歴史の世界

先史:ニューギニア高地における農耕の起源について

『農耕起源の人類史』*1には農耕の起源地として西アジア、中国のほかにアフリカと南北アメリカ大陸とニューギニア高地を挙げている。

この記事ではニューギニア高地について書く。ニューギニア高地という言葉自体聞きなれていないので、まず場所の説明から入ろう。

ニューギニア高地の場所の確認

ニューギニア島オーストラリア大陸の北、赤道の南(南緯5度付近)に位置する。西半分がインドネシア、東半分がパプアニューギニアの領土。パプアニューギニアが国名であることすら知らなかった。

まず、主に『農耕起源の人類史』*2を参考にしてニューギニア高地について書く。

f:id:rekisi2100:20170323030844p:plain
ニューギニア島の地形図

出典:ニューギニア島wikipedia:ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B3%B6#/media/File:New_Guinea_Topography.png

ニューギニア島にはいくつかの山脈が連なり脊梁山脈を形成している。その長さは2000kmで(奥羽山脈は500km)、その山々の間に幾つかの峡谷がありそこに人口が密集している。峡谷と言っても海抜1000mを超える高地だ。ニューギニア高地とはこのような高地(峡谷)のことを指す。

気候

ニューギニア島は前述の通り赤道付近の島だが、ニューギニア高地は高地だけに低地の熱帯気候とは異なり、温暖な気候になっている。(ただし赤道に近いため季節性は無い)。そのため根菜類や樹木作物などの農業に適している。

遺跡

独自で開発された農耕の遺跡はパプアニューギニアの領域にある谷間(Wahgi Valley)で発見された。

クックの初期農耕遺跡
パプアニューギニア南部の海抜1500m地点の湿地帯にある、ニューギニア島最古の農耕地。発掘調査で、少なくとも7000年前から耕作が行われてきたことが判明したが、1万年前までさかのぼる可能性もある。タロイモやヤムイモなどの生産活動が、開始以来一度も途絶えていない場所でもある。約6500年前に植物採集が農業へと変わったこの場所では、初めは単なる盛り土をして耕作していた。しかし、やがて木製の道具で溝を掘って湿地を干拓し、4000年前にはバナナの栽培も始まったことが考古学的に証明されている。これほどの長期にわたり、独自の農業の発展や農法の変化について考古学的な裏付けのある場所は、世界にも類がない。

出典:ユネスコのworld heritage list(ソースはNFUAJ=日本ユネスコ協会連盟となっている)

農耕が起こった原因はヤンガードリアス期における気候変動や長期にわたる旱魃が挙げられているが確定されていない。なお、家畜化は為されていなかった。

これらの農耕技術は高地には拡散したが低地には限定的だった。その理由は高地(峡谷)により孤立していることと、低地にはマラリアが蔓延していることが挙げられる。

農耕の出現の前後では文化は連続しており急激な変化は見られず、農耕技術の進歩にも長い年月を要している。農耕起源となり文化文明の中心となった西アジアや中国とは対極的だ。

*1:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版) 

*2:p218-223

先史:中国における農耕の起源について

中国の初期農耕は黄河流域(華北)がアワ・キビ、長江流域(華中)はイネ(コメ)とされる。どちらの起源もよく分かっていないらしい。

まずはイネの起源の方から書いてみる。

イネの栽培の起源と農耕文化

ここでは栽培と本格的な農耕を別に考える。

まずイネが野生種から栽培種に変わる話。

イネの栽培種(Oryza sativa)の祖先である野生種=ルフィポゴン(oryza rufipogon)の生息地と栽培化の起源が判明したという研究結果がネイチャーに2013年10月に発表された(遺伝:イネゲノムの変異マップから栽培イネの起源が判明)。研究者の一人である倉田のり教授(国立遺伝学研究所)がインタビューに答えている。

――具体的に、どのようなことがわかったのでしょう?

ジャポニカの最も古い系統をたどっていったところ、中国、珠江の中流域に行き着き ました。そのジャポニカ系統につながった野生イネの生息地もまた、珠江の中流域であることがわかりました。また、インディカ系統についても調べたところ、 やはり珠江中流が起源で、インディカ系統につながった野生イネの生息地も、同じ珠江の中流域でした。これらのことは、珠江の中流域において「倒れにく い」、「実が落ちにくい」といった栽培に適した野生系統のあるイネが選び出されて稲作がはじまり、やがてジャポニカ系統は単一系統由来のものとして、また インディカ系統は各地の野生イネ系統と交配しながら、アジア各地に広がっていったことを端的に示しています。

また、中国大陸から日本に伝わっ たジャポニカ系統と、タイ、ベトナム、インドなどに広がったインディカ系統とでは、遺伝的な距離がかなり大きいことも明らかになりました。ほぼ同一の祖先 をもちながらも、栽培化のための選択圧が約1万年も加わった結果、遺伝的にかなり異なる2つの系統に進化したことが伺えます。

出典:インタビュー 第15回 イネの栽培化は、中国の珠江流域で始まった! <国立遺伝学研究所

  • 野生種ルフィポゴンの生息地は珠江の中流域(原産と思ってよいのか?)。
  • 栽培化の起源も珠江の中流域。
  • 野生種ルフィポゴンは「倒れにく い」、「実が落ちにくい」といった特徴があったため選び出されて栽培化された。
  • 初めの栽培化で出来たのがジャポニカ種
  • インディカ種はジャポニカ種が野生イネ系統と交配した結果 出来た。
  • 栽培化の起源は1万年前。

2012/10/26付のマイナビニュース *1では《研究チームは「今回のわれわれの解析で、イネの起源地と栽培化のプロセスが明らかとなり、長い論争に終止符を打つことができた」としている》とまで語っている。

これを証明する「現物」は発見されたのだろうか?今のところネット検索では探せていない。この論文の言うところの珠江の中流Figure 4b)は南シナ海に近い高温多湿の気候だから遺物が残っていないのか?

『神話から歴史へ』*2によれば、中国の新石器時代前期にあたる農耕文化が栄えた時期になっても珠江流域は狩猟採集文化のままだった。農耕文化になるのは紀元前3000年以降になる。しかも遺跡に栽培イネが現れるのもこの時期が初めてだと書いてある。

可能性としては、珠江の中流域で栽培化が成功されたものの、何らかの影響(気候変動とか?)で不必要になったため、当地では栽培技術を捨ててしまったが、栽培技術を必要とした地域がそれを採用した。つまり珠江の中流域に近い長江の中流域の人々が栽培イネと栽培技術を輸入して、農耕文化にまで育てた、というシナリオが考えられる。

長江中流域の最初の農耕文化は彭頭山文化で前7000年前後から始まる(厳密な年代は未確定)。

また新しい情報を入手したら書き直そう。

アワ・キビの栽培化と農耕の起源について

アワ・キビの栽培化および農耕の起源については確かなことは分かっていない。

前述の『神話から歴史へ』(p197)や『農耕起源の人類史』*3では、その候補地を賈湖遺跡(前7000年~)があるイネとアワ・キビの農耕文化が重なる地域と想定している。ただし 二つの書籍とも「イネの栽培化の起源は長江中流」を前提にしている。

