歴史の世界

先史:ホモ・サピエンスの誕生

エジプト国内の新石器文化は、最初にナイル川西方のオアシスおよび低地において開花し、後にナイル川流域地方に伝播していったことだけは動かしがたい事実である。現在までのところ、ナイル川流域の終末期旧石器文化の遺跡で、ナブタを除くと新石器分化段階への連続的な移行を示す遺跡は残念ながら発見されていない。出典:近藤二郎/エジプトの考古学/同成社/1997/p43

http://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/ejiputo-midori-sahara-matome

ホモ・サピエンスとは現生人類、つまり現代に生きる人間のことである。生物としてのホモ・サピエンスがいつ生まれ、どのように発展していったのか。

ホモ・サピエンスの誕生(起源)

ホモ・サピエンスの誕生(起源)には諸説あるらしいが、東アフリカで約20万年前(またはそれ以前)に誕生したというのが有力な答えだ。

現生人類すべての起源が東アフリカにあるという説は科学界においてほぼ合意に近い状態になっている[7][8][9][10][11]。[中略]

現生人類の最も古いおよそ195,000年前の化石がエチオピアのオモ遺跡(英語版)から発見されており、分子生物学の研究結果からすべての現生人類がおよそ20万年前のアフリカ人祖先集団に由来するとした証拠が示されている[17][18][19][20][21]。

出典:ホモ・サピエンスwikipedia(注釈の7~11、17~21は出典先参照)

オモ遺跡の場所↓

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出典:オモ川下流域<wikipedia*1

人類の進化の系統樹

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出典:人類の進化<wikipedia*2

・上の図の点線の意味は不明だが、おそらくフローレス人(ホモ・フローレシエンシス)とデニソワ人のことを表していると思われる(ホモ・フローレシエンシスについては「ホモ・フローレシエンシス<wikipedia」、デニソワ人につては「デニソワ<wikipedia」参照)。

異説:30万年起源説

以上は通説の20万年起源説だが、30万年説というものもある。トンデモ説ではない。

www.afpbb.com

↑の詳しい解説をされているブログがあるので紹介しておこう。

アフリカ北部の30万年以上前の現生人類的な化石(追記有) 雑記帳/ウェブリブログ

さらにホモ・サピエンスの脳(頭蓋骨)の形状が数十万年をかけて変化しているという研究発表もある。

gigazine.net

詳細解説のブログ

現生人類の脳の形状の進化 雑記帳/ウェブリブログ

将来こちらが通説になるかもしれない。

ミトコンドリア・イヴ

ミトコンドリア・イブ(Mitochondrial Eve)とは、人類の進化に関する学説において、現生人類の最も近い共通女系祖先(the matrilineal most recent common ancestor)に対し名付けられた愛称。約16±4万年前にアフリカに生存していたと推定され、アフリカ単一起源説を支持する有力な証拠の一つである。

しばしば誤解を受けるが、彼女は「同世代で唯一、現生人類に対し子孫を残すことができた女性」ではない。母方以外の系図を辿れば、彼女以外の同世代の女性に行き着くことも可能である。

出典:ミトコンドリア・イヴ<wikipedia

私の「ミトコンドリア・イヴ(イブ)」の最初の理解は「ホモ・サピエンスを最初に産んだ母親」だった。しかしそれは間違いだった。

ミトコンドリア・イヴは]「すべての人類の母」というイメージを持たれがちなのだが、それは明確に間違えだ。その女性の同時代には、ほかの男女も生きており、その中には我々の先祖となった人もたくさんいると考えられる。たまたまある女性が持っていたミトコンドリアが、今のすべての人類が持っているミトコンドリアの起源になった、という不思議は充分驚嘆に値するのだけれど、その時にその女性が一人きりで暮らしていたわけではない。あくまで、我々の祖先の一つになった集団に属していた、という理解が正しい。

[篠田謙一氏]「ミトコンドリア・イヴを包含する集団は、数千人くらいの規模だったと思います。祖先を辿ったら、1人の女性に行き着くというわけでは決してなく、1つの遺伝子を交配しているグループに行き着くくらいのイメージでとらえたほうがいいんです。1人の女性に行き着くという言葉の響きは、非常によくないと思っています」

ちなみに、ミトコンドリアの変異をまるで動物の系統樹のように考えて分析していくと、15万年から20万年前の「ミトコンドリア・イヴ集団」はまだアフリカにいた可能性が高い。

