくに、ウバイド終末期になると、著しい海水面の上昇によりペルシア湾の海岸線が内陸に移動し、南メソポタミアの沖積低地の暮らしにおきな変化が起きた。この点は、アルガゼをはじめ多くの研究者が指摘しているところであるが、私はさらに踏み込んで、以下のように考えている。

メソポタミアペルシア湾に接していて、ペルシア湾の海水面の変動がメソポタミアの沿岸地域に直接影響する。とりわけ海水面の上昇により、沿岸付近の農耕地で灌漑排水に不具合が生じたり、河口付近の流路が移ってしまう。たとえ微増であっても、海進は微妙なバランスのもとで成り立っていた灌漑システムに深刻な被害を与えた。耕地への給水だけでなく、耕地から塩分を含む水を排水する機能が低下してしまった。海水面の上昇は厄介な塩害を招来して、周辺地域の農業に多大な損害をもたらしたのである。

ペルシア湾の海進により、シュメール地方に広がるメソポタミア低地の耕作地で冠水や灌漑排水の脱塩機能の低下が引き起こされて、しだいに耕作地が放棄されていった。その結果、沖積低地で生活していた人々が移住せざるをえなくなり、約6000年前に「よそ者」が発生して、余剰食糧に溢れた集落へ惹きつけられていった。こうした人の動きが主な刺激となって、特定の集落で本格的な都市化が進行していった、というのが自説である。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p73-74

メソポタミア地方の人口増加については、他の文献でも言及している。前川和也*2と中田一郎氏*3はおそらく同じ資料(R. McC. アダムズ 1981)を紹介している。それによれば、ウルク期後半になると南部より人口が多かったシュメール地方北部で村落が廃棄されて、南部とりわけウルクに人口が大量流入したと推測している。

小泉氏はこれに対して言及し(p162-164)、ウルク期後期の急激な人口増加を認め、尚且つ、北部の村落を廃棄した人口は南部への流入だけではなく、遊牧民化したのではないかという説を紹介している。遊牧民は家畜を育てているだけではなく、広域の物流ネットワークの担い手(の一部?)になったとしている。

前川氏、中田氏はウルク期の前期・中期についてはあまり触れずにウルク期後期に都市化が起こったとするが、小泉氏はウバイド末期から、海進の影響による人口流入により、都市化がはじまった、そしてウルク期後期は都市化の完成期である、としている。

人口流入と社会構造の変化と神官の誕生

小泉氏は、南部に流入してきた人びとを「よそ者」と書いている。ウルクを含む幾つかの集落は「よそ者」を受け入れられるほどの余剰食糧の生産力を持っていた。「よそ者」は初めのうちは季節労働や運搬などの単純労働で生活していたと想像できるが、彼らが長く住むにつれて社会構造を変化させていった。つまり、人口流入あるいは人口増大により、顔見知りだけの慣習(=文化)だけでは社会の秩序を保つことができなくなり、「よそ者」をも説得できるようなシステム(=文明)を生み出さずにはいられなかった(文化と文明については以前に「文化と文明について」という記事を書いた)。

西アジアのウバイド終末期に、「よそ者」の出現によって将来されたさまざまな変化に対して、納得の行く折り合いが求められる。地域社会に新たな問題が生じた場合、もっとも信頼できる人物に解決策を委ねるのが自然な流れである。この場面で注目を浴びたのが、パートタイム的に神に仕えてた祭司たちだったと考えられる。役割から地位への変質が祭司たちにいち早く現れた理由は、このあたりにあったようだ〔ウバイド期には祭司は専門職ではなくパートタイム的に役割を担っていた(p63-67)〕。

身近な問題として、余った食糧の保管や、死者の埋葬の仕方があげられる。余剰食糧を預ける共同倉庫の開閉を祭司たちに任せるのは無難な落とし所であろう。風習の異なる「よそ者」の埋葬方法を巡っても、やはり儀礼に長けた祭司たちに最終的な判断を仰ぐのが妥当である。つまり、パートタイム的に祭祀儀礼に関わってきた祭司集団は、都市化の後半段階〔ウルク期〕において、俗世界のもめごとに対する苦情相談も請け負うようになり、それがフルタイム的な専門職になっていったのであろう。[中略]

ウバイド終末期からウルク期初頭にかけて、スーサでは祭司も庶民と同じく共同墓地に埋葬されていたが、祭司の墓には威信財が副葬されて他者と区別された。スーサは祭祀儀礼の要地であったために、埋葬されること自体に意味があったと推測される。ただでさえ箔がつく場所に威信財まで副葬されていたことから、スーサに埋葬された祭司たちの専門性はかなり強調されている。彼らはもはや専門職として神に仕える神官と呼べる。

かつて、パートタイム的な祭祀儀礼の役割を果たしていた祭司たちが、地域社会に生じた新たなトラブルを解決する役目も任されるようになる。本来の役割とは異なり、折り合いをつけていくうちに、しだいにそれが専業的な職能へ昇華していき、その役目が社会的な地位の形成へとつながっていく。面倒なもめごとの処理まで請け負ってくれる祭司たちの仕事ぶりは、コミュニティの指導者としての評価を高めることになり、その特異な地位が積極的に墓制に反映されていったと私は考えている。