こちらはイネの問題よりも時間がかかりそうだ。

黄河流域の最初の農耕文化は裴李崗文化(はいりこうぶんか 前7000年~)。



中国の先史は「中国文明」のカテゴリーでやろう。

*1:ゲノム解析でイネの起源は中国・珠江の中流域」

*2:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p205

*3:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p184

先史:文化の衰退~PPNB後期と土器新石器時代

PPNB期に「新石器革命」、すなわち農業を基本とする生活様式が確立した。この人類の(狩猟採集から食料生産への)生活様式の転換は生活の安定をもたらし、人口は急激に増え、文化も育った。

しかし数百年に及ぶ繁栄した文化を支え続けてきた森林がついに枯渇し始め、さらに気候変動による乾燥化が進み、西アジアの文化は衰退の局面に入った。

PPNB後期からの衰退

PPNB期の人口増加とその人口を支えうるほどの経済の複雑化は、もっともなことであるが下降期をむかえた。レヴァントの紀元前7000~6000年頃の様子にはこのことがはっきりとみてとれる。レヴァントの大型遺跡のうち、つづく土器新石器時代まで継続的に居住されたものはほとんどない。土器がひろく普及した紀元前7000年期頃には、遺跡の多くは放棄されるか縮小した(ボクラス、イェリコ、ベイダ、アブ・フレイラではこの傾向はとくに著しい)。この状況の背景についてはヨルダン渓谷のアイン・ガザル遺跡で詳細な研究がおこなわれた。紀元前6500年頃には、脆弱な生態系にひきずられた文化退行の証拠がみられるが、これはおそらく乾燥化によるものと思われる。アイン・ガザル遺跡は、PPNB期のあいだに5ヘクタールから10ヘクタールへと成長し、紀元前6750年頃のPPNC期(先土器新石器時代C期)には13ヘクタールの大きさに達した。しかし巨大化のピークは、この地域のほかの遺跡の放棄に同調しておきていた(アイン・ガザル自体は土器新石器時代のヤルムーク期においてもきょじゅうされている)。それは今日の多くの都市にみられるような、周辺地域で巨大な人口を養えなくなったことによる都市への急激な人口流入だったようである。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p96

・上の「紀元前7000年頃」は「紀元前7000年頃」の誤りだろう。

簡単に要約すると前7000年紀に人間活動による生態系の消耗と気候変動による乾燥化によって多くの集落で維持が不可能になり、集落廃棄を余儀なくされた。この後、アイン・ガザルでも衰退期が訪れた。

西アジアでは全体的に同じような減少が起こった。まず農耕経済が破綻した。長年の農耕地利用で生産力が無くなったようだ。人びとは牧畜経済へ移行したがこれに伴い人口は減少した。そして文化退行となる(PPNB期後期に家畜が一般化するが、これは農耕地の消耗と関係があるのかもしれない)。

f:id:rekisi2100:20170316042415p:plain
中東地域における考古年表。紀元前15,000~5000年の遺跡と文化、おおきな気候変化をしめす(cauvin 2000を中心に修正をくわえた)。実線はPPNB文化の範囲である。コヴァンによると、PPNB文化は中部レヴァントあるいはユーフラテス川中流域を起源として、この範囲に拡散したという。太字は時期あるいは文化名を示す。

出典:ベルウッド氏/p75

上の年表で、数千年のあいだ西アジアの文化を支え続けたヨルダン渓谷が「(牧畜民)」とだけ書かれているところは注目点の一つだろう。単なる憶測だが、気候変動による乾燥化のみの影響だけならヨルダン渓谷は文化の継続を維持したかもしれない。

西アジアにおける土器の出現

西アジアの土器の出現の時期についてはよく分からない。上の年表によれば前6000年頃と言えるが、ネット検索によると前7000年頃とするページもある。とりあえず前7000~6000年頃として先に進もう。

上で示した年代と比べると東アジアの時の出現は一万数千年前とかなり早い。この年数の開きの原因の一つに調理の違いがあった。東アジアの土器の代表的な利用法はドングリ類のアク抜きだ。土器の出現によってドングリやトチノミは基幹的食料となって革新的な影響を与えた。土器は煮炊きの調理に活躍した。

これに対し、西アジアではドングリ類はまず粉に挽き割ってこれを水にさらして食用にした。煮炊きは石器を使ったようだ。時代が下り、コムギ・オオムギを生産するようになっても状況は変わらなかった。

西アジアで土器が出現した当時、つまり土器新石器時代の初期の利用法は貯蔵のためだった。そして土器の出現によって西アジアの情勢はほとんど変わらなかったという*1

実は、時の観察以外にもこのように推察される根拠がある。というのも、西アジアでは時の発明以前から他の素材による容器が盛んに作られ、それらは明らかに煮炊き用ではなく貯蔵や運搬を目的としてものであった。そして時の発明にはそれらの容器が大きな影響を与えたと思われるのである。土器以前の容器には石製容器や木製容器、またバスケットや皮袋といったものがあるが、土器との関連で何といっても興味深いのはプラスター容器であろう。

プラスター容器とは、石灰岩や石膏を焼いて粉にし、それを水でこねてさまざまな容器に形づくったもので、白色容器と呼ばれることもある。この容器は本格的な土器が登場する以前のPPNB中期に出現し、同後期に盛期を迎え、土器新石器時代に入って時が一般的になってしばらくたつと姿を消してしまう。その制作に焼成の工程を経ることや混和剤を混ぜたり、器面を調整したり、可塑性のある素材を利用することなど、土器との共通点が非常に多い。いわば土器作りへのノウハウを、プラスター容器作りで人々が学んでいたということができよう。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p75-76

プラスター容器と土器の作成燃料(つまり木材)の消費の違いが気になるところだが、分からない。

文化の低迷が続く土器新石器時代が示すもの

土器新石器時代の期間も上に書いた土器の出現と同様によく分からない。輝かしい先土器新石器時代とは対象的に文化退行期の土器新石器時代は魅力的ではないのだろう。

ここではネット検索の結果、やっとひとつ見つかった文章を貼り付けておく。結論だけ貼り付ける。

・・・以上のことから、土器新石器時代における集落規模の縮小、公共的建築物の消失、威信財の減少という姿が明確となった。高度に複雑化した先土器新石器時代の社会システムが、その後期あるいは末期に崩壊してしまったと考えることができ、これまでも「新石器時代の崩壊」と呼ばれていた現象が確かにこの時期に認められることを具体的な資料に基づいて明らかにすることができたと言える。

しかし、土器新石器時代を単に社会システム崩壊後の混乱期あるいは停滞期と捉えるだけでは十分ではないと思われる。これまで西アジア新石器時代は、チャイルド(G.Childe)の主張に従って、農耕牧畜という食糧生産の開始によって定義されてきた。しかし、動植物資料の実証的研究が進んだことにより、今では農耕牧畜が確立されたのは先土器新石器時代の後半(PPNB 中期から後期)であったと考えられるようになっている。先土器新石器時代の複雑な社会を生み出し、それを支えたものが必ずしも農耕牧畜という生業ではなかったことになり、むしろ農耕牧畜が確立された段階で「新石器時代の崩壊」が起こっているようにさえみえる。実際、サラット・ジャーミー・ヤヌ遺跡における調査おいても、出土した動物骨の分析からヤギ、ヒツジ、ウシ、ブタがすでに飼育されていた ことが確認されており、その割合は出土した動物骨の95%近くにもなる。また、植物遺存体の分析からは、コムギ、オオムギやマメ類なども栽培されていたことが明らかになっている。土器新石器時代は、農耕と牧畜に基盤を置いた社会であったことは間違いない。農耕牧畜という新しい生業の確立が、社会システムの面ではむしろマイナスに働いたようにみえるこうした現象は、農耕・牧畜が果たした役割を過度に強調する傾向にあったこれまでの考え方に、厳しく見直しを迫っていると言えるだろう。