出典:第5回 ヒトの進化はアフリカ限定だった!<ナショナルジオグラフィック 日本版

まあ、ノアの箱舟の物語を思い出せばいいのではないか。

絶滅の危機:トバ火山大噴火

もっとも、前述の「[ミトコンドリア・]イブ」は、ただ一人の母親というわけではない。むしろ一万人ほどの個体群といっても差支えないのだが、東アフリカの地溝での淘汰に勝ち残ったのだ。このタイプの人間はそれ以前のヒト科の動物より頑健だった。ただし、それ以前にアフリカの地を去ったネアンデルタール人はおそらく例外で、彼らもホモ・サピエンスに属するのだが、ヨーロッパで屈強な大型獣狩猟者として氷期の生活条件に完全に順応していた。

今日の人間すべてが一人の母を始祖とする理由としてここ数年考えられているのは、ある種の大災害が太古にあり、それ以前のヒト属の種の大部分がその犠牲になったことである。ホモ・サピエンス・サピエンスはこの大災害でわずか数千の個体にまで数が減り、それに伴い遺伝子プール(遺伝子供給源)は乏しくなり、集中して一つの進化の方向へと向かうことになる。マイケル・R・ランピーノ(ニューヨーク大学)のような地質学者やスタンレー・H・アンブローズ(イリノイ大学)のような人類学者は、その理由として火山の巨大噴火を考えている。およそ七万五千年前のスマトラ島インドネシア)北部のトバ火山の噴火である。この噴火によって成層圏に放出された火山灰とエアゾルの量はおびただしく、そのまま何年間も雲となってとどまった。この噴火の証拠は今日、世界各地の氷床コアや土壌堆積物に見ることができる。

成層圏の火山灰とエアゾルが原因で急激な冷却減少が起き、局地的には15℃、世界的にはおよそ5℃の気温低下が数年間続いた。「火山の冬」は植物の生育を阻み、その結果、陸と海の食物連鎖も損なわれた。熱帯の植生は広範に破壊され、温暖な気候帯の森林も損なわれたに違いない。生き延びた植物も甚大な被害を受け、回復するまでには何十年物時を要した。これで、ホモ・サピエンス・サピエンスの歴史の初期に、種の個体数が絶滅寸前にまで激減した理由の説明がつく。

出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p44-45

火山の話をもう一つ↓

いまから7万-7万5000年前に、トバ火山が火山爆発指数でカテゴリー8の大規模な噴火を起こした。この噴火で放出されたエネルギーはTNT火薬1ギガトン分、1980年のセント・ヘレンズ山の噴火のおよそ3000倍の規模に相当する。この噴火の規模は過去10万年の間で最大であった。噴出物の容量は1,000 km3を超えたという(参考として、8万年前の阿蘇山火砕流堆積物の堆積は600km3であった)。

トバ・カタストロフ理論によれば、大気中に巻き上げられた大量の火山灰が日光を遮断し、地球の気温は平均5℃も低下したという。劇的な寒冷化はおよそ6000年間続いたとされる。その後も気候は断続的に寒冷化するようになり、地球はヴュルム氷期へと突入する。この時期まで生存していたホモ属の傍系の種(ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトゥスなど)は絶滅した。トバ事変の後まで生き残ったホモ属はネアンデルタール人とヒトのみである(ネアンデルタール人と姉妹関係にあたる系統であるデニソワ人がアジアでは生き残っていたことが、近年確認されている)[3]。現世人類も、トバ事変の気候変動によって総人口が1万人にまで激減したという。

出典:トバ・カタストロフ理論<wikipedia



先史シリーズは先史カテゴリーに保管される。

旧石器時代/中石器時代/Epipaleolithic

先史時代は石器時代に入る。この記事では旧石器時代と中石器時代とEpipaleolithicについて書く。Epipaleolithicについては後で説明する。

近年において先史時代の研究や測定技術の発達のおかげで、各時代の年代(期間)が見直されている。以下の記事は古い参考文献を利用しているので参考程度に。

三時代区分法

三時代区分法は三時期法とも言われる考古学の時代区分法。英語ではthree age systemと書く。デンマーク人のクリスチャン・トムセンが19世紀に考案した。

三時代区分法(さんじだいくぶんほう)(three age system)は、人類の歴史の時代を石器時代青銅器時代鉄器時代に区分する考え方。

提唱
デンマークコペンハーゲン王立博物館の館長クリスチャン・トムセン(Christian Thomsen,1788年~1865年)は、博物館の収蔵品を、利器、特に刃物の材質の変化を基準にして分類し、石・銅・鉄の三つに分類して展示することを考えついた。つまり、人類は石以外に金属を知らない石器時代、鉄がまだ使われていない青銅器時代(青銅は銅、スズの合金)、鉄器時代という三つの時代を経たことを区分して展示したことに始まる。トムセンは、この考え方を推し進め、1836年に、『北方古代文化入門』を著して、三時代区分法を提唱した。[中略]