出典:都市の起源/p87-89

この指導者(祭司/神官)たちの中から支配者層が現れるのだが、これは別に書こう。

専業化

「よそ者」の流入の変化として、町並みに現れたのが土器の工房だった。ウバイド期は見られなかった工房がウルク期前期になると出現する。集落の都市化が進んで人口増加も進むと、これに応えるように工房ができ、一定の機能・規格を持つ土器が大量生産されるようになった(この時期は改良されたろくろが活躍した)。大量生産は農民の余暇では賄えず、当然 工人を要する。工人は季節を問わずフルタイムで土器を作る。

時代が進むにつれ、貴重品を扱う商人や集落を衛る軍人など非食料生産者が登場する。(p78-81)

階層化

ウバイド期は基本的に平等な社会だった。それを一番表すのが墓の遺跡だが、共同墓地で画一的な墓に平等に葬られた。(p52-56)

しかし上に書いたように、ウバイド終末期にパートタイマー的に働いていた祭司たちから神官が現れた。彼らの墓には威信財が置かれて他者と区別されるように葬られるようになった。祭司以外も差別化が起こるようになる。専業化から職能集団が誕生し、一般庶民と職能集団の格差が生じるようになる。そして特定の職能集団の中でも格差は生じた。

コミュニティにおける役割から地位への変質は、都市化の後半段階(ウルク期)の後期銅石器時代に進行していった。都市的な正確の強まった集落では、街路により区切られた空間利用の専門分科により、祭祀儀礼を執り行う神殿、土器づくりや冶金の工房群、行政的な職務を司っていた館、集落を自衛する軍事施設など多様な正確の施設が出現していった。都市的集落では、街路により分けられた各区画で、祭祀、土器製作、冶金、行政、軍事などの役割が徐々に社会的地位を伴う専門的な職へ高まり、階層化された職能者の地位が墓制に反映されたと考えられる。

出典:都市の起源/p87

  • 「都市的集落」とは都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落のことを指している。著者の造語。

鍵付き倉庫と市場

平等社会のウバイド期においては、神殿や公共施設に付随した倉庫があった。こうした倉庫には、集落で生産された穀物などの余剰食糧が供託され、共同管理されていた。倉庫には鍵がかけられず自由に出入りができた(p56)。余剰食糧は、「必要に応じて個別の世帯に再分配されたり、さまざまな物資を外部から入手するために活用されたと推察される」(p91)。

しかし、「よそ者」の登場後、勝手に食糧を持ち出されないように、鍵がかけられるようになる。

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出典:都市の起源/p91

金属加工技術が未発達だった時代の「鍵」は上のような仕組みだった。木製の扉に通した紐をペグに引っ掛け、その上から封泥した。封泥とは封じた紐の上に泥の塊を塗って塊の上にスタンプ印章(判子)を捺印すること。こうすることによってアクセスを制限した。アクセスできるのはスタンプ印章を持っている「管理者」のみ。管理者は当初は祭司の役目だっただろう(p90-94)。現在の鍵のイメージとは違うが、とりあえずこれが鍵の誕生なのかもしれない。

管理者の役割は交易が活発になることにより重大になる。ウルク中期後半になるまでに交易が本格的に発達し、集落内に市(場)が形成される。

以下は、北メソポタミアのガウラ遺跡(Ⅷ層)の話。

倉庫の南東側には管理棟が建てられ、管理者は判子を首からぶら下げ、倉庫の開け閉めを意のままにできた。ただし、その人物はもはや祭司ではなく、世俗的な立場にいた指導者であったと思われる。これらの建物に隣接する広場では、大量の封泥(容器や袋などの封をする粘土塊)が見つかっている[中略]。ウルク中期後半、専業商人を媒介とする本格的な流通構造が整い、主要な集落に遠方から搬入された商品が独立倉庫で保管されて、倉庫に品説した広場が市(場)として利用されはじめたと推察できる。これは集落内における市の最古級の例である。

出典:都市の起源/p95

この時期になると早くも指導者の役割が祭司の手から離れている。神殿と権力の関係は、また別の記事で書こう。

またこの時期(ウルク中期後半)の広場は集落の中央付近に設けられているが、都市誕生期(ウルク後期)になると、広場が城壁の入り口付近に置かれるようになった(後述)。

「よそ者」関連まとめ

もともとウバイド期の社会は、祭祀により統合されながら、人々の暮らしが成り立っていた。そこでは格差のない人々の緩い結びつきがあり、血縁的なつながりの親族集団を単位として互いに協業し合っていた。やがてウバイド終末期になると、豊かな食を求めて集まってくる「よそ者」との共存において、異なる価値観の折り合いをつけるために、従来とは異なる仕組みが求められて、階層化が始まった。同時に、「よそ者」の活発化により、経済的な物流網が徐々に拡充されていき、ウルク中期後半までに都市的集落を結節点とする交易ネットワークが確立されることになる。