出典:三宅 裕(研究代表者:筑波大学・大学院人文社会科学研究科・准教授)/西アジア新石器時代における社会システムの崩壊と その再編/2011/リンク先:(PDF



「先史」のカテゴリーでは長々と西アジアの先史を扱ってきたが、土器新石器時代の後の歴史については、新しく「メソポタミア文明」というカテゴリーを作って書いていこうと思う。

*1:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p74

先史:農業の誕生(新石器革命)と西アジアの新石器時代初期

寒冷なヤンガードリアス期が終わると温暖期が到来する。この画期は地質年代地質時代)における更新世から完新世への移行期だ(ヤンガードリアス期は更新世の一部。ヤンガードリアス期や地質年代については当ブログ記事「最終氷期/ヤンガードリアス期/完新世」「地質年代(地質時代)」「氷河期/氷期/間氷期/氷河時代」で書いた)。

変わりやすい気候変動を繰り返した更新世に比べると、完新世はかなり安定した温暖期と言える。農業の誕生は安定期ではなく、温度の上昇期に確立されたと言うべきかもしれない(下の方のグラフ参照)。

農業の起源は西アジアだけではないがこの記事では西アジアの農業の誕生について書く(西アジア以外は別の機会にやろうと思っている)。

農業の誕生(新石器革命)の前に新石器時代初期の文化を理解し、その後に誕生について書く。

気候について

f:id:rekisi2100:20170113084531p:plain
出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

西アジアではヤンガードリアス終了直後に平均7℃も上昇したそうだ*3。この温度上昇は住人たちの生活を好転させ、農業の誕生の重要な要素となっている。農業と機構の関係は後述する。

西アジアにおける新石器時代の初期

レヴァントにおけるナトゥーフ期後の最初の1000年は、キャサリーン・ケニヨン(Kathleen Kenyon)が1950年代に発掘したイェリコの報告書に準じて、先土器時代A期(PPNA期〔Pre Pottery Neolithic A〕紀元前9500-8500年頃)と名づけられた。PPNA期のつぎには、ケニヨンが名づけたPPNB期(紀元前8500-7000年頃)がくる。そしてその後に、中央レヴァントで農業と環境の退行期があり、それを最近ではPPNC期とよんでいるが、この用語は最近の研究報告によるものなのでケニヨン自身は使っていない。例外的な事例であるアブ・フレイラのライムギを別とすると、栽培穀類とマメ類は紀元前9000年より後のPPNA期のおわりからPPNB前期になってはじめたあらわれる。

さまざまな文化的な要素が、先土器新石器文化期にはじめてみられ、あるいはより明確にあらわれはじめた。そして先土器新石器文化の全社会が狩猟採集民から農耕民の様式に変化しつつあった。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p80

上の文章のあとに簡潔な箇条書きで重要な諸文化を提示している。興味があるものだけ掻い摘んでみる。

  • 人口増加。集落規模が拡大する。
  • 円形家屋から間仕切りがある長方形の家屋が現れ、これが「旧世界の基本的な建築様式となった」。
  • モニュメントや共同利用施設の出現。いちばん有名なのが東南アナトリアのギョペクリ・テペ。
  • 女性土偶のひろまり。
  • 他界した人を埋葬した後に、頭蓋骨だけを掘り出して「尊敬の念をもって家屋内に」祀ること。プラスターなどで肉付けしたり目のあったところに貝殻を飾ったりした(「plastered skull」で画像検索するとどんなものかが分かる。趣味の良いものとは思えない。お位牌代わりなのだろうか)。
  • 細石器が衰退し磨製石斧が取って代わった。
  • 熟した穂が収穫されるようになった。それまでは脱粒を避けるために熟す前の穂を刈っていた。
  • 最初の家畜動物のヒツジやヤギが出現。これとあわさって栽培作物にますます依存するようになる。

こうした文化はかなりの共通性をもってナトゥーフ文化の範囲を超えて拡大した。

f:id:rekisi2100:20170310102733p:plain
ナトゥーフ期・続旧石器時代、PPNA期、PPNB期における遺跡の分布(Hour et al.1994など多数の文献にもとづく)。この地図はヒルマンによる。ヤンガードリアス乾燥寒冷期のはじめ(紀元前11,000年頃)の野生穀類の自生地分布もしめしている。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p71(図3-1)

先土器新石器時代のA期とB期の違いの詳細はここでは割愛するが、A期は「レヴァントにおける農耕に依存した共同体が出現した画期」*4、B期は発展拡大期とみなすことができるだろう。(PPNCについては何も知らない)

農業の誕生~新石器革命

1920年代において第二次世界大戦以前の指導的な考古学者だったゴードン・チャイルドは、生活様式における全面的な著しい変貌を反映していると彼が信じていた定住地の突然の出現に言及するために「新石器時代革命」という造語を作り出した。これは、農耕だけではなく、建築物や土器や、表面を滑らかに磨き上げた石斧を含んでいる概念だった。チャイルドは、これが「新石器時代の一括文化」つまり、綱に単一の、分割できない全体としてもたらされるものを形づくっていると考えていた。

出典:スティーヴン・ミズン/『氷河期以後』/青土社/2015(原著は2003年出版)/上巻p120-121

後世の私たちはこれが間違っていることを知っている。普通に考えれば、定住がある程度確立していないとさまざまな農業のしくみを開発できるわけがないと思えるだろう。上の引用でベルウッド氏が書いているように「さまざまな文化的な要素が、先土器新石器文化期にはじめてみられ、あるいはより明確にあらわれはじめた」。これを裏返せば、ある程度の諸文化はこの時代より前に西アジアの何処かで長いあいだ存続してきたものだと言える。

これらが、農業を核にして組み合わさって定住・食料生産社会という生活様式を産み出し且つ一般化して、それ以前の狩猟採集社会に取って代わった、これが新石器革命だ。

多くの人にとって新石器革命という概念は、栽培植物をともなった農耕の起源をさしている。それは西南アジアでは紀元前9000~8500年頃のPPNA後期かPPNB前期のこととされている。事実、経済的な革命はその頃には存在しており、その存在なしには後の文明は生まれなかった。しかしこの革命にはまた別の側面がある。それは農耕中心の生活様式を起源地のはるか外まで拡散させたことである。紀元前8000年以降には、一連のできごとがかさなり、PPN(先土器新石器)文化はたいへん勢いよく拡散した。ここできわめて本質的に重要なことが二つある。一つは土地の疲弊による地域的な資源枯渇であり、もう一つはマメを飼料として依存するようになって、動物の家畜化の重要性が高まったことである。どちらの傾向も人間と動物のおしとどめられない増加を反映している。PPNB期はヒツジとヤギに特化した牧畜がはじまった時期にあたり、また目前にせまる一連のメソポタミア文化の土台となる原都市の下地となった時代でもある。後続する文化には、ウバイド、ウルク、スーサや、紀元前三千年紀の輝かしいシュメール、アッカドエラムの諸文明があげられる。これら後の文明が発展したメソポタミア低地は、ウバイド初期の灌漑農民によって紀元前6000年頃に植民された。彼らの経済や文化的伝統の多くはPPNB文化から受け継がれたものである。