三時代区分法の限界
三時代区分法は、当初はヨーロッパという一地域の考古学的区分として考えられていたものが、次第に世界に共通する区分とみなされるようになった。しかし、三時代区分が適さない地域も見られるようになり、三時代区分自体の問題点も明らかになっていった。たとえば、新大陸が金属器を知るのは旧大陸より遅い時期なのに鉄器までに至らなかった点、東アジアの日本では、金石併用時代は石器、青銅器、鉄器の三者が併用され、青飼器時代を飛び越えて鉄器時代に移行した点など、三時代区分法では区分できない地域があることが分かってきた。

出典:三時代区分法<wikipedia

トムセン以降にいろいろなアイデアが加えられて今に至る。

石器時代

石器時代は「Stone Age<wikipedia(英語版)」によれば340年前~1万年前。

エチオピアのアワシュ渓谷(Lower Awash Valley)で石器を使用した「痕」が発見されたという*1 *2。これが340万年前とされた。

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出典:アワッシュ川下流域<wikipedia

最初の石器の実物は推定330年前のもので、ケニアトゥルカナ湖西岸の干上がった河床で発見された。発見された場所は「ロメクウィ(Lomekwi)3」と名付けられた。*3 *4。この遺跡の近くでケニアントロプス・プラティオプス(猿人)の骨が発見されており、彼らが石器を使用していたのではないかと議論されているようだ。

ちなみに現代の人類(現生人類=ホモ・サピエンス)は約20万年前に誕生した。石器時代の到来よりずいぶん後に登場したことになる。現生人類は先祖の人類から石器の使用方法を受け継いだということだ。

石器時代もまた三つに時代区分され旧石器時代、中石器時代新石器時代に区分される。

旧石器時代

旧石器時代打製石器を使用していた。外部サイトの打製石器<世界史の窓では、イラスト入りで複数の打製石器が解説されているのでそちらを参照。ある程度の時代の変遷も分かる。

旧石器時代wikipedia」によるとこの時代も三分割されて以下のようになる。

前期旧石器時代
+ 約260万年前 - 約30万年前
+ ハンドアックスがひろく用いられた時代。この時代の人類はホモ・ハビリスおよびホモ・エレクトスが主流であった。

中期旧石器時代
+ 約30万年前 - 約3万年前
+ 剥片石器が出現した時代。
+ ネアンデルタール人が広がった。極東アジアの中期石器文化の特徴から、ヨーロッパから来たネアンデルタール人に依ったものではなく、アジアの原人から進化した古代型新人によって形成された可能性が大きいとされる。

後期旧石器時代
+ 約3万年前 - 約1万年前
+ 石器が急速に高度化、多様化した時代。このような技術革新の原動力を言語に求める説もある。クロマニヨン人ホモ・サピエンス)が主流となり、他の化石人類は急速に姿を消した。

現生人類(ホモ・サピエンス)の誕生は20万年前だから中期旧石器時代に出現したことになる。

石器時代

この時代は旧石器時代新石器時代の間の時代という意味合いで使われる。

石器時代

石器時代を3区分した際に,より古い旧石器時代と,より新しい新石器時代の中間に設定された時代名。1865年にJ.ラボックが,旧石器時代新石器時代の2時期に石器時代を細分したのち,翌66年にウェストロップH.Westroppが小型の打製石器の時代として,中石器時代を加えたのが最初である。その後,モルガンJ.de Morganによって,明確な時代概念が与えられた。典型的な形でみられるのはヨーロッパとオリエント地域であるが,世界的な石器の小型化や水産資源の利用の拡大を一つの流れとみなし,必ずしも同一の内容をもつわけではないが,中石器時代という区分がその他の地域でも用いられている。

出典:世界大百科事典 第2版<株式会社日立ソリューションズ・クリエイト<コトバンク

日本大百科全書(ニッポニカ)*5によれば、この言葉が世に出た当初から強い反対意見があり、現在まで「中石器時代」という概念は学界全般には普及していない。「現在、中石器時代という語が使われているのは、主としてイギリス、北ヨーロッパ諸国や旧ソ連である」。ではどういう用語を使っているかは後述。

