歴史の世界

先史:ネアンデルタール人の文化からホモ・サピエンスの文化へ

少し前にホモ・サピエンスの出アフリカの記事を書いた。「出アフリカ」の前後の西アジアとヨーロッパはネアンデルタール人が「支配」していた。彼らの文化はムスティエ文化(ムステリアン、Mousterian)と呼ばれ、中期旧石器時代に入る。

ホモ・サピエンスはアフリカから独自の文化を持って西アジアに進出し、ムスティエ文化と交わって新しい文化を作った。西アジアではアハマリアン、ヨーロッパではオーリニャック文化(オーリナシアン)がそれぞれ発展した。オーリニャック文化は後期旧石器時代になる。オーリニャック文化の初期、4万年前にネアンデルタール人は絶滅する(ホモ・サピエンスの「親戚」、絶滅する参照。

ルヴァロア技法と石刃技法

両方共打製石器をつくる技術。打製石器の変遷の簡単な説明は「打製石器<世界史の窓」でされている(スケッチ有り)。

ルヴァロア技法

ルヴァロア技法はムスティエ文化の石器をつくる代表的な方法。

「Levallois technique」でyoutube検索したらLevallois techniqueという動画が見つかった。一つの大きい石の端を別の石で砕いて鋭利な刃を作り、それでできた石器を割いた枝に差し込んで石斧を作るところまで「実演」している。おもしろい。

石斧に使われた石器を石核石器と言い、石核から剥ぎ落とされた石を石器として使う場合剥片石器と言う。「剥片石器<wikipedia」によれば、これらは「尖頭器・石槍、石鏃、石匙、石銛、石篦、石錐、石鋸など」として使われた。

石刃技法

石刃技法はブレード技法とも言う。

打製石器<世界史の窓」にある石刃技法に一番近い動画は「Blade Core Technique」だ。手を怪我しそうでこわい。それとこの動画には無いが石核を作るまでが大変そうだ。

ブログ『雑記帳』の紹介

雑記帳

先史関連の事項をネット検索する時、高確率で検索されるのがこのブログ。ブログタイトル通り雑記帳なのだが、Natureなどの最新の論文の情報を紹介して解説までしてくれる。私は先史関連の本を読み始めたのが数ヶ月前なのでこういうブログがあると本当に助かる。ただし私には理解できない部分も少なくない。

「出アフリカ」後の西アジア

西アジアの考古学 (世界の考古学)

西アジアの考古学 (世界の考古学)

上記の『雑記帳』で大津忠彦・常木晃・西秋良宏『世界の考古学5 西アジアの考古学』(同成社、1997年)が紹介されていた。記事タイトルは「旧石器時代の西アジア」。

詳細はリンク先参照。私には理解できない部分が多い。

同ブログの記事「現生人類の石器技術にネアンデルタール人が影響を与えた可能性 」も踏まえて、一番単純な流れを書こうとすると

ムステリアン+アフリカ由来の文化→エミラン→アハマリアン→ケバラン(ケバランはepipaleolithic続旧石器時代)。

ちなみに、wikipedia英語版だと

Mousterian(600,000–40,000BP)→Emireh culture(circa 30000BCE)→Antelian(c.30,000–c.18,000BCE)→ケバラン(c.18,000–c.12,500BC)

となっている。Antelianアンテリアンはアハマリアンの時期に相当するらしいがよく分からない。アンテリアンもしくはアハマリアンはヨーロッパにおけるオーリニャック文化(オーリナシアン)の時期の文化だが、西アジアにもオーリニャック文化が「外来種」として存在した。

現生人類の石器技術にネアンデルタール人が影響を与えた可能性 」のリンク先のナショナルジオグラフィックの記事から引用。

道具作りの観点では、古代から現代へ人類の行動が移り変わる過程は、約5万年前の「エミラン」と呼ばれる石器の様式にはっきりと現われている。だが、1951年にイスラエルガリラヤ湖付近の洞窟で、尖頭器や石刃、削器をはじめとするエミランが初めて発見されて以来、高度な道具作りがどこで始まったのか、考古学者らはずっと頭を悩ませてきた。 [中略]

ローズ氏とマークス氏のシナリオによると、7万5000年前、アラビア半島の気候が急激に変化し、干ばつに見舞われた結果、道具を作る人々が北部の中東地域へと押しやられた。

一方、中東は6万年前からより湿潤な気候へと変化し、動物や狩猟民は北部に集まっていった。そこで現生人類は大きなブレイクスルーを成し遂げる。祖先のヌビア人がしていたように石を上から下へ一方向に砕いて1つの石から1つの道具を作る代わりに、上下両方向に砕いて1つの石から複数の細長い石刃を続けて作る方法を編み出したのだ。それは、エミランとそれに続く上部旧石器時代における決定的な特徴である。

出典:ネアンデルタール人と人類の出会いに新説<ニュース2015.03.02<ナショナルジオグラフィック日本語版

上は数ある仮説の中の一つ。通説ではない。

アハマリアン(アンテリアン)の時期については詳しいことは分からない。関連資料が少ない。

ヨーロッパの文化の変遷

欧州におけるホモ・サピエンスの初期の文化といえばオーリニャック文化(オーリナシアン)が有名だが、ムステリアンとオーリナシアンの間に「移行期文化」というものがあり、これらのうち幾つかがホモ・サピエンスの最初期の(ヨーロッパ進出の最初の)文化とされる。

別のシナリオとしては西アジアの前期アハマリアン文化がヨーロッパに伝播してプロト・オーリナシアン文化になった*1

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出典:Aurignacian<wikipedia英語版*2

  • 「26」のレヴァントの辺りに飛び地のようにオーリナシアンがある。

ブログ『雑記帳』の記事「7000年前頃までのヨーロッパの現生人類の遺伝史(追記有)」に「47000~7000年前頃の51人のユーラシアの現生人類(Homo sapiens)のゲノムを解析したゲノムした研究」とその報道が紹介されていて、それによると、

オーリナシアン(~34000-26000年前)→グラヴェティアン(Gravettian、グラヴェット文化)(34000-26000~19000年前)→マグダレニアン(Magdalenian、マドレーヌ文化)(19000~14000年前)

14000年前になると、「現代の中東の人々と遺伝的により密接に関連した集団がヨーロッパに広範に進出する」とのこと。この研究結果はゲノムの解析によるものだということを注意しておこう。

気候変動と文化の変容

最終氷期というと長い間続いたと一般には思われているが、実際は短い周期(氷床コアの研究において発見され、ダンスガード・オシュガーサイクルと呼ばれる)で気候が激しく変動していたことがわかってきた。最寒冷期の状態が続いたのは実際は非常に短い間、おそらく2000年ほどであったと専門家の間では考えられている。最寒冷期の直前は多くの地域では砂漠も存在せず、現在よりも湿潤であったようである。特に南オーストラリアでは、4万年前から6万年前の間の湿潤な時期にアボリジニが移住したと思われる。

出典:最終氷期wikipedia

「Dansgaard–Oeschger event<wikipedia英語版」によれば、この現象は北半球において顕著だった。ネアンデルタール人はこの気候変動の激変に翻弄され、ホモ・サピエンスのヨーロッパ進出によりとどめを刺されて滅亡した(4万年前)。

ホモ・サピエンスももちろん影響を受けた。この激変の中で新しい文化を創出していった。

オーリナシアン期にはすでに石器の他に骨角器*3が使用されるようになった*4

グラヴェティアン期に入ると以前より小さくて鋭い石器が使われるようになった*5。さらにこのころは、季節で移動するアカシカが通る 峡谷にキャンプを張って大量の獲物を狩猟したり、小動物を狩るために網を利用した*6

さらにグラヴェティアン期の話だが、毛皮のためにホッキョクギツネやノウサギを狩り*7、大量の食料を得るためにマンモスを狩った。特にマンモスは非常に効率的で新しい狩猟法を編み出し大量に狩猟することができた*8。この頃にはすでに針があり裁縫技術があった。

こうして寒冷期でも人口を増やす傾向にあったようだ。

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出典:パット・シップマン/ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた/原書房/2015(原著も2015年に出版)/p101

もう一つ貼り付け。

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出典:シップマン氏/p183

中緯度まで広がるステップ・ツンドラ

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最終氷期の最寒冷期(LGM)における植生。灰色は氷床に覆われた地域

出典:最終氷期wikipedia*9

上のように北半分のヨーロッパは「ステップ・ツンドラ」だった。

steppe-tundra
A very cold dry-climate vegetation type consisting of mostly treeless open herbaceous vegetation, widespread during Pleistocene times at mid-latitudes of Eurasia and during some phases in North America.