出典:都市の起源/p97-98

以上「よそ者」関連は『都市の起源』の第二章《「よそ者」との共存》に依る。

安心と快適さを求める都市計画

ここでは『都市の起源』の第三章《安心と快適さの追求――都市的集落から都市へ》抜粋してみる。「安心と快適さの追求」が都市を生み出したと言っていいと思う。

城壁

まず何よりも、外敵の脅威から護られていないと、街での暮らしは落ち着かない。その安心を保障してくれるのが、街を取り囲む城壁である。

西アジアの本格的な防御施設は、後期銅石器時代(約6000~5100年前)に登場する。明確な城壁は北シリアの都市的集落で相次いで確認されている。ウルク前期のブラクでは、幅約2メートルの日干しレンガ製の壁が見つかっている。同壁は城門も伴い、集落を防御する城壁とされる。今のところ、この約6000年前の城壁が最古例となっている。(p101)

目抜き通り

ウルク後期に初現した目抜き通りは、物資を満載した車が行き交い、遠来の商人がさまざまな品物を取引する場として賑わっていた。同時に、目抜き通りは神殿やジッグラト(聖塔)などのモニュメントへつながり、年における祭祀儀礼や公式行事などの演出に欠かせない舞台にもなっていた。古代都市における目抜き通りは、日常の経済活動において人々に至便な暮らしをもたらすだけでなく、神殿などと一体化して儀礼や行事のパフォーマンス空間としても機能していた。(p106-107)

街の広場

古代西アジアでは、街道沿いや河川沿いに立地する都市的集落の中央に広場が設けられて、市を成していた。他方、都市そのものになると、街の入り口である城門近くに広場が設置されて、そこでは他所からやってきた商人が都市民と物々交換をしていたと思われる。都市的集落と都市では、市の立つ場所が微妙に異なっていた。

ウルク中期(約5500年前)、北メソポタミアのガウラ遺跡では、本格的な独立倉庫で保管された商品が倉庫に隣接する広場で物々交換されていた。ウルク後期になると、イラン西部のゴディン・テペ遺跡では、集落中央の広場に面した取引所で物々交換が行われていた。いずれの都市的集落でも、ほぼ真ん中に市場が設けられている。

北シリアの都市ハブーバ・カビーラ南では、南側の城門内に広さ10メートル程度の空間があり、門外も含めて広場として活用されたとみられる。門の付近では、「トークン」と呼ばれる土製の計算具(カウンター)が大量に出土している。[中略]

ハブーバ・カビーラ南では、各地から運ばれてきた物品が、城門付近で物々交換されていた可能性が極めて高い。こうした広場は、外部からの商人や旅人が出入りする空間であると同時に、居住者と取引するにも格好の場となる。ガウラやゴディン・テペといった都市的集落と異なり、年の段階になると街の入口付近に市が立つ。保安上の問題や、物資の搬出・搬入の効率も考慮して、街の出入り口に位置が設けられたと考えられる。(p119-120)

上水と下水

古代西アジアの都市における暮らしでは、いかに安全に飲み水を手に入れるのかが問題であった。現代の都市周辺では、川の水は川上からの生活排水などで不衛生であり、汚染されていることが多い。[中略]

川の水が当てにできない場合、井戸から汲み上げる地下水が注目される。[中略]川の水は灌漑・家畜用、井戸(雨)水は飲料用と使い分けていたと考えられる。[中略]

上水とあわせて問題になるのが下水である。快適な都市の暮らしで、下水施設は街路とともに重要な骨格をなしている。都市化の嚆矢となったメソポタミアの平原地帯では、常に水の恩恵にあずかるだけでなく、水のもたらすさまざまな問題にも向き合ってきた。メソポタミア平原に展開したサマッラ期の集落では早々と排水設備が認められるが、空き地に排水用の土管が埋められた程度にとどまる。都市化の始まったウバイド期でも、一部の集落で排水管は普及していたものの、いずれも計画的に配置された水利施設と呼べる本格的なものではない。[中略]

ウルク後期(約5300年前)に、城壁・街路と併せて水まわりの施設も明瞭になってくる。排水設備の計画的な配置はハブーバ・カビーラ南で登場する。まず最初に、街を南北に走る目抜き通りと主な街路が建設され、ほぼ同時に、街全体を覆うようにして排水網が張り巡らされる。地面を掘った溝に土管が埋設され、排水設備が家屋の建つ場所や街路を横切って配置されている。

つまり、ハブーバ・カビーラ南では、主要な通りや排水管が敷設された後に、リームヘン(断面が正方形の細長いレンガ)で規格化された建物が作られたのである。ウバイド期において建物をつくった後の空き地に土管を付け足した場当たり的な処置とは異なり、ウルク後期の街路や排水設備は周到な計画のもとで建設されている。

ハブーバ・カビーラ南は明らかに計画的につくられた街であり、とくに主要な通りと排水管が最初に設置されている点が重要である。ハブーバ・カビーラ南のモデルであるユーフラテス川下流ウルク遺跡では、すでに都市計画の青写真が出来上がっていたことになる。5000年以上も前に、都市計画に関する知識と技術がすでに成熟していたことはほぼ間違いない。(p122-126)