出典:ベルウッド氏/p96

ベルウッド氏は以下のような、読者に対する注意喚起を書いている。

「西南アジアの環境は壊れやすいものであり、人間集団がひきおこす一つまたは複数の要因(たとえば人口増加、森林伐採、耕地開発、動物の放牧など)が、さまざまな土地荒廃や植生後退、塩害、土壌侵食などの資源劣化をひきおこす。西南アジアの先土器新石器時代の遺跡が歴史時代まで存続した例はまれである。

出典:p90

こうした問題は環境の壊れやすさ云々を除けば歴史時代のどの地域でもあった話で解決策としてさまざまな新しい農業のしくみをつくり土地を捨てることを回避している。当時の西南アジアでもさまざまな回避策が開発されて生活様式に組み込まれていったが、それでも人口増加などの環境悪化を止めることが難しかったのだろう。

農業はどのように誕生したのか?

農業について

農業とは可食植物と畜肉の生産のことだ。農業の誕生とは可食の植物と動物の生産・管理のシステムの確立を意味する。

新石器時代より前にも野生の植物や動物を管理している形跡が見られるが、それを農業というのは一般的ではない。

気候との関係

ヤンガードリアス期につづく紀元前9500年直後に、年間気温が平均7℃も上昇する温暖期にはいった。温暖で湿潤になり冬期の降水量がふえ、前方地域では聞きモンスーン降雨が増加するという完新世前期の気候条件になった。このような条件は野生穀類やマメ類の分布拡大に最適であった。同様に重要なことはこれらの気候条件と高いレベルの気候の安定化がくみあわさったことである。紀元前9000~7300年のあいだに、栽培穀類、マメ類、家畜動物が西南アジア全域において、人びとの生業のなかで急速に重要になった。

出典:ベルウッド氏/p68-69

気候条件は農業誕生を強力に後押しした。

農耕起源

ヒルマンとスチュアート・デイヴィス(Stuart Davies)の実験によって、もし昔の人々が継続的によく熟した穂を鎌で刈ってそれを翌年に播いていたとしたら、非脱粒性のコムギとオオムギのゲノムは非常にはやく選抜されることがしめされた。彼らによると、もし作物がほぼ熟したときに鎌で刈りとるか、ひきぬくかして、そしてもし毎年あたらしい土地にくりかえし種子が播かれたなら、栽培化は20~30年間で達成されうる。しかし、ジョージ・ウィルコックス(George Willcox)によれば、野生穀類と栽培穀類は栽培型が完全に優勢になるまで1000年以上共存期間があった。したがって、実際の栽培化の過程は最終的には栽培型が優先することになるものの、目標にむかって一直線にすすんだとは到底いえない。

出典:ベルウッド氏/p84-85

  • 上の文章についての訳注「栽培型コムギになる過程につては、これまではコンピュータ・シミュレーションの結果などから議論がなされていたがTanno and Willcox 2006, Science 311:1886によって実際に遺跡から出土した植物にもとづいた成果がだされた。それによると栽培型コムギが野生型コムギと入れ替わるには、3000年以上の長い時間がかかったとみられている。p103

上のような話は、日本人がイネのルーツを追い求めるのと同じで興味深い。『氷河期以後』でもこの話は複数の箇所で書かれている。

上でTannoと記されているのは山口大学助教の丹野 研一氏で西アジアにおける植物栽培化の起源についてあるシンポジウムで発表している。

以下は、予稿集から。

おもに考古植物学的な証拠によって、農耕起源の新説が提唱されている。その新説とは、筆者の理解する限りでは、農耕は、西アジア広域の各地において、在地のさまざまな野生植物を利用する栽培活動の試行錯誤の繰り返しによって、数千年間にわたるゆっくりとした速度で多元的に成し遂げられた、というものである。

丹野 研一/世界ではじめての農耕はどのように始まった?/シンポジウム「西アジア文明学の創出1: 今なぜ古代西アジア文明なのか?」/西アジア文明研究センター/2014(リンク:()HTMLPDF) )

家畜の起源

このことについてはベルウッド氏も簡単に触れている(p74)。

いっぽう、家畜化については農耕起源に比べて詳しい説明が見当たらなかった。

ヒツジ、ヤギ、ウシ、ブタの野生種は狩猟の激化によって数を減じ、PPNB期のおわりまでに、あるいはそれ以前までに、主要な家畜のレパートリーとしてつけくわえらえていた。

ベルウッド氏/p91

上のベルウッド氏の引用でもヒツジとヤギの家畜化について言及している。

こちらもさまざまな地域でさまざまな動物が家畜化された。

*1:同氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

*3:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p68

*4:農耕起源の人類史/p89

先史:ナトゥーフ文化後期(ヤンガードリアス期)

ヤンガードリアス期とナトゥーフ文化後期

ヤンガードリアス期とは亜氷期(亜氷期については「氷河期/氷期/間氷期/氷河時代」参照)のこと。寒冷な時代。地球規模の現象だが主に北半球に大きな影響を与えた。

f:id:rekisi2100:20170113084531p:plain
出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

上の図のように温暖な時代から急激に寒冷な時代に移行した。西アジアではこの時期はナトゥーフ文化後期と言われているが、この文化もこれに影響を受けた。というか寒冷なヤンガードリアス期に突入したから「後期」に突入したといえるかもしれない。

ナトゥーフ文化の前期は「先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化」で書いた。それまで定住をしたことがなかった人びとが、有り余るほどの食料資源に囲まれて定住生活と文化を築きあげた。

それが突然の寒冷時代の到来で壊滅状態になるのがナトゥーフ後期である。

長期に渡って詳細な記録が得られるアブ・フレイラ遺跡(Tell Abu Hureyra)ではこの時期には寒冷または変わりやすい気候の影響で、毎年現れたガゼルの群れが来なくなり、森林から採集できる食料資源も少なくなる一方だった*3ナトゥーフ文化前期の代表格であるアイン・マラッハも同様に食料資源に囲まれた環境は跡形もなく、住居の中は壁すら崩れ落ち、生活廃棄物が積み上がっていた*4

環境の変化は人間の身体にも及んだ。

ナトゥフ文化期の人々の健康状態、とりわけ、子どもたちのそれは悪化していった。これは彼らの歯から明らかにすることができる。ハ・ヨニームに埋葬されていた後期ナトゥフ文化期の人々の歯は、前期ナトゥフ文化期の先祖のそれと比較して、形成不全の状態を示している頻度がはるかに高い。彼らが死んだときに残されていた歯の本数もさらに少なくなっており、その歯も虫歯が多く、これは、いずれも健康状態が悪かったことを示している。

出典:スティーヴン・ミズン/『氷河期以後』/青土社/2015(原著は2003年出版)/上巻p100

上の書籍の同ベージによれば、アイン・マラッハでは身体の成長不良が見え、男性の体格が女性のそれとほとんど差がなくなっていた。

文化崩壊により迫られる3つの選択肢

多くのナトゥーフ人がアブ・フレイラと同じような状況に陥り、彼らは以下の3つの選択肢から将来の生活を選ぶように迫られた。

  1. 故郷を捨て、遊動(非定住)狩猟採集民になる。
  2. 故郷を捨て、他の定住先に引っ越す。
  3. 故郷に居続け、あらゆる手段を使いまたは手段を創出して生き残る。