出典:steppe-tundra<wikitionary

拙訳:ほとんどが木が育たず草原が開けた植生の地域。過半の更新世のユーラシアの中緯度、または北米の幾つかの時期に見られた。

  • 上述のシップマン氏の本には「ステップ・ツンドラ」ではなく「マンモス・ツンドラ」と書かれている。この地域はマンモスが生息する地域だからこう言われているらしい。そしてこの地域に住んでいたホモ・サピエンスは生活のかなりの部分をマンモスに負っていた。

ミズン氏の『氷河期以後 (上)』(p28)やフェイガン氏の『古代文明と気候大変動』(p42、p53-57)でもその地域の厳しさを叙述していたが、以下の引用だと少し異なる。

最終氷期の頂点だった約二万年前に、大河の水は涸れた。氷河は水分を凍らせ、地面は奥深くまで凍りついた。こうしたことは、恐ろしいように思える。しかし、最近の研究では驚くような好ましいイメージが示されている。ヨーロッパでは人類の生活条件は非常に快適ですらあったのである。気候はきわめて安定していた。天気は今日に比べ、はるかに変わりにくかった。夏には穏やかな好天が続いていた。冬は一貫して厳しい寒気が居座っていたが、最低気温でも極寒にはならず、乾燥した気候だった。氷期の冬は、冬のさなかでも日光浴ができる今日のアルプスの晴れ上がった冬にたとえられよう。平均気温は今日より4~6℃低かったが、乾燥していたため、不快ではなかった。春の訪れは遅かったが、夏には気温はおよそ20℃に達した。

気温が低かったため、植生は著しく制限されていたが、氷期の中部ヨーロッパのツンドラは、極圏のツンドラとは全く異なる。この緯度では日光の照射は常に変わることなく強く、夏は暖かく、雪解け水に育まれて植生は豊かで、それが動物に豊富な植物を提供していた。氷期ツンドラは、大型獣が豊富という点では東アフリカのサバンナに引けを取らなかった。そこでは大型動物相を形成することができたが、それには装飾のお大型哺乳類のマンモス、毛サイにとどまらず、オーロクス、ヘラジカ、シカ、ホラアナグマ、そして大型肉食獣のライオンやハイエナも含まれていた。肉食獣と同じように初期の人類も屍肉を食べて生きることができた。そのうえ「天然の冷蔵庫」の中で、それは簡単に冷凍保存されていたのだ。さらに初期の人類は新しい能力を発達させた。大型動物の狩猟である。

出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p50

上の記述が本当かどうか分からないが載せておく。

ちなみにミズン氏・フェイガン氏の記述だと、寒い時はマイナス30℃に達し、9ヶ月の寒気に耐えなければならない、とのこと。ちなみにミズン氏の記述は1985年の参考文献を用いている。

とにかく、ホモ・サピエンスは「奥深くまで凍りついた」地面つまり永久凍土層の上で暮らしていた。こんなに寒い場所で暮らせたのはホモ・サピエンスが「針」を使うことができたからだとフェイガン氏は主張していた。*10



*1:人類進化史を更新―石器に見る「技術革新」にヒント―/名古屋大学学術研究・産学官連携推進本部/2015/06/10

*2:著作者:Hughcharlesparker ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Aurignacian#/media/File:Aurignacian_culture_map-en.svg

*3:骨角器<wikipedia

*4:オーリニャック文化<wikipedia

*5:Gravettian<wikipedia英語版

*6:Use of animals during the Gravettian period<wikipedia英語版

*7:パット・シップマン/ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた/原書房/2015(原著も2015年に出版)/p170-171

*8:シップマン氏/p179/ただし狩猟法の中身には触れていない。p174では「マンモスの狩りが高い頻度で成功するようになったのは現生人類の出現による」と書いてある。

*9:ダウンロード先はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%B0%B7%E6%9C%9F#/media/File:Last_glacial_vegetation_map.pnghttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Last_glacial_vegetation_map.png#/media/File:Last_glacial_vegetation_map.png、改変

*10:フェイガン氏/p54

先史:ホモ・サピエンスの大拡散:アメリカ大陸編

新大陸、南北アメリカ大陸への進出は最終氷期に地続きになった「ベーリング陸橋(地峡)」を渡って達成したというのが通説だったが、沿岸を通って移住したという説もある。併せて紹介する。

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出典:ジャレド・ダイアモンド/銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎/草思社/2000/p51(原著はアメリカで1997年に出版)

旧来の通説

上述したジャレド・ダイアモンド氏の本には「人類が南北アメリカ大陸に住みはじめたのが35000年前から14000年前のあいだのどの時期かは、はっきりしているわけではない(p63)」と前置きをして上の図の通りの「北米に紀元前12000年頃、中米に前11000頃に到達」という説を展開している。

メキシコに接するアメリカ南西部のニューメキシコ州にある都市・クローヴィスにちなんだクローヴィス文化は南北アメリカ大陸の最初の文化とされている。

ダイアモンド氏はその文化の担い手の先祖はベーリング地峡(陸橋)を渡って中米まで南下し人々で、人類の南北アメリカ大陸の進出の始まりだと考えている。

ベーリング地峡(陸橋)とは現在のベーリング海峡氷期の海面下降により出現した地面のこと(ベーリング地峡<wikipedia参照)で、ホモ・サピエンスはこの陸橋を渡って初めてアメリカ大陸に進出した、というのが通説だ、または通説だった。

そしてクローヴィス文化より古い時代と主張される遺跡が100ヶ所もあることに言及した後、以下のように主張する。

私としては、クローヴィス以前に人類が定住していたとすれば、それを明確に示す遺跡がこれまでに各地で発見されているはずであり、したがってこの論争はすでに解決済みのはずだと思われる。しかしこの点について、考古学者の意見はいまだに分かれている。

クローヴィス以前に南北アメリカ大陸に人類が存在していたと解釈しようがしまいが、われわれがアメリカ先史について理解している内容は同じである。南北大陸には紀元前11000年頃に初めて人類が移り住み人口増加が短期間のあいだに起こった。あるいは、人類が最初に移り住んだのはそれよりもう少し前であったが、考古学的にはほとんど何も残さぬ存在であった(クローヴィス以前の定住説の支持者は、だいたい15000年前から2万年前、または3万年前までと推定していて、それ以上前とする説は少ない)。

出典:ダイアモンド氏/p70

ダイアモンド氏が前置きで ことわっているようにアメリカ大陸への最初の人類到達はクローヴィス文化の担い手より前に存在していた。ただし、ダイアモンド氏は「最初の人類」は絶滅して子孫を残せなかっただろうと主張している。

近年注目されている説

下のナショナルジオグラフィック日本版のウェブサイトの記事では「異説」を紹介している。ダイアモンド氏の主張を「通説」として「異説」は以下の通り。

この通説を覆したのが、1997年に南米チリのモンテベルデ遺跡で発掘調査を行った考古学者のチームだった。米国バンダービルト大学のトム・ディルヘイは、同地で1万4000年以上前に人類が居住していた証拠を発見したと発表。北米にクロービス文化が現れるより1000年も前ということになる。

だがそんな時期に、どうやってはるかチリまで到達できたのだろうか。一つの仮説は、海からのルートだ。

米国カリフォルニア州チャンネル諸島では、約1万2000年前、島の人々が海洋文化を発達させていたことを示す有力な証拠が見つかった。彼らの祖先はアジアを出発し、「ケルプ・ハイウェー」とでも言うべき海路を通って、おそらくベーリング陸橋での長い滞在を経て米大陸に来たのではないか。調査を進めるオレゴン大学のジョン・アーランドソンは、そう考えている。ケルプ・ハイウェーというのはコンブなどの海藻が密生し、魚や海生哺乳類が豊富な生態系が連なる海域のことだ。

「3万年前から2万5000年前の日本には、舟を操る海洋民がいたことがわかっています。そうした集団が環太平洋地域を北上し、米大陸に来たのかもしれないと考えるのは、理にかなった推論でしょう」

※この続きは、ナショナル ジオグラフィック2015年1月号でどうぞ。

出典:アメリカ大陸 最初の人類<ナショナルジオグラフィック日本版2015年1月号(文=グレン・ホッジズ)

チリ南部のモンテベルデ(Monte Verde)の遺跡については『銃・病原菌・鉄』でも紹介されている(p69)。ナショナルジオグラフィックの別のページによれば*1、「この遺跡は1万4500~1万4250年も以前のものと推定されている」。

さて問題は「ケルプ・ハイウェー」だ。「ケルプ」をgoogle検索すると「オオウキモ<wikipedia」が引っ掛かった。

オオウキモ(学名:Macrocystis pyrifera)は、不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科に属する海藻である。英名のジャイアントケルプ (Giant Kelp) が用いられることも多い。既知の藻類の中では最大種である。

根状部で海底の岩に付着し、上方に向かって茎状部や葉状部を成長させていく。その成長のスピードは著しく速く、1日に50cm近くも成長することもある。茎状部には空気をためた浮き袋が付いているため、これにより海中で直立して浮いていることができる。茎状部は海面に達するまで伸び続け、50m以上に達することもある。海面に達した後は、海面上に広がるような形で成長する。

オオウキモが密集した場所では、「ケルプの森」と言われる海底から海面に及ぶ長大な藻場が形成される。海中に林立し、さらに海面を覆い尽したオオウキモを側柱と天蓋に見立てて、「カテドラル(大伽藍)」などと呼ばれることもある。この藻場は生物多様性に富んでおり、カニなどの甲殻類、ウニやヒトデなどの棘皮動物、魚類、そしてアザラシやラッコなどの海獣類のコロニーとなっている。

出典:オオウキモ<wikipedia

このページより英語版のページ「Macrocystis pyrifera」に行くとギャラリーを見ることができる。そのひとつが下の写真。

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Giant Kelp floating just outside the Santa Cruz harbor.
出典:Macrocystis pyrifera<wikipedia英語版*2

上の写真は港のものなので「ケルプの森」の全体がこのようであるかは分からない。

「Kelp forest<wikipedia英語版」には以下の図が載っている。

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Global distribution of kelp.
出典:Kelp forest<wikipedia英語版*3

「ケルプの森」は北太平洋の海岸沿いに有り、アメリカ大陸の最初移住者はこれを伝って移動した、というのが「ケルプ・ハイウェー」の仮説だ。

上述のジョン・アーランドソンが所属するオレゴン大学のウェブサイトに"Kelp Highway Hypothesis"が載せられている。

またブログ『ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!』のページ「Who Discovered America? 最初のアメリカ人は誰?」で「ケルプ・ハイウェー」の仮説が紹介されている。何かのドキュメント番組のメモらしいがなんという番組かはわからなかった。

「通説ができるのには数十年かかる」

再び『銃・病原菌・鉄』より

これまで最古とされていたものが新しい学説によって否定され、じつはそれより以前であったと主張されることがある。そうした学説はこの本でも繰り返し出てくるが、それをどう受け止めるかはむずかしい問題である。ある学者によって「最古といわれたX」より古いXが孫際していたという学説が発表されると、それよりさらに古いXを見つけ、その学説を否定しようとするものがかならず現れる。[中略]これまで最古とされていたものより古いものではあるが、それが考古学上ほんとうに最古のものであると学問的に合意されるには、何十年もの研究成果の積み重ねが必要なのである。