  *   *   *

以上の項目が揃えば「文明の誕生」というものでもない。「安心と快適さの追求」の積み重ねの中で都市は誕生したと思えばいいだろう。

その他

本来なら、文字の誕生、神殿、行政システムの誕生なども書かなければならないが、これらについては別の記事でやることにする。

『都市の起源』はビール/ワインやスポーツなども取り上げられているがここでは割愛。




*1:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年/p547-548(第1巻関連年表) 

*2:世界の歴史1 人類の起原と古代オリエント中央公論社/1998年/p159

*3:メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p43-49

メソポタミア文明:先史② ウバイド文化

メソポタミア文明の最初期はシュメール文明。シュメール文明は最古の文明と言われているが、その直前はウバイド文化で、それなりに栄えていた。

このウバイド文化とシュメール文明の差はなにか、という問題は別の記事でやるとして、この記事ではウバイド文化について書く。

ウバイド文化の誕生

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p3(図1-1)、p6(図1-2)

前六千年紀の中頃にサマッラ文化が中部メソポタミア沖積平野の北部に興った。この文化で最古の灌漑農耕が始められたとされる。

メソポタミアは、それまで西アジア先史時代の主要舞台であったレヴァントや北メソポタミアとは、全く異なる自然環境が広がる別世界であった。[中略]ウバイド文化が始まるまで、人々はこの水と太陽が支配する沖積低地を自らの住処として開発する術を知らなかったようである。南メソポタミアに人々が定住的な農耕集落を作り始めたのは、農耕が西アジアで始まってから数千年が経過した紀元前5500年頃のことであった。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p99

川の氾濫のおかげで肥沃な大地はあるものの、雨は少なく木材が無く鉱物も無いこの地域に、灌漑農耕という技術だけがほとんどの頼みの綱のような状態から、文明へとつながるウバイド文化が始まる。

ところで、この本ではサマッラ文化は紀元前5300年の直前*1に興ったと書かれているが、サマッラ文化はウバイド文化より先行しているように書いている。

他の書籍も参照にすると、以下のようなことが想定される。

  • サマッラ文化が興った直後にその担い手の一派が南メソポタミアに植民して灌漑農耕を始めた。
  • 時が経つと南メソポタミアの文化は変質してサマッラ文化と異質のものとなった。これがウバイド文化と呼ばれるようになる。

西アジアの考古学』では「オゥエイリーのウバイド0期と呼ばれている層は、文化要素的には、サマッラ文化に帰属するといってもおかしくないほどである」(p101)と書いてある。ウバイド1期(年代は分からない)になるとエリドゥの遺跡から小さな小型の建物が発見された。これはウルク期まで拡大しながら続く神殿の一番最初のものとされる。

このウバイド1期の文化層から出動する土器は、文様などにサマッラ土器やハラフ土器の影響を受けつつも器形的には独自の要素が強く、ウバイド土器の祖型としての範疇で捉えられる時である。文化指標として土器を一義的に考えるならば、ウバイド1期から真性のウバイド文化が始まったといえるだろう。

出典:西アジアの考古学/p101-102

ちなみにウバイド文化の中の時代区分は基本は1期~4期、これに南メソポタミアに文化が現れた最初期を0期とし、最終文化層として5期が加えられた。(西アジアの考古学/p100)

ウバイド文化の大変革

ウバイド2期までは他の地域に比べて優位とは言えなかった。

ウバイド3層期にはいって、メソポタミア最南部地方の灌漑農業に大変革がおこったようにみえる。それは農耕具の改良を出発点としていたであろう。この時期には、それまでの石刃を装着した木製収穫具にかわって粘土製の鎌が大量に出土しはじめる。おそらくこれは、前代にくらべて耕地面積が拡大したことを示している。とすれば、役畜を犂(すき)につないで土地耕起を行う技法も、この頃に本格的に導入されたのかもしれない。要するに、はじめてメソポタミア最南部地域で大人口が養えるようになり、また彼らによって余剰生産物が作り出されるようになったのであろう。この地域では鉱産物などはほとんど産しない。だから、これらは西アジア各地から輸入されていた。そして、交易にさいして送り出されるべき対価物(羊毛製品、沼沢地のアシを原料としたバスケット類など)も、はじめて最南部地方で大量に生産されはじめたのであろう。もちろん「ウバイドの拡大」によって創出された均質的な空間は、交易を容易にしたであろう。

[中略]ウバイド3層期にいたって、のちのシュメール時代の「町」や「都市」の原型が姿をあらわしたのである。

出典:前川和也 編著/図説 メソポタミア文明/ふくろうの本/2011/p16

  • 西アジアの考古学』によればウバイド3期は前4500年にはじまる(p102)。

ウバイド文化の故地である南メソポタミアでのウバイド3、4期の文化的特徴としては、建築の上からは3列構成ブランを基本とする住居の盛行と定型的な神殿の出現、土器では器形の多様化と文様の単純化、彩文土器の減少、成形に回転台の導入、生業面では、コムギや六条オオムギに加えてナツメヤシなど在地産の食料の開発、ヒツジ・ヤギへの依存の相対的低下とウシとブタの重要性の高まり、道具では鎌に代表されるテラコッタ製農耕具の盛行、などをあげることができよう。このうちのいくつかは南メソポタミア固有の地域的特質を反映した要素であるが、それ以外の、建築や土器の要素の多くがウバイド的要素として南メソポタミアの外へ広がっていった。