ナトゥーフ文化以外の地域は定住と無縁であったことを思えば、「1」を選ぶことはそれほど無理な選択では無かっただろう。

「2」の移住先は、ムレイベト(Mureybet)やレヴァント渓谷などが候補地になった。移住先になった地域は新石器時代まで途絶することなく続いた。

f:id:rekisi2100:20170227083833p:plain
A map of the Levant with Natufian regions across present-day Israel, Palestine, and a long arm extending into Lebanon and Syria
出典:Natufian culture<wikipedia英語版*5

  • 上記の「Hayomin」は「Hayonim」の誤記。

「3」に関して「Tell Abu Hureyra<wikipedia」ではアブ・フレイラは少数の集団が居続けたと書いてあるが、『氷河期以後』*6では「廃墟」とあり、『農耕起源の人類史』*7では「2000年の明白な居住放棄期間」とある。他の村も同じような環境だったのかもしれない。

どの選択肢を採るにしても、人びとは生きるためにあらゆる手段を模索した。アブ・フレイラに残った人びとは食用にあまり適さないが乾燥に強いクローバーやウマゴヤシに手を出した*8。さらに彼らは食物栽培あるいはそれに似た行動を行っていた。当時の遺跡から植物栽培化されたライムギの種子が発見されている(ただし この努力は実らずに村は廃れてしまった)*9

また獣肉に頼る人びとは個体数の少なくなった獲物を高確率で仕留めるために「ハリーフ尖頭器」なるものを開発した。それだけではなく、前期では食肉はガゼルのみでも賄われていたが、後期はそうもいかず数多くの小型の動物も食べるようになった*10

最近の論文

ネット検索によりナトゥーフ文化後期に関する論文を見つけた

その1:Hunted gazelles evidence cooling, but not drying, during the Younger Dryas in the southern Levant

2016年の2月に公表された。この論文のautherには有名なOfer Bar-Yosef氏の名前もある。要旨は以下の通り。

+ ヤンガードリアス期は寒冷化だけでなく乾燥化も進んだとされているが、レヴァント南部では寒冷化はしたが乾燥化はしなかった。 + レヴァント南部と他地域の環境の差は、比較的温暖で安定した気候を保った(レバント南部にある)ヨルダン渓谷(北のガリラヤ湖と南の死海とそのあいだのヨルダン川で構成される渓谷)に移民が集中を促し、後の穀物の生産つまり農耕の誕生に影響を及ぼした。

この論文では研究材料としてHayonimの狩られたガゼルの歯を用いている。この論文が正しいとすると、上で引用した『氷河期以後』の文章「ハ・ヨニームに埋葬されていた後期ナトゥフ文化期の人々の歯は、前期ナトゥフ文化期の先祖のそれと比較して、形成不全の状態を示している頻度がはるかに高い」をどう解釈すべきなのだろう。ちなみにこの著者ミズン氏のソースは1991年のSmith氏の論文。

その2:Nahal Ein Gev II, a Late Natufian Community at the Sea of Galilee

2016年1月に出版された。こちらにもOfer Bar-Yosef氏の名前がある。要旨は以下の通り。

+ エン・ゲヴ遺跡のナトゥーフ文化後期の層(the site of Nahal Ein Gev II (NEG II) )を調査した結果、ヤンガードリアス期においてもエン・ゲヴの住人は遊動(非定住)型狩猟採集民になることを迫られるようなことはなかった。 + エン・ゲヴ遺跡からはナトゥーフ文化と新石器時代をつなぐ橋渡し的な段階も見出すことができる。

この論文は「その1」の論文と合致する。エン・ゲヴ遺跡はヨルダン渓谷にある村だ。

  *  *  *

f:id:rekisi2100:20170310102733p:plain
ナトゥーフ期・続旧石器時代、PPNA期、PPNB期における遺跡の分布(Hour et al.1994など多数の文献にもとづく)。この地図はヒルマンによる。ヤンガードリアス乾燥寒冷期のはじめ(紀元前11,000年頃)の野生穀類の自生地分布もしめしている。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p71(図3-1)

上の2つの論文が正しければ、ナトゥーフ文化前期に拡大した範囲が、後期になって縮小して「核地域」の範囲に戻った、と言えるかもしれない。

まとめ

寒冷化・乾燥化の影響でヨルダン渓谷などに人口が集中して、そのストレスが農耕社会への移行を促したという説がある。上の論文もそのような説を前提としていると思われる。

これが正しいのかどうかは分からないが、ヤンガードリアス期が終わって安定した温暖期(完新世)になったから農耕社会が劇的に繁栄したといえるだろう。もしも寒冷のままでいたら、農耕という技術は狩猟採集社会を補完するだけのものとして存在し続けたかもしれない。



  • ヨルダン渓谷は、ケバラン文化、ナトゥーフ文化の最重要地域だった。おそらく新石器時代や文明開化以降も重要な地域であったと思う。これから順々に調べよう。

  • 以上の論文は2つともAbstractしか読んでいない。補足のために関連のニュース記事は読んだが。研究方法の妥当性など(アイソトープとかエナメル質とか)分かるわけがないし、そもそも英語を読むことが苦痛だ。

*1:同氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

*3:Tell Abu Hureyra<wikipedia

*4:ステォーヴン・ミズン/『氷河期以後』/青土社/2015(原著は2003年出版)/上巻p96

*5:著作者:Crates、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Natufian_culture#/media/File:NatufianSpread.svg

*6:上巻p101

*7:ピーター・ベルウッド/京都大学学術出版/2008(原著は2005年出版)/p78

*8:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p136

*9:氷河期以後/上巻p109

*10:氷河期以後/上巻p108-109

先史:ナトゥーフ文化~「定住革命」

先史の最大のイベントは農耕の誕生(農業革命)なので、その手前にある「定住の始まり」というイベントにはスルーされがちだ。近年の発掘と研究の結果、定住型の狩猟採集民の生活が分かるようになってきた。

「定住→農耕の誕生」

以前の歴史の教科書では、狩猟採集から農耕へと移るにしたがって、定住化が起きたとされていたが、すでにその順番は逆転している。

NHKスペシャル取材班/ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか/角川文庫/2014/p279-280

「以前」というのがどのくらい前かは分からないが、私は最近まで上のように「農耕の誕生→定住化」と思っていた。考古学的な証拠が少ない時代に考え出された仮説が何時の日にか定説になって、それに反する証拠が出てきても容易に定説化した仮説を打ち砕くことはできなかったようだ。その提唱者はどうやらゴードン・チャイルド(1892-1957)という考古学者らしいのだが、彼の主張がどのようなものだったのか著作を読んでいないのでよく分からない。

しかし、現在は科学技術の進展のために考古学者は遺跡・遺物の年代をある程度特定できるようになり、仮説の精度は20世紀中盤あたりとは比較にならないほど上がっている。放射性炭素年代測定法などの科学技術が世界中の学者に認められ、その上で議論されて研究結果が積み上げられている。