ダイアモンド氏/p52

近年の情報

古人類学の最新情報を提供してくれるブログ『雑記帳』から。

もう一つ、別のブログ『現在位置を確認します。』から。

以上の記事を読めば、最近のこの件の動向が把握できると思う。

私の理解では、「アメリカ大陸への人類の拡散は複数あったかもしれない」(『雑記帳』の3番目の記事より)というのが一番妥当だと思う。

つまり最初の人類は北太平洋沿岸を海産物を頼りながら渡った、その後ベーリング地峡を渡った人類がいた、というもの。



先史:ホモ・サピエンスの大拡散:ヨーロッパ編

驚いたことに、ホモ・サピエンスのヨーロッパ進出はオーストラリア進出よりも後になる。ホモ・サピエンスは移住候補地に、近い寒冷な場所より遠くても温暖な場所を好んだようだ。

「45000年前」という数字

ヨーロッパに進出したホモ・サピエンスクロマニョン人と呼ばれている。「クロマニョン人wikipedia」によれば、彼らは4万年に進出したとのことだが、2014年8月のウォール・ストリート・ジャーナルの記事によると45000年前だという論文がネイチャーに提出されたという(人類、予想以上に早く欧州に到達-ネアンデルタール人と長期間重複)。

この論文はネアンデルタール人の絶滅のところで書いたハイアム氏の論文だ。

オール・アバウト・サイエンス・ジャパン(AASJ)の2014年8月22日の記事「8月22日:ネアンデルタール人の消滅(Nature誌8月21日号掲載論文)」によれば、論文ではネアンデルタール人ホモ・サピエンスのどちらの文化か論争中のウルッツァ文化(Uluzzian industry)をホモ・サピエンスの文化だと断定したという。

さらにシップマン氏の本にはこの文化圏のグロッタ・デル・カヴァロ(イタリア南部。位置は「Grotta del Cavallo<wikipedia英語版」参照)で発見された歯が45000年前のものだとされていたものが再年代測定により現生人類(ホモ・サピエンス)のものだと分かった、と書いてある。

まとめるとホモ・サピエンスは遅くとも45000年前にヨーロッパ(イタリア南部)で、ウルッツァ文化(Uluzzian industry)の中で居住していた。

新しい(?)問題

ウルッツァ文化はおそらくヨーロッパに進出したホモ・サピエンスの最初の(あるいは最初期の)文化の一つだが、彼らは投擲具などの武器・技術を持っていなかったかもしれないという主張がある。

名古屋大学博物館、及び大学院環境学研究科の門脇誠二助教の研究グループは、獲物を遠距離から射止める狩猟技術の起源論争に一石を投じた:

・・従来、投げ槍や弓矢などの投擲具は、アフリカや西アジア(中近東)にいたホモ・サピエンス集団が開発した技術と考えられていた。そして、この革新的技術を携えたホモ・サピエンス集団の一部が4万2千年ほど前にヨーロッパへ拡散したことが、後のネアンデルタール人絶滅の一因になったという説が提案されてきた・・

これは、投射狩猟具の先端に装着されたと考えられている小型尖頭器(石器)がヨーロッパよりも西アジアで先に出現した、という年代測定結果が得られていたためである。

この時代の遺跡の年代測定には、放射性炭素年代が広く用いられている。遺跡から発掘される植物や骨の有機物に含まれる放射性炭素の割合と、その一定の壊変速度(放射性同位体である炭素14が壊変する速度)に基づいて、生物が死亡した年代を決める。

しかしながら、より古い前処理法や測定方法によって決定された年代は、「コンタミ(異物混入)」の影響を受けていたり、測定年代の誤差が大きいという問題点がある。1950年代以降普及し始めた年代測定は、その測定方法や資料の前処理法などの技術が改善され続けており、つまりは、放射性炭素によって測定された年代を全て同等に比べることはできないのだ。

「年代測定技術が進歩するのに伴って、過去の考古記録をアップデートしていく必要がある。」

門脇助教は、最新の年代測定結果を重視しながら、小型尖頭器(石器)の形態や製作技術の時間的・地理的分布パターンを把握する研究を行い、その結果から人類進化史の新事実を提唱する。

出典:人類進化史を更新―石器に見る「技術革新」にヒント―/名古屋大学学術研究・産学官連携推進本部/2015/06/10

簡単に言うと、新しい測定技術で西アジアの投擲具の技術を含む石器群を調べてみたら、その始まりは約39000年だった。これに対してヨーロッパの投擲具の技術を含む石器群(文化)のプロト・オーリナシアン文化(ウルッツァ文化より後の文化)は約4万2千年前。つまり従来の通説と合致しない結果となった。

こうなると、45000以上前にホモ・サピエンスは舟を使って北アフリカからイタリアを含む南部ヨーロッパに渡航したことを考えに入れないといけないだろう。しかし舟の遺物は出てきていないそうだ。水中考古学なんてものもあるそうなので期待したい。

先史:ホモ・サピエンスの大拡散:オーストラリア・日本編

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Homo sapiens migration map, based upon DNA markers

出典:Prehistoric Asiawikipedia

上の図はどの程度有効なのかよく分からないがとりあえず載せておく。

オーストラリア編

これまでオーストラリア大陸に人類が定住したのは47,000年から50,000年前とされてきた。しかし、最近、研究者チームが北部準州(NT)のカカドゥ国立公園に近い土地の岩窟を調査した結果、実際にはそれより18,000年遡る65,000年以上前という推定が強まってきた。[中略]

この発掘現場からは磨製石斧、砥石、火打ち石、オーカーなど多様な遺物に加え、現場一帯に焚き火跡が残っている。この遺跡はマジェドベベと呼ばれており、ここがオーストラリア国内でこれまでに発見されたうちではもっとも古い人類の定住の痕跡であることを認める学者は多かったが、現場の堆積物を最新の年代決定機器にかけた結果、世界でも有数の文化遺跡、人類学的に重要な遺跡であることが確認された。

QLD大学[クィーンズランド大学]のクリス・クラークソン博士は、「この遺跡の年代測定で、人類がアフリカ北部を離れ、現在の東南アジアを通過した時期についてさらに詳しいことが分かるかも知れない。この遺跡はオーストラリアだけでなく、世界的にも重要な発見だ」と語っている。[中略]

発見された遺物の中には打製石器時代を過ぎて磨製石器が使われていたことを示す石斧もあり、これまでに知られている限り、磨製石器の石斧としては世界最古である。

出典:オーストラリア大陸の人類定住は65,000年前<2017年7月23日ニュース<日豪プレス

この研究はNatureで2017年7月20日に発表された。

現生人類のインドネシア到達について

現生人類のオーストラリア到達に関連して現生人類のインドネシア到達の研究発表も載せておこう。

現生人類がインドネシアスマトラ島に到達したのは、トバ山の壊滅的噴火より早い73,000~63,000年前だったことを示唆する新たな化石証拠について報告する論文が、今週のオンライン版に掲載される。[中略]

スマトラ島のパダン高地にある更新世の洞窟(Lida Ajer)には豊かな多雨林動物相があり、19世紀後半に初めて行われた発掘作業でヒトの歯が2点見つかった。今回、Kira Westawayたちの研究グループは、Lida Ajer洞窟を再び調査して、これらの歯が現生人類に特有なものであることを確実に同定した上で、3種類の年代測定法を用いてこれらの化石の年代を決定して確実な年表を作成した。[中略]

Lida Ajer洞窟は、現生人類が多雨林環境に居住していたことを示す最古の証拠だ。海洋環境がヒトの生命維持にとって好条件であったと考えられることから、アフリカを出た現生人類が海岸に沿って移動したとする仮説が長い間有力視されている。これに対して、多雨林では、各種資源が広く分散している上に季節性があり、食料の栄養価も低いため、ヒトの定住が非常に難しいと考えられていた。多雨林環境をうまく利用するには、複雑な計画立案と技術革新が必要とされるが、Westawayたちのデータは、そうしたことが70,000年前よりもかなり前から存在していたことを示している。

出典:【考古学】現生人類のインドネシア到達の歴史を書き換える化石の発見ブックマーク<注目のハイライト2017年8月10日<Nature Japan

以上の二つの研究発表のせいで、このブログの先史カテゴリーの現生人類の歴史についての記事はリライトしなければならなくなった。新しいネタが入手できたらリライトしよう。また、2016年に『サピエンス全史』という本がベストセラーとなったが、現生人類が複雑な計画立案や技術革新をできるようになるのは7年前としている(認知革命)。この認識はすでに過去のものとなった。原著は2011年に書かれている。

舟の存在について

海水の大部分が氷河であった最終氷河期には、世界各地の海水面は現在の水位より数百フィートも低かった。そのため、アジア大陸と、スマトラ、バリ、ジャワ、ボルネオなどのインドネシア諸島とのあいだの浅いところは陸続きであった(ベーリング海峡英仏海峡なども同じであった)。また、ユーラシア大陸の東南アジア部の海岸線は、現在の位置より700マイル(約1120キロ)も東にあった。しかし、バリ島とオーストラリア大陸のあいだは深い海峡で隔てられていて陸続きではなかった。その時代、アジア大陸からオーストラリアやニューギニアに到達するには、少なくとも八つの海峡を渡らなければならず、それらの海峡のいちばん広いところは少なくとも50マイル(約80キロ)はあった。多くの島からは近隣の島々が見えたが、オーストラリアだけは、もっとも近いティモール島やタニンバル諸島からでさえ視界におさめることのできない距離にあった。したがって、オーストラリア・ニューギニアに人類が行くには舟が必要であった。歴史上、初めて舟が使用されたことを証明するものとして、この地域への人類の進出がもつ意味は大きい。

出典:ジャレド・ダイアモンド/p57-58

最終氷期の頃の予想地図↓

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The map shows the probable extent of land and water at the time of the last glacial maximum and when the sea level was probably more than 150m lower than today; it illustrates the formidable sea obstacle that migrants would have faced.(拙訳:この地図は最終氷期のおおよそ陸と海域の位置を示している。この時は海水面は現在より150mよりも低かった。この90km弱の海峡は移住者が直面した恐るべき障害であった。)

出典:Prehistory of Australia<wikipedia英語版*1

ダイアモンド氏は舟の遺物については書いていないが、状況証拠について書いている。

最近になってわかったことは、ニューギニアに人類が住みはじめてまもない35000年前頃には、その東に位置する島々にも人類が住んでいたということである。この驚くべき発見がなされた島々とは、ビスマーク諸島のニューブリテン島とニューアイルランド島、それにソロモン諸島のブカ島である。なかでもブカ島は、その西側にあるもっとも近い島からでさえ見えない位置にあり、会場を100マイル(約160キロ)渡らないと到達できない。おそらく、初期のオーストラリア・ニューギニアの住民は、見えるところにある島には渡ろうという意思をもって渡っていたのだろうし、意図はせずとも、頻繁に船を使っていたために、見えないほど遠くにある島々にも移り住むことができたのだろう。

出典:ジャレド・ダイアモンド/p58

日本編

航海の歴史については日本にもある。

国立科学博物館「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」とは?