西アジアの考古学/p103

灌漑農耕の骨の折れる労働

これらの大きな共同体と、それを支える余剰食糧は、骨の折れる労働による多大な犠牲を払うことで実現したものだった。毎年秋および冬になると、人びとは男も女も狭い運河沿いに集まり、沈泥を除去し、鍬と掘り棒を使って雑草取りに励んだ。運河のなかには、川から5キロも離れた乾燥地帯までつづくものもあった。さらに別の作業班が、この間に粘土と泥土で堤防を強化し、夏の氾濫期に水を溜めておく自然の貯水池の周囲も固めた。どの家族も、沖積土で農業だけを営むわけにはいかなかった。すべてのことが、慎重に配備されたうえ、よく組織された作業班にかかっており、そのなかで人びとは公共の福祉のために汗水たらさなければならなかった。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p188

ナトゥーフ文化前期や先土器新石器時代温暖湿潤の気候と食料資源が豊富な土地の中で文化が栄えたが、ウバイド文化の繁栄は肥沃な土地以外はほとんど人力と言っていいだろう。前者と後者の違いは特筆に値する。

神殿

このウバイド的要素の中でも最も重要なものは神殿であろう。エリドゥⅦ,Ⅵ層(ウバイド4期)の神殿(図41)は、プラン的にも、内部施設的にも、また基壇上に建設されている点においても、後のウルク期の神殿に直接連なる定型的神殿である。中央室奥壁に腰壁、そこからやや離れて供献台が設けられており、宗教的儀礼がおこなわれていたことは間違いない。ほとんど同様のものが、ウルクのアヌ神殿域地区のウバイド層から発見され、また北メソポタミアのテペ・ガウラⅧ層からも発見されている。このような神殿は、他の遺構と比べてかなり大きくしかも遺跡の中央に近い位置から発見されており、宗教的施設であると同時に集落全体の中枢でもあった可能性が高い。

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西アジアの考古学/p102-104

別の書籍から。

大半の人びとはまだ枝をたわめて屋根を葺いた日干し煉瓦と葦の小屋に住んでいたとはいえ数世紀のうちに、ウバイドの大きな共同体には、堂々とした建物や小神殿が出現するようになったのだ。かなりのちに書かれた楔形文字の銘板を信じるとすれば、古代メソポタミアの宗教はこの時代に芽生えた。詠唱と神話が繰り返され、人間の運命を支配して雨や肥沃な土壌をもたらし、豊作を約束する神々をたたえていた時代である。霊界との媒介者や、人間の生命の復活儀式を執り行う人が、つねに権威をもつようになった。かつてのシャーマンや霊媒師が、この時代には急速に増えた余剰食糧に支えられて、本職の神官となったのである。

出典:古代文明と気候大変動/p188-189

メソポタミアの古代の宗教に関する均質性の土台はおそらくウバイド文化期にできたのだろう。

ウバイド文化の拡大

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ウバイド文化の範囲

出典:ウバイド文化>wikipedia*3

出土土器の分布

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出典:図説 メソポタミア文明/p16

下は湾岸への広がり

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出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩選書/2015/p25

上の「ウバイド系文化の遺跡」はウバイド式土器またはその破片が発見された場所。ウバイド文化(または土器)が湾岸にまで広がった理由として、著者は湾岸付近の真珠の採集にあったとする(p30)。

車輪の発明

「車輪<wikipedia」に「その起源は古代メソポタミアで紀元前5千年紀(ウバイド期)にさかのぼり、元々は轆轤(ろくろ)として使われていた」と書かれてある。

銅の利用とchalcolithic(銅石器時代

無用の混乱を避けるため、ここでは確実に鋳造品と判断できる最古の例について言及するにとどめることにする。

それは、トルコ南部のウバイド併行期の遺跡Mersin-Yumuktepeから出土した銅製のピンである。[中略]近年これらの銅製品に対して詳細な分析が加えられ、精錬された銅を素材としていること、鋳造によって制作されていること、刃部を敲いて鍛えていること、などが判明した。これにより、紀元前5千年紀のウバイド期(銅石器時代)には、すでに本格的な銅冶金が確立されていたと理解することができる。しかし、これはあくまでも確実な最古の例でしかなく、年代的にさらに遡る可能性も考えられる。ただし、遺跡から出土する銅製品の例が増加し、銅関連の工房跡が確認されるようになるのもほぼこの時期に当たることを考えると、紀元前5千年紀を大きく遡る可能性は低いものと思われる。

出典:三宅 裕/古代西アジアにおける銅冶金技術の歴史/2008(PDF

Chalcolithicは "chalco-" が銅を、 "lithic-" が石を表し、銅石器時代と訳される。他の訳として金石併用時代がある。石器時代と青銅時代の間。

上の論文では西アジアにおける新石器時代の次の時代、銅石器時代(chalcolithic)の年代について教えてくれないどころか、「時代名称は、必ずしも銅利用の状況を正確に反映したものとなっていない」「こうした時代名称はあくまでも便宜的なものである」と書いてある。