石器時代の概観

いま反対論者の意見をかたわらに置いて中石器時代の概要を述べると、第一に強調されるのは、それが主として解氷期に該当すること、ならびに当時の人々の生活が獲得経済(狩猟、漁労、植物採集)に依存していたことである。[中略][角田文衛]

精器文化

石器の型式のうえからみると、現在知られている多数の中石器諸文化は、〔1〕精器文化(または広義の細石器文化)と、〔2〕粗器文化とに大別される。主流をなした精器文化は、細石器microlithをもって特色としている。これは単に細小な石器をいうのではなく、一定の形態を予想して石核から剥取(はくしゅ)された小さい石刃(せきじん)や剥片をそのまま、あるいは側縁だけにわずかに修正を施した石器を意味している。もっとも特徴的な細石器は、細彫器microburinや梯形(ていけい)の石刃などである。精器文化の特色は、(1)細彫器を含めてさまざまな細石器が使用されたこと、(2)狩猟は、個人狩猟が主で、弓矢や投げ槍(やり)がおもな猟具であったこと、(3)漁労は、銛(もり)で行われたが、やがて釣り針や漁網が発明されたこと、(4)貝類の捕食も盛んであって、ときとしては住居の近くに貝塚を残したこと、(5)植物の球根や野生の穀草からとった穀物を食糧としたこと、(6)狩猟の効果をあげるため、イヌが家畜化されたこと、(7)遺跡によって量に差異はあるが、骨角器の使用も盛んであり、骨角や貝殻を用いたさまざまな装身具もつくられたことなどである。細石器は柄に着装して、あるいは棒の側縁に列をなしてはめ込んで使用された。[角田文衛]

粗器文化

粗器文化のほうは、旧石器文化的な伝統の強い停滞的な文化であって、ヨーロッパの西部や北東部に存在した。フランスのカンピニー文化はその代表的な例である。粗製の石鍬(いしくわ)や鶴嘴斧(つるはしおの)が特徴であるが、これらは植物の採集や栽培に用いられた。[以下略][角田文衛]

出典:中石器時代<小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) <コトバンク(角田文衛の筆)

  • 氷期とは最終氷期の末期の地球全体が温暖化して氷床が後退していったということ。

細石器について別の引用。

ミクロリスmicrolithともよばれる小さな石器。幅1センチメートル、長さ5センチメートル以下ぐらいのきわめて小さな石器であり、単独で使用するものではなく、木や骨の柄(え)にはめ込んで使われた。小さいためきわめて軽く、また一定の石材からもっとも長い刃を得ることができる。先史時代にあっては良質の石材は限られており、そのためもっとも能率のよい方向へと石器製作の技術は発展していった。その方向の頂点にあるのが細石器である。後期旧石器時代末期から中石器時代にかけてもっとも盛行し、新旧両大陸ともにみられる。このように世界的にみられるので、その形態、あり方はさまざまである。世界的にみた場合には、小さな石刃(せきじん)の形をあまり変えずに使っている例が多いが、ヨーロッパ、西アジア北アフリカといった環地中海地域には、長方形、台形、三角形、半円形といった幾何学形をしたものもある。これらは幾何学形細石器とよばれる。[藤本 強]

出典:細石器<日本大百科全書(ニッポニカ)<小学館<コトバンク

石材は地域によって異なるようで、黒曜石、砂岩、チャート(フリント)、流紋岩、ガラス質安山岩、硬質頁岩などがある。*6

Epipaleolithicについて

石器時代に対応する英語はMesolithicだが、中東の考古学者たちはこの言葉を使用せずに、Epipaleolithicを使っているらしい。 Epipaleolithicに対応する日本語は

などである。先史関連の書籍では「中石器時代」を発見するのは稀で多くがEpipaleolithicの訳語が使用されている。

Epipaleolithicについては中石器時代の中身と同じだと思う。

ネアンデルタール人旧人)とホモ・サピエンス(新人)の交代劇

ネアンデルタール人が滅びてホモ・サピエンスが頂点捕食者(食物連鎖の頂点にあるもの)になった時期は中石器時代あるいはEpipaleolithicにあたる。これについては別の記事で書く。



冒頭で、時代区分は「近年において先史時代の研究や測定技術の発達のおかげで、各時代の年代(期間)が見直されている」と書いたが、学者によって様々な主張があるため、「いつ何年で区切るか」について差異が生じている。私が参考にした書籍の著者たちは最新の研究結果を反映した時代区分を利用せずに普及しているものを便宜的に使用しているが、その便宜的に使用した時代区分も統一されていない状況だ。だから数字についてはあまり正確さを追求しないことだ。