新たな発見:祖先たちは偉大な航海者だった!?

最初の日本列島人は、3万年以上前に、海を越えてやってきたことがわかってきました。その大航海の謎に迫るために始動したのが、このプロジェクトです。

3万5000~3万年前に、突如として現われる琉球列島の人類遺跡。これは人類が海を渡り、遠くの島へ進出できるようになったことを物語っています。

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琉球列島の主な旧石器時代遺跡と現在の黒潮流路
背景地図:九州大学 菅浩伸 based on Gebco 08 Grid

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想定される3万年前の地形と3つの渡来ルート
背景地図:GeoMapApp

偶然の漂流ではなかったはずです。多数の男女が集団で渡らなければ、島で人口を維持できません。さらに本州では、3万8000年前に伊豆の島から黒曜石を運び込んでいた証拠があり、当時から意図的な航海が行われていたことが明らかです。

沖縄の島への進出は、当時の人類が成し遂げた最も難しい航海だったに違いありません。数十から200 km以上に及ぶ島間距離に加え、世界最大の海流である黒潮が、当時も今のように行く手を阻んでいた可能性が高いからです。

出典:3万年前の航海 徹底再現プロジェクト/国立科学博物館/-2017



現生人類のオーストラリア到達が65000年前という研究発表が2017年7月に為され、現生人類のインドネシア到達の発表が8月に為されたのでリライトした。

先史:ホモ・サピエンスの「親戚」、絶滅する -- ネアンデルタール人とホモサピエンスの運命を分けたもの

現在、人類と言えば我々ホモ・サピエンスの種しかいない。しかし数万年前までは人類は同時代に数種類 存在した。

以前貼り付けた人類の進化の系統樹

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出典:人類の進化<wikipedia*1

ネアンデルタール人

ネアンデルタール人
狭義には、ドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷にあるフェルトホッファー洞穴で1856年に発見された男性化石人骨。広義には、旧人の一種、ホモ・ネアンデルターレンシスの通称。約25万〜3万年前に欧州と西アジアに住んでいた。脳頭蓋は低くつぶれた形で長く、眼窩上隆起が出っぱり、額が傾き、後頭部が突出するなど、原人の特徴を残しているが、脳容積は1300〜1600立方センチもあり、新人と変わらない。顔は中央付近が前に突出している。男性で、身長は165cm程だが、体重は80kg以上と推定されている。欧州の寒い気候に適応した人々であり、中期旧石器時代の剥片(はくへん)石器製作技術により鋭い石の槍先(ムスティエ型など)を作った。
(馬場悠男 国立科学博物館人類研究部長 / 2007年)

出典:(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵2015」<コトバンク

上の身体的特徴は太っているというより寒冷の気候に適応するためにゴツい体格になったようだ。彼らはそのゴツい体格を活かして大型・中型動物を槍を使って狩猟した(彼らは槍を投げたりはしなかったし、弓矢を使わなかった)。

ネアンデルタール人の絶滅

ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの生存競争の逆転劇は前回の記事で書いた通り。最後はヨーロッパの果て、イベリア半島にまで追い詰められたというシナリオがある(ネアンデルタール人その絶滅の謎<ナショナルジオグラフィック日本版2008年10月号)。

さて、いつ絶滅したか だが、上の引用では3万年となっている。しかし現在は4万年前という説が有力らしい。

年代学の視点で「ネアンデルタール人はいつ消滅したのか?」大森貴之氏(東京大学)の講演。 14C炭素同位体による年代測定はこの1~2年ほどで飛躍的に進歩した。水月湖を標準年代測定に利用することにより、5万年前までは確実に年代測定できる。ネアンデルタール人が最後に絶滅したとされるジブラルラタルのゴーラム洞窟は従来2万5千年前とされてきたが、4万年から3万9500年前とされた。2014年にオックスフォード大学からも4万年前と発表されたが、日本の研究チームは独自の方法で遺跡成分を再測定した確定した。4万年前にネアンデルタール人の遺跡が消滅したと同時期にクロマニヨン人の遺跡が増えていった。これは気候変動のサイクルである寒冷期ハインリッヒ・イベント5の時期に相当する。

出典:ネアンデルタール人は4万年前に絶滅した 国際第四紀学連合第19回大会開催記念講演会<ブログ『いちご畑よ永遠に』/2015/7/26

上のブログ記事を見たあとに以下の本を見つけたので引用。

話は年代測定の技術の向上から始まる。

2013年初め、[中略]ユーラシアの多くの古人類学的遺跡の年代を再評価する大掛かりな計画の結果が初めて発表されたのである。オーストラリア国立大学のレイチェル・ウッドとオックスフォード大学考古学・美術史研究所のトーマス・ハイアムが先導するチームは精度の高い分析技術を開発し、イベリア半島にある11の考古学的遺跡の資料の年代について再測定を試みた。これらの遺跡がとくに重要なのは、現生人類の到着と同時に気候条件が悪化してから、ネアンデルタール人は何千年ものあいだ居住していたユーラシアの広範に広がるテリトリーの大部分を放棄し、気候が比較的温暖な地中海沿岸の避難所〔レフュジア。寒冷期に一部の生物が生き残った避難地域のこと〕まで後退したという説の根拠となっていたからだ。[中略]

この再年代測定は、ネアンデルタール人の絶滅の時期に関するかつての結論に疑問を投げかけた。つまり、ネアンデルタール人は4万年前以降はおそらく生存しておらず、生存していたとする主張はすべて誤った年代測定に基づいていると明白に結論づけたのである。

出典:パット・シップマン/ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた/原書房/2015(原著は2015年に出版)/p47-51

  • 上には新しい年代測定の方法が詳しく書かれているが私にはわからないので割愛。

上で登場したトーマス(トム)・ハイアム氏が2014年にNatureに発表した。題名は『The timing and spatiotemporal patterning of Neanderthal disappearance』。この論文を受けてナショナルジオグラフィックは以下の記事を書いた。

このたび研究者らは、ジブラルタルからコーカサスにわたって点在する40の洞窟から発掘された196個の動物の骨や貝殻、木炭を分析した。ほとんどはシカやバイソン、マンモスなどの骨で、全てにネアンデルタール人が使った石刃の痕跡が残る。

これらの骨を年代測定したところ、およそ5万年前から人口が減少し始め、集団が孤立していったことが明らかになった。それはちょうど、初期の現生人類が到来した時期と重なっている。

両者は同じ動物を捕獲したことから、生存競争によるプレッシャーがネアンデルタール人の集団を孤立させ、絶滅に追いやったと推測される。「孤立して遺伝的多様性を失った種は絶滅する可能性が高い」とハイアム氏は述べる。

ネアンデルタール人が衰退の一途をたどる頃、イタリアで大規模な火山の噴火が起こった。さらに4万年前、ヨーロッパの気候が寒冷化したため、「すでに人口が減り遺伝的多様性を失ったネアンデルタール人に最後の一撃が加えられた」と、ロンドン自然史博物館のクリス・ストリンガー(Chris Stringer)氏は話す。

ストリンガー氏は今回の研究結果を称賛し、「全体像がしだいに明らかになってきました。3万9000年前までに、ほぼ絶滅していたでしょう」と述べている。

出典:ネアンデルタール人の絶滅は4万年前?<2014.08.21ニュース<ナショナルジオグラフィック日本版

  • 上に「イタリアで大規模な火山の噴火が起こった」とあるが、これはナポリ近郊でおよそ39000年に発生したカンパニアン・イグニンブライト噴火(Campanian Ignimbrite eruption<wikipedia英語版)のことだ。ストリンガー氏はこれにより「遺伝的多様性を失った」と主張する。

しかし上で紹介したシップマン氏の本ではこの噴火の火山灰層の下にネアンデルタール人の遺跡の層がある、つまりネアンデルタール人は噴火以前に絶滅したと主張する。さらに「ネアンデルタール人の絶滅は数百年から長くて数千年かかっている」(ので噴火後100年ちょっとで絶滅するはずがない)とした(同著/p64-65)。

シップマン氏によれば、6万年前から24000年前までの期間に気候がきわめて不安定になり(短期間のうちに温暖期と寒冷期を繰り返した)、これに翻弄されたネアンデルタール人が人口縮小及び小集団での分散を迫られ「遺伝的多様性を失った」。そしてヒトとイヌのユーラシアへの「侵入」によりそのストレスで滅亡したと主張する。

シップマン氏の主張、つまり本の題名にもなっている『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた』という主張の詳細についてはここでは書かない。この本の監訳者の河合信和氏はこの仮説をもっともらしくするためには新しい発見が必要だと監訳者あとがきで述べている(p265)。

河合氏は上の主張からイヌの存在を抜いたもの、つまり「不安定な気候+現生人類登場のストレスなどの諸要因」が絶滅の原因としている(p265)。河合氏の意見でいいのではないか。

遺伝的多様性については「遺伝的多様性<wikipedia」に以下のように書いてある。

種の生存と適応
遺伝的多様性は、種の生存と適応において重要な役割を演じる。遺伝的多様性が高いことは、種に含まれる個体の遺伝子型に様々な変異が含まれ、種として持っている遺伝子の種類が多いことを意味する。このような場合、環境が変化した場合にも、その変化に適応して生存するための遺伝子が種内にある確率が高い。逆に、遺伝的多様性が低い場合には、環境の変化に適応できず種の絶滅を招く可能性が高くなる