ちなみに「chalcolithic<wikipedia英語版」によると、最古の銅の鋳造の証拠はセルビアで前5000年だそうだ。

西アジアの技術史的な時代区分において、新石器時代に後続するのが銅石器時代である。この時代、道具として石だけではなく銅も利用されはじめる。銅石器時代は大きく三つの時代に分けられ、前期がハラフ期(約8000~7500年前)、に相当する。銅石器時代の中ごろは都市化前半のウバイド期(約7500~6000年前)、後期銅石器時代は都市化後半のウルク期(約6000~5100年前)にだいたい相当する。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p48

  • 都市化については次回の記事で書く。



次回は都市の誕生について書くが、都市の誕生/形成期と比較してウバイド期のことも書いている。

メソポタミア文明:先史① 土器新石器時代(アムーク文化とハッスーナ文化/ハラフ文化とサマッラ文化)

西アジアの先史については「先史」カテゴリーにいくつか書いた。

先史:2万年前~(ケバラ文化/マドレーヌ文化)
先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化
先史:ナトゥーフ文化~「定住革命」
先史:ナトゥーフ文化後期(ヤンガードリアス期)
先史:農業の誕生(新石器革命)と西アジアの新石器時代初期
先史:文化の衰退~PPNB後期と土器新石器時代

土器新石器時代の最後に引用したものを再掲する。

・・・以上のことから、土器新石器時代における集落規模の縮小、公共的建築物の消失、威信財の減少という姿が明確となった。高度に複雑化した先土器新石器時代の社会システムが、その後期あるいは末期に崩壊してしまったと考えることができ、これまでも「新石器時代の崩壊」と呼ばれていた現象が確かにこの時期に認められることを具体的な資料に基づいて明らかにすることができたと言える。

しかし、土器新石器時代を単に社会システム崩壊後の混乱期あるいは停滞期と捉えるだけでは十分ではないと思われる。これまで西アジア新石器時代は、チャイルド(G.Childe)の主張に従って、農耕牧畜という食糧生産の開始によって定義されてきた。しかし、動植物資料の実証的研究が進んだことにより、今では農耕牧畜が確立されたのは先土器新石器時代の後半(PPNB 中期から後期)であったと考えられるようになっている。先土器新石器時代の複雑な社会を生み出し、それを支えたものが必ずしも農耕牧畜という生業ではなかったことになり、むしろ農耕牧畜が確立された段階で「新石器時代の崩壊」が起こっているようにさえみえる。実際、サラット・ジャーミー・ヤヌ遺跡における調査おいても、出土した動物骨の分析からヤギ、ヒツジ、ウシ、ブタがすでに飼育されていたことが確認されており、その割合は出土した動物骨の95%近くにもなる。また、植物遺存体の分析からは、コムギ、オオムギやマメ類なども栽培されていたことが明らかになっている。土器新石器時代は、農耕と牧畜に基盤を置いた社会であったことは間違いない。農耕牧畜という新しい生業の確立が、社会システムの面ではむしろマイナスに働いたようにみえるこうした現象は、農耕・牧畜が果たした役割を過度に強調する傾向にあったこれまでの考え方に、厳しく見直しを迫っていると言えるだろう。

出典:三宅 裕(研究代表者:筑波大学・大学院人文社会科学研究科・准教授)/西アジア新石器時代における社会システムの崩壊と その再編/2011/リンク先:(PDF

繁栄したPPNB期の後の土器新石器時代より数千年間、西アジアの文化の発展は低調だったようだ。上にあるようにこの低調な時代も農耕牧畜社会つまり農業社会であることは間違いなく、「農業が人類の文化を発展させた」というチャイルド以来の通説は正しいとはいえない、ということだ。

低調な時代は遺跡の数が少ないためか目を惹く発展が無いためか分からないが参考になる書籍もネット記事もほとんど見当たらない。

西アジアの考古学』*1には紙幅を割いて書いてはいるが、大半が土器についてだ。

以下は文化の中身について書かれているところを抜粋する。

アムーク文化とハッスーナ文化

西アジアの考古学』では西アジアにおける土器新石器時代の文化の中でアムーク文化とハッスーナ文化の2つを採り上げている(ほかにも文化はあるがよく分からない)。紀元前6千年紀の文化だ。

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p78

アムーク文化

エル・ルージュ盆地ではPPNB後期に定住的なテル型集落が築き始められる。この時期は分地内に中規模の2遺跡が散財しているが、次の土器新石器時代、つまりアムークA、B期になると、かつて存在した盆地中央部の湖を挟むように盆地の北部と南部の扇状地末端に10haを優に越えるような超大型の集落が形成され、それぞれに小型集落が数遺跡ずつ付随する階層的な集落間構造のパターンが認識されるという。盆地南北の超大型集落の試掘調査で、所有権の表示や物流に関連して用いられたと想定されるスタンプ印章や、遠隔地から運ばれたトルコ石製のビーズなども出土している。テル・アル・ジュダイダなど他のアムーク文化に帰属する遺跡からもスタンプ印章は出土しており、なかにはラス・シャムラのようにアムークA期層ばかりでなくその下層のPPNB後期層からもスタンプ印章を出土する遺跡がある(常木1983)。こうしたことを考え合わせるならば、アムーク文化は、階層差と、遠隔地交易を内包した相当に複雑な社会構造を有した社会であった可能性が高いのである。