最終氷期/ヤンガードリアス期/完新世

現在から見て最後の氷河期が終わると人類は農業をするようになった、と言われる。

農業の始まりについては別の記事で書くとして、この記事では最後の氷河期(最終氷期)の終末の前後について書く。

  • この記事では数字に多少のズレがあるが、すべて「およその数字」なので千年~二千年くらいのズレは誤差とする(測定機器の限界なのか、学者たちの判断の差なのか、私には分からない)。

  • 「◯◯年前」と「(紀元)前◯◯年」と両方を使用するので混同しないように注意。

最終氷期完新世

最終氷期はヴュルム氷期とも呼ばれ、およそ7万年前から1.2万年前までの時期を指す。地質年代地質時代)の更新世に属する。

およそ1.2万年前(前10000年)から現在までは地質年代で言えば完新世になる。

最終氷期の亜氷期/亜間氷期

最終氷期というと長い間続いたと一般には思われているが、実際は短い周期(氷床コアの研究において発見され、ダンスガード・オシュガーサイクルと呼ばれる)で気候が激しく変動していたことがわかってきた。最寒冷期の状態が続いたのは実際は非常に短い間、おそらく2000年ほどであったと専門家の間では考えられている。

出典:最終氷期wikipedia

上の「最寒冷期」は同ページに書いてある「最終氷期最盛期、Last Glacial Maximum、LGM」のこと。およそ2.1万年前。

ベーリング/アレレード期(亜間氷期

これより数千年経つと亜間氷期ベーリング/アレレード期(前12700-前10800)に突入する。

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出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

上の図に示されているように気温が急激に上がった。これに伴い氷床は後退し、人類を含む動植物の行動範囲が広がった。

ヤンガードリアス期(亜氷期

上記のベーリング/アレレード期の後の亜氷期ヤンガードリアス期(上図参照)(前10800年-前9600年)。「寒の戻り」と言われている。氷床は前進し、動植物は後退した。

このヤンガードリアス期の終わり(前9600年)が最終氷期の終わりであり、更新世の終わりであり、完新世の始まりとなる。

上の「完新世の始まり」の定義は国際的な基準であるGSSP(国際標準模式層断面及び地点)によって定まっている(「完新世の始まり」については「完新世の開始期の定義の批准<日本第四紀学会」参照。「GSSP」については「国際標準模式層断面及び地点<wikipedia」参照)。

ただし、この決定にどれほどの学者およびその他の人々が従っているかは分からない。

完新世

ヤンガードリアス期が終わるといよいよ現代まで続く完新世になる(前9600年-現在。)。氷床と動植物の前進/後退の逆転が見られた。ベーリング/アレレード期との違いは、変動が比較的安定していることと、人類が農業をやりだして人口爆発を起こしたことだ。これが文明の誕生につながっていく。

地球温暖化だけが農業の始まりの原因ではないが、不可欠な要素の一つではある。

気候変動の重要性

気候変動は人類を含む動植物に甚大な影響を与えている。その中で人類は右往左往するだけでなく、試行錯誤を繰り返して文化文明を発達させていった。逆に言えば、文化文明の発達の原因の中に気候変動があるとも言える。



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*1:同氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

地質年代(地質時代)

カンブリア紀とかジュラ紀とか白亜紀などという言葉を耳にしたことがあるだろう。これは地球の歴史の時代区分。

「先史」を知るためには必要な知識。ただし地質時代の全部を知る必要はない。

「先史」については、記事「先史シリーズを書く」で書いた。

地質時代 ちしつじだい geological age

地質学が対象とする地球の歴史を相対的な時間関係で区分した年代。地質年代ともいう。地層の重なりと地層中の化石による古生物の進化から,大区分,中区分,小区分がなされている。代,紀,世,期がそれで,新生代,新第三紀,中新世,アキタニアン期というように用いる。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典<コトバンク

現在の区分は

顕生代<新生代<第四紀<完新世



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氷河期/氷期/間氷期/氷河時代

氷河期/氷期間氷期などの用語は歴史上の気候変動を理解するために必要になるので、これらの言葉を理解するために記事にしておく。

「氷河期」という言葉と氷期間氷期

氷期のこと。氷河時代のうち、特に気候が寒冷で氷河が発達した時期。

出典:大辞林<三省堂<コトバンク

ということで、「氷河期=氷期氷期というのは、上に書いてあるとおり「特に気候が寒冷で氷河が発達した時期」。ただし氷河というより氷床と言ったほうが正確だと思う(氷床=「大陸の全体を広く覆って発達する氷河。現在は南極大陸グリーンランドにだけみられ、厚さ1000メートル以上ある。」*1)。