出典:遺伝的多様性<wikipedia

さて話はすこしそれるが、シップマン氏の本から再び引用↓

ハイアム氏は次のように述べている。

残念ながら、過去60年にわたって積み上げられてきた放射性炭素年代記録には大きな不備があり、これらのモデルを厳密に検証するには不適切であることは、いまや明らかだ。汚染の除去が不完全であることと測定試料が測定限界に非常に近かった困難が組み合わさったことがその原因だ……この問題は測定した当時は認識されておらず、そのため適切に取り組まれなかった。さらに、中部から上部旧石器時代で利用できる年代測定の多くは測定が不正確なため、編年的にかなり大雑把な意味でしか使えない場合が多い。高性能な測定法が開発されたことで、年代測定の制度は大きく改善されてきた。骨の年代測定に「限外濾過」(ultrafiltration)〔骨から抽出したコラーゲンを分子量によってふるいわけ、資料の汚染を除去すること〕を適用し、さらに〔汚染除去の前処理をし〕……木炭の年代測定法により、いくつかの遺跡では最近測定されたものであっても、その年代測定はかなりの割合でおかしい結果のものがあることを明らかにした。

ハイアムのチームが信頼できる年代測定として使った基準はきわめて厳密で、絶対的に根幹的な技術と呼ぶにふさわしいものだ。

出典:シップマン氏/p52-53

ハイアム氏の主張は多くの学者に受け入れられているが、反論も少なくないそうだ。

ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの運命を分けたもの

前回、前々回とホモ・サピエンスの文化的発展を書いた。

前々回は現代人的行動を書いた。現代人=ホモ・サピエンスだが、ネアンデルタール人もそれを持っていた可能性が高い。

しかし、「可能性が高い」と言われるほどしか証拠がないということは、ホモ・サピエンスのそれと歴然としたさがある。

前回は文化の爆発を書いた。この時期は6~4万年前ということで、ネアンデルタール人の滅亡と関連している可能性がある。ホモ・サピエンスが栄えて人口爆発している一方で、ネアンデルタールは絶滅のルートに入ってしまった。

また、記事「人類の進化:ホモ属の特徴について ⑫脳とライフスタイル その7(脳とライフスタイルの進化 後編) - 歴史の世界」に書いたことでは、2種の間に前頭葉の大きさの違いがある。

ネアンデルタール人の脳容量はホモ・サピエンスより大きいと言われることがあるが、思考・判断・創造性・社会性などを司る場所だ。

これにより、ホモ・サピエンスは言語を使用できるようになった。ネアンデルタール人が言語を使用できたとしてもホモ・サピエンスのような複雑なことを伝えることはできなかっただろうと言う。たとえば、物語を伝承することは無理だったろう。

そして上で書いたこととして気候の不安定がある。

以上を踏まえて、ナショナルジオグラフィックの記事を引用しよう。

技術や社会構造、伝統文化といった、集団生活から生まれる要素は、厳しい環境の影響を和らげて、集団の生存力を高めると考えられている。ネアンデルタール人の社会は、この点でも、私たちとは異なっていたかもしれない。

たとえば、アフリカから移動してきた現生人類の集団では、男が大型の獲物を追って狩りをし、女や子どもは小動物をつかまえ、木の実や植物を採集する分業が成立していた。アリゾナ大学のメアリー・スタイナーとスティーブン・クーンによれば、こうした効率的な狩猟採集の方法が、食生活を多様にしていたという。

一方、ネアンデルタール人は、イスラエル南部からドイツ北部までの遺跡調査で、ウマ、シカ、ヤギュウなど、大型から中型の哺乳類をとらえる狩猟生活にほぼ完全に依存していたことがわかっている(地中海沿岸では貝も食べていた)。植物も少しは口にしたようだが、植物を加工して食べた痕跡が見つかっていないことから、スタイナーらは、ネアンデルタール人にとって植物は副食にすぎなかったとみている。

ネアンデルタール人のがっしりした体を維持するには、高カロリーの食事が必要だった。特に高緯度地方や、気候が厳しさを増した時期には、女や子どもも狩猟に駆り出されただろう。[中略]

「ほとんどのネアンデルタール人と現生人類は、生涯の大半を通じて、直接顔を合わせることはなかったでしょう」と、ユブランは慎重に言葉を選ぶ。「居住域の境界近くでは、遠くから互いの姿を見かけることもあったと想像されます。その場合、互いに相手を避けるだけでなく、排除しようとした公算が高いと思うのです。近年の研究によれば、狩猟採集民は、さほど平和的ではなかったようですから」

出典:特集:ネアンデルタール人 その絶滅の謎 2008年10月号 ナショナルジオグラフィック 7ページおよび8ページ

この記事によれば、2種の運命を分けるものは狩猟採集・食生活の多様化と分業の効率性にあった。前頭葉の大きさが原因かもしれない。

さらに、排除について。2種は異種交配していたことが知られているが、ロビン・ダンバー 氏の推測によれば*2ホモ・サピエンスの集団がネアンデルタール人を襲撃して、その戦果として女を奪い、その結果、ホモ・サピエンスのDNAにネアンデルタール人のそれが混じっている、としている。推測の材料として、歴史を見れば女を略奪することは珍しいことではないとのこと。

  *   *   *

ちなみに、ネアンデルタール人 関連で論争になっている一つにシャテルペロン文化(シャテルペロニアン)がある。「シャテルペロン文化<wikipedia」では「約3.6万年前から3.2万年前」という期間が書いてある(この記事の参考資料は10年以上前のものだが)。これも年代測定のやり直しが必要なのかもしれない。

シャテルペロン文化についての2016年のニュースを紹介されているブログがあったのでここに載せておく。

sicambre.at.webry.info

私はこのブログ記事を正確に理解できない。分かるのは「トナカイ洞窟のシャテルペロニアン層の担い手はネアンデルタール人である可能性がたいへん高い」というところだけ。ネタ元はWelker F. et al.(2016): Palaeoproteomic evidence identifies archaic hominins associated with the Châtelperronian at the Grotte du Renne. PNAS, 113, 40, 11162–11167.

おまけ1:フローレス

2003年にインドネシアフローレス島で人類の化石が発見された。この化石人類を「フローレス人」という。

フローレンス人はジャワ原人ホモ・エレクトス)がフローレス島に渡り、少なくとも70年前に島嶼矮化(島という限られたスペースで生きるために体が小型化する現象)した人類(解説:約70万年前の超小型原人発見、フローレス島<2016.6.10ニュース記事<ナショナルジオグラフィック日本版)(諸説あり)。

絶滅は最近まで12000前あたりまで生存していたのではないかと言われていたが、2016年に5万年前には絶滅したという論文が発表された。しかもこの時期にはホモ・サピエンスがこの島に到来した時期と一致するという(フローレス原人を絶滅させたのは現生人類だった?<2016.4.01ニュース記事<ナショナルジオグラフィック日本版

追加参考文献:現生人類、6万5000年以上前に豪州到達 研究 2017年7月20日:AFPBB News

おまけ2:デニソワ人

2008年、シベリアのアルタイ地方のデニソワにある洞窟で小さな骨の破片が発見された。5万年から3万年前のものと思われる地層から発見されたため、当初はホモ・サピエンスネアンデルタール人の骨だと思われていた*3。しかし2010年に研究結果が発表された。

見つかった骨の一部は5-7歳の少女の小指の骨であり[3]、細胞核DNAの解析の結果、デニソワ人はネアンデルタール人と近縁なグループで、80万4千年前に現生人類であるホモ・サピエンスとの共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐し、64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類であることが推定された[6]。

出典:デニソワ人<wikipedia(注釈は出典先参照)

デニソワ人に関してはほとんど分かっていないらしい。外見すら分からなっていない。

ホモ・サピエンス、唯一の人類になる

上に挙げた人類(化石人類)が絶滅した時期が確定していないため、ホモ・サピエンスが唯一の人類になった時期も確定されない。

しかしフローレス人もデニソワ人も、現在の遺物を見るかぎりホモ・サピエンスのライバルではなかった。ライバルといえるのはネアンデルタール人だけだった。そして前回の記事で書いた通り、ホモ・サピエンスは彼らに打ち克ち絶滅に追い込んだ後、南極大陸を除く全て大陸に進出して現在に至る。

*1:著作者:Tonny/ダウンロード先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%8C%96#/media/File:Human_evolution.jpg

*2:人類進化の謎を解き明かす/インターシフト/2016(原著の出版は2014年)/ページ数を忘れてしまった

*3:デニソワ人 知られざる祖先の物語<ナショナルジオグラフィック日本版2013年7月号

先史:ホモ・サピエンス:出アフリカ/文化の"爆発"

前回の「現代的行動」に関連して書いていこう。

ヒューマン  なぜヒトは人間になれたのか

ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか

今回は「第2章 なげる人・グレートジャーニーの果てに ~飛び道具というパンドラの箱」。出アフリカとホモ・サピエンスの行動の変化に注目する。

出アフリカ。一度目の試み。撤退

アフリカで産まれたホモ・サピエンスが他の大陸へ渡ろうとした試みを「出アフリカ」と呼ぶ。出アフリカは6万年前に行われて、そこから世界各地に拡散したことが膨大な遺物と研究によって詳細に分かっている。しかし、この前に一度、12万年前に出アフリカを試みて失敗していたことがあった*1

12万年前、ホモ・サピエンスが最初にアフリカを出た場所は中東だった。彼らは75000年まで、8万年の間、生活していたがその後姿を消した*2。74000年前に始まった最終氷期の寒さに耐えられなかったようだ。この時は寒さに耐えられるほどの防寒技術その他を持っていなかったということだろう。

競争相手? ネアンデルタール人

いっぽう、ネアンデルタール人は寒さに適応した身体を持っていた。西アジアが寒冷になっても彼らは生活できた。

ネアンデルタール人は有能で成功した狩猟採集民だった。もしもホモ・サピエンスがいなかったら、彼らはいまでも存在していたのではないだろうか。ネアンデルタール人は複雑で洗練された石器を作り、それをもとに掻器や尖頭器など、さまざまな種類の道具をこしらえた。火を使って食物を調理し、野生のオーロックス(原牛)やシカウマなどの大型動物をしとめた。