そして近年、先史の本が数多く出版されているので、「定住→農耕の誕生」は一般人レベルで認識されている、かもしれない。そもそも「農耕の誕生→定住化」という誤った知識をインプットされていない人も多いかもしれないが。

定住しなかった人類

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

原初的な人類は、チンパンジーのように、小動物を狩り、昆虫を捕らえていたとしても、果実や種子、若芽などの植物の重要性が、現在の狩猟採集民よりもさらに大きかった時代を経過してきたにちがいない。狩猟採集民以前に予想されるこのような人びとは採集民と呼ぶべきものであろう。[中略]

採集民的な生活は、年間を通じてじゅうぶんな植物食料の得られる熱帯森林においてこそ有効であろう。そして、人類が狩猟具や堀棒をもち、採集狩猟民になったとき、人類は熱帯の森林にもサバンナにも半砂漠にも生活できる高い潜在能力をもったということであろう。

およそ50万年前に絶滅したギガントピテクスは、サバンナに進出した唯一の大型類人猿として知られている。彼らは、乾燥地帯の植物を咬み砕く巨大な歯をもっていた。人類以外の生物一般の適応進化がすべてそうであるように、彼らは体を環境に適応させることによってサバンナへと進出したと理解されている。

これにたいして初期人類は、狩をし、地下の植物資源を利用し始めても、大きな犬歯や長い爪を発達させたわけではない。狩猟採集民の出現はいうまでもなく文化的な現象である。そして、文化というもののもっとも重要な性質は、新しい獲得された行動様式が、遺伝子をベースにした行動よりもはるかに速く同種個体間に拡散することであろう。

出典:西田正規/人類史のなかの定住革命/講談社学術文庫/2007(1986年に出版された書籍の文庫版)/p73-74

以前、ホモ・サピエンスは文化の力でネアンデルタール人との生存競争に打ち勝ったことを書いたが、上の説明では、初期人類も、身体の進化ではなく、文化の力によって、採集民から狩猟採集民になった、という。何時、最初の狩猟採集民が誕生したのかは分からないが、その最初の人類はホモ・エレクトゥスらしい(Homo erectus<wikipedia英語版参照)。火の使用も彼らが最初だそうだ。

狩猟採集民になった化石人類の話を続ける。

低緯度の熱帯森林を出た人類たちは数百万年間低緯度から出なかったが、50万年に中緯度に進出する。つまり出アフリカを達成した。彼らはホモ・エレクトス北京原人ジャワ原人など)で、もちろん狩猟採集民だ。

低緯度と中緯度の環境は低緯度より年間の気温差が激しく冬は可食植物を探すことが困難になる。中緯度に進出した人類は狩猟の技術を高めて克服した。その技術はマンモスのような大型動物まで狩ることができた。

そして、その技術の完成が、後期旧石器時代になって、人類がさらに高緯度にまで分布を広げるための基盤を用意したのである。

文明以前の長い人類において狩猟のもつ意味は大きかったのにたいして、蓄える戦略の採用はずっと遅れて現れる。中緯度以北において、計画的な蓄えの対象となる食料は、おもに秋に落ちる木の実や、サケなどの遡河性魚類であるが、木の実を大量に調理するのに必要な石臼や土器、魚を穫る道具、あるいは貯蔵の施設が現れるのは、後期旧石器時代の終末から新石器時代にかけてのことである。

出典:西田氏/p81-82

そして著者は、人類の蓄える戦略に対する傾斜が定住へと導いたと結論づける。そしてそれまでの遊動(非定住)生活者を「自然の呼吸のままに生きてきた人類」とし定住者と対立させた*1。定住革命は人類と自然との距離を開けたということなのだろう。

定住のデメリット

上の書籍『人類史のなかの定住革命』で「遊動することの動機」をリスト化している。

(1) 安全性・快適性の維持
 a 風雨や洪水、寒冷、酷暑を避けるため。
 b ゴミや排泄物の蓄積から逃れるため。
(2) 経済的側面
 a 食料、水、原材料を得るため。
 b 交易をするため。
 c 協同狩猟のため。
(3) 社会的側面
 a キャンプ成員間の不和の解消。
 b 他の集団との緊張から逃れるため。
 c 儀礼、行事をおこなうため。  d 情報の交換。
(4) 生理的側面
 a 肉体的、心理的能力に適度の負荷をかける。
(5) 観念的側面
 a 死あるいは死体からの逃避。
 b 災いからの逃避。

こうしてみると、遊動生活において移動することのはたしている機能は、生活のすべての側面に深くかかわっていることが明らかである。そうであるなら、当然のこととして、遊動生活者が定住するとなれば、遊動することがはたしていたこれらの機能を、遊動に頼らないで満たすことのできる、新たな手法を持たなくてはならないのである。定住生活が出現するためには、それらの条件が揃っていなくてはならない。

出典:西田氏/p22-24

人類は定住化した後も「遊動することがはたしていたこれらの機能を、遊動に頼らないで満たす」ことはすべてはできなかった。条件を満たせない点は文化の変更して対応していった。

このようなデメリットがあるのにどうして定住をしたのかは前回の記事「先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化」の「ナトゥーフ文化の誕生の原因についての仮説」の見出しのところで書いた(3つの仮説を貼り付けてるだけだが)。

定住と環境の変化

定住生活が、中緯度地域の温暖化による森林化を背景に出現したと説明したが、こうした気候と植生の変化は、人類が中緯度に進出してから何度も起こったことである。ではなぜ、定住生活が、最後の氷河期のあとにしか出現しなかったのか、このことについて説明しておかねばならない。

定住化現象の以上の理解からすれば、それ以前の温暖期には、定置猟具による漁撈や、デンプン質ナッツの大量調理・大量貯蔵を発達させる技術的・経済的な前提条件を欠いていたと考えざるをえない。定住生活は、一面において、自然環境の大変化に応じた適応形態として出現するのであるが、同時に、それを可能にした人類史的前提のあることに注意を向けなければならないわけである。[中略]

定住生活者が採用した生計戦略の性質を見れば、自然や労働、あるいは時間に対する認識の仕方にも、大きな変化の生じたことが予想できる。定置漁具の制作に多くの労力と時間を費やし、1、2ヶ月の間、激しい労働の連続に耐えることなどは、その日の食料だけを考える遊動狩猟採集民の行動原則とは、大きく異なるものである。

遊動狩猟採集民が、明日の食料について心配しないのは、自然の恵みを確信しているからであり、食料を蓄える行為は、いわば、自然に対するまったき信頼を放棄することにほかならない。自然のなかで、自然に頼って生きるブッシュマンの自然観とは、おのずと異なる自然観である。漁網を編み、ナッツを大量に拾い、加工するなど、単純な作業の反復を重ねて、自然が制御されるのである。定住生活者に予想しうる自然や労働に対するこうした認識のあり方は、森を拓き、土を掘り、水の流れを変える農耕民のそれと大きく共通するところがあるだろう。

自然に対する認識の変化と同時に、定住生活者とその周囲の植生との生態学的関係が、遊動生活者のそれと、大きく異なることに注意しなくてはならない。[中略]