現在は氷床が南極とグリーンランドまで後退しているがこのような時期を間氷期といい、比較的温暖な時期と区分されている。現在の直近の氷期「最終氷期というがこの時期はヨーロッパ北部と北米大陸北部が氷床に覆われていた。

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最終氷期の最寒冷期(LGM)における植生。灰色は氷床に覆われた地域

出典:最終氷期wikipedia

氷河時代

氷河時代」という新たな用語の説明。

地球の大陸上に氷床があらわれる時代を氷河時代といい、氷河時代の中でも比較的寒冷な時期を氷期、比較的温暖で氷河がとけつつある時期を間氷期という。

出典:単語記事: 氷河期<ニコニコ大百科(仮)

氷河時代の対義語が「無氷河時代でこの時期は地球上に(北極や南極にすら)氷河がない時代。恐竜が大繁栄していたジュラ紀白亜紀などは無氷河時代だった*2

大辞泉では「地球上の気候が寒冷となり、広範囲に氷床(大陸氷河)が発達した時代」*3と説明されているが、説明不足で誤解を招く説明だと思う。

もう一つ小さい区分「亜氷期/亜間氷期

氷期もしくは間氷期が続く間に、更に細かな気候の変動が見られることがある。寒い時期を氷期 (stadial)、温暖な時期を間氷期 (interstadial) と呼ぶ。最終氷期終了前後から現在にかけてはヨーロッパの泥炭湿地で発見された花粉層序がしばしば用いられ、現在では最終氷期終了~後氷期にかけての気候変化を表現する際に幅広く使われている。

出典:氷河期<wikipedia

氷期/亜間氷期氷期間氷期の両方にある。

上の出典先によれば現在はサブアトランティック(亜間氷期。500 BCE-現在)という区分に入るそうだ(ただし欧州における区分)。ちなみに小氷期とよばれる歴史的に重要な時期はこのサブアトランティックの中での寒冷な時期になる。

現在の区分

現在はどのような時代区分に入るかというと以下のようになる。

氷河時代間氷期>亜間氷期

となる。



関連記事


*1:大辞泉<小学館<コトバンク

*2:中生代の生き物(恐竜・鳥・植物・昆虫)<第42回特別展大化石展 「この時代は気候がとても温暖で、南北両極地方にも氷床(氷河)が無い無凍結の時代が続きました。」

*3:大辞泉<小学館<コトバンク

先史シリーズを書く

これから先史シリーズを書く。「先史」カテゴリーに保存する。

「先史」の意味

先史時代
先史時代は、「歴史時代(有史時代)」以前の歴史区分に当たり、文字を使用する前の人類の歴史である。

出典:先史時代<wikipedia

「歴史時代」とは文献的資料すなわち文字による記録がある時代のことを指し、それ以前を先史時代という。歴史学では、「歴史」と言えば歴史時代のことを指し、先史時代は「歴史」とは言わないらしい。ただし一般人は歴史の一部と思ってかまわないだろう。ビッグバンだって歴史の一部だ。

上では「先史時代」という言葉を使っているが、普通は「先史」という(と思う)。

このブログでの「先史」カテゴリー

先史シリーズ・「先史」カテゴリーは世界史の先史、つまり四大文明の先史を書いていこうと思う。

上限は「ホモ・サピエンスの誕生」とする。それより前はよくわからないし資料も少ない(ホモ・サピエンスに関してはかなり参考図書がある)

下限は文明誕生前夜あたり。農業の発達や文化の発達、町の発達などを書こうと思う。

変わる「先史の歴史」

参考図書になりそうな書籍を探すとたくさん見つかる。ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』が日本で出版されたのは2000年だそうだが、それに出版社が味をしめたのか数多くのこの手の翻訳本が出版されている。日本人の本もたくさんある。

銃・病原菌・鉄 上下巻セット

銃・病原菌・鉄 上下巻セット

内容がどれもこれも一緒だと思ったらそうではない。昔も今もあらゆる分野で論争は繰り広げられ、ダイアモンド氏の主張も一部 時代遅れになりつつあるようだ(本人は反論するかもしれないが)。世界中で言語の壁を超えて論争中だ。

科学技術の発達で遺物からの年代測定の精度が上がっているものの、それでも学者によって千年単位の違いがある。私にはどれが妥当なのか分からないので、テキトーに選んで話を進めるしかない。その場合辻褄が合わなくなる場合があるがまぁ仕方ない。とりあえず書いてみて間違いが見つかれば書き直そう。ただ間違いかどうか見極めができるようになるかどうか。