出典:ダニエル・E・リーバーマン/人体~科学が明かす進化・健康・疾病 上/早川書房/2015(原著は2013年にアメリカで出版)/p165

  • 掻器は皮なめしに使う石器。毛皮についている脂肪や肉を掻き取るために使用された。
  • 尖頭器は字のごとく先端を尖らせた石器で槍先につけた。

このようにネアンデルタール人も それなりに技術を持っていた。

ちなみに槍で大型動物を狩る描写↓

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作者:Heinrich Harder/1920*3

上の絵は作者が大型動物(グリプトドン)を待ち伏せで狩ろうとしているホモ・サピエンスの想像図だが、おそらくネアンデルタール人もこのように狩をしていたのだろう。木や草むらに隠れて待ち伏せして大型動物が近づいた時に槍で突いた。ホモ・サピエンス槍投げ具を作ったあともネアンデルタール人は絶滅するまでこの方法で狩をしたようだ。

『ヒューマン』第2章ではホモ・サピエンス撤退までの時期においては技術的にネアンデルタール人のほうが上だったように読める。しかし実情は以下のようだったろう。

『ヒューマン』と違う主張

パット・シップマン著『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた』(原著は2015年出版)*4という本がある。これによると、ホモ・サピエンスは13万年前頃にレヴァント(地中海東海岸)に進出した、としている。以下はシップマンの主張(p65-66)。

13万年前から74000or71000年前までのあいだ地球は温暖期だった。ホモ・サピエンスは自分がアフリカから出ているという認識は当然持たずにレヴァントに生活の場を求めてたどり着いた。

この期間にレヴァントにネアンデルタール人の存在を示す物はほとんどない、としている。そして74000or71000年前になると寒冷期に入り、ホモ・サピエンスはレヴァントから姿を消し、入れ替わるようにネアンデルタール人がそこに戻ってきた。

つまり、両者の力量の差でホモ・サピエンスが撤退を強(し)いられたのではなく、環境の変化により両者の居住可能域が変化した、ということ。シップマン氏は両者が近接して共存したいたかどうかもはっきりしていないとする。

二度目の「出アフリカ」。成功

ホモ・サピエンスは6万年前、再び中東に進出した。これ以降、一度目のように撤退すること無く居続け、それどころか世界中に拡散し続けた。

74000or71000年前ころから最終氷期は6万年前の時期はまだ継続していた(最終氷期が終わるのは約1万年前)。

進出成功の原因 ~技術革新~

いったいなぜ、私たちの祖先は進出に成功することができたのか。

シェイ博士が大きなヒントを示してくれた。手元には三つの石器がある。それぞれスフール、タブーン、エル・ワドというこれまで紹介してきた、カルメル山の三つの洞窟で見つかったものだ。写真を見ても分かるように、スフールとタブーン洞窟のものには、まったく違いがない。それぞれ、"先発組"のホモ・サピエンスネアンデルタール人がつくったものだ。ともに、ルヴァロワ技法という方法でつくられた石器で、ナイフのように獲物の肉や皮を切ったり、槍先につけて突き刺したりするのに使われた。つまりこの時点では、ふたつの人類の技術水準は同じだったのである。

ところが、エル・ワド洞窟で見つかったもの、つまり"後発組"がつくった石器は、ほかのふたつとはまったく違っていた。細長い形をしている石刃と呼ばれる石器で、エル・ワド洞窟に限らず、ヨーロッパからアジア、アメリカ大陸に至るまで世界各地で発見されている。いわば"後発組"の名刺代わりのような石器なのだ。

出典:ヒューマン/p134-135

上記の石器および技法については「打製石器<世界史の窓」の図解付き解説参照。リンク先の絵を見れば分かるように容易に大量生産できる技法だ。

この石刃をどのように使ったかというと投槍につけた。ルヴァロワ技法で作られた石器よりも薄くて軽く空気抵抗も少ない。ホモ・サピエンスはこれをつけた投槍で小さくてすばしっこい中小動物を狩猟が可能になった。いっぽう、ライバルのネアンデルタール人は投槍を使わなかった。その理由は分かっていない(ヒューマン/149-150)が、小柄なホモ・サピエンスに比べて大柄なネアンデルタール人は中小動物の肉では腹を満たせなかったのかもしれない(p141)(寒冷に適応したネアンデルタール人の腕は短くて槍を投げるのに不向きという説があるが、それほどまでには短くはないと思うのだが)。

さらにホモ・サピエンスはこの投槍を飛ばす投擲具(アトラトル atlatl)を作った。「atlatl」で動画検索すると どういったものかが分かる。

[ジョン・シェイ博士(考古学者/ストーニー・ブルック大学)]「この道具は投擲具といいます。こちらは投擲用の槍。やりの先端にはあの石刃が取り付けられています。この槍は、とても軽く、手で投げても遠くまで飛びません。せいぜい15メートルくらいで威力も弱いです。しかし、このように投擲具と組み合わせれば、殺傷力の高い強力な武器になります。フックにやりを引っ掛けて飛ばせば、梃子の作用で、かなり遠くまで素早く飛ばすことができます。威力も増します。」(p140)

これを使ってシカやウサギなどの中小動物だけでなくサカナも捕ることができた(p142)。

ネアンデルタール人が大型動物を捕っている一方で、ホモ・サピエンスが中小動物を捕るという状況だと生存競争にならないような気がする。これに対し『ヒューマン』によれば、大型動物が気候変動などにより個体数が減っても、ホモ・サピエンスは繁殖の早い中小動物や魚を捕ることによって食料を確保することができる、とした(p141)。

石刃と投擲具とは別の角度から。前述の『人体』から。

ネアンデルタール人]の行動は完全に現代的とは言えなかった。たとえば骨角器をほとんど作らなかったから、動物の毛皮で服を作っていたはずなのに針をこしらえていなかった。[中略]彼らの生息環境の一部には魚も甲殻類もふんだんにいたのに、どちらもめったに食べなかった。原材料を25メートル以上運ぶこともほとんどなかった。(p165)

7万年以上前のたくさんのアフリカの遺跡から、アフリカに棲んでいた最初の現生人類は長距離交易をしていたことがうかがえる。つまり、そこには大きくて複雑な社会ネットワークがあったわけだ。(p208)

出典:リーバーマン氏/人体

骨角器について。

骨角器(こっかくき、bone tool)は、動物の骨、角、牙、殻などを材料として製作された人工品である。道具に限らず、装身具も含む。遺跡から出土する動物遺体の一種。

世界的にはっきりと道具として認識できる形状のものが出現するのは新人が出現した後期旧石器時代に入ってからである。

利器としては、銛(もり、ヤス)や鏃(やじり)、釣り針、ハマグリなど二枚貝の腹縁を欠いて刃にした貝刃(かいじん)、斧、篦(へら)、匙(さじ)、縫い針などがある。装飾品としては首飾り・耳飾り・髪飾り・腰飾りがあり、また、単独の彫像品もある。

骨角器<wikipedia

2段落目の「複雑な社会ネットワーク」については後述するが、『ヒューマン』第1章の「分かち合う心」も参照。

現代的行動

以上のホモ・サピエンスの技術革新を『ヒューマン』は「現代人的行動」の結果として捉えている。つまりアフリカから連綿と続き蓄積された文化の中の技術により困難を克服したということだ。

これとは違う説として「神経仮説」とか文化の「ビッグバン仮説」と呼ばれるものがある。

この論争(?)は前回の最初の節に書いた現代的行動の話になる。

「現代的行動<wikipedia」によると『銃・病原菌・鉄』で有名なジャレド・ダイアモンド氏が文化の「ビッグバン仮説」(同氏の言葉では"大躍進")を採用しているが、ネット検索をしているかぎりではこの説は否定される方向で進んでいるらしい。

「神経学仮説」とは、5万年前頃に現生人類(解剖学的現代人)に神経系の突然変異が起き、象徴的思考や現代人のような複雑な言語活動が可能になるなど、現生人類の認知能力が飛躍的に向上し、現生人類(解剖学的現代人)は真の現生人類(行動学的現代人)となり、急速に文化的発展を成し遂げて世界各地に拡散していったのだ、というものです。この見解は、後期石器・上部旧石器文化の開始を、人類史における一大転機であり、大発展だったとする解釈を前提としています。

出典:『5万年前に人類に何が起きたか?』第2版2刷 <雑記帳(ブログ)2008/01/16

この仮説の大商社的存在のリチャード・クライン氏は文化的発展を生物学的進化の結果だとしている。

もう一つ引用。

現生人類(ホモ・サピエンス)の行動面の進化

旧モデル
スタンフォード大学のリチャード・クラインらが唱えた「創造の爆発」モデルで、現代人的行動は、4~6万年前に新しい技術革新が突然に一斉に起きたことによって出現したとする。

これは、アフリカでの知見があまり考慮されておらず、おもに、ヨーロッパの研究成果から導かれた説であった。

新しいモデル
2000年に、アメリカの考古学者サリー・マグブレアティとアリソン・ブルックス(2人とも女性) が新たな説を発表した。

それは、次のような根拠から、現代人的行動は、アフリカで緩やかに、それぞれバラバラに出現したとするものであった。

  • 石刃技法、オーカー(酸化鉄の赤色顔料)の採掘・使用--28.5万年前ごろに始まる。
  • 尖頭器(槍先)=MSA(Middle Stone Age)[中期石器時代]--ほぼ同じ頃。
  • 貝の採捕、漁労--10数万年前
  • 定形的骨器、逆刺のついた骨製尖頭器--10万年前頃
  • 外部への記憶オーカー、ビーズ--7.5万年頃

出典:第262回 特別講演会 日本人の起源 河合信和先生<邪馬台国の会

上の「旧モデル」がダイアモンド氏の「大躍進」で、「新しいモデル」というのが『ヒューマン』の言うところの「文化の創出」だ。そして『ヒューマン』は「新しいモデル」の論文を発表したアリソン・ブルックス氏にインタビューしている。

ブルックス氏]「アフリカにいた私たちの祖先は、9万年前には十分に現代的でした。彼らには私たちと同じように考えることのできる脳があり、言語、精神性、宗教など現代の私たちと同じものを持っていたのです。もしも当時、技術的・社会的な環境があったなら、彼らはコンピューターさえ発明していたでしょう」

実際に、アフリカで現代的行動を窺(うかが)わせる証拠が次々と見つかってきていることで、博士たちの主張は説得力を増しているといえよう。対して「ビッグバン仮説」は、ヨーロッパはアフリカに比べて発掘調査が進んでいるがゆえの見かけ上の飛躍かもしれないという点から再検討もされている。

出典:ヒューマン/p146

「神経仮説」はどうやら間違っていたようだ。ただし、あふりかで現代的行動は起こったが、文化の"爆発"(ビッグバン仮説)は起こっていない。

文化の"爆発"に必要なもの:大規模なネットワーク

上で書いたことを言い換えれば、9万年前にすでに現代的だったホモ・サピエンスが、6~4万年前になるまで「文化の爆発」を起こせなかった。

では何故、起こせなかったのだろうか?