出典:西アジアの考古学/p81-82

三宅氏の引用と合致しないようだが一応貼り付けておく(ちなみに三宅氏らが調査したサラット・ジャーミー・ヤヌ遺跡は2haの規模)。

ハッスーナ文化

ハッスーナ文化は、『西アジアの考古学』では、プレ・ハッスーナ期と狭義のハッスーナ期に分けられる。プレ・ハッスーナ期の遺跡の住居は、粘土を乾燥させて作ったレンガではなく、ピセと呼ばれる粘土の塊そのものを積み重ねて作ったものである。PPNB期に見られるような計画性のある住居配置は見られない*2 (狭義のハッスーナ期の住居や文化がどのようなものかは書いていなかった)。

続いて狭義のハッスーナ期の土器についての話。

プレ・ハッスーナ段階に続く狭義のハッスーナ文化の段階で特筆すべき点は、焼成の良好な彩文土器が多数生産されるようになることである。ヤルム・テペIからはこうした土器を焼成したと考えられる2室構造の垂直焔式土器焼成窯が複数発見されている。これは現在のところ世界最古の土器焼成窯であり、西アジアでは土器を本格的に作り始めてからわずか数百年後には、土器を専用に焼くための窯をつくりだしたのであった。1万年近く継続した縄文土器がその全期間を通じて野焼きされていたことを考えると、その違いは驚愕に値する。というのも、民族例などを見ても、土器焼成窯をもっていて専業的な土器生産をおこなっていない例を筆者は寡聞にして知らず、土器作りに専用の窯を用いることは、土器生産の専業化がかなり進んでいたことを意味すると思われるからである(常木1997)。同じヤリム・テペIからは銅冶金をしたのではなかと想定される資料も出てきており、ハッスーナ文化のパイロテクノロジーは相当進んだ段階に達していた可能性が高い。

出典:西アジアの考古学/p86

ハラフ文化とサマッラ文化

西アジアの考古学』では、アムーク文化とハッスーナ文化は500年ほど継続して その後にハラフ文化とサマッラ文化が登場する(年代が重なる部分がある)。

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出典:samarra culture<wikipedia英語版*3

ハラフ文化

「ハラフ文化の年代は紀元前5300年頃から同4500年頃まで」(p89)で「ホームランドは北シリアから北メソポタミアの平原地帯であり、その遺跡分布は、現在の天水農耕の可能な最低降雨量である年間250mmラインを南限として、東西に広く広がっている」(p92)と書いてある。特徴は以下の通り。

集落間の階層性は乏しく、集落の規模も一般的に小さい。各集落では、簡便なトロス型住居が散財して建てられ、集落全体が周壁や溝に囲われていることもない。生業から見ると基本的には草原の天水農耕民であり、マージナルな地域での不安定な食料生産を補うために、土器生産と交易システムの整備に強い関心を抱いていた。

出典:西アジアの考古学/p93

もしかしたら牧畜がメインで農耕の方が補完的な生業だったかもしれない。「降雨量が十分でない年には満足な収穫が得られずに、どこかへ移動していくか、何かと交換するかなどして食料を得るしかなかった」(p92)とあるのは遊牧民的である。階層を保っていたアムーク文化がこのようなハラフ文化に移行したのは、PPNB期末期のような乾燥化が再び起こったのかもしれない。

サマッラ文化

サマッラ文化の人びとはハラフ文化が現れる直前から「中部メソポタミア沖積地の開発に取り組んでいた」(p93)。特徴は以下の通り。

サマッラ文化の担い手は、北メソポタミアでハッスーナ文化が盛行していた頃中部メソポタミア沖積平野を開発し始めた農耕民で、その後北方にハラフ文化が興ってきてからも中部メソポタミアを中心に暫くの間独自の文化的伝統を守って生活していた。彼らは農耕に人工的な灌漑を本格的に導入した最初の人々であったが、そこでは規則性の著しい定型的な建物がつくられていた。集落の建設はかなりの計画性をもっておこなわれ、共同体規模での協業的な作業も存在した。こうしたサマッラ文化の特質の多くは、続くウバイド文化に取り込まれ、ウバイド文化の基本的要素となっていく。

出典:西アジアの考古学/p99

この本で紹介されているチョガ・マミ遺跡はギネスに「First irrigation canals」として登録されているらしい。年代はおよそ前5500年と書いてある。

灌漑農業は水路を掘らなければいけないので、土木の知識を持っているインテリ層・支配層が存在していただろう。彼らによって計画・規則が決定され、集落の民はこれに従ったのだろう。

上記2つの文化とメソポタミアの風土

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p3

2つの文化の位置と上の説明と メソポタミアの風土の地図を重ねると、ハラフ文化が上ジャジーラにあたり、サマッラ文化は中部メソポタミア沖積平野にあたる。

ジャジーラと沖積平野の説明。

ジャジーラはアラビア語で「島」という意味。ティグリス川とユーフラテス川の上・中流のあいだの地域。北から南に緩やかに傾斜している高原。標高は500~200メートル。