インダス文明 後編(インダス文明とイラン・ペルシア湾岸の関係)

前回の記事「インダス文明①:新旧のインダス文明像」では長田俊樹氏の主張を元にして書いたが、今回は後藤健氏の主張に依存する。

NHKスペシャル 四大文明 インダス

NHKスペシャル 四大文明 インダス

後藤氏はアラビア湾ペルシア湾)の「湾岸文明」が専門の考古学者。NHKスペシャル四大文明」にも関わっている。上の『NHKスペシャル 四大文明 インダス』では、「インダスとメソポタミアの間」という題で一章を書いている。

この内容を一冊にしたのが二冊目の本『メソポタミアとインダスのあいだ』。前者が2000年、後者が2015年の出版。

トランス・エラム人がインダス文明を作った

エラム文明

メソポタミアとインダスのあいだ』の一章は「メソポタミア文明の最初の隣人たち」という題名が付けられている。その「隣人たち」というのがイラン高原アラビア湾岸に住む人々だ。初期のメソポタミア文明ができた南部(アラビア湾北岸)は肥沃な大地以外に何もなかった。また文明を作り上げたシュメール人は海に出ていって産品を輸入することをしなかった。では誰がメソポタミアに必需品を送り届けたか?それが「隣人たち」だった。

そして、この本によれば、この「隣人たち」のことを「原(プロト)エラム文明」と呼んでいる。

まず、「エラムとは何か」から

エラム(Elam)は古代オリエントで栄えた国家、または地方の名。紀元前3200年頃から紀元前539年までの間、複数の古代世界の列強国を出現させた。エラムと呼ばれたのは、メソポタミアの東、現代のフーゼスターンなどを含むイラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域である。

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出典:エラムwikipedia*1

ここの連中たちが、メソポタミアに物資を供給する交易ネットワークを作った。アラビア湾の対岸(アラビア半島側)にも植民してアラビア湾からの海路の交易も支配した(植民の目的はアラビア半島のハフィート山の銅山開発*2)。

この文明は前27世紀のうちにメソポタミア側に首都であったスーサを侵略されて終わりを遂げる。

トランス・エラム文明

エラム文明が推戴した後しばらく経って、交易ネットワークが再生した。これがトランス・エラム文明と呼ばれるものだ。

スーサがメソポタミアに占領され、原エラムのネットワークは崩壊したが、イラン高原には、アラッタを首都とする新たな都市ネットワークが形成さらたことが推察される。

この新しい都市ネットワークを、考古学では「トランス・エラム文明」と呼んでいる。それは、字義通りには、メソポタミアから見て、東方の隣接地帯であるエラム(スシアナ)よりもっと遠い東方、つまりイラン高原(とさらにその延長地域)の文明を指す。この用語はピエール・アミエによって使われたのが最初で原エラム文明の後身であった。

出典:後藤氏/p76-77

ウンム・ン=ナール文明

また聞きなれない文明だが、この文明はトランス・エラム人が作ったようだ。

前2500年頃、アラビア湾アラビア半島側の地域に「湾岸で最初の国際性の高い都市文明が成立する」*3)。これを後藤氏はウンム・ン=ナール文明と呼んでいる*4

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出典:後藤氏/p113

イラン高原の北部のステップを通る交易路に加え(イラン高原のほとんどが沙漠)て、南路の海路が重要性を増してきた結果だ。

この文明の成立はトランス・エラムとの影響の他に、おそらくメソポタミアの需要の拡大の影響が一番大きいだろう。そして物資供給地域としてインダス文明圏が重要を増してくる。

インダス文明の登場

やっとここでインダス文明の登場。

トランス・エラム文明の都市には、日照りによる飢饉が起こりやすいという泣き所があった。食料事情を自らの顧客でもあるメソポタミアに握られていることは、この文明最大の急所であった。そこで彼らはメソポタミア以外の土地で穀倉と成る所はないかとあちこち調査したのだろう。インダス河流域の平原は最高の場所だった。そこにはまださしたる政治権力も芽生えてはおらず、豊かな先史農耕文化が広がっていた。その西側、バルーチスターンの山地に住むハラッパー文化の人びとと、トランス・エラム文明のネットワークはリンクした。彼らは低地に降りていった。