これは《「文化の爆発」を起こすために9万年前のホモ・サピエンスに何が足りなかったのか》という問題である。この問題の答えは「より大きなネットワーク(人びとのつながり)」となる。

上の『人体』の引用にあるように、アフリカでも「複雑な社会ネットワーク」は既にあった。しかしここでできた程度の規模では臨界点に達しなかったということだろう。

大きくなれなかった理由としてこのようなものがある。

アメリカの生物学者コリー・フィンチャーとランディ・ソーンヒルは、伝統的宗教の信者数、言語共同体の規模、「個人主義」対「集団主義」のバランスが、いずれも緯度と相関があることを一連の独創的な論文で示した。私たち〔つまりホモ・サピエンスは--引用者注〕は赤道付近では小規模で、より内向きで、結束の固い共同体を形成するのに対し、極地に近づくにしたがって大規模で、外向きで、個人主義的な共同体を形成するというのである。これらの生物学者は、この相関の原因が病原体負荷であることを突き止めた。熱帯が病気の温床であることは有名で、現在でもつねに新しい病気を生みだしつづけている。局所的な病原体負荷が高い条件下で健康リスクを減らすためには、他の集団との交流(とりわけ婚姻)を避けるのが効果的だと二人は論じた。自分が慣れ親しんだ共同体と病気と付きあっていくのが賢明であって、それはすでに免疫を進化させるための時間を共に過ごしてきたからだというのだ。

出典:ロビン・ダンバー/人類進化の謎を解き明かす/インターシフト/2016(原著の出版は2014年)/p261-262

低緯度の、6万年前以前のホモ・サピエンスは、高度な技術や芸術をつくる潜在的能力がありながら、ネットワークの規模が小さいためにせっかく発明した物事も消滅し、あるいは知識の蓄積を要する高度な物事を想像することができなかった。

いっぽう、高緯度に到達した6万年前以降のホモ・サピエンスは大規模なネットワークを形成することができた。その理由を引用しよう。

数年前にダニエル・ネトルが、言語集団(現代の言語の話者数)とその言語が話される地域は、緯度、より詳しく言えば、植物の生育期の長さと相関があることを明らかにした(緯度が高くなるにしたがって生息地が季節に依存するので、植物を育てられる期間が短くなる)。気候が予測不能で生育期がきわめて短い地域では、交換関係や交易関係が盛んでなければならないとネトルは説いた。状況が難しくなって別の場所に移ることができるためには、広い面積が必要になるのだ。問題は、隣人に助けを求めるには、直接話すことが書かせず、それには同じ言語を話さねばならない点にある。また世界像(道徳的信念、世界観など)がおなじであれば事はうまく運ぶだろうし、共有された世界像は同一の言語から生まれる。実際、私たちが行なった友情にかかわる研究では、共有された言語と世界像が日常的な友情の強さに大きな役割を果たすことがわかった。

出典:ダンバー氏/p249

高緯度では大規模なネットワークを形成することが不可欠だった。そして言語・世界像を含む文化は共有されて蓄積された。そして、ようやく、臨界点に到達して"爆発"が起こった。

一番最初に"爆発"が起こった場所は分からない。一番最初に思いつくのはヨーロッパだが、北アフリカ西アジアの可能性もある。

文化の"爆発"

とりあえず、ホモ・サピエンスは「150人の壁」を越えることができた。ではその先に何があったのか?文化の"爆発"が起きた。

[クリストファー・ストリンガー博士(ロンドン自然史博物館)]「集団のネットワークが大きくなると、問題に取り組む人衆が増え、新しいアイデアが次々に出やすくなります。それがもっとも発揮されるのは、氷期のような気候変動に見舞われた場合です。仲間が集って『さあ、どうしようか』と頭をひねっても、そうそういいアイデアが出るものではありません。それよりもお税でアイデアを出し合い、片っ端から試してみればいいのです。必要なのは、既存の知識をどれだけ知っているかではなく、新しいことにチャレンジできる絶対的な人数なのです」[中略]

[同氏]「現在は、いいアイデアが生まれれば、それは失われること無く受け継がれていきます。文字や資格情報などいろいろな方法で保存され、次の世代に伝達されるからです。過去はそうではなく、いいアイデアは出てきては、多くの場合失われていました。新しい文化や技術というものが定着するには、アイデアがどう保存されるかが問題です。それには情報が広まる安定した大きなネットワークが必要です。それがあれば、アイデアが存続するチャンスは大きいのです」

出典:ヒューマン/p189-190

集団の規模が大きくなったことで情報がより多く蓄積され、その蓄積された情報を使って多くの人びとが、多くのアイデアをチャレンジして、多くの新しい文化を生み出した。

(『ヒューマン』では飛び道具が大集団社会を可能にした仮説を紹介している。一度、この記事で紹介したのだが、個人的には全く納得できなかったので、ダンバー氏の本を読んだ時点で「飛び道具仮説」を消した。)



*1:ヒューマン/p125

*2:ヒューマン/p128

*3:ダウンロード先:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Glyptodon_old_drawing.jpg

*4:邦訳版も2015年出版/原書房

先史:ホモ・サピエンスの「心の進化」/現代的行動

「心の進化」で扱う問題はおそらく進化心理学の分野になるようだ。

ここではNHKスペシャル取材班『ヒューマン~なぜヒトは人間になれたのか~』の第1章「協力する人・アフリカからの旅立ち~分かち合う心の進化~」から抜き出してみる。

以下に示すように「分かち合う心」とは「現代的行動」のことを指すのだが、ここでいう「分かち合う心」という意味は「共有し合う心」または「コミュニケーションする能力」と解釈したほうがいいかもしれない。

現代的行動

研究者は「心」というような曖昧な言い方はしない。専門的には「現代人的行動の起源」と呼ぶ。心は残らないが、行動はその結果が証拠として残る可能性がある。研究としては、目に見えるもの、証拠をもって議論できるものを対象とするのが大原則だ。私たちと同じ行動をいつ、どこではじめたのかという謎を追いかけることで、その背後にある心に迫ろうという戦略である。

出典:NHKスペシャル取材班/Human~なぜヒトは人間になれたのか~/角川書店/2012/p20

ここでいう「心」は上のように一般的な意味の「心」とは全く別の意味で使われているので頭のなかで「心=現代人的行動(の起源)」と変換しなければならない。

「現代的行動」はwikipediaでは以下のように説明されている。

現代的行動、行動的現代性(げんだいてきこうどう、こうどうてきげんだいせい)とは人類学、考古学などで使われる言葉で、現生人類とその祖先に特有であり、他の現生霊長類や絶滅したヒト科の生物が持っていなかった行動のことを指す。現代的行動はホモ・サピエンスが象徴的思考への依存を高め、文化的な創造性を示しはじめたことを意味している。これらの行動の進化は、言語の進化と関連していると考えられることが多い[1]。

現代的行動の起源について、大きくふたつの理論がある[2]。ひとつはおよそ5万年前に、自然言語の発生を可能とするような脳の構造の再構築か、あるいは大きな遺伝的変化によって突然起きたと考える[3]。この理論は大飛躍、大躍進[4]、旧石器時代革命などと呼ばれる。もう一つの理論では、単一の技術的、認知的な革命は起きず、万年単位での漸進的な遺伝的変化、知識・技術・文化の蓄積が原因であると考える[5]。

現代的行動は人類の歴史を通してすべての人類集団に共有されている主要な特徴のことで、ヒューマン・ユニバーサルズとして観察される。一般的には言語、宗教、芸術、音楽、神話、娯楽、冗談などが含まれる。

定義

現代的行動は人類の歴史を通してすべての人類集団に共有されている主要な特徴のことで、ヒューマン・ユニバーサルズとして観察される。一般的には言語、宗教、芸術、音楽、神話、娯楽、冗談などが含まれる。

ヒューマンユニバーサルズは非常に孤立した民族を含むすべての文化で見つかるため、科学者はこれらの特徴が出アフリカの前に進化したか、発明されたはずだと考えている[6][7][8][9]。また具体的には以下の行動を含む。

  • 洗練された道具、(道具を作るための)二次道具
  • 釣り
  • 集団内での物々交換、長距離間での交易
  • 色素、顔料の使用、宝石などによる身体装飾
  • 洞窟壁画、ペトログリフのような象徴的な表現物
  • 遊び、音楽
  • 埋葬

出典:現代的行動<wikipedia(注釈は引用先参照)

現代的行動は基本的にはコミュニケーションの発達の中から生まれたものだ(上に示されているようにそうでないものもあるが)。

「ヒューマン・ユニバーサル」についてもwikipediaから↓

ヒューマン・ユニバーサル、あるいはカルチュラル・ユニバーサル、普遍文化とは地球上の全ての文化に共通してみられる要素、パターン、特徴、習慣のことである。強い文化相対主義の立場を取る一部の人類学者、社会学者はこのような普遍性の存在を否定するか、重要性を軽視することがある点に留意が必要である。この普遍性が狭義の文化であるか、生物学的、遺伝的基盤があるかどうかは氏か育ちか論争の争点である。ジョージ・マードッククロード・レヴィ=ストロース、ドナルド・ブラウンも参照のこと。