遊動生活者といえども、環境に対して何ほどかの影響を与え、それを改変するだろう。だが、狩や採集によって環境が変われば、すなわち、食料や薪が減少すれば、キャンプを移動させる。彼らの立ち去った後のキャンプ地は、自然の回復力に委ねられ、やがてもとの自然にもどる。彼らが環境に与える影響の大きさは、チンパンジーが果実を食べてその種子を分散させ、肉食がシカの生息密度に関係している程度とほとんど変わらない。遊動狩猟採集民は、自然が生産する資源に「寄生」して生きている人びとといえる。

ところが、人間が定住すれば、村の近くの森は、薪や建築材のための伐採によって破壊され続け、そこには、開けた明るい場所を好む陽性植物が繁茂して、もとの森とは異なる植生へと変化する。定住者は、自然としての環境ではなく、人間の影響によって改変された環境に取り囲まれることになるのである。

日本の縄文時代の村には、こうして生じた二次植生中に、彼らの主要な食料であったクリやクルミがはえていたし、ヨーロッパの中石器時代にはハシバミが増加し、西アジアの森林植生中には、コムギやオオムギ、ハシバミ、アーモンドが増加する。これらの植物は、いずれも、伐採後の明るい場所に好んではえる陽性植物であり、しかも、食料として高い価値をもっている。人間の影響下に生長してきた植物を、人間が利用するのである。生態学的な表現をすれば、これは明らかに共生関係であり、人文学的にいえば、栽培や農耕にほかならない。食料生産の出現は、火を使う人間が、定住したことによって、ほぼ自動的に派生した、意外で、しかも人類史上、きわめて重要な現象であった。

出典:西田氏/p48-52

「食料生産の出現は、火を使う人間が、定住したことによって、ほぼ自動的に派生した」というのは大げさだと思うが(縄文時代は食料生産の出現は無かった)、定住によって周囲の環境が変わっていく様子は定住者によって観察されたことだろう。彼らの中にはその様子をただ見ているだけではなくて、故意に変えていこうとした人たちがいた。これらの「実験」の中で成功したものが食料生産の出現につながったのだろう。



次回はナトゥーフ文化後期=ヤンガードリアス期をやる。

*1:p82

先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化

ナトゥーフ文化の期間は、「Natufian culture<wikipedia英語版」によれば、前12500-9500年だが、後期の千数百年間はヤンガードリアス期という亜氷期と重なるため、全く違う文化だと思う。この記事では前期の話のみを書く。

気候

f:id:rekisi2100:20170113084531p:plain
出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

前12700年(14700年前)に温暖期(ベーリング/アレレード期、亜間氷期)が始まり、急激に気温が上昇する。この頃が西アジアにおけるナトゥーフ文化期の前期にあたる。

ブライアン・フェイガン著『古代文明と気候大変動』*3によれば、「前13000年以降、2000年にわたって降雨量が増加した」と書いてある。

f:id:rekisi2100:20170227083833p:plain
A map of the Levant with Natufian regions across present-day Israel, Palestine, and a long arm extending into Lebanon and Syria
出典:Natufian culture<wikipedia英語版*4

ナトゥーフ文化の誕生の原因についての仮説

一つにまとめられない。3つもあるので書いておく。

その1:「人口集中によるストレス」説

ナトゥーフ文化領域とドングリ

ナトゥーフ式の新たな生活様式が生まれたのは、幾何学ケバラン期末期頃に始まった気候の乾燥化に起因するのではないかといわれている(Henry1989)。それによって、内陸乾燥地を含む広域に展開していた集落が、ヨルダン渓谷に沿った比較的湿潤な疎林地域に集中するようになった。ナトゥーフィアン前期の遺跡分布域は、かなり小さい。そのために生じた人口の集中と資源に対するストレス増が、定住や集約的な穀物利用という新しい生業・集中システムの発生につながったと考えられるのである。ナトゥーフ期に開花する各種の芸術様式も、上部旧石器時代後期にヨーロッパで流行した芸術と同様、近接する集団間の社会関係を円滑にするための表象ではなかったかといわれている(Bar-Yosef and Belfer-Cohen 1989)。定住性や資源の集約的利用、社会関係の保証など、新石器時代文化の基礎となる諸要素のすべてがここに準備されたものと考えられよう。

f:id:rekisi2100:20170302082237p:plain

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p55-56

・この本は1997年出版のためデータが古い。

ナトゥーフ文化が起こった地域はヨルダン川と地中海沿岸に挟まれた「丘陵地帯」だ。このあたりは森林ステップ(forest steppe。森林とステップが入り交じる推移帯)になっていた。集落はこの森林ステップに隣接するオークの林地の内部に形成された。*5

その2:「前文化(幾何学ケバラ文化)からの継続的発展」説

私たちは、人々が人口の過剰によってそうした生活様式を強いられていたわけではなかったことをほぼ確信することができる。ナトゥフ文化期の遺跡は、それ以前の時代と同じようにけっしてその数は多くない。人口の過剰があったとしたら、それは、ケバーラ文化期に遺跡の数が劇的に増加し、細石器の形式の標準化に拍車が掛かった紀元前14500年の時点だった。その後2000年の歳月が流れて、最初のナトゥフ文化期の集落が出現したとき、人口の増加を示している痕跡は見つかっていない。そればかりか、ナトゥフ文化機の人々の骨は、彼らが適度に健康であり、食糧不足のせいで望ましくない生活様式を強いられていたような人々とはまるで異なっていたことを明らかにしている。[中略]

アイン・マッラーハを発掘したフランソア・ヴァラは、ナトゥフ文化期の集落がたんにケバーラ文化機の人々の特定の季節における集合から生まれたのだと考えている。ヴァラは、世紀の変わり目の頃、北極地方の狩猟採集民たちと生活をともにしたことがある文化人類学者マルセル・モースの著作を想起している。モースは、周期的な人々の集合が密度の濃い集団生活という特徴をもっており、そうした生活が、祝祭、宗教的な儀式、知的な議論、頻度の高い性行為をともなうことを認識していた。それとは対象的に、それぞれの人々が小さな集団を形づくって互いに遠く離れて暮らしている、一年のうちのそれ以外の期間は、いずれかといえば活気がない。

ヴァラは、ナトゥフ文化期以前の移動性の狩猟採集民たちの集合がそれと似通っていた可能性があり、ナトゥフ文化期の人々は、集合する期間を延長する機会を得たその結果として、一年を通してそうした状態を効果的に持続するようになったにすぎないと提唱している。事実、ナトゥフ文化期の集落のすべての基本的な要素、つまり、石組みの住居、石臼、ツノガイの数珠玉、遺体の埋葬、ガゼルの骨などは、ネヴェ・ダヴィッドにおいてすでに存在していた。気候がしだいにおんだんでしつじゅんになるにつれて、植物と動物がより多様でゆたかになっていたことから、人々は、冬期の集合場所により長時間滞在し、より速くそこに帰って来るようになり、一部の人々が年間を通してその地にとどまるようになっていったのである。