旧世界において、前2600年より早い時期から都市文明が存在したのは、エジプト、メソポタミア、そしてイラン高原の三カ所であった。都市というものに精通し、それまで都市というものを見たこともないスィンド地方の人びとに、完成度の高い都市の設計図を提示することができたのは、イランの都市住民であった可能性が最も高い。熟考された都市計画による、整然たる都市モヘンジョ・ダロの建設は、熟練の都市設計者の指導のもので行われたことが明らかで[ある]。

出典:後藤氏/p87

インダス川が流れるシンド(スィンド)地方も乾燥地帯だが、インダス川という大河があり灌漑農業ができた。メソポタミアの灌漑農業の技術をここに移植できたら穀倉地帯になると考えたのだろうか。

前回の記事「インダス文明①」でウィーラー氏がメソポタミアの影響下でインダス文明が生まれたという主張を紹介したが、上のようにトランス・エラム人を間に挟んだとすれば説得力があるのではないか。

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出典:後藤氏/p66

インダス文明の輸出品「ラピスラズリとカーネリアン」

インダス文明圏の産物は南北両方の交易ルートを使ってメソポタミアに供給されている(上の地図参照)。

ここで装飾品の輸出の話。

古代の装飾品と言えばラピスラズリが有名だが、インダス文明圏の輸出品目の中ではラピスラズリの他にカーネリアンも挙げられる。カーネリアンは紅玉髄(べにぎょくずい)とも書かれている。

ラピスラズリアフガニスタンのバダフシャーン州(バダクシャン)が原産地*5(ここもインダス文明圏)、カーネリアンの原産地はロータル遺跡のあるグジャラート州にあった*6。またドーラビーラ(グジャラート州)はカーネリアンをビーズにする加工で栄えた*7

ラピスラズリが青い石(ラピスラズリ<google画像検索参照
カーネリアンが赤い石(カーネリアン<google画像検索参照

NHKスペシャルの本に座談会のコーナーがあって、この二つの装飾品の話が出ていた。

近藤[英夫氏] インダス文明がまだ成立する前の、紀元前3000年から紀元前2500年ぐらいまでの西アジアの話をまずいたします。このころ、東から西に運ばれた代表的な物資はラピスラズリです。ラピスは採れる場所がはっきりしています。アフガニスタンのバダクシャンです。それがイラン高原からスーサを越えてメソポタミア方面へ運ばれていった状況は、ここ20年ぐらいの間にかなりはっきりしてきています。どういう理由からか、紀元前2500年ぐらいを境に物があんまり動かなくなる時期がある。ラピス交易は、紀元前3000年から2500年ぐらいがいちばん盛んなときで、それを越えると下火になるんですね。

ラピスの交易が盛んなころは、まだインダス文明はできてないんです。ヘルマンド川流域のムンディガクとか、シャハル・イ・ソフタ、それからケルマーンのテペ・ヤヒヤ、シャハダードというアフガニスタン、イランの諸都市を結ぶルートの中で動いているのが、紀元前3000年から2500年頃のことで、紀元前2500年を少し過ぎる頃になると、ヤヒヤもシャハル・イ・ソフタも衰退し始めてくる。

替わって動き出すのが紅玉髄(カーネリアン)なんです。紅玉髄の製品が、おそらくインダス川から海路を使ってオマーン半島やバーレーン、すなわちマガンとかディルムンとよばれた湾岸の土地、あるいは直接メソポタミアのウルにまで運ばれたのかもしれない。インダス文明の出土遺物で圧倒的に多い宝飾品は紅玉髄のビーズ類なんです。

出典:NHKスペシャル 四大文明 インダス/p214-215

前2500年といえば、ウンム・ン=ナール文明が都市文明として成立したころに当たる。この文明を誕生させた原動力の一つとしてカーネリアンが挙げられるかもしれない。装飾品の流行り廃りの交代劇が都市の興亡に関わっているかもしれない。



以上でインダス文明は終わり。

「大文明」という印象は感じられない。アメリカ大陸の古代文明2つを入れて「6大文明」という言葉を提唱している人もいるらしいが、おそらくアメリカ大陸の古代文明のほうがインダス文明より「大文明」で重要なのだろう。

過去の記事「 「四大文明」は学説でも仮説でもなく、ただのキャッチフレーズだった 」で書いたように「四大文明」は便宜的なものなので否定しても仕方ないが。

*1:地図の製作者はDbachmann、ダウンロード先はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Elam#/media/File:Elam_Map.jpg

*2:後藤氏/同著/p107

*3:後藤氏/同著/p107

*4:wikipediaではウンム・アン=ナール文化、Umm al-Nar Culture

*5:バダフシャーン州<wikipedia

*6:グジャラート州wikipedia

*7:ドーラビーラ<wikipedia