これらの概念は時々、特定の文化の重要性やユニークさについて何も明らかにしていない「空っぽの普遍性」と呼ばれることがある。

現代的な行動のもっとも古い証拠は前期旧石器時代に発見されており、これらの普遍性の出現はそれ以前に遡ることができると考えられる。

出典:ヒューマン・ユニバーサル<wikipedia

オーカーの遺物の意味と象徴的な思考

以上のことを念頭に置いて、NHKの本にもどって、アフリカ大陸の南端ケープタウンにあるブロンボス洞窟で発掘された遺物について書いていこう。

まずは10万年前の層から発掘された遺物はオーカーと呼ばれる顔料の一種だ(p11)。「オーカー(ocher)」をネット検索すると「黄土色」と出て来るがここで発掘されたオーカーは赤色だった。

この発掘の責任者であるヘンシルウッド博士(ノルウェーベンゲル大学教授)が、オーカーについて「人間の象徴的な行動と深い関係があります」と語った(p13)。

これを受けてNHKスペシャル取材班は以下のように説明する。

つまり、ブロンボス洞窟の出土品で注目すべきは、そこに住んでいた人たちが象徴的な思考を行っていたことを強く示唆しているということなのだ。

象徴的な思考は人間を飛び抜けて進化させた能力であり、文明を築き上げる原動力ともいえるだろう。その能力の片鱗を示す証拠が、10万年前というホモ・サピエンス黎明期の遺跡から見つかったのだ。

そう、ブロンボス洞窟が聖地とされるのは、ここが、象徴的な思考というホモ・サピエンスの独自性が大きく飛躍していたことを示すもっとも古い遺跡だからなのだ。

出典:NHK/p14

ホモ・サピエンス以外の人類(化石人類)はこの「象徴的な思考」を持っていなかった。我々現代人は字が読めることを当然だと思っているが、化石人類は文字どころか象徴的なものの意味さえ理解できなかったらしい。

また75000年前の層にもオーカーに関する遺物が出た(p15)。オーカーの石の塊の表面に目盛りのような線が施されている。ヘンシルウッド博士は何を表しているかは分からないと断った上で解説する。

「確かなことは、これは、当時の人々にとって何かを意味する象徴であることです」

その象徴が意味することは分からなくても、象徴であることは分かる。そこが大事なのだ。

その象徴はおそらく当時は、デザインを施した人だけでなく、多くの人々に通じたはずだ。アフリカ全土は無理でも、少なくとも集団内、またはほかの集団にも通じたはずだと博士は考えている。

「これはまさに言語に似た役割を持っているのです。私があなたに話すとき、言葉自体は実際には何も意味しません。でも、あなたも同じ言葉を知っているので解釈することができます。ですから、言語は人工物の上に刻まれたサインと同じです。(p15)

単純な線を見て「それが何を意味するか理解できる」ということが初めてできたのがおそらく10万年前だということだ。

さて、ホモ・サピエンスが高い象徴的な思考を持てたのはなぜかという問いについてはまだわかっていないとして(p21)、関係しているのは巨大な脳と言語能力だと書いている。以下は言語能力と象徴的な思考について。

「たとえば、象徴的な思考を獲得するプロセスは非常にゆっくりだったと想像していますが、どのくらいゆっくりだったかと聞かれると、分からないというしかありません。」[中略]

「ほぼ確かなことは、そのプロセスが言語の進化を伴ったということです。言語は化石化しないので、見ることはできませんが、このような技術の複雑さ、社会の複雑さは言語の複雑さがないと起こらないと考えられるので、当然、並行して言語も進化したと思います」(p22)

前述の「現代的行動<wikipedia」に「現代的行動の起源について、大きくふたつの理論がある」と書いてあるが、ヘンシルウッズ博士は上記のうちの後者の理論を支持する人らしい。ちなみに前者支持にリチャード・G・クラインという人がいる。

ブロンボス洞窟で発見されたオーカー破片の年代についてはほとんど議論がない一方で、スタンフォード大学の考古学者であるリチャード=クライン氏のような科学者は、それらは単なる落書きでほとんど意味がないと述べている。

出典:人類史に疑惑?(18)<ウェブサイト『趣味の館』 *1

クライン氏は『5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン』という本を書いている(原著は2002年出版)。『銃・病原菌・鉄』を書いたジャレド・ダイアモンド氏もこちら側。

装飾品の遺物の意味と分かち合いの心(=現代的行動)

この洞窟ではオーカーのほかに75000年前の層から彫刻された骨や数十個のビーズが発見されている。これらは装飾品には違いないが、手間をかけて作られたこれらの加工品が単なるおしゃれグッズではなく、象徴的な意味があったとしている。

この象徴的意味をつきとめるためにNHKスペシャル取材班は南部アフリカのカラハリ砂漠に向かった。ここには現代を生きる狩猟採集民族のサン人がいる。サン人はwikipediaによれば、『「地球最古の人類」とも呼ばれ、移動する狩猟採集民族として20世紀には数多くの生態人類学者の観察対象となった』。取材班は考古学ではなく、今度は文化人類学から答えを導き出そうとした。

そしてサン人の首飾りに関する慣習に話がいく。

取材班は9本もの首飾りをしている女性に話を聞いた。

祖先がずっと交換し続けてきたから私たちも交換するのです。[中略]首飾りをたくさんしていない人は、交友関係が少ない人です。私のようにたくさんしている人は、交友関係が多いのです。困ったときに助けてくれる人が多いのです」(p37)

サン研究の世界的権威であるトロント大学名誉教授のリチャード・リー博士はこの首飾りを親族関係の証(p38)とほかの種族との絆(p39)を表していると解説した。

「少なくとも200キロメートルの距離までは友人を見つけるようです。重要な点は、一つの地域で飢饉が起きても別の地域に十分な降水があれば、豊かな食料が期待できるということです。その地域にいる贈り物を交換した相手を訪れると、食物を得られるという仕組みです。」(p39)

以上がサン人における文化人類学上の話だが、取材班は前述のヘンシルウッズ博士に問い合わせ、サン人の首飾りとブロンボス洞窟のビーズは同じような役割を持っていたという回答を引き出した。

そして取材班はこの首飾りに託された心を「分かち合う心」と名付けた。つまりは現代的行動だ。

「分かち合う心」とヒューマン・ユニバーサル

リー博士の話↓

「どんな文化でも人間は、分かち合う環境で育ちます。分かち合いの精神が自然に身につき実行できます。児童心理学の研究から次のようなことがわかっています。人間の乳児の最初の行動のひとつは物を拾って口のなかにいれることです。次の行動は拾ったものをほかの人にあげることです」

それは世界共通だという。米国でも、欧州でも、日本でも、乳児は同じような本能的な行動パターンが身についているならば、地域によってバラつきがあるはずだ。そのバラつきがないということは、生まれながらにもっているものだという可能性が高い。その行動を身に付けていない個体は子孫をうまく残せず、自然淘汰によって排除されてしまった結果、世界共通のものになったと考えられるのだ。(p42)

ということで「分かち合いの心」はヒューマン・ユニバーサル(前掲参照)のひとつだということだ。

「分かち合う心」と互恵的利他主義

「分かち合う心」という言葉とをネット検索しているうちに「互恵的利他主義」という言葉を見つけた。

互恵的利他主義(ごけいてきりたしゅぎ)とは、あとで見返りがあると期待されるために、ある個体が他の個体の利益になる行為を即座の見返り無しでとる利他的行動の一種である。生物は個体レベルで他の個体を助けたり、助けられたりする行動がしばしば観察される。関係する個体間に深い血縁関係があれば血縁選択説による説明が可能だが、血縁関係がない場合(たとえば大型魚とソウジウオのホンソメワケベラ)にはこのメカニズムの存在が予測できる。

出典:互恵的利他主義wikipedia

取材班は上の人間以外の動物でもやっている「分かち合い(互恵的利他主義)」とホモ・サピエンス特有の「分かち合う心」の違いをつきとめるために、今度は京都大学霊長類研究所を訪れた(京都大学なのに愛知県犬山市にある)。この研究所はチンパンジーなどを飼育しながら、人間の起源と進化を解明することに力を入れている。(p44)

ここに所属する山本真也氏の言葉。

チンパンジーの場合、明らかに私たちと違うところがあって、いま目の前にある、この世界に生きているという制約が強いのです。瞬間記憶もその生き方のために必要な能力です。だから、チンパンジーはいま目の前にあるこの世界のことについては、共感を持つことはできると思うんです。しかし、目の前にないものについて共感するのは難しいと思います。たとえば、広島、長崎、沖縄のような悲劇に遭った人びとに思いをはせることは、人間でなければできません」(p56)

「結果的に自分のほうに幸せが戻ってくることがつづけば、助け合う関係がはじまることになります。だから、情けは人のためならず、という先人の知恵もあるわけでしょう。しかし、その関係が了解されるまでのあいだ、一方的になるかもしれない親切を施す必要があるわけです。その壁を乗り越えるためには、基本的に、想像する力が過去や未来に広がるのと同じように、他者にまで広がっていくことがカギなのです」(p57)

人間に有ってチンパンジーに無いもの。「相手の立場になって考える想像力」と「過去に思いをはせ、未来を予測する能力」。

チンパンジー以外の生物と人間との互恵的利他主義の違いは、私の素人考えで言うのなら、本能で行動するのか、(過去未来を含む)複雑な状況を判断して行動するのか、だろうか。

「分かち合う心」と狩猟採集社会における「平等主義」

上述のサン人は平等社会だそうだ。狩猟採集社会も基本的に平等主義だが、「分かち合う心」と関連性はないのだろうか?本書にはこのようなことには触れていなかった(階層ができるのは金石併用時代あたりから)。

おわりに

現代的行動はネアンデルタール人にもあったようだ*2

しかし2つの人種における差は歴然としている。この差はホモ・サピエンスネアンデルタール人を「絶滅させた」一因と言えるかもしれない。