出典:スティーブン・ミズン/氷河期以後/p91-93

「その2」は「その1」とかなり違う。「その1」がストレスによる急な変化を主張するのに対し、「その2」はケバーラ文化からの連続性を示している。

さらに「その2」の「それ以前の時代と同じようにけっしてその数は多くない」に反する主張がある。

紀元前12500年までに、幾何学ケバランの細石器インダストリーはつづくナトゥーフ文化へと発展した。幾何学ケバラン文化とナトゥーフ文化のおおきなちがいとしては、遺跡の数と面積がナトゥーフ期に飛躍的に増加したことがあげられる。「近東考古遺跡地図帳」には、この時代の遺跡としてレヴァントに74地点、またアナトリアとザグロスでは同時期の非ナトゥーフ文化の遺跡として26地点の遺跡があげられている。しかし、数だけではなく遺跡の面積についてもナトゥーフ文化の全域をとおして、幾何学ケバランの平均的なおおきさよりも5倍もおおきくなったとみつもられている。このことはヤンガードリアス期(紀元前11000~9500年)の開始よりも前に、とくにナトゥーフ前期に人口が急速に増加していたことを示唆する。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p76-77

どちらが正しいのか、あるいはどちらも間違っているのか分からない。

その3:「どんぐり」説

以下の引用では、ケバラ人は植物性食物をほとんど食べなかったことを前提にして書いてある。

気温が上がるにつれ、ヨーロッパにいたクロマニョン人の子孫のように、ケバラ人も木の実と種子に関心を向けるようになった。水に恵まれたオークとピスタチオの森がある一帯では、そうした傾向はとくに顕著に見られた。そのころには森はユーフラテス川の流域のなかほどから、ダマスカス付近を抜け、ヨルダン川まで広がっていた。これらの高地にあるけばラジンの遺跡からは、収穫した種子や木の実を加工保存するための擦り石と擦り台が見つかった。降雨が季節的に偏り、周期的な干ばつに見舞われる地域では、食糧の保存は不可欠だ。前11000年になり、量が時代の大型動物のいなくなった世界にヨーロッパ人が適応していたころ、ケバラ人は植物性食物を重要な常食の一部にするようになっていた。

どんぐりがもたらした影響

オークとピスタチオのベルト地帯が、おそらく聖書にあるミルクと蜂蜜の流れる地の着想の源だろう。ここでは驚くほど多様な植物性食物が収穫できた。この地に住んだ人びとは、移行帯、つまり接し合う二つの生態学的領域の境界にある土地を好んでいた。ここなら、一年の別々の時期に、別々の食糧を採集しえたからだ。先人たちとは異なり、多くの集団はこのころには一年中、洞窟を利用するようになった。そこなら雨を防いで、植物性植物を乾いた場所に保管しうるだろう。このころには春と初夏には野草、秋にはどんぐりとピスタチオなど、植物性食物がきわめて豊富になったため、多くの集団は一時的な野営地ではなく、もっと大きな常設の共同体で暮らすようになった。そうした場所で、彼らはかなり広い草葦屋根の丸い住居を建てるようになった。[中略]

毎年、秋になると、ナトゥフ人は何百万個となく、どんぐりとピスタチオを収穫した。どちらの木の実も保存が容易で、昆虫やげっ歯類にやられないかぎり、二年以上はもつという利点があった。収穫方法は単純だった。枝をゆするか、木に登って熟した実を集めればいいのである。[中略]

収穫高に関するデータは、残念ながらなかなか手に入らないが、カリフォルニアのノースコースト一帯では、1ヘクタール当たり590キロから800キロという大収穫も珍しくない。かりにそれほどの生産量があれば、ヨーロッパと接している地域よりも、50倍は多くの人を養うことができただろう。どんぐりは栄養価に富み、炭水化物が70パーセントも含まれ、タンパク質は5パーセント、それに脂肪も4.5パーセントから18パーセント含有する。ただし、大きな難点が一つあった。加工に手間隙がかかったのだ。どんぐりの殻を割り、粉にするのは、野草の種を挽く以上に時間を要する。そうなってもまで、食べることはできない。どんぐりには苦いタンニン酸、つまり渋が含まれていて、時間をかけて水にさらしてからでなければ、調理できないのだ。

どんぐりとピスタチオが充分すぎるほどの余剰食糧を生み出したおかげで、ナトゥフ人の共同体は一箇所に長くとどまれるようになった。だが、その余剰分には犠牲がともなっていた。膨大な労働力が日々費やされたのだ。人類学者のウォルター・ゴールドシュミットがかつて観察したところによると、カリフォルニアでは一人の女性が3キロのどんぐりを砕いて粉にするのに、3時間かかったという。挽き割粉を流水に浸けてさらすのに、さらに4時間が必要だった。7時間の労働のあと残るのは2.6キロの食用の粉で、家族は数日間、それを食べて過ごせる。一方、狩人が鹿の皮をはいで肉をさばくのは、数分ですむ。狩りはどんぐり広いより時間がかかるかもしれないが、食事の用意をするのは簡単で、費用効率も高い。どんぐりが必需食品となると、共同体の生活は大きく変わった。

男も女も木の実を収穫したにちがいないが、それらを保存し加工する作業は全面的に女性の肩にかかってきた。それまでの何千年間も、男は狩りをし、女は野草などの植物性食物を採集して処理してきた。こうした処理も時間がかかったが、どんぐりに必要な作業とは比較にならない。毎日消費するためのどんぐりを挽き割り、さらすには、女性の仕事に大転換が必要であり、その結果、女たちは擦り台と擦り石だけでなく、貯蔵庫にも釘付けになった。何万年も自由に動きまわる生活をつづけてきたナトゥフ人は、この時代になるとどんぐりの収穫のせいで、長期のベースキャンプから離れられなくなった。しかし収穫はおおむね予測がついたし、適切な貯蔵庫があれば、こうしたほぼ恒久的な定住地も充分に存続可能だった。[中略]

貯蔵可能な食糧が豊富に得られるようになると、ナトゥフ人の共同体は急速に拡大した。イスラエルのフーラ川流域にあるマラハ遺跡は1000平方メートル以上にもおよび、初期の狩猟採集社会のどの野営地よりも広大だった。ここの住民は膨大な労力を費やして丘の斜面を壇上にならし、そこに家を建て、上等な漆喰を混ぜて壁を塗り、貯蔵用の穴蔵を掘った。マラハのような場所は、何世代にもわたって人びとが永住した村だった。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p121-126

ナトゥフ文化誕生の原因がすべてどんぐりが原因とまでは言わないが要素の一つくらいにはなっていると思う。ムギ類・マメ類などの穀物に話が集中して木の実が軽視されているように思われる。

道具/交易

道具類も多様化し、細石器が着柄された石鎌が登場し、骨角器は釣り針や編み棒、装飾具が発見され、その他 多彩な装飾具も見られるようになった。トルコ産の黒曜石が南レヴァントで発見されるなど、広範囲の交易は行われていることも示唆されている*6

f:id:rekisi2100:20170227092601j:plain
出典:sickle<wikipedia英語版*7

定住に適応した文化

ナトゥーフ文化は定住に適応するために開発された文化だ。人びとは有り余る過食植物と定期的に現れるガゼルの群れに囲まれてそれまでのどの文化よりも安定した生活を享受できた。

開発に成功した文化はその後2000年に渡って続き、世代交代は50回も繰り返した。*8



次回は定住の重要性について書く。

*1:氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

*3:河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p130

*4:著作者:Crates、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Natufian_culture#/media/File:NatufianSpread.svg

*5:スティーブン・ミズン/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版)/p65

*6:西アジアの考古学/p54

*7:著作者:Wolfgang Sauber、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Sickle#/media/File:Museum_Quintana-Neolithische_Sichel.jpg

*8:スティーブン・ミズン氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年に出版)/p96-97