ジャジーラはアブド・エル=アジズ山とシンジャル山を境に、北の上ジャジーラと南の下ジャジーラに分かれます。上ジャジーラは標高が比較的高かく、年間降水量は、200~600ミリメートルです。上ジャジーラでは、麦類の種まきの時期に当たる雨季の初めと、実りの時期に相当する雨季の終わりに比較的集中して雨が降るばかりではなく、なだらかな傾斜地で水はけがよいため、昔から豊かな穀倉地帯となっています。また、上ジャジーラは、夏の乾季になると、冬の間、下ジャジーラの河谷で放牧していた遊牧者が牧草を求めてヒツジや山羊をつれて移動してくるところでもあります。

これに対し、下ジャジーラのほとんどは、年間降水量が200ミリメートル以下なので、雨に依存する天水農業は不可能です。そのため人々は、高度な技術がなくとも灌漑可能なユーフラテスやハブル川の河谷に集まってきて集落や町をつくりました。河谷の外は荒地で、農業はもちろん羊や山羊の放牧にも不向きです。

出典:メソポタミア文明入門/p4-5

  • ハブル川はトゥール・アブディン山地からの流水が合流してできた川で、ジャジーラを通りユールラテス川の中流に合流する。

上の説明は現代の風土。『西アジアの考古学』のハラフ文化の描写のほうが気候条件が悪いとすれば、やはり当時は乾燥していたのかもしれない。

続いて沖積平野の説明。

河川が平野部に入り流速が落ちると河水により運搬された土砂が平野部に沈殿堆積する。これを堆積作用という。この作用により形成される平野を沖積平野という。

ティグリス川もユーフラテス川も氾濫を繰り返し、平野部に上流から来た土砂を撒き散らしたので平野部は肥沃な大地となった。これが後のメソポタミア文明の食料資源を支える要素の一つとなる。ただし中部メソポタミアから南部にかけて年間降水量が200mmを下回るため、灌漑農耕の技術・インフラは不可欠だった。

ティグリス川はサマッラの辺りで、またユーフラテス川はヒトの辺りで河谷を出て、幅200メートル近くもある低くて起伏の乏しい沖積平野に入ります。ここでは、両川は、周辺の土地より高いところを流れるいわゆる天井川となり、蛇行しながらペルシア湾に向かいます。

ふだん、川は、過去の氾濫の結果できあがった自然堤防の間を流れていますが、例年になく増水した時は、自然堤防を越えて氾濫しました。また、半連で川の流れが大きく変わることもありましたが、流路が変われば旧流路沿いの町では灌漑ができなくなり、人々は町を捨てて離散したため廃墟となることもありました。[中略]

古代の沖積平野での灌漑農業は、主としてユーフラテス川とその支流を利用したものでした。

他方、ティグリス川は水流が多く、春に急激に増水・氾濫することもあり、灌漑に利用するには不向きでした。したがって古代では、沖積平野を流れるティグリス川に沿って大きな街が発達することもありませんでした。

出典:メソポタミア文明入門/p6-7

サマッラ文化は沖積平野の北部で開始された。なぜ灌漑農耕のような面倒なことまでしてこの地に住み着いたのかは分からない。



*1:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997

*2:西アジアの考古学/p81-82

*3:ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Samarra_culture#/media/File:Mesopotamia_Per%C3%ADodo_6.PNG

「メソポタミア文明①」シリーズを書く

これからメソポタミア文明シリーズを書く。「メソポタミア文明①」カテゴリーに保存する。

メソポタミア文明とこのブログの「メソポタミア文明①」カテゴリについて

メソポタミア文明の時代区分は、一般的に「シュメール文明からアケメネス朝ペルシア帝国」まで、となる。別の言い方をすれば「都市(文明)の誕生からアレクサンドロス大王によるペルシア帝国滅亡まで。メソポタミア文明の後、西アジアはヘレニズム(文化)→サーサーン朝ペルシア帝国(ペルシア文化?)→イスラム文化となる。

このブログでは「メソポタミア文明①」カテゴリーは、便宜的にシュメール文明の終わりまでにする。つまりウル第三王朝の滅亡まで。この後は「メソポタミア文明②」というカテゴリーを作り、そちらで続きを書く。

ウル第三王朝時代の後は、メソポタミア(≒現在のイラク)の領域を越えて西アジア・エジプトを中心にあらゆる民族・勢力が入り混じってくるのでカテゴリーを分ける必要性を感じた。

メソポタミア文明」カテゴリで書くこと

歴史的な流れ

メソポタミア文明の先史から書き始めて都市国家・初期王朝・領域国家形成とその崩壊まで。こういった歴史は世界中の歴史時代の中で繰り返される。

現代社会の原点

小林登志子著『シュメル―人類最古の文明』 (中公新書/2005/はじめに-ⅶ)によれば、シューメル文明において「当時すでに文明社会の諸制度がほぼ整備されていた」。政治組織、文字システム、学校などが挙げられている。この本では詳しく書かれていないようだが、王権についても取り上げてみたい。宗教については理解できれば踏み込みたい。

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)

都市

都市の機能もここで詳しくわかると思う。